なぜ尻高氏がこれほど気にかかるのかと云えば、「越後永正の乱」で、上杉顕定を長森原で討った後の上田長尾の躍進ぶりの著しい事が、尻高氏の越後での支配地に関係しているように思えるからだ。
越後守護代長尾為景の越後守護上杉房能殺害を受けて、永正6(1509)年関東管領上杉顕定が越後に侵攻したとき、上田長尾は関東管領の代官らしく顕定側について戦っていたが、長尾為景と上杉定実を越中に追い出した後、顕定が行った強権的越後統治に国人衆が反発し、その流れに乗って為景・定実軍は反撃を開始。永正7年(1510)上田長尾も今度は為景側につき、顕定の退路を封鎖した。援軍にきた為景の縁戚高梨氏に追い詰められ、顕定は自刃する。
この時木六の尻高氏はどうしたのだろうか。
たぶん本家の尻高氏は群馬県吾妻郡高山村尻高を本貫とする豪族で、1488年の万里集九が、この尻高左京兆景清の館を訪ねている。そして万里集九の越後入りの際尻高孫二郎というものが万里のお供をしている。「關左の管領、彼の郎に命じ、余の行伴と為し、云々」(關左の管領=関東管領上杉顕定、彼の郎=尻高孫二郎。「梅花無尽蔵」より)
尻高左京は顕定の寵臣であったらしく、1502年顕定の亡母の13回忌を板鼻の海竜寺で盛大に催しているのだが、そのときの法事奉行が上野守護代長尾能登守定明・布施奉行が尻高左京、この二人を中心に法事が執り行われたという。
ちなみに長尾定明はこの長森原で戦死(1510年)している。顕定の自刃と運命を共にした発智氏(沼田氏の一族)の一部の一族はこの永正の乱のあと上田長尾の麾下となり知行を得て越後にも名を残しているが、尻高氏はこの地に住んでいたにもかかわらず、その後の痕跡がない。このことから尻高氏は顕定と運命を共にしたか、上州に引いたかしたのではないか。あるいは滅亡した可能性すら有るのではないかと思っている。上記で“たぶん”と記したのは関東幕注文(1561年)にでてくる沼田衆の中の尻高左馬助と同族なのか、武田側と戦って滅亡した時の尻高景家(1574年没)、尻高義隆(1581年没)親子とはどうなのかよくわからないからだ。
尻高城跡の案内図(ネット検索の写真から)には、「尻高城は古屋の要害城と並木の里城とからなっている。築城は応永八年の三月、白井主城伊玄入道三男、藤原重儀によって築かれ、翌九年十二月に完成した。重儀は尻高左馬頭と号し尻高、大塚、平、赤坂、辺まで領有し、威勢さかんであった。永録二年、三河守重治の時、武田信玄によって、子の左京亮景家と共に戦死した。景家の子、左馬介義隆は、上杉氏に属し、天正九年割腹し、天正九年正月八日尻高城主三河守は滅亡した。」と書いてあるらしいが長尾伊玄入道重国=長尾景春、長尾景春の乱の彼のこと(生没1443~1514)なので年代的におかしい。応永8年に作られていた城に伊玄入道の三男が赴任し尻高を名乗ったと云うことなのだろうか。
前記の長享2年(1488)3月9日、上田庄木六郷の尻高右京亮の供養依頼の年代と伊玄入道(長尾景春)の三男だったとしたら重儀の年代は一致はするが、万里集九がこの長享2年に、越後入りしていて、関東管領顕定の命で白井城から上田まで案内してきたのが尻高孫次郎で「梅花無尽蔵」に旅の様子が書かれている。これに尻高孫二郎の弟と父の13回忌の様子が出てくる。長享の乱が起きていた頃で長尾景春はこの時上杉定正方に付き上杉顕定と争っていた時で、その息子が顕定重臣というのはどうだろうと思うし、景春は生きているので父の十三回忌に当てはまらない。景春三男の尻高氏と越後に住んでいた尻高右京亮と違う一族だと考えた方が良い気がする。
大木六に龍泉院てふ禅家あり、上州尻高氏の古文書を蔵む。
「越後上田庄、早河北方の内、并わせて大窪名之内ご恩之地、合参拾貫文之所を、養父新三郎為菩提、彼長慶庵を建立、為雲洞庵之末庵、彼庵に奉寄進所実也、若彼庵領等に於、違乱之子孫者可為不幸候、別紙に坪附を認渡申所也、仍為後日如件、
寛正四年みづのとのひつじ八月廿二日
尻高平亀鬼丸代、関田 平実綱(花押)」
これは吉田東伍編集大日本地名辞書第5巻(冨山房)に載っていたもので木六は塩沢の南方の諸村を云ふ、西は関郷に至り東は早川に至れりとある。ご恩之地はこれに併せて大窪とあるので、湯沢を抜いた塩沢から南の南魚沼市一帯が寛正4年(1463年)での尻高氏の所領ということになるのだろう。
長尾景春の長男長尾景英は1479年生まれなので、その弟が尻高亀鬼丸には成り得ない。尻高城跡の案内図は年代がおかしいので色々混じっているのではと思われる。長尾景春の子だというのに藤原重儀と書かれている。長尾は平氏なので子孫も平氏なはずである。長尾系尻高氏は景春の息子である以上先に書いたように長兄景英1479年生まれよりは後と言うことになるので、寛正年間より前に現れる尻高氏を見たいと思う。
同じ吾妻郡にある岩櫃城の城主吾妻太郎藤原行盛が、その地の有力豪族であった里見氏と戦い戦死(1349年)その遺児千王丸が逃れ母方の安中の斉藤氏を頼った。その斉藤氏の計らいで上野守護であり関東管領であった上杉憲顕と対面、彼の支援を受けて里見氏から岩櫃城を奪回。斉藤氏を襲名し上杉憲顕の偏諱をうけて斎藤憲行となった。その弟も偏諱を貰い憲重とした。この弟が尻高郷を賜り尻高三河守と称した。というのだが、この一族は藤原秀郷流であり重儀が偏諱を貰い憲重というのはありそうだし代々上杉家の重臣であることもこのようなエピソードから頷ける。吾妻太田村史などにでてくる伝承。これがひとつ。
上杉憲顕と里見氏を倒し岩櫃城を奪回し、入城したはずの斎藤憲行(上杉憲顕は1368年に亡くなっているのでその前に入城)なのにタイムラグがあってよくわからないのだが、1405年に斎藤憲行が岩櫃城に入城し、その子供達長男孫三郎憲実が岩櫃城を継ぎ、次男次郎幸憲が中山城を、三男三郎威実が荒巻を、四男四郎基政が山田、五男大野次郎憲基を稲荷城に、そして六男富沢三郎幸連を岩下に配した。嫡男憲実が夭折したことなどにより宗家が衰え大野氏が台頭。大野憲基の孫大野義衡が吾妻郡の実権を握り、長男憲賢を岩櫃城に入れ三男基勝を尻高城に配したという。
大野基勝が尻高左馬亮を名乗った。大野氏が山田城主で重臣の斎藤憲次の裏切りによって滅ばされるのが大永年間(1521年~1528年)、尻高氏は斎藤憲行から4世代後な事を考えると一世代20から25と考えると1460年~1500年前後の人ということになる。
長尾景春三男の尻高左馬助は年代的に後だと思うけれど一応。景春の子は景英と景儀と娘二人(一人は沼田憲泰正室)だといわれているが、この景儀が重儀なのだろうか。上杉顕定亡き後、長尾景英は父と袂を分かち上杉憲房についたという。弟はどうしたのだろうか。関東幕注文に出てくる沼田衆の尻高氏は、沼田氏の親類として出てくる。沼田憲泰の正室になった姉の元へ頼っていったのか。あと尻高氏は成田氏の譜代家臣として名が残っているが、成田長泰の正妻が景英の娘なので家臣として配されたのかもしれない。真田と戦う尻高景家はこの長尾尻高氏の系図だ。
関東幕注文には岩下衆として斎藤越前守が載っているが先に書いた斎藤憲次の息子で斎藤憲広のことだと云われている。大野系の尻高氏かどうかはわからないが永禄年に憲広の息子憲宗が武田に攻められたとき、中山氏と尻高氏が加勢している。
尻高氏を検索していたら、「寺の歴史」というHPの福蔵寺について書かれているところに‘大永年間(1521~1528)尻高憲秀の再興’と言うのが載っていて、続いて‘永禄年間(1558~1570)尻高左馬亮景家の二男鉄丸を入れて廣順法印と称し、福蔵寺中興開祖とした。’とある。これには白井長尾氏の一族が応永10年(1403)尻高城を築城と書いている。色々な尻高氏がごちゃごちゃしていて、この憲秀と景家が同族なのかも疑わしい気がする。春景より前の長尾氏が尻高を名乗っていたらいいのにと思ってしまう。
長々書いた割には、結局よくわからないのが本当で、上州を本貫とする尻高氏という上杉家の家臣が越後の木六に代官としていたと言う事実だけで見てゆくしかないようだ。
古河公方足利成氏と関東管領上杉氏一族の間で戦われた戦いである享徳の乱、羽継原合戦が有った頃寛正元年(1460)4月28日尻高新三郎宛将軍足利義政感状が出されている。
この時に出された感状は上杉三郎・上杉右馬頭・上杉宮内大輔・上杉播磨守・上杉修理亮・毛利宮内少輔・矢部弥三郎・本庄三河守・長尾信濃守・飯沼弾正左衛門尉・石河遠江入道・飯沼孫右衛門尉・野沢弥六・三潴帯刀左衛門尉・池田太郎四郎・吉沢小太郎・中山左衛門三郎・渡辺孫次郎・後閑弥六・大類五郎左衛門尉・伊南山城太郎・行方幸松・長尾肥前守・長尾尾張守・長尾新五郎・芳賀忠兵衛尉・二階堂小滝四郎などに発給。上杉・長尾の越後、上野の家臣団がずらりと並んでいる。
この尻高新三郎氏が先にのせた亀鬼丸の養父新三郎なのではないか。高山村尻高に関田地区があるがここの関田平実綱の子が養子にはいったので平亀鬼丸と言うのではないだろうか。幼い彼に変わっての実家が代表で彼の菩提寺に寄進したのではと思っている。大木六清水端に長慶庵跡があるという。吉田東伍の註に梅花無尽蔵を引いて「長慶を改め安楽とし、また龍泉と為したる歟」と。大木六に龍泉寺や安楽寺と名のつく寺院があり長慶庵跡があるとすれば同じものではないと思うがここに尻高氏の痕跡があるのはうれしい。先に書いたように所領は塩沢より南の南魚沼一帯。湯沢に言及はないので、湯沢が誰の管理下だったのか気になるところだ。
湯沢の魚沼神社の社伝では応永24年(1417年)上杉房朝より社領一町九反を寄進されたとあるらしいが、房朝は応永28年生まれなので応永年が間違っているか、寄進者が間違っていて、房方なのかもしれない。尭恵の「北国紀行」に「上野のさかひ近き越後の山中石白(上杉相摸守房定于時法名常泰旅所)といふ所」とあり、房定の旅所だったことがわかる。房朝、房定と越後守護の名が出てくるところから、湯沢は越後守護領だったのかもしれない。
万里集九について越後に入った尻高孫次郎は大儀寺まではお供をするがそこから引き返している。大儀寺跡が上越国際スキー場入り口のちかくにあるという。「石白をでて上田に赴く」と言う文は湯沢と上田は別物だった感をうけるのだがどうだろう。
以下、万里集九が尻高孫次郎と共に越後入りした時の「梅花無尽蔵」(抜粋)をみてみたい。
『「四日。石白の泉福寺を出て、上田に赴く。上田は則ち、越後の封中なり。安楽精舎有り。精舎に大會斎有り、余を午飯に留む。酔中に数詩を題す。」―略―
「小春初四。偶、上田、木録の安楽の古刹を扣ね、主盟璠玉渓老人の先考、圓叟の一十三回の忌辰に値ふ。謹んで一偈を作りて云ふ。」―略―
「五日、午後、上田の大義寺の方丈に就く。余の為に、二馬を洗ふ。且つ又、尻高孫次郎の武蔵の須賀谷に皈るを送る。關左の管領、彼の郎に命じ、余の行伴と為し、大義寺に到らしむ」―略―』(梅花無尽蔵注釈より 読み下し文)
長享二年十月三日に三国峠を越え、この夜に石白泉福寺に泊まったことがこの前に書かれている。石白は湯沢町、泉福寺は御の乱の時に焼失し、直江兼続が臨済宗円覚寺派宝珠庵として再興したという。その石白を出て上田に赴く。わざわざ上田は越後の領土内だと解説してくれている。湯沢は一種の緩衝地だったのだろうか?
上州の尻高屋敷から大儀寺までなんの障害もなくすんなり通っているかんじはそこまで尻高氏の管理下だったのかもと思える。
上田の木録(木六、南魚沼市大木六)安楽寺で大きな法会があり、招かれてご馳走になった。安楽寺の住職玉渓老人の先代お父上の圓叟の十三回忌で、玉渓老人は尻高孫次郎の弟だという。‘偶扣上田'の偶(たまたま)は本来次は大義寺に行く予定だったが尻高家の法事があったので木録に寄ったということだろうか。孫次郎にしてみればはじめから十三回忌に出る予定があり、顕定の配慮で越後に行くという万里集九が日時を合わせたのかもしれない。尻高孫次郎はここで万里集九と別れ、須賀谷の陣に戻っている。須賀谷原の戦いの真っ最中で有ったことを考えると、顕定の尻高氏への信頼がうかがえる。
この信頼の厚い尻高氏は当然顕定の越後侵攻のとき顕定側に付き戦ったと思われる。敗走した顕定軍と共に尻高氏は越後の所領もろとも失ってしまったのではないか。上田長尾は主の居なくなった山内領の土地を其のまま自分の領地として手に入れた。石白郷(湯沢)も自分は尻高氏の管理下だったのではと思っているが、越後守護領で越後守護代(為景)の管理地域だとしたら、地続きゆえになし崩しで手に入れたか、為景側につき顕定の退路を封鎖したことによる報償であったとも考えられる。とにかくも上田の庄全域を上田長尾がこの永正の乱後手に入れたのは確実だと思う。家臣達にふんだんに与えられる知行地を手にしたことが上田長尾が府内長尾に対抗できる勢力にのし上がった要因だと思う。
面白いのは、古代士籍に載っている上田長尾家老職を見てみると筆頭家老の栗林氏は享禄(1528~1532)の頃、頼長の時に信濃から越後に入部。樋口惣右衛門は2代前の兼定の時に入部と伝える。樋口惣右衛門が政景や謙信と同世代だと考えると、栗林氏よりちょっと早いぐらいの入部を想定できる。国分佐渡守(喜兵衛)は千葉氏の出自で房長の時に家臣となった。上村氏も登坂氏も信濃村上氏系で同時代の入植者と考えて良いと思う。何を言いたいかというと譜代の奉行衆のほとんどは永正の乱後に他国から入国して直臣になった人たちではないかと言うこと。
その後天文の乱がおき上条側で戦った人たちに知行を与えている。発智氏や宇佐美氏などがそれに当たる。小千谷の平子氏も一部もらっていたらしい。
調べてみると穴沢氏や桜井氏、泉沢氏などは早い時期に関東管領の地頭として入植していた人たちで山内上杉の被官で云ってみれば上田長尾氏や尻高氏と同等のポジションといえる。頭一つ抜け出した上田長尾氏が彼らと被官契約を結んでいる書状があり、寄子?寄騎として活躍。先に挙げた上条の乱(天文の乱)ですべて失った宇佐美氏に知行を与えたが謙信に対して反乱を起こしたとき、宇佐美は謙信方についた。穴沢氏と小出氏が「宇佐美を叩くなら協力する」と言うような手紙を政景に出していて、それに感状を与えている。宇佐美氏の館に火を付けたあの事件の時だと思われる。
西方氏、大関氏などは宇都宮氏が守護をしていた頃に宇都宮被官として入った人たちで後に上杉と被官契約を交わした人たち、妻有庄の下平、今井氏は信州からきて上田長尾の被官になったコース。妻有波多岐の旧新田氏の一族は、被官契約を交わしていたかどうかはわからないが(謙信の馬廻り組が多い)、取り込みたいと思っていたと思うし、実際関係も深い。上野氏も小森沢氏も御の乱のとき景勝側についたし、大井田氏には政景の弟(景国)が養子に入っており、兄亡き後上田の守将として働いていて、大井田氏は景勝シンパとしてその後も協力している。ほとんど直江配下で占められた佐渡奉行に就任して信頼度の高さを伺わせている。景勝の従兄弟、基政は共に米沢に移ったが、乱心のため所領没収の憂き目にあっていたりするのだが…
福島掃部と齋木土佐は為景公より御付人とあるので、府中からきた人たち、黒金氏や宮嶋氏なども政景亡き後、謙信に派遣され、上田衆として土着した人達ではと思っている。(戦歴などから)
深沢氏浅間氏(上州系?)はよくわからなかった。定勝の時代に台頭してくる上田五十騎組の広居氏や三俣氏などは坂戸や木六、湯沢の在地豪族だったのではないだろうか。
こうして上田三庄の寄子化に成功し、上田長尾から直接所領を貰い奉公する直臣が増えたことで上田長尾は、越後守護代の地位すら望めるようになった。
藩翰譜のいうことだけれども「景虎が姉婿上田長尾越前政景・景虎が幼を侮って、彼の所領を并せんとす。景虎その勢い二千計り、政景が八千を打ち破り同十四年、政景降人に成り、十五年、越後國悉く靡き隨ひぬ。」景虎幼いといっても政景と4つかそこらしか違わないんじゃないかとかつっこみたくなるけれど、景虎二千、政景八千といわれるくらい上田長尾は力をつけていたことがわかる。
はじめ上田庄を山内上杉領から簒奪し直領にしたのかと思っていたが、政景が上杉憲政あてに年不詳だが鮭のお歳暮を贈っていて、憲政からお礼の書状があり、たぶん偏諱も貰っていると思うので、蔵入地の年貢は納めていたのではないだろうか。
こんな風に上田長尾を見てくると、思わず政景に思い入れしてしまい、謙信が関東管領になるということは、彼の被官となることなんだと思い当たり、反発したくなる政景の気持もわからないでもないなと思った。「わしは謙信の家来などになりとうはなかったー」と叫んだかどうかは知らないけれど。
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越後守護代長尾為景の越後守護上杉房能殺害を受けて、永正6(1509)年関東管領上杉顕定が越後に侵攻したとき、上田長尾は関東管領の代官らしく顕定側について戦っていたが、長尾為景と上杉定実を越中に追い出した後、顕定が行った強権的越後統治に国人衆が反発し、その流れに乗って為景・定実軍は反撃を開始。永正7年(1510)上田長尾も今度は為景側につき、顕定の退路を封鎖した。援軍にきた為景の縁戚高梨氏に追い詰められ、顕定は自刃する。
この時木六の尻高氏はどうしたのだろうか。
たぶん本家の尻高氏は群馬県吾妻郡高山村尻高を本貫とする豪族で、1488年の万里集九が、この尻高左京兆景清の館を訪ねている。そして万里集九の越後入りの際尻高孫二郎というものが万里のお供をしている。「關左の管領、彼の郎に命じ、余の行伴と為し、云々」(關左の管領=関東管領上杉顕定、彼の郎=尻高孫二郎。「梅花無尽蔵」より)
尻高左京は顕定の寵臣であったらしく、1502年顕定の亡母の13回忌を板鼻の海竜寺で盛大に催しているのだが、そのときの法事奉行が上野守護代長尾能登守定明・布施奉行が尻高左京、この二人を中心に法事が執り行われたという。
ちなみに長尾定明はこの長森原で戦死(1510年)している。顕定の自刃と運命を共にした発智氏(沼田氏の一族)の一部の一族はこの永正の乱のあと上田長尾の麾下となり知行を得て越後にも名を残しているが、尻高氏はこの地に住んでいたにもかかわらず、その後の痕跡がない。このことから尻高氏は顕定と運命を共にしたか、上州に引いたかしたのではないか。あるいは滅亡した可能性すら有るのではないかと思っている。上記で“たぶん”と記したのは関東幕注文(1561年)にでてくる沼田衆の中の尻高左馬助と同族なのか、武田側と戦って滅亡した時の尻高景家(1574年没)、尻高義隆(1581年没)親子とはどうなのかよくわからないからだ。
尻高城跡の案内図(ネット検索の写真から)には、「尻高城は古屋の要害城と並木の里城とからなっている。築城は応永八年の三月、白井主城伊玄入道三男、藤原重儀によって築かれ、翌九年十二月に完成した。重儀は尻高左馬頭と号し尻高、大塚、平、赤坂、辺まで領有し、威勢さかんであった。永録二年、三河守重治の時、武田信玄によって、子の左京亮景家と共に戦死した。景家の子、左馬介義隆は、上杉氏に属し、天正九年割腹し、天正九年正月八日尻高城主三河守は滅亡した。」と書いてあるらしいが長尾伊玄入道重国=長尾景春、長尾景春の乱の彼のこと(生没1443~1514)なので年代的におかしい。応永8年に作られていた城に伊玄入道の三男が赴任し尻高を名乗ったと云うことなのだろうか。
前記の長享2年(1488)3月9日、上田庄木六郷の尻高右京亮の供養依頼の年代と伊玄入道(長尾景春)の三男だったとしたら重儀の年代は一致はするが、万里集九がこの長享2年に、越後入りしていて、関東管領顕定の命で白井城から上田まで案内してきたのが尻高孫次郎で「梅花無尽蔵」に旅の様子が書かれている。これに尻高孫二郎の弟と父の13回忌の様子が出てくる。長享の乱が起きていた頃で長尾景春はこの時上杉定正方に付き上杉顕定と争っていた時で、その息子が顕定重臣というのはどうだろうと思うし、景春は生きているので父の十三回忌に当てはまらない。景春三男の尻高氏と越後に住んでいた尻高右京亮と違う一族だと考えた方が良い気がする。
大木六に龍泉院てふ禅家あり、上州尻高氏の古文書を蔵む。
「越後上田庄、早河北方の内、并わせて大窪名之内ご恩之地、合参拾貫文之所を、養父新三郎為菩提、彼長慶庵を建立、為雲洞庵之末庵、彼庵に奉寄進所実也、若彼庵領等に於、違乱之子孫者可為不幸候、別紙に坪附を認渡申所也、仍為後日如件、
寛正四年みづのとのひつじ八月廿二日
尻高平亀鬼丸代、関田 平実綱(花押)」
これは吉田東伍編集大日本地名辞書第5巻(冨山房)に載っていたもので木六は塩沢の南方の諸村を云ふ、西は関郷に至り東は早川に至れりとある。ご恩之地はこれに併せて大窪とあるので、湯沢を抜いた塩沢から南の南魚沼市一帯が寛正4年(1463年)での尻高氏の所領ということになるのだろう。
長尾景春の長男長尾景英は1479年生まれなので、その弟が尻高亀鬼丸には成り得ない。尻高城跡の案内図は年代がおかしいので色々混じっているのではと思われる。長尾景春の子だというのに藤原重儀と書かれている。長尾は平氏なので子孫も平氏なはずである。長尾系尻高氏は景春の息子である以上先に書いたように長兄景英1479年生まれよりは後と言うことになるので、寛正年間より前に現れる尻高氏を見たいと思う。
同じ吾妻郡にある岩櫃城の城主吾妻太郎藤原行盛が、その地の有力豪族であった里見氏と戦い戦死(1349年)その遺児千王丸が逃れ母方の安中の斉藤氏を頼った。その斉藤氏の計らいで上野守護であり関東管領であった上杉憲顕と対面、彼の支援を受けて里見氏から岩櫃城を奪回。斉藤氏を襲名し上杉憲顕の偏諱をうけて斎藤憲行となった。その弟も偏諱を貰い憲重とした。この弟が尻高郷を賜り尻高三河守と称した。というのだが、この一族は藤原秀郷流であり重儀が偏諱を貰い憲重というのはありそうだし代々上杉家の重臣であることもこのようなエピソードから頷ける。吾妻太田村史などにでてくる伝承。これがひとつ。
上杉憲顕と里見氏を倒し岩櫃城を奪回し、入城したはずの斎藤憲行(上杉憲顕は1368年に亡くなっているのでその前に入城)なのにタイムラグがあってよくわからないのだが、1405年に斎藤憲行が岩櫃城に入城し、その子供達長男孫三郎憲実が岩櫃城を継ぎ、次男次郎幸憲が中山城を、三男三郎威実が荒巻を、四男四郎基政が山田、五男大野次郎憲基を稲荷城に、そして六男富沢三郎幸連を岩下に配した。嫡男憲実が夭折したことなどにより宗家が衰え大野氏が台頭。大野憲基の孫大野義衡が吾妻郡の実権を握り、長男憲賢を岩櫃城に入れ三男基勝を尻高城に配したという。
大野基勝が尻高左馬亮を名乗った。大野氏が山田城主で重臣の斎藤憲次の裏切りによって滅ばされるのが大永年間(1521年~1528年)、尻高氏は斎藤憲行から4世代後な事を考えると一世代20から25と考えると1460年~1500年前後の人ということになる。
長尾景春三男の尻高左馬助は年代的に後だと思うけれど一応。景春の子は景英と景儀と娘二人(一人は沼田憲泰正室)だといわれているが、この景儀が重儀なのだろうか。上杉顕定亡き後、長尾景英は父と袂を分かち上杉憲房についたという。弟はどうしたのだろうか。関東幕注文に出てくる沼田衆の尻高氏は、沼田氏の親類として出てくる。沼田憲泰の正室になった姉の元へ頼っていったのか。あと尻高氏は成田氏の譜代家臣として名が残っているが、成田長泰の正妻が景英の娘なので家臣として配されたのかもしれない。真田と戦う尻高景家はこの長尾尻高氏の系図だ。
関東幕注文には岩下衆として斎藤越前守が載っているが先に書いた斎藤憲次の息子で斎藤憲広のことだと云われている。大野系の尻高氏かどうかはわからないが永禄年に憲広の息子憲宗が武田に攻められたとき、中山氏と尻高氏が加勢している。
尻高氏を検索していたら、「寺の歴史」というHPの福蔵寺について書かれているところに‘大永年間(1521~1528)尻高憲秀の再興’と言うのが載っていて、続いて‘永禄年間(1558~1570)尻高左馬亮景家の二男鉄丸を入れて廣順法印と称し、福蔵寺中興開祖とした。’とある。これには白井長尾氏の一族が応永10年(1403)尻高城を築城と書いている。色々な尻高氏がごちゃごちゃしていて、この憲秀と景家が同族なのかも疑わしい気がする。春景より前の長尾氏が尻高を名乗っていたらいいのにと思ってしまう。
長々書いた割には、結局よくわからないのが本当で、上州を本貫とする尻高氏という上杉家の家臣が越後の木六に代官としていたと言う事実だけで見てゆくしかないようだ。
古河公方足利成氏と関東管領上杉氏一族の間で戦われた戦いである享徳の乱、羽継原合戦が有った頃寛正元年(1460)4月28日尻高新三郎宛将軍足利義政感状が出されている。
この時に出された感状は上杉三郎・上杉右馬頭・上杉宮内大輔・上杉播磨守・上杉修理亮・毛利宮内少輔・矢部弥三郎・本庄三河守・長尾信濃守・飯沼弾正左衛門尉・石河遠江入道・飯沼孫右衛門尉・野沢弥六・三潴帯刀左衛門尉・池田太郎四郎・吉沢小太郎・中山左衛門三郎・渡辺孫次郎・後閑弥六・大類五郎左衛門尉・伊南山城太郎・行方幸松・長尾肥前守・長尾尾張守・長尾新五郎・芳賀忠兵衛尉・二階堂小滝四郎などに発給。上杉・長尾の越後、上野の家臣団がずらりと並んでいる。
この尻高新三郎氏が先にのせた亀鬼丸の養父新三郎なのではないか。高山村尻高に関田地区があるがここの関田平実綱の子が養子にはいったので平亀鬼丸と言うのではないだろうか。幼い彼に変わっての実家が代表で彼の菩提寺に寄進したのではと思っている。大木六清水端に長慶庵跡があるという。吉田東伍の註に梅花無尽蔵を引いて「長慶を改め安楽とし、また龍泉と為したる歟」と。大木六に龍泉寺や安楽寺と名のつく寺院があり長慶庵跡があるとすれば同じものではないと思うがここに尻高氏の痕跡があるのはうれしい。先に書いたように所領は塩沢より南の南魚沼一帯。湯沢に言及はないので、湯沢が誰の管理下だったのか気になるところだ。
湯沢の魚沼神社の社伝では応永24年(1417年)上杉房朝より社領一町九反を寄進されたとあるらしいが、房朝は応永28年生まれなので応永年が間違っているか、寄進者が間違っていて、房方なのかもしれない。尭恵の「北国紀行」に「上野のさかひ近き越後の山中石白(上杉相摸守房定于時法名常泰旅所)といふ所」とあり、房定の旅所だったことがわかる。房朝、房定と越後守護の名が出てくるところから、湯沢は越後守護領だったのかもしれない。
万里集九について越後に入った尻高孫次郎は大儀寺まではお供をするがそこから引き返している。大儀寺跡が上越国際スキー場入り口のちかくにあるという。「石白をでて上田に赴く」と言う文は湯沢と上田は別物だった感をうけるのだがどうだろう。
以下、万里集九が尻高孫次郎と共に越後入りした時の「梅花無尽蔵」(抜粋)をみてみたい。
『「四日。石白の泉福寺を出て、上田に赴く。上田は則ち、越後の封中なり。安楽精舎有り。精舎に大會斎有り、余を午飯に留む。酔中に数詩を題す。」―略―
「小春初四。偶、上田、木録の安楽の古刹を扣ね、主盟璠玉渓老人の先考、圓叟の一十三回の忌辰に値ふ。謹んで一偈を作りて云ふ。」―略―
「五日、午後、上田の大義寺の方丈に就く。余の為に、二馬を洗ふ。且つ又、尻高孫次郎の武蔵の須賀谷に皈るを送る。關左の管領、彼の郎に命じ、余の行伴と為し、大義寺に到らしむ」―略―』(梅花無尽蔵注釈より 読み下し文)
長享二年十月三日に三国峠を越え、この夜に石白泉福寺に泊まったことがこの前に書かれている。石白は湯沢町、泉福寺は御の乱の時に焼失し、直江兼続が臨済宗円覚寺派宝珠庵として再興したという。その石白を出て上田に赴く。わざわざ上田は越後の領土内だと解説してくれている。湯沢は一種の緩衝地だったのだろうか?
上州の尻高屋敷から大儀寺までなんの障害もなくすんなり通っているかんじはそこまで尻高氏の管理下だったのかもと思える。
上田の木録(木六、南魚沼市大木六)安楽寺で大きな法会があり、招かれてご馳走になった。安楽寺の住職玉渓老人の先代お父上の圓叟の十三回忌で、玉渓老人は尻高孫次郎の弟だという。‘偶扣上田'の偶(たまたま)は本来次は大義寺に行く予定だったが尻高家の法事があったので木録に寄ったということだろうか。孫次郎にしてみればはじめから十三回忌に出る予定があり、顕定の配慮で越後に行くという万里集九が日時を合わせたのかもしれない。尻高孫次郎はここで万里集九と別れ、須賀谷の陣に戻っている。須賀谷原の戦いの真っ最中で有ったことを考えると、顕定の尻高氏への信頼がうかがえる。
この信頼の厚い尻高氏は当然顕定の越後侵攻のとき顕定側に付き戦ったと思われる。敗走した顕定軍と共に尻高氏は越後の所領もろとも失ってしまったのではないか。上田長尾は主の居なくなった山内領の土地を其のまま自分の領地として手に入れた。石白郷(湯沢)も自分は尻高氏の管理下だったのではと思っているが、越後守護領で越後守護代(為景)の管理地域だとしたら、地続きゆえになし崩しで手に入れたか、為景側につき顕定の退路を封鎖したことによる報償であったとも考えられる。とにかくも上田の庄全域を上田長尾がこの永正の乱後手に入れたのは確実だと思う。家臣達にふんだんに与えられる知行地を手にしたことが上田長尾が府内長尾に対抗できる勢力にのし上がった要因だと思う。
面白いのは、古代士籍に載っている上田長尾家老職を見てみると筆頭家老の栗林氏は享禄(1528~1532)の頃、頼長の時に信濃から越後に入部。樋口惣右衛門は2代前の兼定の時に入部と伝える。樋口惣右衛門が政景や謙信と同世代だと考えると、栗林氏よりちょっと早いぐらいの入部を想定できる。国分佐渡守(喜兵衛)は千葉氏の出自で房長の時に家臣となった。上村氏も登坂氏も信濃村上氏系で同時代の入植者と考えて良いと思う。何を言いたいかというと譜代の奉行衆のほとんどは永正の乱後に他国から入国して直臣になった人たちではないかと言うこと。
その後天文の乱がおき上条側で戦った人たちに知行を与えている。発智氏や宇佐美氏などがそれに当たる。小千谷の平子氏も一部もらっていたらしい。
調べてみると穴沢氏や桜井氏、泉沢氏などは早い時期に関東管領の地頭として入植していた人たちで山内上杉の被官で云ってみれば上田長尾氏や尻高氏と同等のポジションといえる。頭一つ抜け出した上田長尾氏が彼らと被官契約を結んでいる書状があり、寄子?寄騎として活躍。先に挙げた上条の乱(天文の乱)ですべて失った宇佐美氏に知行を与えたが謙信に対して反乱を起こしたとき、宇佐美は謙信方についた。穴沢氏と小出氏が「宇佐美を叩くなら協力する」と言うような手紙を政景に出していて、それに感状を与えている。宇佐美氏の館に火を付けたあの事件の時だと思われる。
西方氏、大関氏などは宇都宮氏が守護をしていた頃に宇都宮被官として入った人たちで後に上杉と被官契約を交わした人たち、妻有庄の下平、今井氏は信州からきて上田長尾の被官になったコース。妻有波多岐の旧新田氏の一族は、被官契約を交わしていたかどうかはわからないが(謙信の馬廻り組が多い)、取り込みたいと思っていたと思うし、実際関係も深い。上野氏も小森沢氏も御の乱のとき景勝側についたし、大井田氏には政景の弟(景国)が養子に入っており、兄亡き後上田の守将として働いていて、大井田氏は景勝シンパとしてその後も協力している。ほとんど直江配下で占められた佐渡奉行に就任して信頼度の高さを伺わせている。景勝の従兄弟、基政は共に米沢に移ったが、乱心のため所領没収の憂き目にあっていたりするのだが…
福島掃部と齋木土佐は為景公より御付人とあるので、府中からきた人たち、黒金氏や宮嶋氏なども政景亡き後、謙信に派遣され、上田衆として土着した人達ではと思っている。(戦歴などから)
深沢氏浅間氏(上州系?)はよくわからなかった。定勝の時代に台頭してくる上田五十騎組の広居氏や三俣氏などは坂戸や木六、湯沢の在地豪族だったのではないだろうか。
こうして上田三庄の寄子化に成功し、上田長尾から直接所領を貰い奉公する直臣が増えたことで上田長尾は、越後守護代の地位すら望めるようになった。
藩翰譜のいうことだけれども「景虎が姉婿上田長尾越前政景・景虎が幼を侮って、彼の所領を并せんとす。景虎その勢い二千計り、政景が八千を打ち破り同十四年、政景降人に成り、十五年、越後國悉く靡き隨ひぬ。」景虎幼いといっても政景と4つかそこらしか違わないんじゃないかとかつっこみたくなるけれど、景虎二千、政景八千といわれるくらい上田長尾は力をつけていたことがわかる。
はじめ上田庄を山内上杉領から簒奪し直領にしたのかと思っていたが、政景が上杉憲政あてに年不詳だが鮭のお歳暮を贈っていて、憲政からお礼の書状があり、たぶん偏諱も貰っていると思うので、蔵入地の年貢は納めていたのではないだろうか。
こんな風に上田長尾を見てくると、思わず政景に思い入れしてしまい、謙信が関東管領になるということは、彼の被官となることなんだと思い当たり、反発したくなる政景の気持もわからないでもないなと思った。「わしは謙信の家来などになりとうはなかったー」と叫んだかどうかは知らないけれど。
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この時期の上田長尾って面白いですよね。関東管領に従ってきたのに、反旗を翻す。下克上というか戦国のにおいがして。管領と手を切って所領を得たからには越後国内に目を向けるのは当然ですよね。上田衆は管領の家来達だったわけで反府内の気分を有して結束してたんじゃないかと。上条と組んで為景を引退させ、晴景後見の風だった頃がピークだったんでしょうね。
>深沢氏浅間氏(上州系?)はよくわからなかった。
小笠原分家が信濃国筑摩郡相原庄浅間郷に土着し、浅間を名乗っています。永正年間には越後上田庄へ移住。500石で長尾房長属臣となり、長尾政景の代には執権職を務めています。(浅間氏系図より)
上田衆たちの家系は山形県米沢市にまだ現存しているようです。
貴重な資料教えてくださりありがとうございます。
小笠原氏分家!名家だったのですね。しかも永正年間に上田移住とは!!永正の乱の後か先か気になります。
万里集九の梅花無尽蔵を見ると、白井城や沼田城などの城が出てきますが、越後に入ってからは坂戸城も樺沢城も出てきません、もちろん春日山城も。山城があちこちに出来たのが永正の乱辺りからだと思っていますが、どうでしょう??関東管領直轄地でもあったわけですし・・現在の南魚沼市民会館の場所が字館となっていますが・・・ここかもしれませんね。
普光寺に代々文書をだしていることからここの支配地は間違いのない所だと思います。後、永正の前の記録として関興庵の由緒書きがあって三世不蔵和尚の頃上田長尾氏の帰依厚くとなっていて、次の在天和尚の頃に房景から幾多の寄進を得たとなっているのでかなり前から関興庵のバックアップをしていたことからここも領地ではないかと思います。樺野沢の龍澤寺は不蔵和尚の開山、同じく大儀寺も関興庵の末寺で火災焼失の際、房長が再建したと穴沢文書にあるそうです。景実の供仏田が樺野沢の一部の田と扶原田(これはどこかわりませんでした。)樺野沢は確実に領地として持っていた事になります。なので北は浦佐、南は石打。舞子は芦名の家臣の書状で越後守護の領地のようです。石白は房定の旅所があると書かれているので湯沢も越後守護領だったのではと思います。
上田長尾の館は樺野沢にあったのではないかと思っています。万里集九が泊まった大儀寺が上田長尾の旅所兼迎賓館として使っていたのではないかと思ったからですが、景勝がここで生まれたというのもずっとここがお屋敷であったからではないかというのもそうかなあと。どうでしょうか。
魚野川で分けるとするとですが坂戸城はむしろ当時尻高氏の領地だったかもしれないですね。南魚沼市民会館は房長が永正の乱後、坂戸城を手に入れ、改修築城の後、麓の館として使ったのかもなどと妄想を広げています。
やはり樺野沢ですかね。尻高氏の木六と樺沢城は直線で3km、ちょっと近すぎるような気がしてなりません。また、万里集九の旅では、大儀寺まで来ているのに、樺沢城、上田長尾家がまったく出てこないのが???なんです。尻高孫次郎が集九を送って、上田長尾氏管理地の大儀寺までまで来て馬を洗ったりしているのも不思議な気がします。なので何の根拠もありませんが、もっと浦佐寄りのどこかに居たのではないか?なんてことも想像しています。考えすぎでしょうか?
房定に会うまで越後の武将の館にはどこにも寄ってないですよね。
尻高孫次郎の法事に招かれ安楽寺でお昼を食べただけで、木六の館には招かれてはいなくてその館についての言及もない。だから上田長尾の屋敷に触れられていない事が不思議な事とは思いませんでした。大儀寺が上田長尾の迎賓館かもなどと書いたのは自分の先走りで、安楽寺の璠記室玉渓、大儀寺の竹渓蔵主、妙高山の李渓首座と渓のつくお坊さん達は臨済宗の僧みたいなので旅のポイントで臨済宗のお寺に泊まるコースで顕定の命で彼の所領内の大儀寺まで送ったのではないかと。この時点で尻高と上田長尾の対立は書かれていないので、顕定の命令ならそこまでいくのではないでしょうか。
木六と樺野沢の距離が近すぎるというのは本当そうですよね。浦佐と六日市の間に城となると坂戸城、詰城に六万騎城とかですか。自分は結構魚野川左岸にこだわっているので縄張りがわかっているところとなるとわからないですね。
もう少し考えてみたいです。