”お二人様の老後”


 年寄り夫婦の”日常”や”戯言”そして”泣き言”を書き連ねてみます。

犬との”関係”

2011-06-20 15:16:48 | 生活

 ”お二人さん”の飼い犬 ”ハル”は色々なことをして遊ぶ。 いま生後6ヶ月、そんな仔犬には「この程度の遊び」が普通なのかどうか、大昔のことは忘れたのでよくは判らない。
 自分独りで遊ぶ時はプラスチックと木の”噛み棒”が気にいっているようである。 私たち”お二人さん”と遊びたいときは犬用の”ボール”で、家の中で投げてやるとそれを咥えてきては私たちのどちらかの側へ転がす。 そしてまた投げよと「遊び」を催促する。 仔犬にしては”賢い”しぐさのように思ったりしている。
 投げてやると思い切り突進していって咥えて戻ってくるのだが、その先がもう一つ理解できない。 くわえたまま離さない。 咥えているのを手で引っ張って「離せ」と言っても離さない。 ガンとして抵抗する。 取り上げようとしないで持ってきたことを褒めてやっていると離して転がす。 
 
 他にも小さい頃から遊んでいた、ゴム製の押すとピーピーと音がでる玩具が「お気にいり」である。 それを私たちのどちらかが持っているのを見ると、猛烈な勢いで取り返しに来る。 「これは絶対に私のもの」と思っているようである。
 そんな時には素直に返してやる。 ハルにも独占できるものがあった方がいいと思うからである。 何でもかんでも「与えられる」「やらされる」「否定される」ばかりでは可哀そうである。 しかし、近頃、つまり6ヶ月に入った頃から特に「自己主張」が強くなってきた。 

 ”人と犬の関係”はどうあるべきか。 これまで三十数年間も犬とともに暮らしてきたのだが、「犬との関係」についてことさら意識したことは余りなかった。 いつも一緒にいて、同じように想ったり感じたりしているものだと思っていた。 特別「思っていた」と言うほどのことでなく、そんなものだった。 
 
 ところが、”ハル”が来てから、そしてハルが成長するにつれて、”お二人さん”と”ハル”の関係を“意識”するようになった。 今のお二人さんにとってはハルはチョット違った”違分子”的な存在になっている。
 その一番の違いは”エネルギー”である。 ハルはなにしろエネルギッシュである。 今月の始め妻が獣医の前でハルを抱いていて転び、それ以後まともに歩けなくなったので一緒に散歩にも行っていない。
 それで、
もっぱら私が散歩させているのだが、始めのうちはそれまでに行ったことのあるコースだけしか行かなかった。 妻が一緒だと”新しいエリア”や”新しいコース”を開拓していたのだが、私だけになった当初はなぜか”それ”ができなかった。

 しかし、ハルは日に日に成長する。 いつまでも同じ散歩コースでは運動量が不足してくる。 だから、家の中を全速力で走り廻ったりする。 その早さは昔いたマルチーズのアキとは全然違う。 プードルは脚が長いせいか、なにしろ早い。 疾風のように駆け抜けていく。 ”お二人さん”は唖然として見ているだけである。 しかし、それでは”飼い主”としてのメンツが立たないので、頑張って「散歩の範囲」を無理に広げさせたりしている。 近頃ようやく「知らないエリア」にもついてくるようになった。
 時々近所の2歳と4歳の兄弟(これは犬ではなくて人間の子供)が遊びにくるが、そんなとき、4歳の兄には手加減するが2歳の弟には思いっきり「かかって」いく。 弟のことは見下しているようである。 犬は仔犬でも人間を「値踏み」するようである。

 昔、私たち”お二人さん”の「通念」では、犬は人に飼われているもので犬は人に従うものだった。 我が家でもこれまでの犬たちはそうだった。 飼い主の指示命令には絶対に従った。 ところが、今度の”ハル”はちょっと様子が違う。
 飼い主が年寄りだからと侮っているのか、犬の犬種がプードルという「気位が高い」犬種だからか、理由は良くわからないが”ハル”は今までの犬たちに比べると飼いにくい。 ”かってツンボ”を決め込んだりする。 

 それと、ペットとしての犬の「ありよう」も変ってきている。 ”2年半”犬と離れていた間に”犬”たちは変ってしまった。
 犬は「飼い犬」ではなく、「ペット」になってしまっているようである。 自分で小型犬を飼っておいていうのもおこがましいが、飼い犬はほとんどが小型犬になってしまった。 大きい犬を連れている人は以前に比べて少なくなった。 そして飼われている小型犬も「伴侶」というよりも「愛玩物」のようで、特に都市部に至ってはその傾向が顕著である。 要するに「犬の飼い方」がかわってきているようである。

 「飼い方」が変るとともに「犬そのもの」も変ってきている。 住宅地で、そして室内で”飼い易い”ように犬の性質が変えられてきたようである。
 そして「犬を取り巻く環境」も変ってきている。 ドッグフードも、獣医も、トリマーなども2,3年昔とは変わってしまった。 そんななかで”お二人さん”はプードルの”ハル”を飼い始めたのである。

 狂犬病の注射も登録もまだ終わっていない。 トリマーにもまだ一度も行っていない。 三度目の予防注射を受けに行った獣医さんは「プードルは手入れを怠ると五右衛門のようになる」と言ったが、”行きつけのトリマー”を作る気はない。 妻もシャンプーやカットは出来るうちは「自分でやる」と言っているし、私もプードルカットのプードルよりは五右衛門のような小型犬のほうが連れて歩くにも心地よい。 
 近いうちに狂犬病の予防注射と登録などで獣医には行っても、トリマーには多分行かないと思っている。

 ”お二人さん”と犬の関係は、犬を取り巻く「いろいろ」が変っても、お互いに「伴侶」でありたいと思っているし、飼い犬を「ペット」のように「愛玩する」ということはできないと思っている。 犬は「飼い犬」であって「ペット」ではないと思っている。
 この「思い」だけは変りようがない。


”原発”を止めるということ。

2011-06-16 11:07:54 | 生活

 原発を止める止めないで世界が騒がしくなってきた。 ”止める”という人々に「将来の展望」はあるのだろうか。 ”推進する”という人々にこれは安心だという「確信」はあるのだろうか。 どうもどちらもあいまいで”ムード的”なものや”功利的”なものに思えてしょうがない。
 
 ”やめる”にはかなりの覚悟が必要だと思う。 現代の物質科学文明は電気なしには考えられない。 それを”良し”とするならば、そしてそれを手放せないのならば、原子力に代わるエネルギー源を見つけなければならない。
 化石燃料は有限で先が見えている。 風力、水力、太陽光、地熱などなど自然エネルギーは”考えられる”が「今すぐ」には原子力の代替にはならない。
 ということは”やめる”ためには現在の”文明のありよう”を何十年か昔に戻さなければならないだろう。 「古き良き時代」に戻ってみるというわけである。

 ”推進しよう”というならば、考えられるあらゆる危険性にも対処できるような”知恵”と”知識”と技術”が必要である。 しかし、それを獲得することは不可能であることは「福島の事故の現状」が物語っている。
 「FUKUSIMA」をコントロールできないということは現代の人類には「原子力を扱う」技術も知恵も無いということである。 それは、日本だけの問題ではなくて「世界の問題」なのである。 
 一昨日のテレビで「福島問題」の発生初期のアメリカの日本に対する対応がどうだったかということを報じていた。 それを見ていて「日本はアメリカの属国なのか」という思いを抱かされた。
 「ただちに」「明確に」情報をアメリカに伝えなかったことを、なんだか日本政府の「落ち度」であったかのように言われていたが、自国民にも知らせられなかったことがどうして外国に知らせることができるのか。 それも「先んじて」である。
 ナンセンスとしかいいようがない。 しかし、その程度の協力とか協調とかしか人類は「未だ持ち得ていない」のである。 要するに、原子力を「制御、認知」する能力(哲学も含めて)が人類には無いということである。

 だとしたら、推進するなどということは「危険極まりないこと」である。 原発の事故はいくらでも起こりうる。 地震や津波などの自然災害だけではない。 事故の原因はいくらでもあるし、考えられないようなことだって起こりうる。 そうした「常軌を逸した」状態になった時に「その状況、状態」をコントロールする”術”を身につけるまで原子力には手を付けないことである。

 そこでまた、だとしたら、私たち人類は現在”使っている”技術の何割かを切り捨てる他に道はない。
 われわれは余りにも多くの技術を”使い過ぎて”いる。 身につけすぎたのではなく、ただ「使っている」。 その多くはあっても無くても良いようなものである。 多くが「人のための技術」ではなくて「技術のための技術」になってしまっている。

 ”技術”が「人を幸せにした」時代があった。 そのころ人々はものを創る”技術”の開発に喜びを覚えていた。 そして”技術”が作り出す”もの”を手にすることで大きな幸せを感じた。 そんな時代があったように思う。
 そんな時代に戻ってみようと思えばいいのではないだろうか。 電気洗濯機や電気炊飯器、電気掃除機や電気冷蔵庫、そしてテレビや電話、自動車やエレベーター などなど、それができた時には多くの人々が「救われた思い」をしたものである。 しかし、その後何年か経って「技術」とか「ものつくり」とかが人の幸せからだんだん乖離して行っているように思えてならない。 

 私たちは、そうした「技術」や「もの」のなかから、とりあえず必要としないもの、無くてもいいものを選び出して「手放してみる」ことが必要なのではないだろうか。 
 「原発をやめる」ということのためには政財界のみでなく、広く一般国民の「覚悟」が必要なのだと思う。 そしてそれは「我慢」と「工夫」そして「努力」、これに挑戦さえすれば出来ることのように思うのだが、、、。
 「原子力は無くなってしまったもの」と思えばいいのである。


犬の成長

2011-06-13 10:27:23 | 生活

 犬は人間の数倍の速さで齢をとるといわれるが、実際に仔犬と生活を共にしているとそれを実感する。 昨日は跳べなかった段差を今日はさっそうと軽々と越える。 昨日は判らなかったことが今日は判ることができた。
 そんな極端なことではないがそれに近い変化を毎週のように目にしている。 だから愛らしくも頼もしくも思える。

 ”ハル”は今ちょうど二度目の変化の時を迎えているようである。 生理的にも、精神的にも6月に入ってから目立った変りようを見せている。
 5月に入った頃、急に食が細くなった。 それまでは催促するようにして待っていたフードを、一息に器から顔を上げることもないくらいにして食べていたのが、フッツリと食べなくなった。 食べたかと思っても、半分近くを残したりしていた。 
 そんな時期もあるとは聞いていたが、あまり食べないのは気になる。 しかも生後5カ月の成長期である。 妻は「今は食べるだけやってればいい」と言っていたが、私があれこれとフードだのおやつだのを買ってくるので、「それじゃあ」と言いながら鶏のササミをボイルした。 それを少しずつ小分けしておき、その一つずつを細かくちぎってドッグフードに混ぜてやることにした。
 それでなんとか二分の一カップのドッグフードを一日かけて食べるようになっていたが、近頃は朝やった分を午前中に、夕方やった分を8時ころまでに食べてしまうようになった。 また食欲が戻ってきた感じである。

 精神的な変化も面白い。 先月までは名前を呼んでも「自分にとって都合の良い時」だけしか寄ってこなかったが、近頃はブラッシングなどいやなことをされるのが判っていてもしぶしぶこちらの顔を立てるように寄ってくる。 
 散歩の時も、以前は引かれるままに一度通って憶えている道は素直についてきたが、近頃はよその飼い犬に吠えられて”怖い思い”をしたような道へはついて来ようとしない。 縄張り意識が芽生えてきたのかもしれない。
 それと、電柱の根元の嗅ぎ方にも変化が出てきた。 昔はどれもこれもみんな手当たり次第に嗅ぎまわっていたが、近頃は嗅ぐ電柱と無視する電柱というように区別ができてきた。 また、雌犬なのに「マーキング」をするようになった。

 あれこれとハルの変化について書いたが、犬の成長に伴って「変化」が現れるのは当然のこと、あたりまえのことである。
 特記したいのは、40年近く犬とともに暮らしてきた”お二人さん”が、今更のように仔犬の成長ぶりに「一喜一憂」しているというそのことである。
 以前飼っていた犬たちが小犬だった頃のことなどまったくと言っていいほど忘れており、”ハル”の成長ぶりを眺めながら今更のように昔を思い出したりしている。
 「経験済み」だとか「承知している」とかいうことが、
いかに「あいまい」なものかということを実感している今日この頃である。


熱いうちに打て

2011-06-11 15:06:08 | 生活

 大震災からもう3か月が経った。 しかし、テレビも新聞も「大震災関連の記事」を報じない日はない。 いつまでも「ニュース」であり続けられるのは、震災の”瓦礫”も福島の”原発”もいまだに「メド」がたたないからである。 「復興」など到底及びもつかない。
 民主主義のもとで民主的にことを”処理”していこうとするとどうしてもこうなるのかもしれない。 誰かがいつか言っていた。 「民主主義というのは面倒で廻りくどいものだ」と、、、。 そのとうりだと思う。だから間違いが少なくていいということになる。

 ところが、「非常時」というようなときには”対応”が遅くなる。 その「制度的矛盾」を政治家諸氏は「政局」に利用しようとする。 だから、「指導者が悪い」ということになる。 前代未聞の初めてのことに対処するのである。 誰がやっても難しいことだらけだし間違いも起きる。 それをいちいち誰かのせいにしていてはそれこそ”埒”が開かない。
 ”超法規的な手法”が使えないでもなかろう。 政府には「権力」があるのだから、こういう時にこそ”使う”べきではないだろうか。

 役人も、前例とか法律とか制度とか言っている場合ではなかろう。 被災地では「一向にラチがあかない」ことにいらついていると思うが、”被災地の外”ではそろそろ飽きてきつつあるのが”実情”だと思う。 切実な現実でない限り、人は忘れ易いものである。 だから、忘れないうちにやるべきことはやってしまわないといけない。
 
 「復興」のためには”金”が要る。 その金は”義援金”などでは足りっこない。 とすれば、「公の資金」を使わねばならないことになる。 公すなわち”国の金”とは”税金”である。 だから結局は「国民負担」ということになる。 

 「復興特別税」にするにしても、期間を決めての「消費税増税」にしても、「時」が経てばどんどん難しくなる。 原発の保証問題にしても然りである。
 当初は”きのどく”に思い、「援助、協力しなければ」と思っていても、時が経ってしまうと「なんで」「どうして」という気持ちが芽生えてきてしまう。

 原発の問題など、沖縄を除く全国民がその利益を享受してきたのだから、”根源的”には全国民が責任をおうべきだと思う。 しかし、「原発問題」に馴れてきて、熱が冷めてくると「関係ない」と思う人が増えてくると思う。 増税などは手っ取り早く、みんなが”熱して”いるうちにやらないと出来ることもできなくなる。
 どっちにしても、何をやっても、文句を言われ非難をされるのだから「震災の熱」が冷めないうちに、”保身”など考えずに手っ取り早くやるべきである。 権力者個人も、政党もである。


政治家の常識

2011-06-05 14:35:49 | 生活

 内閣不信任案をめぐっての政界のありようを見聞きしていて、まったくこの国の政治家諸氏の「頭の中」と「心の中」はどうなっているのかと呆れさせられる。
 見ようによっては「中学生に劣る」ともとれ
る現状である。

 言いたいのは、菅首相が「一定のめどがついたら止める」と言っていることに対する「めど」の解釈のしようのことである。
 「めど」とは”
メド”のことで”目途”である。 こんなのは常識の範疇である。 それが国会議員の諸氏には「判らない」らしい。 判っていても判らないふりをしているのかも知れない。 どちらにしても「現状」は”嘆かわしい”かぎりである。

 ”メディア”の論調もおかしい。 新聞テレビみなこぞって「菅下ろし」に協力しているかのようである。 「いつ辞める」とか「早期辞職」だとかいって国民の考え方を「止めるのが当然」の方向に導こうとしているかのようである。
 N.
H.K.は政界につながっているし、民法も新聞社も「財界」と無関係ではいられないだろうから、「菅民主党」はそろそろ”目障り”になってきたのだと思う。 だから「菅下ろし」の”旗振り”をする。 「めどということ」が判らないふりをする。

 ”メド”とは極めて判り易い言葉だと思う。 ”目途”が付いたら辞める。 というのだから、 震災にかかわる色々なことの「先の見通し」が付けば辞めるのだと思う。 庶民的の”理解”からすればそういうことになるのではないか。

 それなのに、「目途が付くのはいつか」とか「めどとはどういうことなのか」と、わけのわからないことを声高に叫んでおられる。
 「めどとは何か」「めどがつくのはいつか」など、それが判るならばもう「めどはついている」のである。 

 民主党も、野党も、マスコミも、財界も要するに「菅さんが”目ざわり”になってきた」のだと思う。 この国の民主主義なんてのは「その程度のもの」なのである。


やっぱり ”罰” だ。

2011-06-02 09:55:52 | 生活

 鬱陶しいお天気が続く昨今、新聞やテレビのニュースも鬱陶しいものばかりである。 さらにそれに上塗りするかのように「内閣の不信任案」が出たという。 まったく、政治に携わる人たちは何を考えているのやら、気持ちが沈んでついこんなことを考えた。

 震災のすぐ後だったと思う。 東京都知事の石原さんが「東北の大震災は罰が当たったのだ」というようなことを言ったと記憶している。 当時は色々と物議をかもした発言だったが、いつしか忘れられていた。
 それなりに”深い意味”があっての発言だったのだと思うが、当時は、それなら「なぜ東北でなければならないのか」という想いがしていた。 公人が、しかも要人が、
あの時、軽々しく口にすべき言葉ではないと思ったような気がする。

 ところがである。 震災は「福島原発事故」という思いがけない災難に繋がっていってしまった。 そして事故以来の東京電力を始めとする日本の科学技術界の対応はなんとも説明がつかない「悲惨な状況」になってしまっている。 日本政府はもとより原子力発電というものにかかわっている世界の全ての国が総力を挙げて「早期の収拾」に努めなければならないのに、それが出来ない現状である。
 どこにも「それを行なう技術も知恵も力も無い」のが今の世界のあり様なのではないだろうか。 「こうしたら改善する」とか「これなら確実に収拾出来る」というようなことは誰にも判らないのが現状のようである。
 そんな現状を毎日のように見聞きするにつけ、「震災」、ことに「福島原発事故」というのは、コントロール出来ない「未熟な技術」を、いかにも”知りつくしているもの”のように扱ってきた人間の「驕り」に対する「バチ」なのではないかと思うようになってきた。

 ”原子力”というものは未だ”人間の手に負えない”ものだったようである。 その一部分だけを”知り”都合のいいところだけを”利用してきた”のが今の世界の「原子力技術」なのだと思う。
 だから、ひとたび「既知の範囲」を飛び出すと”それ”をコントロールする術が判らない。 「I.T.技術」に似たところあるように思う。 ”それ”をつかっている人が”それ”を良く理解してはいないという「ありよう」である。

 そのような「得体の知れない怪物」を、国と経済界そして学会がいかにも「優れもの」であるかのように喧伝し奨励してきた。 そして国民も“わけがわからないまま”にそれを追認し利用してきた。 その”利便性”を享受してきた。
 そして今回、思いがけなく”震災”によって、「安全である」と言いそして信じてきたものの本質が露見してしまったというわけである。

 I.T.技術同様に、われわれはそれを信じ過ぎたり頼り過ぎたりしてはならないのだった。 目新しさや快適さ、経済性や効率の良さなどに目を曇らせて、やみくもにそれに向かって猛進しすぎた「ばち」が当たったのである。
 罰を受けたのは東北の人だけではない。 日本人の全て、さらには原子力を手にしている全ての国の人々に「罰」は当たっているのだと思う。 目前に提示された「節電」とそこから派生する「不便さ、不都合さ」がその「バチ」である。 

 われわれは生活を贅沢にし過ぎている。 ほんの数十年前を振り返ってみれば解る。 現在と比較してみると、随分と不便で、不快で、危険な生活をしていた。 それでもみんな生きてきた。
 原発を止めることによる「電気の供給不足」が喧しく言われているが、現代の私たちは「供給の不足」よりも「需要の過剰」を言うべきではないかと思う。
 ”節電”とか”省エネ”とかいう次元ではなく、電気を使い過ぎ、贅沢になり過ぎている今の「社会のありよう」を政、官、財、学などのあらゆる分野から見直していく必要があるのではないかと思う。

 トイレは臭いところであっていいし、ウンコをした後の尻はお尻の具合の悪い人でなければ自分で拭けばいいのである。 夜は暗いのが当たり前であるから不夜城のように町を明るくすることはない。 電話は固定でも構わないし、歩きながら電話などしない方がいい。 夏は暑いのが当たり前であるから冷房冷えが起きるほど冷やさなくてもいい。 扉は自分で開ければいい。 階段だって達者な人は登ればいいのである。 われわれはいつの間にか「ほどほど」ということを忘れてしまっていたように思う。 
 あまり贅沢しすぎていると「もっと大きなバチが当たる」ことになってしまうかも知れない。 

 また、「出来もしない」し、「やりもしない」だろうことを思いつくまま書いてしまった。 しかし、思うだけでもなにも思わないよりはましではないかと思う。 思っていれば少しは”まし”なことができる時があるかも知れない。
 人にとって、快適さや贅沢はどの程度まで認められるべきなのだろう。 人間の寿命や長生きが、どのあたりまで認められるべきかが判らないのに似ているような気がする。