”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

敬老の日の意味

2015-09-24 10:04:18 | 生活

 9月21日は敬老の日だった。 ”敬老”とは「老いを敬う」ということである。 しかし、昨近の”老い”を取り巻く情勢はなかなかもって複雑を極めてをり、すんなりと老いを祝ったり敬ったり出来る雰囲気ではない。 当日の新聞によると、80歳以上が1000万人を超えたという。 これは大変なことである。 国民の12人に一人が80歳以上ということになる。 12人に一人も祝ったり敬ったりするのは無理である。 それに、年寄りたちも多くは高齢を祝ったり敬ったりしてほしいわけではない。 年寄りの多くは「ほうって置いてほしい」と思っていると思う。 何しろ最近は高齢者が商売の絶好のターゲットになると思ってか、やたら、長生きだの老後だの老いの過ごし方だのとやかましすぎる。 

 12人に1人も80歳以上が居れば老人の医療費が高くなるはずである。 医療界ももう命を永らえさせることに労を費やすのは止めるべきである。 若者は死なないようにするべきだが、年寄りはむしろ適当なころ合いで安楽に早く死ねるように研究するべきである。

 厚労省の役人諸氏も考え方を改めるべきだと思う。 医療費医療費と騒ぐ前に「よりよい一生の終わり方」について考えてみる方がよっぽど有益だと思うのだが、、、。 しかし、この場合、議論の場に医療関係者は加えないことガ肝要である。


「夏惜しむ」

2015-09-22 12:02:40 | 生活

 昨日、東窓のゴーヤ棚を落とし、今日、北西角のトマトの株を撤去した。 これで今年の夏の痕跡はすべて取り去った。 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、彼岸の頃までは何かと夏の名残が残っている。 わが家のように細君が欲張りの園芸好きであると、そうした名残は家の周りの植物のありように顕著である。 

 今年の夏はゴーヤとミニトマトそしてシシトウが沢山採れた。 夏場のみならず立秋が過ぎてからも少しずつではあったが実を提供してくれた。 倹約家の妻はそんな古株を大事にしていたが、彼岸ともなるとさすがに「これ以上」とは言えなくなり撤去に同意した。 人の気持は勝手なもので、初夏にはあんなに出来上がりを待ち望んだグリーンカーテンも、9月も中旬に入ったころには少々鬱陶しい存在になりかけていた。 毎年のことながら人の気持の身勝手さにはあきれることしきりである。

 今年は、落としたゴーヤ棚から蔓を外しながら未だ5個も実を採ることが出来た。 これまでの数年は棚の撤去時期にはもう実は着けていなかった。 今年は本当に豊作だった。 それももう終わり、残った”成りもの”は柿とミカンだけになった。 大根の芽ばえがそろってきた一坪菜園を眺めながら、夏から秋への季節の移ろいを体感している昨日今日である。


”潔く死ぬ”ということ

2015-09-19 13:59:40 | 生活

 妹が死んだ。 末期の癌だと告げられたのが8月始めだった。 末期だからとすべての治療を拒絶してホスピスへ移り9月の11日の夜に死んだ。 なんともあっけない一生の終わりようだった。 しかし、潔い死に方だったと思っている。

 8月の半ば、妻と見舞いに行った時にはもう打ちひしがれた様子は見せず、むしろ「ボケて娘に面倒をかけることが無くて逝けるから有難いと思う」などと言っていた。 若いころから勝気で意思の強い妹だったが、最後まで泣きごとを言わず自分の思いを貫いてに逝ったことには感服した。

 過剰医療が言われるようになっているが、本人の意思が明確で強固なものであれば、医療サイドの意向にのせられて過剰な医療を受けるということはないのだと思わされた。 妹は常日頃から自分の長女に「自分の最後のありよう」についてはっきりと指示をしていたのだという。 そして、末期の癌だと告げられたときには即座に”すべての延命処置”を医師に断ったのだという。 

 ”終活”だとか”死に支度”だとかいろいろ言われているが、要は本人の”気構え”しだいなのだと妹の死を見ていて思わされた。 死に際して、未練や躊躇をもたないことが大事だと思う。 死を「無への回帰」と思うか、「来世での復活の始め」だと思うか、思いようは人それぞれでいいのだと思うが、要は「けつをまくって思いきれるか」ということだと思う。 その為には強い”憎悪”か”諦観”かあるいは”恋情”か”敬愛の情”のようなものが必要なのではないかと思う。 妹はどうだったのだろうかと思い巡らしている。