
<いじめ調査>やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識 毎日新聞(Yahooニュース)
客観的且つ冷静に見て、これが教育現場の現実なのでしょう。
そして、誰しも心の中では感じている事だと思うのです。
世の中から「いじめ」はなくならないと…。
>いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。また、いじめを受けた際に相談できる相手を聞くと「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子どもは2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子どもに追いつめられた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かび上がった。
「いじめる側はもちろん悪いが、いじめられる側にも問題がある…。」といった主旨のコメントを以前よくテレビで見かけました。
以下の記事がそれを象徴している様な気がします。
>いじめをなくそうと呼びかけているNPO法人「ジェントルハートプロジェクト」(川崎市)が、過去3年間に講演活動で訪れた全国の小学校8校、中学校23校、高校5校の児童生徒約1万3000人を対象としたアンケートの結果をまとめた。それによると、「いじめる方が悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない子はいるか」の問いに「いいえ」と答えたのは、小学生ではかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友だち」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)。また、「周囲でいじめやそれに類する行為が今までにあった」と考える児童生徒は全体の82%に達し、いじめがまん延している実態がうかがえる。
それでも、いじめによる自殺が急増した最近では、「いじめられる側にも問題がある」といった論調はテレビでも控えられているみたいです。
もちろん私も「いじめ」はあってはならないものだと思いますが、世の常としてそれがなくなるものではない、と心のどこかで感じているのかもしれません。
たとえ強制力を持って「いじめ」を一時的に一掃したとしても、その実態は地下に潜るだけで問題の解決には至らないと考えるからです。
ただ、決して蔑ろにしてはならないのは、一昔前だったら笑って済ませた様な事も、現在では自らの生命を絶つという負の選択肢がそこにあるという事実です。
これは尋常な事ではないでしょう。
私は深刻な「いじめ」を受けた経験がないので軽口は叩けませんが、恐らく「からかわれた時の気持ち」がそれと似た感情なのかなとも考えてみました。
決して気持ちが良いものではありません。
元来体育会系の私は、何とか乗り越える術を自然に身に付けてきましたが、一方でそれができない子ども達がいることも事実です。
その現実から目を逸らしてならないと感じます。
誤解を恐れずに言うのであれば、現実的に「いじめ」をなくす事は困難だとしても、「いじめ」により自らの生命を絶つ負の連鎖は断ち切れるものと思います。
まず、現実的に手を付けなければならないところはそこなのではないでしょうか。
もちろんそれは「いじめ」を擁護・容認する発想に立つものではなく、あくまでも「いじめ」による自殺という負の連鎖を断ち切る事に主眼を置くものです。
つらつら考えるに、「いじめ」をなくす事のみに終始してしまうと、単純に「数による評価」(いじめの発生件数の有無による評価システム)のみに委ねられ、今回の教育委員会&校長・教員の土下座シーンに象徴される様に、問題は地下に隠蔽され問題解決に至らないケースを生み出します。
やはり「いじめ」をなくす努力と併せて、「いじめ」により自らの生命を絶つ事の虚しさ・儚さをメッセージとして発信していく必要があるでしょう。
仏教を例にとって言えば、お互いの差異を認め合い「個」を尊重し合う仏教の教えを、有益なメッセージとして社会に発信していくべきです。
また、以前このブログでも触れた「踏まれた者にしか足の痛みは分からない」という想いを共有していく姿勢も必要でありましょう。
その辛さは「いじめられた側」にしか分からないという思いに立ち、ある種の共通理解を構築していく必要が急務かと思われます。
これらの想いを社会の共通理念として構築していく事が、悲しみを絶つ小さな一歩に繋がるものと考えます。
>同NPO理事の小森美登里さん(49)は「年齢が上がるにつれ、いじめに対する慣れやあきらめが広がるようだ。優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい」と話す。
「優しい心で人とつながる」…。仏教で言うところの縁起の教えに通じるところでしょうか。
折しも、ある組織の仲介にて「いじめ問題検証プロジェクト(仮称)」なるものが立ち上げられ、拙僧もそこへの参加要請があり、来春よりその活動に従事させて頂く事となりました。
ゆえに最近の「いじめ」問題は決して他人事ではない気がしてなりません。
何ができるかは分かりませんが、真剣にこの問題について考えていきたいと思っております。
【 いじめ問題に役立つサイト紹介 】
自殺という負の連鎖を断つ いじめ対処法
P.S.
良かったらクリックして応援して下さい♪
& 
客観的且つ冷静に見て、これが教育現場の現実なのでしょう。
そして、誰しも心の中では感じている事だと思うのです。
世の中から「いじめ」はなくならないと…。
>いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。また、いじめを受けた際に相談できる相手を聞くと「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子どもは2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子どもに追いつめられた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かび上がった。
「いじめる側はもちろん悪いが、いじめられる側にも問題がある…。」といった主旨のコメントを以前よくテレビで見かけました。
以下の記事がそれを象徴している様な気がします。
>いじめをなくそうと呼びかけているNPO法人「ジェントルハートプロジェクト」(川崎市)が、過去3年間に講演活動で訪れた全国の小学校8校、中学校23校、高校5校の児童生徒約1万3000人を対象としたアンケートの結果をまとめた。それによると、「いじめる方が悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない子はいるか」の問いに「いいえ」と答えたのは、小学生ではかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友だち」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)。また、「周囲でいじめやそれに類する行為が今までにあった」と考える児童生徒は全体の82%に達し、いじめがまん延している実態がうかがえる。
それでも、いじめによる自殺が急増した最近では、「いじめられる側にも問題がある」といった論調はテレビでも控えられているみたいです。
もちろん私も「いじめ」はあってはならないものだと思いますが、世の常としてそれがなくなるものではない、と心のどこかで感じているのかもしれません。
たとえ強制力を持って「いじめ」を一時的に一掃したとしても、その実態は地下に潜るだけで問題の解決には至らないと考えるからです。
ただ、決して蔑ろにしてはならないのは、一昔前だったら笑って済ませた様な事も、現在では自らの生命を絶つという負の選択肢がそこにあるという事実です。
これは尋常な事ではないでしょう。
私は深刻な「いじめ」を受けた経験がないので軽口は叩けませんが、恐らく「からかわれた時の気持ち」がそれと似た感情なのかなとも考えてみました。
決して気持ちが良いものではありません。
元来体育会系の私は、何とか乗り越える術を自然に身に付けてきましたが、一方でそれができない子ども達がいることも事実です。
その現実から目を逸らしてならないと感じます。
誤解を恐れずに言うのであれば、現実的に「いじめ」をなくす事は困難だとしても、「いじめ」により自らの生命を絶つ負の連鎖は断ち切れるものと思います。
まず、現実的に手を付けなければならないところはそこなのではないでしょうか。
もちろんそれは「いじめ」を擁護・容認する発想に立つものではなく、あくまでも「いじめ」による自殺という負の連鎖を断ち切る事に主眼を置くものです。
つらつら考えるに、「いじめ」をなくす事のみに終始してしまうと、単純に「数による評価」(いじめの発生件数の有無による評価システム)のみに委ねられ、今回の教育委員会&校長・教員の土下座シーンに象徴される様に、問題は地下に隠蔽され問題解決に至らないケースを生み出します。
やはり「いじめ」をなくす努力と併せて、「いじめ」により自らの生命を絶つ事の虚しさ・儚さをメッセージとして発信していく必要があるでしょう。
仏教を例にとって言えば、お互いの差異を認め合い「個」を尊重し合う仏教の教えを、有益なメッセージとして社会に発信していくべきです。
また、以前このブログでも触れた「踏まれた者にしか足の痛みは分からない」という想いを共有していく姿勢も必要でありましょう。
その辛さは「いじめられた側」にしか分からないという思いに立ち、ある種の共通理解を構築していく必要が急務かと思われます。
これらの想いを社会の共通理念として構築していく事が、悲しみを絶つ小さな一歩に繋がるものと考えます。
>同NPO理事の小森美登里さん(49)は「年齢が上がるにつれ、いじめに対する慣れやあきらめが広がるようだ。優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい」と話す。
「優しい心で人とつながる」…。仏教で言うところの縁起の教えに通じるところでしょうか。
折しも、ある組織の仲介にて「いじめ問題検証プロジェクト(仮称)」なるものが立ち上げられ、拙僧もそこへの参加要請があり、来春よりその活動に従事させて頂く事となりました。
ゆえに最近の「いじめ」問題は決して他人事ではない気がしてなりません。
何ができるかは分かりませんが、真剣にこの問題について考えていきたいと思っております。
【 いじめ問題に役立つサイト紹介 】
自殺という負の連鎖を断つ いじめ対処法
P.S.
良かったらクリックして応援して下さい♪



いじめ問題は、ただなくすべきだという、一方的な見方ではなく、いろいろな角度から問題をあぶり出し、考えていく必要があると思います。
いろいろな見方を書きながら、どこかで思い当たるフシを感じてもらえればいいと思います。
そういう意味でも、仏教の角度から見ていくのは大切な視点だと思います。
興味深く読みました。
私は、年頃の子どもがいますので、人ごとでもありません。
早速のコメントありがとうございます
私たちの様な者が、「現実にいじめはなくならない」という言葉を本来口にしてはならないものなのでしょうが、子ども達の社会の中に大人が立ち入ることにはある種の限界があるものと思います。
ゆえに、そこから距離を置く形で、大人の視点から発信し得るメッセージを子ども達に送り続けることが現実的な選択肢かなとも考えた訳です。
大人の強制力をもって人為的に子ども達の世界のヒエラルキーを変えたとしても、問題は地下に潜るだけで根本的な解決には至らないものと考えます。
ゆえに、地道に根気強く「いじめ」がどれだけ虚しいものか、「いじめ」により生命を絶つ事がどれだけ儚い事かを説き続ける事が必要だと感じます。
正直私も試行錯誤の日々ですが、どうせやるなら応急処置的に上辺だけのいじめ件数を減らすのではなく、その根っこにある部分の除去に取り組んでいければと思っています。