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『教理対話』目次13 地獄 愉快ではないが道理至極のもの

2022-11-12 13:57:29 | 日記

目次13 地獄 愉快ではないが道理至極のもの

神父 
この前の講義で私達は、恩恵の状態で死ぬ人々に最後の褒賞として与えられる
天国のことを勉強しましたが、今度は、大罪の状態で死ぬ人々に課される罰の
ことをお話しなければなりません。神の正義と、大罪の本当の性質を考えますと、
考えれば考えるほど「エホバを畏るることは智慧の根本なり」
(箴言9-10)という聖書の言葉の事実であることがよく判ります。

青年 
カトリック教会は ----- これはある教会の説なんですが、----- どんな人でも亡びぬ
という意味で、「きよめられる」ということを信じないのですか?

神父 
そうです。聖パウロは「自分は如何なることも(いかなる罪も)自ら意識しない。
しかし、このことにおいて自分は義とせられぬ」と、パウロでさえ自分の救霊に
ついての絶対的な確信を持たぬ、といっています。また、聖書のほかのところには、
何人も己が(神に)愛さるべきものなりや憎まるべきものなりやは知らずとあります。
未来において私達が神の恩恵に一致するだろうか、ということは私達に確かには
わかりません。しかし、聖書は「終まで(正しい生活に)耐え忍ぶ人は救わるべし」
と、私達に教えています。

青年 
では、神父さん、カトリック教会は、地獄についてどういうことを教えているのですか?

神父 
教会は、① 地獄は存在する、② 地獄は永遠につづく、③ 地獄に落された人は怖しい
二重の罰を受ける(すなわち、神を見奉ることを禁じられ、苦痛、ことに火の苦しみを受ける)
と教えています。

青年 
地獄と天国とまるきり反対なんですね。

神父 
そうです。天国の聖人達は神を見奉り、あらゆる種類の苦しみや悩みを免れ、
道理にあった望みはすべてかなえられ、喜びを失う心配は全然ありません。
これに反し、地獄の霊魂は神を見奉ることをえず、烈しい苦しみを受け、
そこから放たれる望みは少しもないのです。

青年 
教会の不謬性に対する信仰がありませんと、永遠の罰に関する教会の教えは、
一番納得しにくい教えでしょうね。私は今の今まで、いつも神は寛大ないつくしみ
深い御方であると思っていました。

神父 
異論は遠慮なくおっしゃって下さい。あなたの異論が、正しい道理や常識に
合うかどうか調べてみましよう。

青年 
では、ます第一に、神がそれほどきぴしく人間を罰し給うということを信ずるのは、
いやな感じがします。

神父 
だが、事実を、隠さずに考えてみましょう。主は、最后の審判の時に、
「来たれ我父に祝せられたる者よ、世界開闢(かいびゃく)より汝等の為に
備えられたる国を得よ。・・のろわれたる者よ、我を離れて・・永遠の火に入れ」
と言わんと、はっきり私達に言っていられますね(マタイ25-34〜46)。
主のおっしゃいました褒賞が永遠であれば、罰も永遠でなければならない
ということは、あなたも同意なされるでしょう。神があふれるほどの褒賞を
なし給うと信じるのは、変ですか。

青年 
いいえ、神父様。神が非常にいつくしみ深いお方で、万物をお創りになり、
ことに御託身(たくしん:受肉)により人類の罪を贖われたほどですから。

神父 
たしかに神はいつくしみ深いお方です。教会の教えは大部分主の慈悲の記録です。
ですが、悔い改めない罪人に、警告が沢山書かれているのはどうしてでしょう。
善人となるために守らなければならないことを、しきりに私達にお教えになった
のはなぜでしょう。神の御子が人になられましたのは、どういうわけですか。
なぜ主は苦しまれ、あのように御生命を捧げ給うたのですか。これらは、
すべて私達に賜った主の限りない御慈愛の玄義(げんぎ:奥義)です。
私達を無限の応報から救うためでないのでしたら、こういう御慈愛の
あらわれがあるはずがないでしょう。主の善は無限、即ち限りがありませんから、
主は善人に永遠の褒賞(ほうしょう)を与えるのです。そう思いませんか。

青年 
そう思います。

神父 
ですから、主は永遠に悪人を罰し給わなければなりません。それは主の正義は無限、
即ち限りがないからです。神の御本質はすべて同等に限りがありません。
神は悪に対しましても善徳に対しても、無関心でいらっしゃれないのです。

青年 
実に理にかなったお話ですね。

神父 
極めてありふれた場合を考えてみましょう。追はぎが一人の男を襲って頭に
拳銃をつきつけ、金を要求したとします。盗むとか、(必要あらば)殺すとかいう
意志で襲ったのですが、逆に「襲われた」人がこの賊をやっつけて、その場で射殺
したとしましょう。追はぎは、神の御前で盗みと殺人の罪を抱いて、全然悔い改める
暇もなく、あの世に行きます。この人は永遠の褒賞を受けることはないでしょう。

青年 
ないに決まっています。

神父 
では、地獄の外に行くべき所はありません。天国から閉め出されるということは、
地獄の中でも一番つらいことです。もしこの閉め出しが永久のものでなければ、
その人はいつかは救われます。地獄の罰が永遠でなければ、悪人は、責任を神に
なすりつけることができます。つまり、神が色々な掟で、「汝はこうせよ、ああするな」
と命ずることはできますが、罪人は「私はこうしません、一生ああします。でも、
あなたは私を救うほかありません、私の霊魂は不滅であり、地獄は永遠ではないからです」
と言い張ることができるからです。無数の罪人は、こういうように神を無視した行いを
しています。

青年 
まったくです。

神父 
地獄の問題を考える場合、人々は理性よりもむしろ感情に支配されがちです。
神の御慈悲ばかりあてにし勝ちで、神の厳正なる事は、我がまま勝手な無責任な
自分の生き方に有難いことでないのですから、神の厳正については目を閉じがちです。

ところがその同じ人間が、自分に対する加害者を扱う段になると、厳正に扱います。
 他人があなたの娘さんを襲ったらどうですか? リンドバーグ(注)の子供が、悪人にさらわれて殺された時、アメリカ人はみな「地獄もこのギャング団には
よすぎる」といいました。人間の裁判に従っても、殺人の罪を犯した者は、永遠に人間の
仲間から棄てられます。人間の裁判は、できるだけ長期の刑罰を課そうとします。
法律は重い罪人をできるだけ長く罰します。人間は慈悲を施すよりも、正義を貫き
たがるものですから、勝手な成敗を下し、犯人に「リンチ」(私刑)をします。

私達は、ただ神の御為に創造され、神にお仕えするためにこの世に送られたのであり、また、
神の恩恵に助けられれば罪を避けることも、天国に入ろうと努めれば天国へ入れて頂けるよう
招かれているのですから -----「必要なる唯一つのこと」(即ち、神の国とその義を求めること)
をよそにして、不必要なことにあくせくしているならば、「無益なる下僕」として
投げ捨てられるのは、当然ではありませんか。

青年 
当然です。

神父 
人間が地獄に落ちるのを自分で避けることができないのでしたら、神は残酷であり、
 また、永遠の地獄は不合理でしょう。しかし、罪人が亡びるのは、
 全くその人自身の罪によるのです。
犯罪者が自分の犯罪のために
刑務所に行くのと同じょうに、地獄に落ちる者は、己の罪のために地獄に落ちるのです。
罪を持ったままの状態で死ぬ人は、永遠に神の御慈悲を拒む状態(地獄)に落ちます。
神は罪人を救うために、十分過ぎるほどのことをなさいました。罪人に救霊を
もたらし給うために、むごたらしい死を御受けになりました。

しかし、人間から自由意志をお奪いにはなりません。善人は地獄を怖れません、
地獄に落ちまいとして固い決心をしているからです。わが国に刑務所が沢山あっても、
あなたや私は刑務所に入らないつもりですから、刑務所のことが少しも気にかからない
のと同じです。地獄は神の掟の違反者のためにあります。刑務所が国の法律の違反者の
ためにあるのと同じです。正しい人は地獄にも刑按所にも入らずにすみます。
一体、不正が人間の不正でなければ、どこに不正というものがあり得ますか。

青年 
人間以外には不正はありません。

神父 
さて、地獄の問題につきまして、聖書の言っていることを引用して見ましょう。
マタイ聖福音書の第25章第41節に、公審判の時にキリストが御自ら罪人に向って
いわれる「呪われたる者よ、我を離れて永遠の火に〔入れ〕」という御言葉が
記されています。この御宣告は、私がお話した地獄についての教会の教えの三つの
点を表しています。「我を離れて」は地獄の一番ひどい罰 ----- 神よりの分離を、
「火に〔入れ〕」は苦しみを、「永遠」はその罰の永久であることを表しています。
この同じ真理が「富豪とラザル」の例話(ルカ16-19〜31)の中に明瞭にのっています。
救世主の申されるには、「富豪も亦死して葬られ」、そこで彼は「我はこの炎の中に
いたく苦しんでいる」から、水を少し与え給え、とアブラハムに哀願しました。
しかし、アブラハムは「我等と汝等との間には大いなる淵の定め置かれたれば、
ここより汝等の処へ渡らんと欲するもかなわず、そこよりここに移る事もかなわざるなり」
と答えました。ですから、このたとえ話は地獄の存在と苦痛と永遠を強調しています。

青年 
では、カトリック教会は、地獄に火のあることを本当に信じているのですか?

神父 
教会は、この世にあるような現実の物理的な火があるとは、信仰箇条の中に
規定していませんが、地獄の火は真であるという信仰を強く有しています。
それは新約聖書の中に、地獄の苦しみの原因として「火」のことが三十回も
述べられているからです。「永遠の火」(マタイ25章)「滅(き)えざる火」
(マルコ9-42)「火の窯」(マタイ13章)「火の満つる谷」「焼きつくす火」
(イザヤ)等と言われています。「我を離れて火に〔入れ〕」という主の御言葉
の中に、真の火が暗示されています。主が「想像上の火」を言われたに過ぎないと
したところで、どうでしょう? 些かの慰めも罪人に与えられるとは思いません。
「火」という形容は、やはり、地獄の苛責は火のように怖しい、という意味を
表わすからです。かりにあなたが、歯が火のように痛い、とおっしゃる場合、
私が「でも、火ではないはずです」と慰めて云ったところで、あなたは
楽にならないでしょう?

青年 
なりません。つらいのは同じことです。

神父 
処罰の方法は神の自由な意志によって決まります。一旦火とお決めになりますと、
どれほど人間が抗議しても、どうにもなりません。ですが、火の苦しみがどれほど
怖しいものであっても、罪の結果神を見奉り得ぬということから起る苦しみの方が
比較にならないほどひどいということを忘れてはいけません。

(目次15 につづく)

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(注)1902年 - 1974年)は、アメリカ合衆国の飛行家で、
1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機で
ニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には
北太平洋横断飛行にも成功した。1932年3月1日に1歳8か月の長男ジュニアが自宅から
誘拐され、現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残されていた。10週間に及ぶ
探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、5月12日、ニュージャージー州ホープウェルで
死んでいるのが見つかった(リンドバーグ愛児誘拐事件)。

『教理対話』目次 04 キリストの御生涯における主な出来事

2022-11-12 13:57:07 | 日記
目次 04 キリストの御生涯における主な出来事

神父 
今夜はキリストの御生涯のことを、少くともその重要な出来事をいろいろ
お話するつもりです。私達の講義の大部分はキリストとその御教え、私達に
仰せにかられたことなどに関係しています。主が真の神にましますことはすぐ
証明されます。ですが、その前にこの世においでになりました時の
主の御生涯について、どれくらいあなたは御存じでいられるか
お尋ねしてみたいと思います。

青年 
多少は知っています。あなたのお話の後でルカの福音書を読みましたから。

神父 
私達はキリストについての歴史上の知識は主に聖書という本から得ています。
この本が神の御言葉であるということのほかに信頼すべき歴史的記録であると
いうことは、証明することができます。
この聖書は主が公の教えを始められました三十才までのことは、わずか
二、三しかのせていません。ですから、聖書の殆ど全部は主の30から33歳までの
主のことや御教え奇跡などに関係しています。
主はどこでお生れになったか御存じですか?

青年 
パレスチナのべツレヘムという小さな町の近くです。ですが、
神父様、マリアはナザレにお住いではなかったのですか?

神父 
そうです。あなたは救世主御誕生当時のいたましい御環境のことは
御存じではないようですね。キリストが天より御出でになりましたのは、
人類に教えたり、人類に救霊に達する為の天からの助けを授けたりする
ためばかりではなく、御苦難によって罪を償うためにお出になられたのである、
ということを忘れてはなりません。

そして、主はこの御苦難がこの世に御出になると同時に始まって十字架上の
はげしい御苦しみのうちに御死去なさるまで、ずっと続くように望まれました。
ですから、主が家から離れたところでお生れになる
──ベツレヘムの町の外の馬屋洞穴でお生れになるということは、はじめから
取り図らわれていたのです。

その日のこの町は、ヨゼフやマリアのように、戸籍調べに名前を登録するため
来ていた人達でどこもいっばいでした。当時の戸籍調べは、我が国で今日
行われているような調べ方ではありませんでした。調査員が報告をとるために
家々をまわるということをしないで、人民が「県庁所在地」とでもいうべき
ところに行って登録したのです。べトレヘムはヨゼフの行かねばならなかった町でした。
マリアは一緒にお出になり、この用事で家を離れていられるうちに、キリストの
御出生ということになったのです。救世主の御誕生に神はどういう御気持を
御示しになられましたか、あなたは御存じですか?(ルカ2-1~10)

青年 
羊飼いに対し天使の出現したことや、秣槽の中のイエスを崇める為に
無数の天使が天から降ったことをおっしゃるのですか?

神父 
そうです。そして、天使は、この事は神に栄光を与え、地には人々に
平安を与えるだろうといいました。神がこの地上でふさわしい尊敬を
御受けになられましたのは、創造の黎明以来これが最初のことでした。
無限の尊敬でした。そしてこれによりまして神と人類との間の平和の道が開かれました。

青年 
これまでにありましたあらゆる戦争を、あなたはどういうふうに説明されますか?

神父 
今なお神に背いている人達の悪い意志を以て説明します。ですが、
戦争がないということは、天使の申しました「平和」ということではありません。
人の心の中の平和、お互いが兄弟のように愛し合う場合の多くの人々の間の
平和を天使は言っているのです。

青年 
神の御子は、御誕生の後三十年以上もはずかしめや御苦しみを御受けに
ならなくても、ただ人の性をおとりになられたということだけで十分では
なかったのですか?

神父 
人間を救うためには十分だったでしょうが、神の愛を満たすためには不十分でした。
神は人間に対して持っていらっしやる無限の愛の証拠をお示しになろうと御恩召しになり、
また、罪の恐しい害について教訓を私達に強く銘記されようとお考えになっていられました。
キリストがお生れになりますとすぐ主の死の陰謀がめぐらされました。その当時ユダヤを
支配していたへロデ王は、イエスが地上の王になって彼を王位からしりぞけるのでは
なかろうかと恐れまして、幼子のイエスを確実に殺す方法としまして、幼児全部の虐殺を
命じたのです。

マリアとヨ ゼフはそういう神の警告を受けて、幼子と一緒ヘロデの怖しい怒りを避けました。
エジプトに渡り、そこで数年間異教徒の中で暮すというひどい御苦しみに堪えられましたが、
また、この上もないひどい貧窮をなめられたようです。実際キリストはこういうことは全部
なさらなくてもよかったのですが、これは人間の罪のあり余る御贖いをなさる御計画の
一部だったのです。ところで、次に聖書の話ではキリストのことでどういっていますか?

青年 
十二才の御時御両親といっしょにエルサレムへお上りになられましたことがのっていた
ようですが。

神父 
そうです。そして御両親が家路におつきになりましてからも三日間そこに
留り給うたことがのっています。
主はわざと自分から御両親と御離れになったのです。

青年 
どういうお考えでそうなされたのですか?

神父
救世主はいつも人々に、たとえ近親や極めて親しい人々を軽んずることになる
場合でも、主の「御父のこと」は万事にこえて留意しなければならないということを、
お教えになろうと望んでいられました。天の御父は、この機会を利用して、
ユダヤ人達が待ちのぞんでいたメシアが今や出現する時であるということを、
イエスをしてユダヤの律法学士達に神殿で証しをおさせになろうとなさったのです。
キリストが私達すべてのものに、神の家で喜んで時を送らなければ
ならないということを、お教えになることも、神父の御旨であったのです。

青年 
ですが、ヨゼフとマリアがイエスのいらっしゃらないことを何とも思われずに遠くまで
お出になりましたことは、わけがわかりませんが?

神父
エルザレムの町は、当時の殆どすべての町はそうだったのですが、城壁を
取りめぐらしていまして、それぞれの門から地方へ行く道路が通じていました。
そして、普通男女は別々の団体になって行くならわしでした。ヨゼフは男の方に、
マリアは女の方におられました。子供は両親のどちらとも一緒にゆくことができました。
それで、ヨゼフは、きっとイエスはマリアと御 一緒におられるものと思われ、
マリアも、ヨゼフと一緒におられることと思われたのですが、最後に終日
お歩きになってから或る場所で落ちあわれました。そこでイエスがどちらの側にも
ついておられないことに気づかれまして、すぐ一緒にエルサレムに御引き返しになりました。

恐らく、こういう顔かたちの子供を見かけなかったかとお尋ねになりながら、家毎に
立ちとどまられ たことでしょう。御両親は「悲しみつつ」主をお探しになりましたが、
その甲斐もなく最後に神殿におかえりになりましたところ、イエスが非凡な知恵を以て、
旧約聖書などによく通暁していると思われている人達を教えていられました。
イエスが一つの目的の為にそこに残っていられましたのは神の聖旨でありますが、
御両親と御一緒にお帰りになりまして、両親に対する服従と尊敬の教訓を
お教えになりましたのも、神の聖旨であります。事実、聖書はイエスの家庭生活を、
「両親に順い事え給う」という言葉でまとめています。その後のイエスにつきましては、
何ともいわれていません ─ それはいつまで記されていませんか?

青年 
それは、私の記憶に間違いがなければ、ヨルダン河のほとりで聖ヨハネから
洗礼をおうけになられた時までです。その後で主は四十日聞荒野で断食の時を
送られました。キリストは御自身を非常に厳しくなさいましたが、それはもちろん
私達のためになさったのですね、
神父さん、主御自身としましてはそういう難行をなさいます必要は、全然ないのですから。

神父 
おっしゃる通りです。それからキリストはどういうことをなさいましたか?

青年 
三年間に及ぶ公生活をお始めになりました。

神父
その通りです。その期間中の主の御目的は、真の教師になって接し給う人々を
助け給うということよりも、御自らの神性をあらわしまして、世の終りまですべての
国の人々の教導と聖化のための道をお備えになる、というところにありました。
この事はあとでお話しましょう。イエスが御自らの神にましますことをお示し
になりました方法を何かあなたは知っていられますか?

青年 
知っています。ただそれが信じられれば良いのですが。

神父
これはびっくりしますね。あなたは前に、キリストは人の形をおとりになった
神の御子にましますことを確信する、とおっしゃったではないですか。

青年 
そうです、神父さん。また、私は今それを疑おうとしているのではありません。

神父 
要するにあなたは疑っていられます。主が水を葡萄酒にお変えになったり、
パンをふやしたり、盲や足なえ、つんぼ、唖をお癒しになつたり、死人を
蘇らしたりなどのようなことをなさいましたことを、信じてよいのかどうか
あなたにわからないからです。

青年 
キリストが神にましますなら、宇宙をお創りになることができましたように、
そういうこともおできになられたでしょう。ですが、私は奇跡というような
ものはない、ということをよく聞いています。

神父 
それではあなたは、キリストが事実御自ら奇跡を行い給うた事を信じたくないのですね。
キリストの神性と奇跡の証明のことは、次の講義までそのままにしておきましょう。
ただ今のところは、聖書は真実の歴史を述べているとしておきます。
キリストの死について聖書はどういっていますか?

青年 
御自ら死につき給い、精神上の苦しみの為に血の汗をお流しになり、鞭打たれ、
茨の冠を頭にかぶせられ、嘲弄され、罵られ、十字架を負うてカルワリオ山に赴き、
十字架に釘づけられ、盗人の間にかけられ、三時間のひどい御苦しみの後に
死に給うたとあります。

神父 
御死去の後はどうですか?

青年 
再び蘇って四十日の間この世においでになり、それから天にお昇りになりました。


神父
御死去の時、御霊魂はどこへおいでになりましたか?

青年 
使徒信経には、古聖所へお降りになったとありますが、理解できません。

神父 
ええ、それには少し説明がいります。天国はキリストの御死去の時まで、
すペての人に閉ざされていました。主の御来臨前に聖なる一生を送り、
来り給う救い主を信じ、己を主に奉献した人々は滅びない、ということを、
あなたは前に勉強されましたね。その人達の霊魂は天国にも地獄にも行かない
のですから、善人の行く場所が別になければなりません。そこではその人達は
幸福ではあるのですが、神を見奉るという超自然の天国を楽しむことはできませんでした。
彼等のことを聖ペトロは「牢獄の霊魂」といいました。この人達に、今や彼等は救われた、
天国は用意されている、という幸福なしらせをお伝えになりますために、キリストは
そこへお降りになったのです。使徒信経はこの場所のことを、「古聖所」という
言葉で表しています。

青年 
最後にお尋ねしたいことがあるのですが、使徒信経に、キリストは
「全能の父なる神の右に座し」とあるのは、どういうことですか?

神父 
その言葉は、天におきまして、キリストは神として全能の父なる神と御力を
等しくし給い、人としましては、すべての聖人にこえて御父の力と光栄に与り給う、
という信仰を表しています。このことはこの世に住んでいた
一切の人を主が御裁きになります最後の日に、すべての人にとくにはっきりします。

(目次5 キリストが真の神である証拠 につづく)
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『教理対話』目次 03 堕落後の人類を救済する神の御はからい

2022-11-12 13:56:49 | 日記
目次 03 堕落後の人類を救済する神の御はからい

神父 
ところで、前講義はどこまででしたかね? どうも教えを受けに沢山の人が
来るものですから、すぐに忘れてしまいます。

青年 
ええ、原罪の状態に生れて来る人が、成聖の恩恵をいただくことによりまして、
神の御友情を回復することがどういうふうにしてできるようになったか、
ということを説明するとおっしゃいました。

神父 
やあ、そうでした。この講義で、神は限りなく仁慈にましまし、愛にみち、
情深いお方であることがわかります。ですが、この問題を正しく
理解しますには、三位一体(さんみいったい)のことを多少知っている
ことが必要です。あなたはこの言葉の意味を知っていますか?

青年 
いいえ。

神父 
これは神は一つにましまして、その中に、父たる神、子たる神、
聖霊たる神とよばれる三つのペルソナ(位格)がある、ということです。

青年 
ひとつ今のお話に全然わからないことが二つあります。それは
(一)神がペルソナであるということです。
私は被造物だけがペルソナであると思っていました。それから
(二)一つの神が三つであるということです。

神父 
あなたの最初の問題にお答えしますには、まず、人間ばかりか、
全て霊なるものは、知性と自由意志を持っていますのでペルソナ(位格)である、
という事に注意せねばなりません。
ですから、天使はペルソナであり、また神も同じです。私達人聞も同じように
知性と自由意志を持っていますので、それだけでペルソナです。ですから、
私達の人格は本来霊魂とその理性及び自由選択の能力から由来するのです。
もし私達がこの肉体だけでペルソナになるのでしたら、獣も人格になることでしょう。

第二の問題の方は、まだあなたは全然教会の教えを理解していられませんね。
神は本性上一つです。しかも三つのペルソナともこの神性をもっています。

青年 
すみませんが、もう少しはっきり話して下さいませんか、
とても私の頭では考えられません。

神父 
なにもびっくりするようなことではありません。あなたばかりか、
私や最大の神学者でも、キりストが三位一体についてお示しになりましたことを、
十分に理解することはできません。
これは、私達の十分に理解し得ない御啓示が幾つかあるその中の一つです。

神の御本性は、創られたものの知性をもってしては十分にこれを
理解することはできません。知力に限りある被造物が神を十分に
理解することができましたら、神はもはや神でなく、また神は無限ではなく、
有限になってしまいます。これは私達の理解し得ない幾つかの信仰の教義の
一つである、と私は言いましたね。本性において私達の理解し得ない無数の事物が
あることを考えますと、超自然の秩序の中にも非常に沢山な不思議がありそうに
思われますが、そう沢山ありはしない、ということは、ちょっと変かも知れませんね。
とにかく、三位一体は神の御言葉を信じて、しかも理性で十分に理解し得ない一つの
玄義(奥義・神秘)、真理であります。

青年 
聖書は三位一体のことをどこに述べていますか?

神父 
ヨハネ第一の手紙の第5章第8節に「天において証するもの三つあり、
霊と水と血とこれなり。この三つのものは一に帰し給う」とあります。
キリストは使徒達に「父と子と聖霊との御名によりて」
(マタイ28-19)洗礼を授けよと御教えになりました。それから、
マルコ福音書の第1章、第11、第12節に、キリストが洗せられ給うた時、
聖霊が鳩の形でキリストの頭上に現れ、聖父が「汝は我が愛子なり」
とのたもうたとあります。こういう聖句の中に三つのペルソナのことが
述べられています。

青年 
それでは、それは別々のペルソナのようですね。

神父
そうです。これはお互いに異った三つのペルソナです。
聖父は聖子ではありません。また聖霊は聖父でもなければ聖子でもありません。
(私達の霊魂の場合にも、悟性は、意志でもなく、記憶でもありません。
しかもこの相異った三つの力は、どれも霊魂そのものの本性に属しています。)

ですが、このことは、前に申しあげましたように、理解しようと努める
必要はありません。また、その三つのペルソナと神の一体との関係を私も
説明できません。とにかく、私達は、三つのペルソナは同じ一つの神で
いられますから、お互いに完全に等しいお方であり、また、
どれも同じ一つの神性を持っていられますから、同じ一体の神に在す、
という事を知っています。

さて、これで約束の講義を始めることができます。人類の始祖の
アダムが罪を犯しまして、神の御友情と恩恵を失うということに
私達すべてのものが巻きこまれましてから、天国は人類に向って閉ざされて
しまいました。それは、これまでに勉強しましたように、神を見奉ることが
できますためには、成聖の恩恵を持っているということが条件の一つであるからです。

もし神が全然御あわれみを御示しになりませんでしたら、アダムとエワは、
自ら進んで同じ罪を犯したのですから反逆の天使と同じように、
永遠にみじめな運命にあったことでしょう。
しかし、私達の最初の親達は、外部からの原因に誘惑されたもので
ありますし、現実に罪を犯していない将来の無数の人間がこれに
巻きこまれるという問題がありますので、神はその無限の御あわれみをもって、
人類の救霊の為に道をお開きになられました。

青年 
たしかに一つのなぐさめですね。

神父 
そう、私達にとりましては一つのなぐさめですが、これを完成なさいます為に、
神は大変な犠牲を払われたのですよ!

青年 
大変な犠牲をお払いなったんですつて! 人間を赦してそれでおしまいに
するということは、神におできにならなかったのですか?

神父 
おできになりました。しかし、神は正義そのものでいられますし、
また、罪に対して無関心でいることはおできになれないものですから、
正義の要求が満たされるという事が必要だったのです。
罪が完全に償われる事を要求されたのです。しかし、アダムは
それができませんでした。

青年 
アダムはどうしてそれができなかったのですか? 罪を犯したものは
痛悔によってそれを償うことができそうなものですね。

神父 
いや、理性と自由意志を与えられている被造物は、神に対して背くと
いうことはできますが、その罪を償い得るものは、無限に貴いお方だけです。

青年 
私にはわかりません。

神父 
では、こうです。罪は、その罪を受ける御方が貴ければ貴いほど大きくなります。
それで神に対する罪の中に含まれている侮辱は、侮辱を受け給う神の大きさと
貴さを以て量られます。そして、神の貴さは無量無限です。人間の善業は
どんなものであっても、限りある人間の能力より優るということはありませんから
有限です。そして人間の最上の善業でも、神が厳格な正義をもって
見られますものと比較すると雲泥の差があります。

青年 
わかりました。人間は払うべき無限の負債があって、しかもお返しする方法は
有限なんですね。

神父 
その通りです。三位一体の第二のペルソナにまします神の聖子は、乙女マリアより
お生れになります時、人の性をおとりになりました。神の聖子は必すしも人ではない
のですが、御託身(受肉)の時に人になり給うたのです。この「御託身」という
言葉は、神の御子が神としてそのままマリアの御胎内で私達と同じ肉体と霊魂を
御取りになられた、ということです。ですから、イエス・キリストは聖父と同じ
神性を持っていられますので、真の神にましまし、また、マリアの御子として
私達と同じ肉体と霊魂を持っていられますので、真の人です。

キリストは人となり給うて、人類の罪にふさわしい償いをこの世で天に
まします御父にお捧げになりました一人の人──三位一体の第二のペルソナ──
であります。こういうわけで私達はキリストのことを全人類の救い主と
申し上げるのです。キリストが罪の償いをなさいますと、この償いは、
神の御尊厳を犯しました罪が無限であると同じょうに、無量無際限の
ものになります。聖ヨハネは三位一体の第二のペルソナのことを「御言葉」
といっています。また、「御託身」のことをこういうふうに述べています。
「元始に御言葉あり、御言葉は神と共に在り、御言葉は神にてありたり。
……かくして御言は肉と成りて、我等のうちに宿り給えり」(ヨハネ1-1〜4)

青年 
それはたしかに神の御いつくしみと御憐みですね。人間には本来これを
いただく価値はありません。この地上で「キリスト」といわれていられた
御方が人となり給うた神の聖子なのですか?

神父 
その通りです。

青年 
ですが、アダムとキリストの御時との間には数千年も経っていませんか?

神父 
そうです。時を計算する聖書の方法に従いますと、四千年以上になります。

青年 
そうしますと、その間にいたアダム、エワの子孫は全部神の御償いの
御利益にあずかったのですか。

神父 
そうです。神はアダムとエワに救世主のことを御約束になりました。
それからその後におきましては、他のものを──予言者を通じてこれを
なさいました。そして前以て御来臨になられる救世主を信仰し、
また他の条件、たとえば掟を守るというようなことを果すならば
という条件で、キリストの御贖いの御功徳をその人達の霊魂に施されました。

青年 
それでキリストの新しい面がわかるようになりました。キリストは
いかなる御方かということや、その御業績はこれまで全然私には
わかりませんでした。そういうわけでマリアもまた貴い御方になりますね?

神父 
そうです、あなたはものの道理にふさわしい感覚を持っていられますが、
嬉しいことですね。永遠の昔に、神の聖子が人になり給うとおぼしめされました時、
御自分の肉と血をおとりになる一人の方(母)をお考えになっていられましたと
いうことは明らかなことです。

そのお方はその威厳においてこれまでの被造物も持たなかったような
価値がなければなりません。ですから、主はこの方の霊魂をお創りに
なられます時に、御自分の贖いの御功徳をこれに適用され、そして、
原罪をお除きになりました。主が罪を贖われますために人性をおとり
になるときその御母になる方が、罪のためにけがれているということは、
ふさわしいことではありません。あなたは私達がマリアの無原罪の御宿り
ということを話すのをお聞きになられるでしょうが、これはマリアが
お宿りになられました時、その存在の最初の瞬間から、原罪を免れていられた、
という私達の信仰を表しています。

青年 
無原罪の御宿りは「処女懐胎」と同じことですか?

神父 
いいえ。マリアはほかのすべての人間のように、人たる両親の自然の道によって
お生れになりました。「処女懐胎」はキリストだけの場合です。主の肉体が聖霊
によって処女の胎内に形作られたからです。
(ルカ1-35)

青年 
あの「天使祝詞」という短いお祈りの意味がよくわかりました。
その中でマリアのことが「恩恵満ちみてる」といわれていますね。

神父 
そうです。それはマリアに貴い召命を知らして神の御旨に従う旨の
同意を受けとるために、全能の神から遣わされたガブリエル大天使の言葉です。
この事はルカ福音書の中にありますからお読み下さい。その中に、
マリアは処女であった、そしてすべての女の中で祝せられる、
と録されています──それはマリアは原罪がなく、また、神の御子の母として
すべての女の中から選ばれたからです。また、その中に、マリアは天使の御告
をうけてためらったということが記されています。

彼女にはどうして母になるのか、どうして神に献げられた処女のままで、
永久におることができるのか、ということがわからなかったからです。
それで天使は、奇跡によって、聖霊によってみごもり「至高者の子」と
呼ばれる御子を生むのである、ということを知らせました。使徒信経はこの玄義を
「聖霊によりて宿り、乙女マリアより生れ」という言葉を以て表しています。
それでキリストには、人たる父親はなく、マリアの夫であつた聖ヨセフは
キリストの保護者、養父なのです。

青年 
神父さん、あなたはこの講義の初めに、神は御いつくしみと愛にみちた
神であるということを話そうとおっしゃいましたが、たしかにそうですね。
私はこの勉強を決してやめようとは思いません。神はこれまでよりもずっと
偉大な貴い御方のように感じられて来ましたが、また、同時に、
私はもっと神に親しくなったような感じがします。神は私に深い御心を
持っていられるように思われて来ました。


目次 04 キリストの御生涯における主な出来事 

『教理対話』 目次 00 初対面  第一部 神の教会と教会の教え

2022-11-12 13:56:28 | 日記
【『教理対話』ノル大司教/ファロン師共著 1956年、中央出版社】
ノル大司教( 1875-1956 )

目次 00 初対面

青年 
神父様、今晩は。

神父 
今晩は、さあ、どうぞ、何か御用ですか?

青年 
私はジャックソンというものですが、おひまでしたら、カトりックという
宗教を教えていただきたいと思って参りました。

神父 
ええ、ひまです。そうでなくても、ひまをつくるようにします。教えるということは
私の大事な仕事の一つですから。うちあけて私が御説明申しあげ、あなたも同じように
疑問などを打明けて下さいますと、私達の話は、面白いものになると思います。では、
初めに二三お尋ねしますが洗礼を授かっていられますか?

青年 
いいえ。

神父 
宗教教育をお受けになったことがありますか。

青年 
いいえ。

神父 
カトリックの女の方とでも御友達ですか?

青年 
いいえ、全然。実は私はカトリック教会の古くて大きなことや、信者間の宗教上の一致に
非常に感銘しているのです。

神父 
そうですか、それではあなたは多くの人が抱いているような偏見を
お持ちではありませんね、よくわかります。

青年 
私は、先生、努めて心を白紙にするようにしています。失礼しました。
本当の御呼び方をするのを忘れまして。私はどうも聖職の方々とお話しする
ことになれていないものですから。

神父 
ごもっともです。カトリックで司祭のことを「神父(ファーザ)」
というわけをあなたはご存知ですか?

青年 
いいえ、知りません。ですが、私の或るカトリックの友達が、非カトリックの人に
立派な返事をしているのを開いたことがあります。この相手の人は、司祭には
そういう名前で呼ばれる資格はない、と言い張ったのです。

神父 
お友達はどんな返事をしたのですか?

青年 
そうですね。そのカトリックでない人が「いかなる人も父と呼ぶ勿れ」という
キリストの御言葉を引用しましたところ、その信者の人は「君は自分の
父親のことをどういうのか」と言いました。

神父 
それはあげあし取りではありませんね。司祭を「神父」と呼ぶ根本的な理由は、
聖パウロが示しています。「その福音を以て汝等をキリスト・イエズスに
生みたるは我なればなり」(コリント前4-15)司祭のつとめは聖パウロのつとめに
似ています。司祭は、霊魂に新しい種類の生命、超自然の生命を与える、神の
御手の中にある一つの道具で、それは丁度、あなた方が父と呼んでいられる
親が、あなた方に自然の生命を与えるための神の道具であるのとかわりません。

神はこの二つの場合の第一原因でありまして、これがキリストのおっしゃいました
「汝等の父は天に在す一人のみなればなり」(マタイ23-9)の意味です。
この世における司祭の本当の目的は受持教区の霊魂の世話をする事でありまして、
父親が家庭の世俗的世話をするのと同じです。ですから、「神父」という
肩書は当然の事です。

青年 
神父さん、この問題に触れましたついでに、なぜ教会が司祭に独身でいるように
命じているかその理由を説明していただけませんか? 実はどうして皆さんは
御結婚なさらないのですかとお聞きしますと、恐らく「あなたに関係ないことだ」
とおっしゃることと思います。
カトリックの司祭が結婚なさらないわけをお尋ねしても失礼でないと思いますが。
カトリックでない人達にはあなた方の教会のこの掟がわかりません。

神父 
喜んでお話します。教会のこの掟は、神の教会と司祭のつとめとの本当の性質に
精通されてからでないと本当にわからないでしょう。司祭は福音の単なる説教者
ではありません、司祭は特別の祝福(叙階)によりまして神に献げられています。
それ以外のものには決してなれません。
自分は世俗的な、そして人間的なつながりから特別に神の御召出を受けていると
考えています。聖パウロの言葉を借りますと、「けだし、すべて大司祭は人の中
より選ばれ、神に関する事に就きて人々の為に供物と贖罪の犠牲とを献ぐるの任を受け」
(ヘプライ5-1)ているのです。
人々の為に叙階されています。ですから、その時間と才能と生涯は、その人達の
意のままにあらねばなりません。

一切の世俗的な束縛がないということは、天主のおん為に専心に仕事をする
ということにとりまして、実に欠くべからぎることであります。聖パウロは
結婚しませんでした。聖ペトロは結婚していましたがキリストに従う為に妻と
「一切のもの」を捨てました。この人達が結婚していましたら、その仕事の
成功はずっと望み薄かったことでしょう。

聖パウロ自身がこのことを「妻なき人は如何にして主を喜ばしめんかと
主の事を思い煩うに、妻と共に居る人はいかにして妻を喜ばしめんかと、
世の事を思い煩いて心分かるるなり」(コリント前7-32~33)と言っています。
疑いもなく、既婚の司祭よりも家族的なつながりを持たず結婚しておらない
司祭の方が、はるかにキリストにならって、伝染病で苦しんでいる人々の
助けになることができますし、経済的な出費も少くて暮して行くことができます。

青年 
なるほど、そういうわけで聖職者は結婚しないのですか。しかし、
恐らく大多数のカトリックの人達はこれを重視しはしないでしよう。

神父 
純潔な独身生活などできはしない、と思っている人も中にはあります。
司祭職の性格と義務を知っているカトリック信者は、司祭の独身生活を
心から信じています。毎日二時聞以上もかかる司祭のミサ、黙想、その他の
お祈りによりまして、司祭はどうしても神のおそばにいなければなりません。
酒の味を知った人はこれ無しで済ますということは、なかなか困難だと
思っていますが、酒の味を全然知らぬ人はそうではありません。
ずっと独身でいまして、その上、純潔の誓を立てている人の場合も
これと同じことです。

青年 
でも、司祭や修道女の悪徳を書き立てた本が沢山ありますね。

神父 
それはそうです。しかし、それはカトリック教会の公然の敵とか、
カトリック教会を攻撃すると時々金銭的な利益があるような人々が
そう云うのです。

この本をお渡ししますからその始めの方をじっくりお読みになって、
今週中に第一回の講義のために夕方またいらっしゃい。本の終りに
祈祷文がのっていますが、その中の幾つかを暗記して下さい。
今直ぐ暗記するには及びませんが、毎晩夜のお祈りに読んで下さい。
そうしますと、大した勉強をしなくてもすぐにおぼえられます。

真の信仰は神の賜物で、これは祈祷によつて神にお願いしなければ
ならないものですから、勉強しながらお祈りをするということは
大事なことです。

主祷文(主の祈り)と天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)と
使徒信経(使徒信条)は事実、天から授かった祈りです。ですから、
カトリック信者はこれを暗記することが望まれます。
主祷文(主の祈り)はキリスト御自らがお作りになって弟子達に
教えられました。天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)の初めの部分は、
主の御使の天使がマリアに述べた言葉と、従姉のエリザべットが聖霊に
感じてマリアに申しあげた言葉を含んでいます。使徒信経は初代キリスト信者の
信仰告白で、教会を通して主が教えられたおもな真理の要約です。ですから、
私達はこの三つのお祈りを改めることはできません。
これと一緒に、信徳唱、望徳唱、愛徳唱を知っていただきたいと思います。

青年 
司祭のいわれるほとんどどすべてのお祈りに信者が「アーメン」
とあわせていますが、あれはどういう意味ですか?

神父 
あの言葉は「しかあらしめ給え(たしかに、そうでありますように)」
という意味で、お祈りの是認とか確信を表わしています。しかし、
人がひとりで祈る場合でも普通この言葉で結びます。研究中の疑問は
なんでも必ず尋ねて下さい。隠さねばならないものは何もありませんし、
又、あなたが完全に信じられたということが確かめられませんと、
私達はあなたを正式に教会にお迎えしません。

青年 
それでは、神父様、今晩は御教示をいただきまして誠に有難うございました。
第一回の講義を楽しみにしています。

神父 
木曜日の晩お出で下さい。勉強しながら祈って下さい。
聖寵によりましてあなたが神に心を向けるようになられましたように、
神があなたをさらに御導きならんことを祈っています。

目次 01 「キリスト教信仰の基礎」につづく





【どちりいなきりしたん】


キリシタン版の一つ。 名称は〈キリスト教の教義〉を意味するポルトガル語Doctrina Christãoに由来し,
《どちりいなきりしたん》ともいう。 ... 信者となる者や幼児洗礼を受けたカトリック信者の子弟の宗教教育に
用いられ,万人に教えを説く必要から、教義が問答形式によって体系的に平易な文章で説かれている。
写真はヴァチカン教皇庁図書館蔵書、天正19年(1591年)



『教理対話』目次 01 キリスト教信仰の基礎

2022-11-12 13:56:09 | 日記
目次 01 キリスト教信仰の基礎

青年
神父様、今晩は。第一回の準備をして参りました。

神父 
今晩は、さあ、どうぞ。私が申しあげましたように、神のお導きを
お祈りなさいましたか?

青年 
はい、自分流に神のお導きをお祈りして、天使祝詞と主祷文と使徒信経を
暗記しました。ほかの「誦」という方はまだおぼえていません。

神父 
大した進歩です。「唱」は毎日一回お読みになって憶えて下さい。
もちろん、自分の口で言わねばなりませんね。

青年 
私がこれからお受けする講義には何か特別の順序があるのですか?

神父 
そうです、あります。そうしませんと、どこまで進んだのか判りません。
私達の話は、
(一)信ずべき事柄、(二)神の律法、すなわち掟、(三)人間の救霊のためにキリストが
お備えになりました助け、を述べることになりましよう。即ち、教会の信者は、キリストの
お教えになりましたことを全部信じ、神の律法に従い、キリストの立て給うた恩恵を受ける
方法を用いなければなりません。

青年 
私の講義は一番初歩から始めていただいた方がいいと思います。

神父 
それでは、これからの講義でできる限りのお話をするようにしましょう。
宗教はほかのことと同じように、基礎がなければなりません。そして、
すべて宗教の基礎は、絶対者の認識、即ち全能、至聖、全智、至愛、正義の
神の存在についての信仰です。あなたは神の存在は信じていられますね?

青年 
はい、ですが、神父様、もちろん私は認めているといってよいと思いますが、
その訳を説明する段になりますと、困難を感じます。一番納得のゆく理由に
どんなものがありますか?

神父 
簡単にお話ししましよう。もちろん聖書のどのページにも事実神のことを
述べていますが、聖書を別にしても理由があります。それは、

(一)宇宙は完全な法則に支配されています。
この法則は宇宙の驚嘆すべき秩序を成り立たせています。幾億という巨大な
天体がありまして、その大多数のものは実に電光石火の速さで空間を運動し、
また相互に回転しています。そして、たとえば、自動車が交通信号や交通規則が
あるにかかわらず混乱するのに、宇宙には混乱はなく、一切のものは
(人間を別にして)創造者の課した法則を忠実に守っています。
そうでなければ、私達は大変なことになります。ですが、こういう法則は
自らできたものではありません。法則はこれを計画した至上の叡智、
これを実施した最高の能力を暗示しています。

(二)神信仰は極めて自然的で、常に人類の普遍的な信念です。
万人は理性を備え、周囲の世界は明らかにその製作者に依存して存立していますので、
人の心はほとんど本能的に神に向います。理性のある人で、生れながらの
無神論者はいません。無神論者であるためには、あらゆる時代の人から
離れて、他の人は誤っているのだということを説かねばなりません。こういう人で、
神はいないという確実な証拠を持ち出した人は一人もいません。

(三)神の存在を信ずる方が、神のない宇宙を説明する
ことよりもはるかに楽です。

(四)もう一つの、神の存在の一番有力な証拠は、
私達の内部の声がこれこれの事は間違っているというととを告げ、
また、何か悪いことをしますと、これが平和を乱すということです。
もし神がましまさぬなら、このように心を乱される訳はありません。

青年 
進化論の信奉者にはどういうふうにお答えになりますか?

神父 
植物、動物を含めた宇宙の物質的な一切のものが、本原的な原子とか
気体から緩慢な課程を経て進化したという理論が実際に証明された
のでしたら、教会は彼等に反対しないでしょう。
しかし、この本質的な要素も創られたものに違いありません。
すべて結果には原因がなければなりません。
一番初めのものは無から作られたはずです。これは神だけが
ひとりなし得られるものです。

青年 
霊魂は進化論で説明できないことになりますね。

神父 
たしかにできません。総て結果にはそれ相当の原因があるのですから、
全く霊的な性質の人間の霊魂は、動物とか物質的なものから進化する
ことはできません。霊魂は最高の霊によって始めて創られます。

青年 
私の知人のある不信仰者が自分のことを不可知論者と呼んでいますが、
これはどういう意味ですか?

神父 
神のましますことは否定しないが、神はいますかいまさぬかが自分にはわからない、
という人です。普通この人は、神の掟を守ろうという気持がありませんので、
知ろうとはしないのです。

或るドイツ人(デンネルト)が数年前ベルリンで本を出版しましたが、その中で、
過去三百年間大科学者三百人の中、二百四十三人は神を固く信じ、科学と宗教の
間の調和を認めているといっています。
ハーバート・スベンサーは「この測り知るべからざる力(神)の存在は、
あらゆる真理の中の最も確実なるものなり」と言っています。自ら無神論者で
あると言いましたワイズマンは「創造を反駁することはできない、超自然を
否定することはしりぞけねばならぬ」と言いました。
納得しにくいものはこれをしりぞけるという人がいますが、真理とか事実を
却下することにはなりません。
ミリカン、ジーンズ、エヂングトン、ルメートルのような偉大な物理学者、
天文学者はみんな、全知全能の神を固く信じています。

ですが、神の存在の問題は自然科学の解答すべき問題ではないのです。
科学者の仕事はあるがままの事物やその作用を支配する法則を研究するのです。
その終局の起源については関係ありません。

青年 
その御答えで私にとっては十分ですが、私は神のことがあまり
まだ解っていませんので困ります。

神父 
神の完全さを幾分知ることによって神のことは一番良くわかります。
ます第一に、神は無限に完全な霊であります。これは神は完全な
悟性と自由意思を持っておられますが、物質的なものは何もない
ということです。神は肉体を持っておられません。そして不死ですから、
死に給うことはありません。神はあらゆる完全性を無制限に最高度まで
持っておられます。その存在は他のものによらず、あらゆる点で
自足しておられます。

こういうことは他のものには該当しません。それは、ほかの存在物は
みんなその存在を神に負っているからです。ですから、その所有している
完全性は限られ、依存的です。
その上神は決して変化されません。永遠にまします。
──これは神は過去も未来も常にまします―
ということです。神は至善にましまし限りなき愛であり、御恵みを
雨のように私達に注がれます。神のなし得給わぬものは何一つとしてありません。
神は全能にましますからです。

神は一切を完全に知っておられます。現在も未来も、私達の一番秘密の考も、
言葉や行いも知っておられます。神は私達の肉眼で見ることはできませんが、
どこにもいらっしゃいます。万物を存在させるものは神の御力であるからです。
ですから神は慈愛深い父親として、子たる人間を特別に愛し給い、いろいろなものを
用意して下さいます。この慈愛にみちた神の御心づかいを神の御はからいと申します。
こういう神の御事を考えますと、神は遥かに被造物を超越した、しかも、
私達の一人一人にとりまして、非常に近い御方であるということが考えられますね?

青年 
そう考えられます。

神父 
ところで、私達の理性は、私達の生命の原因である御者、そしてまた
一切の恩恵の源であり、私達が当然お仕えしなければならない最高の
御者の存在を要求しているのですが、実際のところ、神の御本質とか、
神が私達に要求しておられる正しい奉仕とかを十分に知ることが
できないのです。この後の奉仕の方は全く神の御意志に存していまして、
神が私達にこの事を御示しにならねばなりませんでした。これは神の
「御啓示」とよんでいます。神は御自身のことや私達が永遠の生命に
達する為に信じて行わなければならぬことを、いろいろと御示しに
なっておられます。

宗教は私が一個の人間として、又、人類社会の一員として、当然神に
捧げなければならない認識と尊敬を、神にお捧げする本質的に正しい一つの形式です。
総ての人は宗教上のしきたりに従って創造主を認めなければなりません。
神が家族としての全人類によって等しく認められ、また等しく奉仕されることを
お望みになっておられると言うことは、明らかなことだと思います。

青年 
そうです、当然です。

神父 
そこで神はこの目的のために御自身のことを十分に私達に示そうと
お思いになられまして、美しいはっきりした御言葉で、私達に
御望みになっていられることを明らかにされました。


主は最初の造られた人間に、それから後はしばしばその子孫に
御出現になり、そして、世が信頼すべき教師を切実に必要とする
ようになった千九百年の昔、人の形をとってこの地上に御現れになり、
一つの王国即ち、権威を以てあまねく世界の果てまで
主の御啓示を教える教会を、御建てになりました。

ところで、この講義が進んで行くにつれまして、この教会の本質、
その教え、神の掟、人類を永遠の幸福に導くための教会に神のお与えに
なりました手段が判るようになって来ます。
ですが、そこへ行くまえに、神がお造りになりました最初の理性的な
創造物の創造と、これに対する神の御取扱いについて、神の御啓示
(この大部分は聖書の中にあります)はどう語っているか、ということを
見てみましょう。即ち、神はこの可見的な、人間のかりの住いである
世界をお作りになると同時に、天国で主の幸福にあずかる無数の天使を
お作りになりました。天使のことはこれまでによくお聞きになったでしよう?

青年 
ええ、神父様、よく見ました。翼を持った美しい姿に描かれています。

神父 
だが、天使には翼はありません。翼をつける体をもっていません。
天使は人間の霊魂よりも、神の方によく似た純粋な霊です。
人間の霊魂も同じような霊ですが・・・、

青年 
ですが、どういうわけで天使は体と翼をつけているように描くのですか?

神父 
そうですね。体がありませんと、表わすことができません。
私達は目に見えぬ翼を描くことはできません。それから、
天使はしばしば神の御使になって人間のところ
に遣わされるのですが、この場合人の形で現われます。
天上から地上に降ることや神の聖旨を果す早さをよく現わすために、
翼を以て現わされるのです。

青年 
悪魔が堕落した天使であるというのでしたら、これも体がないのですね?

神父 
そうです。悪魔は怖しい形によくかかれていますが……角や岐れた
蹄などを持ちましてね。もちろん、悪魔は自分の堕落のために、
怖しい醜悪なものに変ってしまったのです。
天使が神に忠誠であったために、美しく神々しくなったのと同じことです。
ですから、悪魔はどんなにみにくくかいても描きたりません。

青年 
天使は純粋な霊であるというお話ですが、それだけではどうも
そのはっきりした考えが得られないのですが。

神父 
では、もっとはっきりなるようにしてみましょう。天使は肉体を必要とせず、
また、これを持たないように神がお創りになりました人格です。高い智力と
自由意志を与えられた個体ですから、人格です。そして、そのなりたちに
物質的なものが少しもありませんので、純粋に霊的な人格です。

こういう種類の人格は、他の如何なる被造物よりもはっきりとその創り主の
完全さを反映し、知と愛を通して主の幸福にあずかることができます。事実、
天使のあるものはこの幸福を手にすることができましたが、或る天使はこれを
失いました。神はこういう幸いをその自由な創造物に強いられるということは
ありません。それらの忠誠を御験しになって、その選択をさせられます。
天使達はみんなその生存の始めに試みを受けたのですが、その結果、神と交わって
永遠に幸福に世を送るか、又は神から引き離されて永遠に神にさからって送るかと
いう運命がきまりました。この問題で、或るものは神の御旨を無視し、独立という
傲慢な考えをもって、神から離れ去ってしまったのですが、大多数のものは自分達の
創造主にその運命を託しました。地獄の悪魔と天国の天使とはこうしてできたのです。
みんな天使であるのですが、あるものは忠誠であり、又あるものは堕落したのです。

青年 
彼等天使はみんな等しい機会を与えられていたのですか?

神父 
そうです、すべての天使は等しい機会を持っていました。罪なしに造られ、
天国の生命、神の子供になる自由、主の定め給うた目標である幸福を手にする
機会を与えられていました。
その堕落は自ら好んで地獄という状態を選んだ時に始まったのです。地獄の罰
というものが始めて用意されましたのは、その時からであります。神から
離れようという決心を定めまして、神と神のすべての御計画、さては人間にまで
反対するということになったのです。

ですから、悪魔は神の御許しになる限り、ありったけの力を出して人を神から
引き離そうと懸命になっています。天国の天使は忠実な服従によりまして、
親しく神と交り、永遠に神の御生命と幸福にあずかるようになりました。
彼等は祈りをあげ、主の御使いになり、或いは私達の守護者になったりしまして、
私達の誰も彼もを同じ幸福に導くために、心から神の御計画にあずかっています。
(詩篇90-11、ヘブライ1-14)

青年 
これまで私は天使がそういう深い関係を持っているとは考えたことも
ありませんでした。

神父 
事実、目に見えぬ多くの天使は、私達の周囲にみちみちています。
私達の守護の天使は善行を私達に強いてさせることはできませんが、
その助けはします。人間の力では自分でどうにもならない時は
とくに助けてくれます。悪魔は私達の周囲の悪の世界や、私の心の中の
悪い傾向よりもっと強い力で、私達を罪に誘い込みます。しかし、
悪行を強いることはありません。

聖ペトロが「汝等節制して警戒せよ、そは汝等の仇なる悪魔は、吼ゆる獅子の如く、
喰つくすべきものを探しつつ行廻ればなり」(1ペトロ5-8)と申しましたのは
このためです。蛇に化けた悪魔が私達の最初の先祖に行いました誘惑はこれで
わかりますが、このことは、次の講義でお話しましょう。


目次 02 「人類の堕落と原罪」につづく