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浄土真宗親鸞会 三河HSJ

三河の学徒が集うブログです。なぜ生きる(人生の目的)などについて語っていきたいと思います。(浄土真宗親鸞会)

8月追悼法要

2009年06月30日 23時37分09秒 | Weblog
8月に、富山県射水市の親鸞会館で、追悼法要が勤められます。

8月というとお盆です。お盆は学校も仕事もやめて親元に帰省し、

先祖供養をする仏教の行事だと日本中思っています。

 だからお盆は大渋滞です。今年はETCで高速代1000円の日が8月は増えて

大渋滞となる気配です。

 追悼法要はそれを予測してお盆よりも早く開かれます。
 

お盆は先祖供養。

先祖というと得体のしれないぼんやりしたもののような感じで

イメージがわかないでしょうが、

一番自分に近い先祖は親です。

親のイメージがわかない、という人は幼くして別れた人以外はないでしょう。

その親には親があり、その親にもそれぞれ親があり、その親にもそれぞれ親があり

これの全てが先祖です。

先祖の恩といっても、一番近い先祖である親の恩。

 親の大恩について仏教ではどう教えられ、

その大恩に報いるにはどうすればいいか、

お経に説かれています。


仏教で、人の評価は、学歴や職業、社会的地位などでは決まりません。

どれだけ恩を知り、恩を感じ、恩に報いようという心があるか。

知恩・感恩・報恩の心が強い人ほど立派な人といわれます。


追悼法要では、私たちにとって最も身近な親の大恩を通じて、

仏教の教えを聞かせていただき、先祖の恩、親の恩を偲びつつ、

光に向かって進ませていただく御縁としたいと思います。



正信偈「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と雑行

2009年06月01日 06時45分09秒 | Weblog
 先日岡崎市竜美丘会館で正信偈の高森顕徹先生の以前の御講演を聞かせていただきました。

 帰命無量寿如来、南無不可思議光の無量寿如来も不可思議光も

阿弥陀如来のことであり、

 帰命、南無とは救われた、助けられた、ということですから、

 「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」

と同じことを、言葉をかえて2回繰り返して書かれていることになります。

 教行信証後序には、「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて

本願に帰す」と書いておられます。

 本願に帰すとは、正信偈で言えば、

帰命無量寿如来、南無不可思議光ということですから

親鸞は(愚禿釈の鸞)、29歳の時に(建仁辛酉の暦)無量寿如来に

帰命し、不可思議光に南無した、とおっしゃっていることが

はっきりします。

 しかもどうすれば、無量寿如来に帰命、信心決定できるか、

教行信証には「雑行を棄てて、(本願に帰す)」と教えておられます。

蓮如上人も、聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候、

その信心とは、もろもろの雑行をなげすてて、と教えておられます。

その雑行とは何か、浄土真宗の人達は全く知りません。

 だから雑行を棄てて弥陀の本願に帰命するということもありえません。

寝ていて転んだためしがなく、なにも持たぬ者が物を落としたという

話も聞かれないようなものと知らされました。

 まさに雑行は浄土真宗の大切なキーワードです。

平生業成、現生不退、不体失往生

2009年05月20日 23時12分49秒 | Weblog
 先日、ハッピネスヒル幸田で、高森顕徹先生の「三世因果の道理」を
聞かせて頂きました。

現在は過去と未来を解くカギである。

過去も未来も現在の一念におさまる。

 親鸞聖人の正信偈の教えも

一言でいえば、

平生業成、現生不退、不体失往生、一念往生

となります。

現在いまの一念でこの世から未来永遠の幸せに救われる

親鸞聖人の教えに、初めて参詣された浄土宗の方も、

いつも正信偈を読んでいる浄土真宗の人も皆感動しました。

「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて

 ほとけの御名をきくひとは

 ながく不退にかなふなり」 

正信を獲たとはイダイケと等しく三忍を獲たこと

2009年05月14日 23時12分34秒 | Weblog
先日岡崎市の竜美丘会館で、正信偈の与韋提等獲三忍を聞かせて頂きました。
観無量寿経の王舎城の悲劇の主人公韋提希夫人が牢屋の中で釈尊から仏法を聞き、
三忍を獲ました。
三忍とは喜忍、信忍、悟忍の三つです。

喜忍とは阿弥陀仏に救われた大きな喜びの心です。
正信偈では、獲信見敬大慶喜。信心獲得して大慶喜すると親鸞聖人は教えられています。

教行信証には、それ真実の信楽をあんずるに信楽に一念あり。
一念とは信楽開発の時尅の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらわす

真実の信心、正信には一念がある。
一念があるということは、信前信後があるということであり、
方便と真実があるということ、真仮があるということです。

信前信後の水際が一念です。

一念とは、信楽開発の時尅の極促、何億分の一秒よりも短い時間です。

この一念に仏教すべてがおさまり、人生の目的も、人間に生まれてきたのも、
生きているのも、一念往生、現生不退、平生業成一つと思わずにおれない
ご縁でした。


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帰命無量寿如来南無不可思議光と与韋堤等獲三忍

2009年05月07日 08時06分24秒 | Weblog
 先日、豊橋市民文化会館で正信偈の「与韋堤等獲三忍」の

高森顕徹先生の過去の御講演を聞かせて頂きました。

 正信偈の冒頭「帰命無量寿如来、南無不可思議光」

「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」

の、阿弥陀如来に救われるとは、どうなったことか。

 それについて、阿弥陀如来に救われたら、韋提希夫人と等しく

三忍を獲る、と正信偈で親鸞聖人は教えておられます。

三忍とは喜忍、信忍、悟忍です。

喜忍とは獲信見敬大慶喜と正信偈で教えてくださっているように

獲信(信心獲得)、阿弥陀仏に救い摂られたなら大慶喜する。

蓮如上人は「うれしさを昔(信心獲得の前、信前)は袖につつみけり

今宵(信心獲得した今宵)は身にも余りぬるかな」と古歌で教えて

おられます。

信忍とは、疑情(弥陀の本願に対する疑いの心)の晴れた心

悟忍とは、仏智を頂き、今まで知らなかったことが、「知らなんだ、

知らなんだ」と知らされる心です。

それが昔から信心かぞえ歌で歌われています。

皆で信心かぞえ歌を歌いました。

「一ツ 必定地獄と聞きながら、うぬぼれ心にだまされて、堕つるこの機ということは、ほんに今まで知らなんだ。」

「二ツ 不定の命を持ちながら、よもやよもやで日を送り、今宵も知れぬ命とは、ほんに今まで知らなんだ。」

「三ツ みなさん後生は大事じゃと、人にはいうて勧むれど、我が身の大事ということは、ほんに今まで知らなんだ。」

 以下省略します。

歎異抄のテーマ、「なぜ生きる」の講演会

2009年04月23日 09時11分22秒 | Weblog
歎異抄第1章には

人生の目的は、摂取不捨の利益(絶対の幸福)にあずかることだと

書かれています。

仏教は、無碍の一道(絶対の幸福)一つ教えたものだと

歎異抄第7章には教えられています。

釈尊は、「人身受け難し今已に受く、仏法聞き難し今已に聞く~」

と教えておられます。

命の大切さ、生きる意味を教えられた仏教の講演会が、

5月中旬に富山県で開催されます。


講演の詳細をお知りになりたい方は、
下記連絡先までお問い合わせください。

この講演会は、県外からも多数の参加者があります。

講演の日時、場所、会場へのアクセスや参加方法について
詳しくご案内致します。


■連絡先

・メール:★ emikashin@mail.goo.ne.jp

・電 話:★ 070-5630-3878

・担当者:★ 本田覚


この記事をご覧になった方のお問い合わせ締め切りは、
5月8日(金)です。

お早めにお問い合わせください。

帰命無量寿如来南無不可思議光と領解文(改悔文)

2009年04月05日 23時29分53秒 | Weblog
 先日岡崎市竜美丘会館で高森顕徹先生の、領解文の過去のご講演を

聞かせて頂きました。

 正信偈の帰命無量寿如来南無不可思議光、

「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」

と同じ意味の文章は、領解文では、

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助け候へと

たのみ申して候、

蓮如上人の阿弥陀如来に助けられた領解が書かれた文章です。

親鸞聖人の帰命無量寿如来を、蓮如上人は何箇所も、弥陀をたのめ、と

書いておられます。

 正信偈冒頭では何を助けられたのか、何を阿弥陀仏に救われたのか、

書いておられませんが、

領解文では、

「我らが今度の一大事の後生」とハッキリ書いておられます。

 だからこの後生の一大事を知らなければ、何十年仏法を聞いていても

仏法は始まりませんし、当然ながら「救われたぞ」、ということもありません。

 助けて頂く後生の一大事が抜けているのですから。

まさに、仏法は後生の一大事に始まり後生の一大事の解決で終る、と

教えて頂いたご縁でした。



帰命無量寿如来南無不可思議光と白骨の御文

2009年04月05日 23時14分21秒 | Weblog
先週は高森顕徹先生の「白骨の御文」の過去の御講演を聞かせて頂きました。

白骨の御文の「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」は

正信偈の帰命無量寿如来南無不可思議光と同じ意味です。

正信偈では「阿弥陀仏に救われたぞ、阿弥陀仏に助けられたぞ」と

助けられた喜びを書かれていますが、なにを助けられたかは

書かれていません。

白骨の御文では「誰の人も早く後生の一大事をこころにかけて」

と、阿弥陀仏に助けて頂くのは「後生の一大事」であると

教えられています。

 その後生の一大事の正しい意味が現在教えられていませんから、

いつまでたっても後生の一大事が心にかかることもなく、

当然ながら阿弥陀仏をふかくたのみまいらせることもありません。

 助けていただく後生の一大事が分からなければ、それを阿弥陀仏に

助けて頂いた、という帰命無量寿如来南無不可思議光の喜びがないのも

当り前のことです。

 原点は後生の一大事。仏教は後生の一大事を知るところから始まり、

後生の一大事の解決で終わる。

 後生の一大事を決して忘れてはならず、心にかけねばならないないと

聞かせて頂きました。

帰命無量寿如来南無不可思議光と聖人一流章

2009年04月05日 23時10分54秒 | Weblog
 先日幸田町のハッピネスヒル幸田で高森顕徹先生の「聖人一流章」の過去の御講

演を聞かせて頂きました。

 聖人一流章の「一心に弥陀に帰命すれば」は

正信偈の「帰命無量寿如来南無不可思議光」と同じ意味です。

正信偈では「阿弥陀仏に救われたぞ、阿弥陀仏に助けられたぞ」と

助けられた喜びを書かれていますが、助けられた、とはどうなったことか

その行には書かれていません。

 聖人一流章では「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」。

 助けられたとは、いつ死んでも弥陀の浄土へ往生することが

ハッキリしたことです。

 歎異抄第1章冒頭の、「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて

往生をば遂ぐるなり~」と同じことです。

 往生治定の身に現在救われたなら、阿弥陀仏にお礼を言わずに

おれません。それが念仏です。

 念仏とは、いろいろの人やものに生かされていることに「おかげさま」と

感謝するお礼ではなく、

阿弥陀如来にいつ死んでも浄土往生間違いなし、という身に救われたお礼です。

 そのことをを聖人一流章では、「その上の称名念仏は、如来、

わが往生を定めたまひし、御恩報尽の念仏とこころうべきなり」

と、蓮如上人は教えておられます。

 信心決定、信心獲得一つが仏教の目的、人生の目的であり、

早く往生治定、往生一定の身になれよと親鸞聖人、蓮如上人は

念じておられると知らされたご縁でした。

歎異抄と正信偈

2009年03月29日 21時03分43秒 | Weblog
 昨日は『歎異抄をひらく』を執筆された高森顕徹先生の歎異抄第1章の岐阜での過去の御講演を聞かせて頂きました。

 本日は、正信偈の最初の2行、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」の高森先生の熊本での以前の御説法を聴聞致しました。

 
 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」とは、
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ、親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
ということですが、

 歎異抄第1章の冒頭も、「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて」、
「阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられたぞ」
と正信偈と全く同じ内容です。

 正信偈120行も、最初の2行「帰命無量寿如来、南無不可思議光」に収まりますが、
歎異抄18章も第1章に収まり、さらに第1章も冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて」に収まります。

 正信偈のご説法ではいつも、最初の2行からお話しなされ、
歎異抄では、第1章の冒頭を特に時間をかけてお話しくださいます。

 親鸞聖人の90年の御教えもここに収まると知らされます。

 さらに正信偈の最初の2行も歎異抄第1章の冒頭も、
正信偈の「正信」の2字に収まりますから、
正信を獲得すること一つが、親鸞聖人90年願っていかれたただ一つのことであり、私たちの出世の本懐であるとハッキリ致します。