6月2日付の日記を転載。
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さて、先日の新聞に「屋根の上の船 解体進む」という記事がありました。
岩手県大槌町。津波で民宿の屋根の上に載ってしまった船が陸におろされて、いよいよ解体作業が進んでいるという話です。
津波の恐ろしさ、すさまじさがわかる象徴的なものとして、誰もが見たことのある、あの風景。
今回の震災を後世に伝えるためにも「あの建物と船を保存すべきだ」という意見がある一方、「被災者の心情を考えれば、いつまでも傷跡を残しておくわけにはいかない」という考えです。
両者の意見は、ともに間違ってはいないと思います。どっちも正しい。
でも役所は、保存すべきか、解体すべきか、どちらかの判断を下さなければならない。どっちも正しいけれども、現時点ではどちらかの判断を下さなければならない。
で、役所は「解体」という判断を下しました。
判断の基準となったのは、「今」の被災者の心情を考えて、ということです。
先日、広島に行きました。
お恥ずかしい話ではありますが、私は今回、生まれて初めて原爆資料館を見に行きました。
1945年8月6日。
人類が初めて、核分裂を利用した兵器を使った日。
あの日、広島の上空6百メートルで、原子力爆弾が炸裂しました。爆弾は放射線をまき散らし、2千度という猛烈な熱量を放出して、一瞬のうちに広島の中心部をすべて焼き尽くしました。
でもそんな大惨事の中で、爆心地からほど近い、ある建物だけが、奇跡的に原型を残しておりました。
当時の広島の人たちは、その建物を横目に見つつ、でも身の回りのことに手一杯で、その建物のことなんか、かまっていられなかったんだと思います
ようやく20年以上が経過した1967年。
あの日以来、ずーっと放っておかれたその建物が、未来に渡って保村されることが正式に決まりました。その建物は、上部に特徴的なドーム型の屋根があったことから、「原爆ドーム」と名付けられました。
あの日から、66年が経とうとしている今も、原爆ドームは当時の形を残したまま、そこにあります。
今でもそこにある。
教科書にのっている「広島に原爆が投下されました」という事実が、形として、今でもそこにあり続けている。
もし、当時の広島の人たちに、あの建物を解体する力があったのなら、たぶんすぐにでも解体していたと思います。だって、その建物を見るたび、あのときの恐怖がよみがえってくるから。そんなことよりも、「次」を見なければいけないから。
でも、当時の広島の人たちにはそんな余力がなかった。
それが20年経って、ようやく広島の人たちに、「これを残しておくべきだ」という精神的な余力が生まれた。20年が経って、「あのときの恐怖を消し去りたい」という気持ちよりも、「あのときの恐怖を未来に残しておかなければならない」という気持ちの方が強くなった。
それでぼくらは、66年が経過した「今」も、原爆ドームの前に立てば、あの日のことを、我がことのように感じることができる。
そして「今」、あらためて思う。
いかなる理由があろうとも、何十万人という人間を、一瞬で消し去ってしまうような原子力爆弾を作ってはいけない。いかなる理由があろうとも、未来永劫、日本人として、「絶対にやってはいけないこと」がある。
そう強く思う。
今の日本には、解体したいと思ったらすぐに解体できる力があります。重機の手配さえできれば、なんだって壊すことができる。66年前の日本にはなかった力です。そんな力をわれわれは持っている。「今」に必死で、「今」しか見ることが出来なかった66年前とは違って、「今そこにあるもの」を、いとも簡単になくしてしまう力があります。原子力を、発電という便利な方法に変える力すら持っています。
だからこそ、ぼくらは昔の人たちよりも、もっと考えることが必要なんだと思います。「今」のことだけではなく、「未来」をも見ておかないと、いとも簡単に壊し、いとも簡単に作ることができてしまいます。66年前の人々よりも、目先の感情や利益ではなく、もっと知的に想像する力を持たなければいけないんだと思います。
何か重大な判断を迫られたとき。
ぼくらが「今」ではなく「未来」を、「自分の明日」ではなく「将来を生きる子供たちにとってどうか」ということを考えたらどうか。
そうなればぼくは、迷うことなく様々な判断ができると思います。
いつか遠い将来、「あなたたちの判断のおかげで、今の私たちがいます」と、そう言われるとしたら、ぼくらは「カッコよかったな」と思います。
カッコよくありたいですよ。本当の意味で。
ではまた明日!
↑↑↑↑↑
水どうの最大の魅力は、「人間くささ」だと私なんかは思う。
素直に泣いたり、小さなことで怒ったり、くだらないことで大笑いしたり。
面倒くさいことはズルしてスルーしようとしたり。
そういう人間くささを包み隠さず表現している辺りが、見ていて心底安心するの。
そんな、最高に「人間くさい」彼らだからこそ、
こういう日記に説得力や共感を呼ぶ力が出てくるんだと思う。
同じ正論でも、「あんたが言ったって何の説得力もないんですけど」ってこと、あるけど、
その逆パターンね。
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さて、先日の新聞に「屋根の上の船 解体進む」という記事がありました。
岩手県大槌町。津波で民宿の屋根の上に載ってしまった船が陸におろされて、いよいよ解体作業が進んでいるという話です。
津波の恐ろしさ、すさまじさがわかる象徴的なものとして、誰もが見たことのある、あの風景。
今回の震災を後世に伝えるためにも「あの建物と船を保存すべきだ」という意見がある一方、「被災者の心情を考えれば、いつまでも傷跡を残しておくわけにはいかない」という考えです。
両者の意見は、ともに間違ってはいないと思います。どっちも正しい。
でも役所は、保存すべきか、解体すべきか、どちらかの判断を下さなければならない。どっちも正しいけれども、現時点ではどちらかの判断を下さなければならない。
で、役所は「解体」という判断を下しました。
判断の基準となったのは、「今」の被災者の心情を考えて、ということです。
先日、広島に行きました。
お恥ずかしい話ではありますが、私は今回、生まれて初めて原爆資料館を見に行きました。
1945年8月6日。
人類が初めて、核分裂を利用した兵器を使った日。
あの日、広島の上空6百メートルで、原子力爆弾が炸裂しました。爆弾は放射線をまき散らし、2千度という猛烈な熱量を放出して、一瞬のうちに広島の中心部をすべて焼き尽くしました。
でもそんな大惨事の中で、爆心地からほど近い、ある建物だけが、奇跡的に原型を残しておりました。
当時の広島の人たちは、その建物を横目に見つつ、でも身の回りのことに手一杯で、その建物のことなんか、かまっていられなかったんだと思います
ようやく20年以上が経過した1967年。
あの日以来、ずーっと放っておかれたその建物が、未来に渡って保村されることが正式に決まりました。その建物は、上部に特徴的なドーム型の屋根があったことから、「原爆ドーム」と名付けられました。
あの日から、66年が経とうとしている今も、原爆ドームは当時の形を残したまま、そこにあります。
今でもそこにある。
教科書にのっている「広島に原爆が投下されました」という事実が、形として、今でもそこにあり続けている。
もし、当時の広島の人たちに、あの建物を解体する力があったのなら、たぶんすぐにでも解体していたと思います。だって、その建物を見るたび、あのときの恐怖がよみがえってくるから。そんなことよりも、「次」を見なければいけないから。
でも、当時の広島の人たちにはそんな余力がなかった。
それが20年経って、ようやく広島の人たちに、「これを残しておくべきだ」という精神的な余力が生まれた。20年が経って、「あのときの恐怖を消し去りたい」という気持ちよりも、「あのときの恐怖を未来に残しておかなければならない」という気持ちの方が強くなった。
それでぼくらは、66年が経過した「今」も、原爆ドームの前に立てば、あの日のことを、我がことのように感じることができる。
そして「今」、あらためて思う。
いかなる理由があろうとも、何十万人という人間を、一瞬で消し去ってしまうような原子力爆弾を作ってはいけない。いかなる理由があろうとも、未来永劫、日本人として、「絶対にやってはいけないこと」がある。
そう強く思う。
今の日本には、解体したいと思ったらすぐに解体できる力があります。重機の手配さえできれば、なんだって壊すことができる。66年前の日本にはなかった力です。そんな力をわれわれは持っている。「今」に必死で、「今」しか見ることが出来なかった66年前とは違って、「今そこにあるもの」を、いとも簡単になくしてしまう力があります。原子力を、発電という便利な方法に変える力すら持っています。
だからこそ、ぼくらは昔の人たちよりも、もっと考えることが必要なんだと思います。「今」のことだけではなく、「未来」をも見ておかないと、いとも簡単に壊し、いとも簡単に作ることができてしまいます。66年前の人々よりも、目先の感情や利益ではなく、もっと知的に想像する力を持たなければいけないんだと思います。
何か重大な判断を迫られたとき。
ぼくらが「今」ではなく「未来」を、「自分の明日」ではなく「将来を生きる子供たちにとってどうか」ということを考えたらどうか。
そうなればぼくは、迷うことなく様々な判断ができると思います。
いつか遠い将来、「あなたたちの判断のおかげで、今の私たちがいます」と、そう言われるとしたら、ぼくらは「カッコよかったな」と思います。
カッコよくありたいですよ。本当の意味で。
ではまた明日!
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水どうの最大の魅力は、「人間くささ」だと私なんかは思う。
素直に泣いたり、小さなことで怒ったり、くだらないことで大笑いしたり。
面倒くさいことはズルしてスルーしようとしたり。
そういう人間くささを包み隠さず表現している辺りが、見ていて心底安心するの。
そんな、最高に「人間くさい」彼らだからこそ、
こういう日記に説得力や共感を呼ぶ力が出てくるんだと思う。
同じ正論でも、「あんたが言ったって何の説得力もないんですけど」ってこと、あるけど、
その逆パターンね。