自民党の独断専横によって共謀法は参議院も通過してしまった。 何日のことだったか確認してみる気もしない。 日本という国の国民の将来に於いて”この日”が”痛恨の日”となることが無いようにと祈らざるを得ない。 10年後か、20年後か、30年後か、その未来はいつになるかは判らないが、いつかきっと来るという怖れを禁じ得ない。 今はほとんど皆が「そんな日はもう来ない」と思っている。 昭和の大戦前のようなあんな暗黒時代の繰り返しは”もうありえない”と信じようとしている。
それもまんざら夢物語ではないかもしれない。 まだ、信じても良いのかもしれない。 なぜなら、日本には日本国憲法があり、国民ひとりひとりは個人として護られているからである。日本国憲法がいう主権在民、基本的人権、平和主義などの理念は他の諸法の規定よりも上位の概念として存在する。 基本的人権によって個人が個人として守られるならば ”不条理な共謀罪” は存在しえない。 日本国憲法が日本国民に対して保護する諸権利を権力が犯そうとすれば、事件の個々について権力は違憲裁判と対さなければならないことになるだろう。 大戦前の時はこうした憲法はなかった。 個人の尊厳などなかったし個人の自由もなかった。 国民は天皇の臣民であり、”公”である国家は常に”私”である国民よりも上位にあった。 国政は国民の手の届くところにはなかったのである。
日本国憲法のすばらしさは9条だけではない。 前文から各条文にいたるすべてに含まれている「人が人として在り、人が人とした生き、人が人として死ぬ」ことを擁護する思想、そのすべてが素晴らしいのである。 われわれ(政府と国民)は共謀法での間違いを再び憲法でも犯してはならない。 庶民すなわち大多数の国民にとっては、「憲法こそが最後の砦」だと思うのである。 この憲法があるかぎり「共謀法が戦前の”治安維持法とその運用”のようには成り得ない」と思うのはオプティミストの夢物語に過ぎないのだろうか。
ーーー政治家でも学者でも評論家でもないただの市井の年寄りが、なんとも曖昧な知識と考えでもって書きなぐった文章である。 真実のほどは責任を持てない。 しかし、作文に込める”思い”だけは本物である。ーーー