”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

”葉簾”と”グリーンカーテン”

2012-05-16 16:05:06 | 生活

 今年の夏も電力不足で「節電」に努めなければならないようである。 ”原子力”だとか ” I.T.” だとかいうような、人間が満足にコントロール出来ていない技術を、その”利便性”のみに誘惑されて勝手気ままに使ってきた「バチ」が当たったのだと思う。 今年の夏も国民こぞって”知恵”を絞って節電にあい努めることとすればよい。
 日本人は不思議と土壇場には強い人種のようである。 戦後半世紀余り何度かの困難に会いながら現にここまでやってきている。
やれば結局”出来る”のである。
 ”原子力”だけではない、”I.T.技術”にしても同様である。 便利だからと無節操に使っていると、そのうちとんだことになるのではないかと危惧している。

 節電がいわれるようになってから世間では「グリーンカーテン」なる言葉が使われ始めた。 今や夏の流行語のようになっている。 国語辞書を調べてみるとグリーンカーテンは”緑のカーテン”と副題がついて説明されている。 説明の中身はわれわれがグリーンカーテンとして認識しているものと変りはない。
 要するに、グリーンカーテンという言葉は辞書にあるのである。 
ところが、”葉簾”という言葉は辞書にない。 国語の辞書にも百科辞典にもどの辞書にも載っていない。 YahooとかGoogleで検索しても出て来ない。 なぜ載っていないのか理解に苦しむが事実なのだからしょうがない。 

 日本語は名詞の前に形容詞を置いて修飾する。 そして場合によってはその修飾された語が新しい名詞になる。 「美人」とか「高山」とか「初夏」というようなものである。 だとすると「葉っぱを使った簾」つまり「葉簾」があっても不思議はないと思うのだが。 「緑のカーテン」などというよりずっと風情があるし、かっこいいし、涼しそうである。
 にがうりや葉簾よりの珍味食む  (2010年夏)
 葉簾を想うてひと日苗植える  (2012年5月)
こんな句を作って、自分で勝手に「季語」のつもりにしているのだが、、、。 「葉簾」は夏の「季語」としていかにも適切だと自分では思っている。 もちろん、世間には通用しない。 

 今年もまたゴーヤの「葉簾」を作るつもりでいる。 それは夏の 「節電」 の一助にもなると思う。


五月雨と若葉

2012-05-15 14:49:05 | 生活

 今日は雨になった。 久しぶりの雨のような気がする。 今年の春は適当に雨も降って”気候”のほうは程良い塩梅に行くのかと思っていたら”夏”になってからどうもはっきりしない日が続いていた。 なんだかそんな気がしていた。 もっとも、ここ3,4日は”晴れ”た日が続いてはいたが、、、。

 菜種梅雨というのはもうとっくに終わっているのだと思う。 暦の上では夏に入ってもう何日にもなるのだから今日の雨ももう”春雨”ではなくて”五月雨”ということになるのだと思う。 
 しかし、五月雨というのは今日のようなしとしとと柿若葉を濡れ輝かせるような雨ではなくて、もう少し”激しい”イメージのもののように思う。 例えば俳句に詠まれている場合でも  
 五月雨を集めて早し最上川 (芭蕉) とか 五月雨や大河を前に家二軒 (蕪村)
のように、”かなりの大雨”を想像させる。

 昔の俳句の中なら五月雨の出水や大水も悪くはないが、現代のように集落の近くを流れる河川はどこも堤防で嵩上げがされて、ところによっては天井川なんてところも少なくないご時世では、「五月雨らしい雨」は余り歓迎したくはない。 「暦」に”ずれ”が生じていて「春雨」と「五月雨」がゴチャゴチャになっているのでちょうど有難いと思ったりしている。 
 
 それにしても今の時期の「一日かけてゆっくりと降る雨」というのは”快い”ものだと思う。 私は好きである。 春、一斉に芽吹いてきた草や木々の新葉が日々大きくなっていき、若葉から成熟した葉になり替わろうとして ”一息” 入れるちょうどそんな時期である。 そんな時期には”大雨”よりも今日のような優しい”しとしと雨”が似つかわしい。 その雨を「五月だから五月雨といわなければならない」というのは野暮だと思う。 これはやっぱり「春雨」、降り残されていた「春雨」だと思いたい。


「惜春」そして「立夏」

2012-05-05 13:05:11 | 生活

 今日はもう”立夏”です。 春は昨日で終わりました。 春が終わるのを残念がってか”行く春”とか”暮の春”とかいろいろの季語が歳時記を開くと見られます。 ”風流人”の目から見ると清楚から爛漫へと変ってゆく春という季節が終わろうとするのが残念至極のことなのかもしれません。 ”惜春”、つまり”春”が惜しいのだと思います。
 その惜しかった春が今年はいかにも短かったような気がします。 梅と桜が殆ど同じころに咲いて、咲いたと思ったらすぐに散ってしまいました。 近所のお宅にある藤の花も今年は花の時期が短かったようです。 モクレンもハナミズキも、ユキヤナギもコデマリも、そしてチューリップやパンジーなどの草花もなんだかあっという間に咲いてあっという間に散って行ってしまったような気がします。

 今年の春は短かったのではないでしょうか。 冬が事の他厳しく長かったので「冬が終わった」と喜んでいるうちに「盛りの春」が過ぎ晩春になっていたというわけです。 その晩春にまた「暑い日」が多かったように思います。 暑い暑いと言いながら晩春を過ごし、気が付いてみたらもう「立夏」になっていました。
 ほとんど”春もの”の衣装は着ずに終わったような気がします。
 私たち”年寄”には春という季節は”そんなもの”なのかもしれません。 はるか昔、あっという間に過ぎていった「青春」のようなものなのでしょう。
 
 しかし、”行く春”を「惜しんで」ばかりいる必要はありません。 今日は「立夏」です。 「夏が立つ」のです。
 庭にも町にも、遠くの里山にも「緑」が輝いています。 万物、乾坤が命の活動を再開し盛んになっていく”初夏”という素晴らしい季節の到来です。 「青春」から「朱夏」への移り変わりです。 ”年寄”だからと縮こまっている必要はないのではないでしょうか。 桜の写真を見直してみましたが、夏の”朱”の前には桜の”桃色”はいかにも弱弱しく見えました。
 真っ赤に燃える「夏」に向かって”お二人さん”もハルを連れて邁進しようと思っています。 過ぎた春に未練を残しません。 「立夏」なのですから。


蛙の目借り時

2012-05-02 11:33:16 | 生活

 朝から雨になった。 昨夜はうっかり閉め忘れて北窓を半分開けたまま寝てしまっていた。 道路側の窓が開いていたからか、明け方のうつらうつらする耳に”シャーッ”という車の轍の音が聞こえていた。
 昨夜の天気予報では夜半から雨になるようなことを言っていたので、半分眠ったままの状態で「やっぱり雨か」と無意識に納得していた。
 しかし、今朝起きてゴミ出しに出てみたらまだ降りだして間が無いといった感じだった。 だとすると半覚醒の状態で聞いたあの轍の音はどういうことになるのか、などと思いながらゴミ袋を所定の場所に出して戻った。 そしてそれからのことは忘れた。

 このごろはよく”ものごと”を忘れる。 よほど注意をしているか或いはインパクトが強くないと前日のことも忘れてしまう。 だから昨年の後半ごろから毎朝前日の夕食の献立を記録するようにしている。 昨夜の夕飯に何を食べたかを忘れそうなのである。 さすがにまだ「夕飯を食べたこと」を忘れるほどのことはないので、そんな状況も「齢のせい」にして納得している。
 厳寒の冬にもそんな状態だったのが、何の変化も無いままに”春”という季節に入り込んでしまった。 「蛙も人の目を借りて鳴き出す」という。 そんな季節は今頃のことを言うのだろうか。 それとも田んぼから蛙の合唱が聞こえ始めるもう少し先の季節を言うのだろうか。 我が家の辺りでは南側のJRの線路向こうが田圃になっているので時期になると蛙の合唱が聞こえてくる。 そして、今でもときどき庭で雨蛙が鳴くのが聞こえる。

 朝から雨に降りこめられてハルのオシッコにも出られず、お風呂にトイレマットを敷いてそこでオシッコとウンコをさせたり、連休の中日だからと毎週通っているプールの営業状況をネットで調べてみたりして、「今日は連休中日で無料開放の日になっている」ことなどを知ったりしては、眠さもまた増してくる。
 毎日が日曜日の”年寄”が連休中日の混雑する日に出かけることはない。そういう日は日ごろ忙しく働いている”現役の人たち”に譲るべきだと思ったりする。 

 週に一回のプール通いも止めで、雨だからウォーキングにも出られない。 眠気を飛ばすには妻と買い物にでも出かけようかなどと思っていると、妻は「美容院へ行ってくる」と告げてきた。 眠気はまたつのってきた。
 「買い物は午後にしましょう」、妻も”髪のカット”でもしてシャキットしたいのだろうなどと思いながら「ハルー」と呼んでみたりしている。 さっきまで足元に居たハルは今はどうやら台所のほうで独り遊びしているようである。 それとも寝ているか、、、。 ハルも今日は雨に降りこめられて退屈しているに違いない。 

 寒くもなく暑くもない、居眠りするにはちょうど良い陽気である。 「蛙の目借り時」という”季語”には今日のような 「しとしと降りの雨」 の要素を含めてみてはと勝手に思ってみたりしている。


庭で焼き肉

2012-05-01 15:35:27 | 生活

 姉たちがやってきた。 寒かった間はお互い齢でもあるしわざわざ行き来することもないと思っていたが、桜も終わり急に温かくなったので早速姉から電話がかかってきた。
 娘を嫁に出した母親が娘のことを気にかけるように、姉は我が家のハルのことを気にかけている。 ハルは姉が懇意にしている”鳥獣店”から我が家に来た。
 ペットショップではなく”鳥獣店”
である。 ”そんな時代”から姉はその”鳥獣店”と懇意にしてきていたというわけで、そんな”古色蒼然とした鳥獣店”からハルはわが家にやってきたのだった。
  つまり、我が家の飼い犬”ハル”は
姉の紹介で買ったというわけである。 だから、犬好きの姉にしてみればいつまでも気になるのである。 月に一度くらいは見にくるか電話がかかってくる。
 その姉がその上の姉と一緒に自分の飼い犬を連れてやってきた。 三女が次女と一緒に小犬の入ったバッグを提げて来たというわけである。

 姉が「ハルを見に行きたい」と電話をしてきた時、妻は「それじゃあ縁側で焼き肉パーティーをしよう」などと話しているのを聞いていた。
 妻は以前から、つまりまだ寒かった頃から私に、「季節が良くなったら縁側で焼き肉をしよう」と話していた。 若葉の季節になれば垣根の木々も繁ってくるから裏の駐車場からも、その向こうの道路からも縁側の様子はほとんど見えなくなる。 垣根の傍らへ来て覗きこめば見えるがそんな物好きな人はないと思えばいい。 ”町中の一軒家”というのはそういうことをするには都合がいい。 
 最近の家は”高気密高断熱”などといって家の中はどこも密閉性が高い。 我が家も6年前に建て替えたのでやはりそのたぐいである。 だから家の中では“焼き肉”などとうてい出来ないのでお二人さんは久しく”焼き肉”をしていなかった。 昔はよくやったものだった。


 私たち”お二人さん”は若い頃(50代のころまで)、毎年夏には犬連れでキャンプに出かけていた。 だから、”野外クッキング”が好きである。 いつも焼き肉をしていたわけでもないが、キャンプの時には”焼き肉料理”が楽しくて美味である。 数日間キャンピングに出かけると少なくとも1回は焼き肉をしたものだった。 当時は2匹居た犬たちも”お相伴”にあずかれるので喜んだ。

 狭い庭でも庭の若葉を眺めながらのバーベキューは楽しいだろうと思った。 三女の姉も昔は”アウトドアー派”だった。 何回か夫婦一緒にキャンプ旅行をしたこともあったので妻の提案はすぐにOKということになり、その上の姉を誘ってやってきたというわけだった。

 幸い、天気にも恵まれた。 四月の末とは思えないような”夏日”で風も無く、”野外パーティー”にはうってつけの日だった。 車で10分ぐらいのところに”焼き肉料理店”があり、その店が我が家に近い所で”焼き肉材料”を専門に売る店を何年か前に開いていた。
 その料理店の方へは昔は二人でしばしば食べに行ったものだったが「飲酒運転」の取り締まりが厳しくなってからはまったくと言っていいほど行かなくなっていた。
 その店が”材料店”を開いたので一度買ってきて家で焼き肉をしようと話していた。しかし、上記したように家の中ではボウボウと煙らせて焼くわけにはいかない。 だから”外で”ということになるのだがそのタイミングが難しい。 

 まず、”夏に”と思うが、町中の家の夏の庭は蚊が多くてとても焼き肉どころではない。 ”秋に”といっても秋は結構遅くまで蚊がいる。 それに秋という季節は焼き肉にはなんとなくそぐわない。 冬は寒いし、結局”春”それも「桜が散って若葉が出てしかも蚊が出てくる前」の時期しか庭先での焼き肉パーティは無理ということになる。 そして今回は”お二人さん”だけでは無く、我が姉たちも混じって”お昼どき”にやろうというのだったから、先日のような「お天気」に恵まれたのはまったく幸いだった。

 家でやれば”焼き肉”も安くできる。 お店へ食べに行くのに比べれば半分以下の費用で出来る。 運転を気にすることも無くビールも飲める。 妻には少々洗い物やかたずけ仕事といった雑用が残るが、焼いたり煮たりという”調理”の必要はない。  焼き肉は食べる者が自分で料理する。 近くに材料店がある我が家の場合などまったく都合がいい。 なにしろ”焼き肉店”で食べるのとまったく同じ材料を、しかも調味して売ってくれるのだから有難い。 本当に「久しぶり」に姉と一緒に”外での焼き肉”を楽しむことが出来た。
 昔一緒にキャンピングに行っていた姉の夫が死んでからもう13年になるということだった。 お二人さんもそして姉たちも”齢をとってきた”のは当然である。
 午後3時過ぎて、「あと何回こんな”焼き肉パーティー”が楽しめるだろう」、そんな冗談を交わしながら姉たちは帰って行った。