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尻高屋敷に思う上田長尾氏と関東管領山内上杉領

2008-12-23 13:16:22 | 直江兼続
魚沼よみうり新聞のコラムに載っている魚沼に纏わる身近な科学と歴史の中の高野山清浄心院「越後過去名簿」-1・2を見ていたら「一番古い供養の記録は、長享2年(1488)3月9日に、上田庄木六郷の尻高右京亮が依頼したものである。尻高氏は、関東管領上杉氏の代官として上田庄に派遣され、木六(南魚沼市大木六殿屋敷)に居館を構えていた。」という文に出くわした。

上田長尾が関東管領の代官だとばかり思っていたので、この尻高氏がどういうポジションの人なのか気になる。

上田長尾が上田の庄を管理していたのは永正の乱の後すんなり魚沼三郡を手に入れていることからも間違いないと思うのだが、尻高氏が上田に派遣された代官だとすると管領領の支配機構が気になってくる。現地代官に対するお目付役としての本庁の代官なのか、郡司を総括する例えば国奉行のような役割があったのか。それともこの木六あたりを有する郡司だったのか、永正の乱前は上田長尾の管理する土地は坂戸城周辺のみで、それぞれの山内上杉家(関東管領家)の土地に派遣された国人や代官、管理を任された在地豪族がいたということなのだろうか。そのように考えると穴沢文書に出てくる上田長尾との被官契約書だの樺野沢付近に上田長尾の旗本が多い理由なども自分なりに答えを出せる気がするのだが。

まず越後にもっていた上杉氏の国衙領、荘園等について少し考えてみたい。

上杉家文書にある上杉長棟(憲実)置文によれば上杉憲顕の父親に当たる憲房から、越後国衙領を山内上杉の祖となる憲顕と兄弟の犬懸上杉の祖となる憲藤に半分ずつ分けて与えたとされる。その後数代をへて憲顕の分は憲実(山内家)へ憲藤の分は房方(犬懸家)へと譲渡されている。



(流れを掴みたくて作ってみた。憲顕・憲藤はあくまで山内・犬懸の祖だが便宜上名字を付けてみた。あくまで越後の所領のみで。憲実置文からなので憲実まで。)


上杉氏が越後に土地を持つようになるのは南北朝の時代、国守新田義貞から越後をうばった頃に、足利尊氏・直義の母方の従兄弟に当たる上杉憲顕が越後守護に補任された時、1340年頃だと云われている。1341年長尾景忠が守護代として越後に赴任している記録がある。前の守護新田義貞は1338年死去している。義貞との戦乱中の越後は高師泰が抑えていたので1340年頃というのは妥当だと思う。

そうなると憲房に与えられた越後国衙領というのはどういう事になるのだろうか。憲房は1336年尊氏を九州に逃がす際京都四条が原で戦死している。生前尊氏の補任を受けたのは上野守護、関東廂番である。建武の新政における雑訴決断所の奉行を越後守護の高師泰と共に任じられているし、師泰の正妻として娘を嫁がせていることを見ると婿の物は俺の物というジャイアン憲房だったりしたのだろうか?

憲藤も1338年摂津で北畠顕家と戦い戦死。憲顕は父の関東廂番と憲藤の関東執事を受け継いだ。1399年後醍醐天皇が没すると、足利直義の力が強くなる。尊氏側近高師直等と対立するようになり、高師直は直義派の宅間重能を幽閉殺害する。これをきっかけに観応の擾乱がおこり、直義派の領袖憲顕は越後守護を一時追われる事になる。この間尊氏派の宇都宮氏が越後上野の守護となるが足利義詮や基氏の希望で越後守護に復帰。強引な交代劇に宇都宮氏綱は激怒。戦に成るも勝利。更に関東管領に任官される。この関東の政変により上杉氏が関東の職位に代々就くことになった。

上記のように1340年頃でなければ越後国衙領を上杉の支配下に置くことはできないので、憲顕が越後守護になったときに、憲房の追悼報償のような形で宛がわれたものだろうか。
憲房、重能、憲藤の死によって憲顕が憲房の一族の惣領になったことで、上記三人の所領職位に加え自分の受けた分を子供達に財産分与するための措置のように思える。山内、宅間、犬懸の「家」に財産を分けて、人は山内の者を養子にだす(能憲・憲孝・憲栄・房方)とか、娘婿にする(朝房)とかして結局山内家でしめてしまっているのだが。

さてその越後における山内領である。

●国衙領は越後守護領(犬懸上杉領)と半分なので国衙半領(上杉長棟知行分処々文書目録)。

●康永3年(1344)10月20日「上田庄内〈闕所未給分〉」が関東管領兼越後守護上杉憲顕の守護領不足分として与えられた(上杉家文書)。

●康安元年(1361)関東管領・越後国守護上杉憲顕が足利将軍から越後国上田庄を賜った(足利義満御判御教書案)。

●貞治元年(1362)6月27日付上杉憲顕寄進状に「越後国頸城郡五十公郷内保倉保北方事(天竜寺重書目録)。

●康暦二年(1380)、幕府は妻有荘を上杉憲方に交付(上杉古文書)。

●憲方は,永徳2年(1381)12月26日「上田庄参分壱」などを安堵されたが文書を紛失,明徳4年(1393)11月28日・同5年2月22日に改めて当荘3分の1と父の遺領上田荘を安堵された(上杉文書)。

●憲春に千屋郡国衙職と上田の庄参分壱を与える。能憲病に倒れ憲春関東管領を代行。能憲の引退で憲春関東管領になる。が惣領は憲方だったらしい。憲春の諫死により、康暦元年(1379年)憲方が関東管領に。永徳二年(1382)能憲と憲春の所領・職位 は憲方に安堵される。(足利義満御判御教書案)。

●上杉長棟(憲実)越後知行分重書案所収の明徳4年(1393)「将軍家足利義満御教書案」(上杉家文書)によれば,五十嵐保はもと国衙領で関東管領家の所領の一部となっていた。明徳4年7月16日室町幕府は,「国衙内蒲原津并五十嵐保」を小国三河守と白河兵部少輔入道が押領しているのでこれを退けて,上杉憲方の代官景実に沙汰付けるよう越後守護に命じている(上杉家文書)。関東管領の代官景実が、長尾兵庫介景実の事だとすると五十嵐保の入広瀬から続く土地あたりが上田長尾の管理下なのだろうか。大浦のあたりは古志の管理下で越後守護領のようだ。

●応永3年(1396)7月23日幕府は,憲方の遺領当荘内闕所分と当荘3分の1を子の憲定に引き渡すよう越後守護上杉房方に命じた(上杉家文書)。憲方の子である房方は上田の荘3分の1と闕所分を貰っていたのだろうか。

●文安元年(1444)8月,上杉長棟(憲実)は越後国衙領半分等を次男上杉房顕に譲った。上田荘内には山城国岩清水八幡宮摂社若宮社の散在所領があったが幕府に没収され,享徳4年(1455)2月12日関東管領上杉房顕に還付する旨伝えられた(上杉家文書)。

●長禄3年(1459)3月15日の快増・重継連署奉書に「千屋郡上田庄之長尾肥前」とあるので在地支配は上田長尾氏の可能性が高い。千屋郡は憲春の死で憲方に返され、代々山内惣領が継いでいる。

●浦佐の普光寺の古文書に上田長尾の歴代の書状があることから浦佐は上田の在地支配だとおもわれる。(ここの古文書に兵庫介長尾景実から房長までの辞令書・発行文書等があることから上田長尾の系図は景実-房景-顕吉-房長-政景説を自分は採ります。)

山内家の所領は国衙領半分、五十嵐保の一部、五十公郷の一部と上田庄、妻有、千屋郡、浦佐、藪神庄は山内家の所領であったかはわからないが後の上田長尾との関係からすると可能性は高いと思う。昔の南魚沼・中魚沼・北魚沼は山内家で持っていたのではないだろうか。ただ憲実置文のなかで国衙領は守護職に属すべきと書いてあるらしいので国衙領半分のいくつかは越後守護に行っているのかも知れない。実家だし。

その中で上田長尾の代官としての支配地域がどこであったか上記から見てみると、五十嵐保の一部、千屋郡(小千谷の一部も?)、浦佐、六日町あたりで、妻有は違うのではないかと思っている。もし支配地域だとすると千手・津南のあたりで旧新田党(大井田氏や上野氏など)の居る地域は彼らが地頭をしていたのではないだろうか。藪神庄は、入広瀬の穴沢氏、湯ノ谷の大沢氏、魚沼田中の田中氏、広瀬・小出・川口・堀之内・下倉などに福王寺氏、桜井氏、発智氏などの豪族が支配していたと思う。永正の乱後の長尾顕吉署名の穴沢氏や桜井氏などの被官契約の書状が残っていることからも顕定の死より前は上田の支配地ではなかったと思う。同じように千手の下平や津南の今井なども被官契約の方だったのではないかと思っているのだが。

そして大木六に屋形があったとされる尻高氏の在地支配地域が上田庄内(闕所未給分)なのではないか。この闕所未給分は「吾妻鏡」文治2年3月12日条に於田庄(院御領、預所備中前司信忠)とあり後白河院領で南魚沼市長崎だと云われている。塩沢付近から湯沢全域と書いてあるのもあった。この大木六は長崎と国道291をはさんで隣同士だ。塩沢から湯沢全域だとすると大木六も長崎もすっぽり入る。この尻高氏はどんな素性の人なのだろうか。群馬県吾妻郡高山村尻高に尻高城跡がある。高山村はほぼ湯沢の隣みたいな場所にある。長くなってしまったので尻高氏については次回に。




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2 Comments

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くるまさん (rumix)
2009-01-06 01:28:41
コメントありがとうございます。
上田の傘下に入った者の中には、越後守護への離反の場合もあったでしょうが、例えば飛び地で越後守護領や他の荘園領主の地頭だった場合など。でも大半は関東管領領の地頭だったのではないかと思っています。上田の支配地域は魚沼三郡を出るものではないことからそう考えているのですがどうでしょうか。後次のブログで旗本のことも考えたいと思っています。よろしくお願いします。
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Unknown (くるま)
2009-01-05 11:12:37
いつも拝見しています。自分も魚沼一帯を上田長尾氏が支配的になっていったのは永正の乱後だと思います。関東管領の敗退に周辺豪族の越後守護への離反があり、そのまま上田長尾の組下に入ったのでしょうかね。
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