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浄土真宗親鸞会 三河HSJ

三河の学徒が集うブログです。なぜ生きる(人生の目的)などについて語っていきたいと思います。(浄土真宗親鸞会)

歎異抄の思想 親鸞聖人の平等思想

2009年09月30日 23時39分12秒 | Weblog
 先日歎異抄の思想、親鸞聖人の平等思想について、
年頭の高森先生のお言葉を通して語り合いました。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
 福沢諭吉の言葉ですが、
すでに、釈尊は三千年の古に「万人は平等なり」と道破なされています。
カースト制度の差別の世で総ての人の平等を宣言されたのだから驚嘆せずにおれ
ません。

 親鸞聖人はあの階級制度のきびしい封建社会にあって、
「御同朋・御同行」とかしずかれ、
歎異抄には「親鸞は弟子一人も持たず候」と平等思想があふれています。

 古今東西の人類が、常に求めて止まぬ平等。
 人類は未だ真の平等に満足したことがなく、不満はいろいろ形を変えて噴出して
います。
 ところが親鸞聖人は、その差別あるままで万人が、
平等一味になれる世界があることを喝破されているのです。

 正信偈には
「凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば、衆水の海に入りて一味なるがごとし」

「阿弥陀仏に救われた無碍の一道は、総ての川の水が海に入ると一味になるように、
老若男女、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなど関係なく、
出世の本懐を果たし真の平等に、万人が共生する世界なのだよ」
と教えられています。

 親鸞聖人は法然上人とまったく同じ信心であることを友達と諍論まで
されて、平等一味の他力信心の世界を明らかにされました。

 全人類の求めてやまない平等一味の差別のない世界はここに厳存するのです。
 

歎異抄の思想 完全な自由

2009年09月30日 23時37分06秒 | Weblog
先日歎異抄第7章の高森先生の以前の御講演を聞かせて頂きました。
いつの時代のどこの国の人も、人々は幸福を求めています。
幸福とはどういう状態でしょうか。
幸福とは自由と平等である、ということもできます。
世界で自由が幸福だとする人たちと
平等が幸せだとする人たちと大きく分けると2つに分かれます。
ところがこの自由と平等は、あいいれないものです。
自由を求めると平等はなくなり、平等を求めると自由がなくなる。
自由といっても完全な自由などありません。
自由だからと交差点の赤信号を無視していたら怪我をします。
交差点の信号を守るのは不自由ですが、自由を制限されても守らないと
怪我をするからです。
自由と平等どちらも求めますが、両方というわけにはいきません。
しかし、歎異抄第7章の「無碍の一道」は、
この 自由と平等とが一つになった世界です。
無碍とは、どんなさわりもさわりとならない世界です。
完全に自由な世界が、どんなさわりもさわりとならない無碍の一道なのです。
歎異抄には完全な自由、無碍の一道が説かれており、時代を越え国を越えて
魅力を持ち続け、読まれ続けているのです。

正信とは金剛心

2009年09月30日 23時26分37秒 | Weblog
岡崎市民会館で正信偈の行者正受金剛心について聞かせて頂きました。
世間中信念のない人、信念の弱い人ばかりですが、信心の行者、念仏者は、
金剛心を頂くのです。
行者正受金剛心の、金剛心とはどういうことか。
金剛とは金剛石の金剛です、ダイヤモンドのことです。
ダイヤモンドのような心とは、
ダイヤモンドは石の中でも一番固い石です。
そのダイヤモンドのようなかわらない心になるということです。
心と言えば、わたしたちの心はコロコロ変わります。
コロコロと盆の上のたまごのように変わりますから、コロコロ、こころと
言われたそうです。
善導大師は、
一人一日のうちに八億四千の思いあり
一日に八億四千辺もコロコロ変わるとおっしゃっています。
そんな変わり通しの心しかない私たちですが、変わらない心、金剛心
となるのです
金剛心について、その善導大師は
「此の心深心すること、なお金剛のごとし。一切の異見異学別解別行の
人等のために動乱破壊せられず」、
とおっしゃっています。
また、親鸞聖人は
「本願力廻向の大信心海の故に、破壊すべからず、之を喩うるに金剛の
如き也」(信巻)
とおっしゃっています。
また、
「いかなる人来たりていいさまたぐとも少しもかわらさる心を金剛心という」
と後世物語聞書にあります。
歎異抄には「念仏者は無碍の一道なり」、とあります。
どんなさわりがあってもさわりとならない金剛心、
それこそが正信偈の正信です。
一日も片時も急いで正信を獲得しなさい、決定しなさい、と
蓮如上人もすすめられています。

現生十種の益 大満足の楽しい心

2009年08月07日 22時54分56秒 | Weblog
先日、豊橋市民文化会館で高森顕徹先生の蓮華の五徳の御講演を
聞かせて頂きました。

正信偈の正信、正しい信心、真実の信心をあらわす蓮華。

その蓮華の五徳の一花多果の徳では、現生十種の利益が教えられています。

 蓮の花のような正しい信心の花が心に開いたその時から、十種の益を獲る。

その二つ目は至徳具足の益と教えて頂きました。

 信心獲得すれば大満足の絶対の幸福になるのは至徳具足するからだ。

 至徳とは無上の幸福、

大無量寿経には

「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。
まさに知るべし、この人は大利を得とす。
すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」

 南無阿弥陀仏を聞信の一念、無上の功徳(至徳)を具足すると釈尊は仰います。

 この無上の功徳とは南無阿弥陀仏のことです。

 正信偈では

「帰入功徳大宝海」

と仰り、

 御文章には、

「それ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字
なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには
無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」

 と教えられています。

 南無阿弥陀仏の大宇宙最高の宝を頂くのですから、大満足の楽しい心、

絶対の幸福になるのです。

 

大谷大学 人間学 なぜ生きるのか?

2009年08月06日 22時08分07秒 | Weblog
 五木寛之氏が執筆活動を一時休止して学んだ龍谷大学は
西本願寺(浄土真宗本願寺派)の大学ですが、
 東本願寺(真宗大谷派)の大谷大学では、
親鸞聖人の教えから「なぜ生きるのか?」を学べるのでしょうか?

受験生が大谷大学2010年入試資料を読んでいましたので、
見せてもらって、何気なく大学案内のパンフレットをめくると

まず表紙の裏には、
………………………………
「何のために生きるのだろう」「生きることって何だろう」
誰もが一度はふと立ち止まって考える、人間の根元的な疑問。
大谷大学の学びは、この「人間が生きること」の意味を問い、
考えることが基盤となっています。
かつて親鸞やブッダが、同じように生きることを問い続けたように、
「なぜ生きるのか?」から「どう生きるのか」を見つけていくことは、
簡単に答えの出せるものではありません。
だからこそ、奥深く、探求していく魅力にあふれています。
あなたがこれからの人生を、確かな足取りで歩んでいくために、
人間を考えるこの学びが、支えとなっていくことでしょう。
………………………………
と書かれてあります。

文学部には9学科あるようですが、「人間とは」「自分とは」という
根元的な問いを探求する「人間学」が全学科の学びの根幹
と銘打ってあります。

 その大谷大学の人間学とは?

………………………………
勉強に励むことも、社会に出て職に就くことも、決して人生の目標ではありません。
あくまでも、それは、生きるための手段。
さまざまな選択と、体験を積み重ねて、人はどう生きていきたいのか、
自分はどう生きるべきなのかを探りながら見つけていきます。
正しい答えなど、そこにはありません。
答えを求め続けるのが、「人生」であり、
答えを見つけるために「問う」ていくのが「人間学」なのです。
………………………………
と記載されています。

なぜ生きるのか?
正しい答えを親鸞聖人は教えられていないのでしょうか?
答えを求め続けるのが「人生」なのでしょうか?
それが親鸞聖人の教えなのでしょうか?


 高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』はじめに、には、

………………………………
「人生に目的はあるのか、 ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、 この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、 親鸞聖人ほど、 人生の目的を明示し、 その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、 苦悩の根元を破り、 ”よくぞこの世に生まれたものぞ”の
生命の大歓喜を得て、 永遠の幸福に生かされることである。 どんなに苦しくとも、
この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
 聖人、 九十年のメッセージは一貫して、 これしかなかった。
まさしく人類の迷闇を破る、 世界の光といわれるにふさわしい。
 人気テレビ番組 『知ってるつもり!?』 では、 戦後出版された本の中で、
一番多く語られた 「歴史上の人物ベストワン」 と紹介された。
それほど有名で、 強い関心を持たれている聖人だが、 その思想はアキレルほど
誤解曲解されていることに驚く。
”それは親鸞学徒の怠慢だよ”
といわれれば弁解の余地はないが、 今は猛省して奮起を誓いたい。
 悲しい誤解の一つをあげれば、 「平生業成」 という言葉であろう。
「平生業成」 とは、 親鸞聖人のすべてを漢字四字であらわした、 いわば一枚看板
とされている言葉である。 「平生」 とは 「現在」 のこと。 人生の目的を 「業」
という字であらわし、 完成の 「成」 と合わせて 「業成」 といわれる。
「平生業成」 とは、 まさしく、 人生の目的が現在に完成する、 ということだ。
 親鸞聖人の特色が 「平生業成」 といわれるのは、 聖人ほど人生の目的と、
その完成のあることを強調された方はなかったからである。
 それが今日、 「あなたの平生業成が悪かったからだ」 とか 「私の平生業成が
よかったから」 などと、 日常行為のことのように使われたり、 聖人の生命が
公然と誤用、 蹂躙されては、 浅学非才をかえりみず親鸞学徒は、 悲泣して
立ち上がらずにおれないのである。
………………………………

とあります。

五木寛之氏と『人生の目的』 『なぜ生きる』

2009年08月05日 08時09分55秒 | Weblog
五木寛之氏と言えば、『人生の目的』という著書がある。
経歴を読めば執筆活動を一時休んで、京都龍谷大学で親鸞聖人の
教えを学んだとされている。
龍谷大学とは浄土真宗本願寺派の大学である。

その成果は、『人生の目的』に次のように述べられている

●人生に決められた目的はない、と私は思う
●「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」
 と言ってもいい、私はそう思う。
●人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
     (『人生の目的』p274)
 
親鸞聖人の教えを学んでも、人生の目的は教えられていないのだろうか。

対照的な本が高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』である。

 人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
 なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。

「人生の目的」は何か。
 親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、簡潔であざやかである。

「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」

 主著『教行信証』の冒頭に、つぎのように記されている。

 難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり(『教行信証』)

「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ」

 全人類への一大宣言といえよう。

 人生の目的は「苦界をわたす大船に乗ること」とはどんなことか、本書のテーマであるが、一言で言えば、
「苦悩の根元である無明の闇が破られ、〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と生命の大歓喜を得ること」である。

聖人の著書は決して少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、といっても過言ではなかろう。                 
               (『なぜ生きる』p114)


五木寛之氏 中日新聞連載 「親鸞」

2009年07月31日 07時52分11秒 | Weblog
五木寛之氏 7月31日中日新聞 「親鸞」に下記の文章があります。

「ひとつ、ききたい。そなた、念仏すれば本当に浄土に往生できると思うておるのか」
 善信はゆっくりと腰をおとし、遵西と顔をならべてしゃがみこんだ。おだやかな声でいう。
「わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかな
いでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することでは
ない。信じるのは物事ではなく、人です。
その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
わたしは、法然上人をひたすら信じている。
ですから、そのかたの教えられるとおりに念仏して、浄土に迎えられると信じているのです」
「では、そなたはなぜ法然を信じるのだ」
「法然上人が、わたしを信じてくださっているからです。
わたしのような者を、しっかりと信じてくださった。
だからわたしも法然上人についていくのです」
………………………………………………………………
歎異抄第2章を思い起こします。

 関東の同朋たちには、一番信用できるのが聖人であり、
どうもいま一つハッキリしないのが阿弥陀仏の本願なのである。

 親鸞さまが、法然、善導、釈尊の教えは“まことだ”と言われるから、
彼らは「弥陀の本願」を信じているのだ。
 その弥陀の本願に疑惑が生じ、疑い晴らそうと来た人たちに、
何の証明も解説なしに、彼らの最も曖昧な「弥陀の本願まこと」を大前提に、
話を進められているからである。
 これでは話し方が逆ではないか、と思う人があっても決しておかしくなかろう。
 だが一方、弥陀の本願に相応し救い摂られた親鸞聖人には、
何よりも疑いようのない明らかな“まことが、
「阿弥陀仏の本願」のみなのである。

 大海の水に宿った月の如く、いかに怒涛逆巻くとも、
月は、流されも、壊れも、消え去ることもない。
 たとえ釈尊、善導、法然にウソ偽りがあろうとも、
弥陀の本願と直結された聖人の「本願まこと」の信心は、
微動だにもしないのだ。
 「弥陀の本願まことだから」と、何のためらいもなく言えたのは、
鮮明無比な他力至極の信心だったからにほかならない。

         高森顕徹先生 『歎異抄をひらく』p191~
………………………………………………………………

五木氏の描いた親鸞聖人の信心は、人を信じている信心であり、
人や物事を信じるのは他力の信心、真実の信心、正信ではありません。
弥陀の本願まこと、心を弘誓の仏地に樹つのが他力の信心、
真実の信心、正信です。
………………………………………………………………


現生十種の益 大安心の明るい心

2009年07月29日 07時29分01秒 | Weblog
先日、岡崎市竜美丘会館で高森顕徹先生の蓮華の五徳の御講演を
聞かせて頂きました。

正信偈の正信、正しい信心、真実の信心をあらわす蓮華。
その蓮華の五徳の一花多果の徳では、現生十種の利益が教えられています。

やがてお盆になりますが、
浄土真宗の実家に帰って、墓参りをし、死んだら浄土真宗のお世話になるが、
生きている時の御利益は○○だ、
と現世利益を教える新興宗教を信じている人が相当あります。

しかし、親鸞聖人は、正しい信心、真実の信心を獲得した人は、
この世の利益きわもなし、と御和讃で教えられ
現生に十種の益を獲ると教行信証で教えられています。

冥衆護持の益、諸仏護念の益、心光常護の益
諸神、菩薩、諸仏から百重千重、夜昼常に、喜んで守られ、
諸仏の本師本仏の阿弥陀仏から常に護られ、大安心の身になる。

正信偈には摂取心光常照護と教えておられます。

信心獲得すれば、大安心の絶対の幸福になると
蓮の花は教えています。

今年は皆既日食よりも蓮の花をゆっくりと見て
正しい信心を学ぼうと皆で誓いました。

蓮華と正信偈

2009年07月22日 21時05分19秒 | Weblog
現在各地で蓮華の五徳の高森顕徹先生のご講演を聞かせて頂いております。

 正信偈には如来の弘誓願を聞信した人、信心獲得した人を、仏様が分陀利華と誉

められると、書かれています。

 分陀利華とはインドの言葉で、蓮華のことです。

 蓮の花には他の花にない特徴があるように、

他の信心にない特徴が正しい信心、真実の信心にはあります。

 蓮の花の特徴を通して正しい信心を詳説なされています。

正しい信心の特徴の中の特徴は、一念で開くことです。

親鸞聖人も、教行信証に、

 「それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念は、これ信楽開発の時剋

の極促」であると記されています。

 蓮の花は、二分咲き、三分咲きと、じわじわ、いつとはなしに開く花ではなく、一度

に音を立てて開く花です。

 風邪がいつとはなしに治ったようにいつとはなしに信心頂いた、という自力の信

心と違って、真実の信心、他力の信心は一念がある、そこが決定的に、自力の信心

と正信、真実の信心と違うところだと蓮の花は教えているのです。

 参詣者でこの夏には蓮の花が開くところを見に行こうと話がまとまりました。

愛知県ではあまり見ませんが、どこに蓮の花は咲いているのでしょうか?


正信偈と信心獲得

2009年07月04日 06時23分15秒 | Weblog
先日岡崎市の竜美丘会館で正信偈の「獲信見敬大慶喜」を聞かせて頂きました。

親鸞聖人は正信とか真実信心と書かれるのに、

蓮如上人は信心決定、信心獲得と正とか真実という字を略されることが

ほとんどです。

どうしてだろうか?

という人も少なからずおられるようです。

それについて、高森顕徹先生は、

決定ということのある信心は正信しかない、

獲得したという信心は正信しかない、

いろいろの宗教でも信心という言葉は使うが、それらの信心には

獲得も決定もない、

と教えて頂きました。

決定、獲得を平易に言えば、

完成、卒業、決勝点ということです。

完成のある信心、卒業のある信心、決勝点のある信心は

正信、真実の信心にしかないということです。

親鸞上人は、教行信証に、

真実の信楽には一念がある。

一念とは信楽開発の時尅の極促である

と教えておられます。

信心獲得、信心決定と信心の次に獲得、決定をつけると

その信心の前に正や真実をつけなくても正信、真実信心のことをあらわすのだと

知らされました。