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堂頭内寮@Net

―「叢林@Net」堂頭和尚の雑記帳 ―
行雲流水の如くの日常を書き綴るぷらいべーとな内寮日誌♪

「か○りちゃんシンドローム」雑感

2007-01-18 02:15:24 | 社会問題

先日、ネットを徘徊していたら、あるサイトに 「か○りちゃんシンドローム」 なる言葉を見つけました (※○字部分は筆者が伏字

皆さん、この「か○りちゃんシンドローム」って、何だかご存知ですか???

そのサイトによると、この言葉はある2ch系の社会学サイトから派生した新種の隠語とのこと ―。

以下、その内容を抜粋・要約して載せておきます。

「か○りちゃんシンドローム」とは、人生のあらゆる物事を唯物論的な価値観でしか計れず、精一杯背伸びをしながら自らの人生を飾り立てる、究極の自己中心型人間を指して言います。

例えば結婚相手を選ぶ基準であっても、高価なブランド品を選ぶ基準と全く一緒で、ブランド(高学歴・高収入・高容姿な男性)を手に入れることで妻としての自分を満たしていく様な傾向があります。

この様に、背伸びをした「虚構の世界」でしか自分自身を表現できないのが特徴の一つであります。

その他の特徴としては、その虚構で塗り固めた人生を維持するために、時として人の生命をも厭わない危険な一面があるという事です。

そう、それは家族や身内であっても例外ではありません。

あなたの周りにもいませんか? 危険な×2、か○りちゃん ― 。

既にお気付きの方もいるかもしれませんが、ここで言う「か○りちゃん」とは、連日ニュースやワイドショーを賑わせている新宿・渋谷バラバラ殺人事件の容疑者の名前を指して言います。

この事件はセンセーショナルに取り上げられ、様々なプロファイリングが今もテレビ等でなされています。

一見、周囲が羨むほどのセレブな結婚生活を送りながらも、その実態は虚構に満ちており、その偽りの生活を維持するために、さらに嘘の上塗りを重ねる“偽装セレブ婚”であった事も判明しています。
その成れの果てが、一線を越えてしまったあの猟奇的な殺人事件

一部の報道によると、被害者である外資系証券会社勤務の夫から離婚話を持ち掛けられ、その夫への復讐として殺害を企てたとのこと。

最近珍しくなくなった殺害動機とは言え、昔は「殺人」よりも「離婚」という選択肢を受け入れ、前向きに再出発を計ろうとする良識とモラルが存在していた様にも思えます。

しかし、今回は殺害するだけでなく、常識では計り得ない隠蔽工作までしていました。

この事件が新種の症候群(シンドローム)として名付けられたのも、突発的な感情で引き起こされた従来の殺人事件とは一線を画すものだったからでありましょう。

殺害してから死体を遺棄するまでの過程を見る限り、その行動は身勝手極まりないものであり、まさに「自己の保身」以外の何物でもなく、そこまでして彼女が守りたかったものは何なのかと疑いたくなります。

私が思うに、彼女は自分以外の「何か」と比較する事でしか、自らの存在を満たす事ができなかったのだと思います。まさに「他人と比較すること」でしか、自らの存在を実感する事ができなかったのでしょう。

ある精神科医のプロファイリングによると、彼女は自分の「所有物」でしか自分の自身の価値を計れず、他人の所有物と比較することで自らの価値を高めてきた傾向があると分析されています。

ゆえに、今の自分のアイデンティティーの根幹を為す“高収入で華やかな肩書きの夫”という「所有物」を失う事を極端に恐れていたのでしょう。

だから、DVまで受けて夫婦生活が完全に崩壊していたにも関わらず、自分の存在を成り立たしめる夫(彼女にとっての「所有物」)とは離婚ができなかったという訳です。

今回の様な現代社会の闇の部分を露呈した事件、もしくは類似した社会問題を耳にする度、私は「個の確立」の重要性を強く感じます。

情報が大量に氾濫している現代社会では、時に情報を見誤ったり、無意識のうちにその情報に流されてしまう事も致し方ない現実があります。

であるならば、情報に振り回されないだけのリテラシーを個人として身に付けるか、「他」と比較をしても自らを見失わない「個の確立」を徹底させる事でしか、自らを守る術はないものと感じます。

以前、當山の単頭和尚さまのブログで「No.1」「only one」に関する議論(当該記事・コメント覧参照)を交わした事を思い出しましたが、この「only one」的価値 =「個の確立」というのは、「他」と比較しても決して自らを見失わないとする決意や態度の根幹を為すものです。

また、その意味でしか「個の確立」は説き得ないものと思われます。

ここで言う「個の確立」とは、無責任極まりない身勝手な自己を標榜するものではなく、自らがどの様な立場や環境に置かれようとも、決して脚下が揺らぐことのない徹底した自己の確立を目指すものです。

要はその「説き方」の問題で、「個の確立」を説く場合には、既述もした「無責任な自己」とは一線を画した上でその主旨を説く必要があるでしょう。

その「説き方」に絡めて話が少し飛躍しますが―、最近宗門の一部には「リスクがある場合は初めからその教えを説かない」とする消極的な教化姿勢が見受けられます。その象徴的な例が「八大人覚」で説かれる「少欲知足」の封印なのではないでしょうか。

仏教で説く「少欲知足」(欲を少なく足ることを知る)は、その「説き方」によっては、差別に苦しむ人達に安易な現状肯定を促し兼ねないとして、宗門の布教教化の現場において特に配慮が必要な教えとして位置付けられています。

しかし、だからといって議論や参究もせずに、安易に封印してしまう傾向は如何なものでしょうか。

「少欲知足」であれば、現代社会においてその教えを説くことが何故にリスキーなのかを個々が参究し、安易に「封印」するのではなく正しい方向に「開示」をしていく気概を持つべきだと思います。

要は「説き方」(方法論)の参究と主旨の理解が必要だという事です。

混迷を極める今の時代に、「個の確立」に対する誤解が、「少欲知足」の封印と同じ結果をもたらしていたのでは寂しい限りです。ゆえに、安易な誤解を生じさせない為にも、さらなる参究が必要だという事です。

「か○りちゃんシンドローム」は、そういう意味で我々にとっても大きな課題を投げ掛けているものと感じました。

これ以上の「か○りちゃん」を生み出さない為にも、真の意味での「個の確立」を唱えていく必要があると思います



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