狐・狸・祭

フラメンコの故郷よりマイペースに発信、カンタオーラ小里彩のブログです

ペーニャ主催カンテ勉強会2

2019年11月26日 12時40分32秒 | 日記
◆◆◆
(続き)
アルフレッド:「(シギリージャの録音を鑑賞後)これは、まさにこの地で時間をかけて熟成されたもの。歴史的に名を残した人々に、マルーロ、ホアキン・マチェーナ?、ティオ・ホセ・デ・ラ・パウラ、パコ・ラ・ルなどがいますが、彼らの残した足跡が自然な形で分析、消化吸収され、蓄積していったものが例えば今聞いたボローラの演技だと思う。さらりと聞いただけではむしろ退屈な音楽にすら聞こえるかもしれないシギリージャには秘密の遺伝子のようなコードが含まれており、それを育った環境やカンテへの愛によって読み取れた人が深く鑑賞することができるものだと思う。」
年代物オロロソの深い琥珀色の味わいや香りは決して最新テクノロジーを総動員しても短時間では作れないものだろう。サンティアゴという樽の中で新旧を少しずつ織り交ぜながら時間をかけて大切に熟成されていったカンテの歴史に思いを馳せる。

毎回、講義の後はアントニオ・イゲーラ氏の伴奏でホアキン・エル・サンボ氏がその日ピックアップされた歌い手のゆかりの歌を模範演技で歌ってくれます。
ボローラの日は、「昔はギター伴奏なくヌディージョ(こぶしでコンパスを刻む方法)で歌っていたわけだが、それはやはり音楽というより語りに近かった。ギターで歌うと別の要素(音楽的援助?)が入るため歌う側としては楽になるが今日はギター伴奏で『聞くための』ブレリアを歌いたいと思う」と前置きし、見事なブレリアを歌唱。

毎回この後に会員のど自慢大会的なコーナーがあり、最終日の最後はホアキン氏の姪というかわいらしいアナ・ルイサさん(息子の音楽院のクラスメートらしいので8歳くらい?)がデビューとのことでブレリアを一曲披露してくれました。高い声が初々しく、レマーテのひねりがどこか昔懐かしい感じでとっても魅力的。最後は立ち上がって一振り踊って締め、満場の拍手。周りの大人たちが大切に地域の誇りとしての次世代を育てようと一生懸命に土壌を耕し、育った芽を大切に見守ろうとしている姿がとても感慨深い。伝統芸能とは一人で守れるものではないのですよね。

3日間盛りだくさんの講義、ありがとうございました!



ペーニャ主催カンテ勉強会1

2019年11月26日 12時37分01秒 | 日記
サンティアゴのペーニャ・ティオ・ホセ・デ・ラ・パウラにて、7日のアントニオ・チャコンに続き、14日、21日勉強会が開催されました。

14日 マリア・ラ・セラーナ(シギリージャで有名なパコ・ラ・ルスの娘)とラ・ポンピ(ファンダンゴで有名なグロリアの姉)マヌエル・ナランホ・ロレート氏による講義
21日 ティア・ボローラ ホセ・マリア・カスタニョ氏司会による座談会

という、いずれも地元サンティアゴゆかりの女性カンタオーラについてでした。14日の2人はいかんせん昔の人すぎてフラメンコ研究者さんの文献が頼りって感じ…録音も『こちらヒューストン』状態(雑音が多い(´з`))…講師のコメントも、少ない手掛かりを引き延ばして話してる感じで、親近感を感じる生きた情報などは特に得られずでした。

一方の21日はアルフレッド・ベニテス氏とアントニオ・エル・プラテーロ氏という、実際にボローラの家を訪ねて歌を聞いたことがある2名のアフィシオナード親分風な老紳士の話を聞くという趣向で面白かったです。素朴な言葉の数々に温かみあるメッセージを感じました。また、途中で鑑賞するボローラの歌は改めて素晴らしく、コンパスに絶妙に乗るサリーダのアイの深さに、クジラが大海を遊泳するさまが脳裏に浮かんだ。間奏中「もっと大きい声で歌って!」というパケーラ・デ・ヘレスのハレオが収録されていて、あちこちから笑いが起きるシーンも。家まで押しかけて録音してくれたアントニオ・マイレーナはじめアフィシオナードに感謝あるのみ。

以下忘備録的に面白かった部分をピックアップ↓

ホセ・マリア:「アントニオ・マイレーナは、彼女の歌を『まるで膨らし粉のようなカンテだ』と評したと言います。彼の他にもパケーラ、カマロン、パコ・デ・ルシア等そうそうたるアフィシオナードがカンポにあるボローラの住む小屋にやって来て彼女の歌を聞いたと言いますが、その秘密はどこにあるのでしょう。」

アルフレッド:「色黒で、小さくて、しわくちゃで、童女のような微笑みを携えた、ヘレスから一度も外へ出たことのない(海を見たことがなかった)ティア・ボローラ。一度「どこでカンテを学んだのか」と訪ねたことがあります。お母さん、お祖母さんに連れられて近所の長老たちが歌うのを聞いているうちに覚えたよという返事でした。他の音楽の影響を一切受けない、純粋な、どこかオリエンタルな香りのする、リズムとコンパスを見事に操る、心に直に届くカンテ。その短い歌はもはや歌というより語りだった。美しいというより深かった。精神科医のように、心の痛みを癒してくれる歌だった。ミステリーという言葉がぴったりです。その幸せな気持ちを求めて、皆小さな小屋へ彼女を訪ねた。時には宴の勢いで夜中に家に押しかける人もおり、踊りの名手でもあった夫のフェルナンド“バタカソ”は「彼女は体調がよくないから」と無理をさせたがらなかったが、皆がどうしてもとお願いするのを聞いて快く歌ってくれた。夫婦ともどもものすごく素晴らしい人柄の持ち主だった。彼女のブレリアは、テンポは速くても『聞くための』ブレリアであった。」

◆◆2に続く◆◆

ルイス・モネオ

2019年11月11日 11時19分42秒 | 日記
先週土曜はペーニャ・ブエナ・ヘンテのルイス・モネオ氏のカンテ・リサイタルへ。伴奏はご子息フアン・マヌエル・モネオ氏。

 このペーニャは新しい場所に移ってまだ数年ですが、舞台が右側に寄ってて柱が真ん中に一杯立ってて、本当に見えにくい(生で声が聞かせていただけるだけ贅沢は言えないのですが)・・・・心落ち着く居場所(寄りかかれる壁とか(;´Д`))を確保するのが大変で聴衆もみんな手持無沙汰感満載なんですが、司会者によると再び移転の可能性も出ているとか。ぜひその際には舞台を囲んで通路が凹型の作りを渇望(厚かましいこと言ってすみません( *´艸`))!

 一部はティエント、カンティーニャス、マラゲーニャス、ソレア・ポル・ブレリア。
休憩をはさんで二部はソレア、シギリージャ、ファンダンゴ、ブレリア。

 今年は夏のフェスティバルなどで何度かルイスの歌を聞く機会があったけれど、ここ最近では断トツ一番の聴きごたえだった。舞台の近くに観客の熱気があり、反応がダイレクトに伝わってくるため、時が経つにつれてどんどん歌に艶が出てくるのがよくわかる。いろいろな人が出るフェスティバルの舞台と違い、誰のことも気にせず自分の歌だけに集中できるのはアーティストにとってもよいことなのかもしれない。やはりカンタオールの歌の良さ、個性を知るにはペーニャという場所が一番良いなあと感じた。
 そして年輪を重ねる阿吽の呼吸の親子の絆・・・ギターとカンテの呼吸がぴたりと寄り添っていて、見事でした。特にシギリージャの伴奏は間の深さが本当に素晴らしかった。ルイスもかつては歌伴奏の腕利きのギタリストだったけれど歌い手に途中で転向したという経歴の持ち主、父譲りの渋い頑固一徹職人肌風音使い。二人とも決してあまり派手ではないそのいでたち含め全てがかっこいいです。

 シギリージャ熱唱後の「フアンは私の痛みがどこにあるのか分かってくれる!」と満足そうなルイスの笑みが印象に残りました。自慢の息子なのでしょうね!(フアン氏からしたら自慢のお父さんだろうな)

「Gracias a los compañeros de mi fatiga(戦友・・・みたいなものかな?)」ペーニャ兄弟を迎えて締めのブレリアは骨太なソニケーテの洪水の中、始終リラックスした喜びに満ちての好演技!割れんばかりの拍手が惜しみなく送られました。

マヌエル・モネオ、エル・トルタが惜しまれつつ亡くなった今では、家長的な存在のルイス・モネオ氏。今後もご活躍が楽しみです。

チャコン生誕150周年

2019年11月11日 11時12分37秒 | 日記
 フラメンコ・センターのパコ・ベナベント氏に「サンティアゴ地区のペーニャ・ティオ・ホセ・デ・ラ・パウラで地元の愛好家向けカンテ・フラメンコの勉強会があるよ!是非行ってみたら」と勧めていただき、早速申し込みました。毎年恒例の歴史ある講義で、もう23回目とのこと!全3回(今年は11/7 11/14 11/21)で最後に受講終了証明書がもらえます。

 第一回目の7日は今年生誕150周年(死後90年)という節目を迎えたヘレス出身の歌い手ドン・アントニオ・チャコンについて。市役所のほうでもアントニオ・チャコン関連の催しが多々ある中、本日の講義もその一環としてのコラボ企画とのこと。

あらかじめ手渡される資料には一通り1869年から1929年まで彼の人生の歩みを知らしめる文献が。なかでも、15歳の時に、同郷で同世代のハビエル・モリーナ(ギター)、アントニオ・モリーナ(バイレ)兄弟と3人でカディス県・セビージャ県・ウェルバ県の村々をほぼ徒歩で旅し、色々な出会いや冒険を経て芸術家として成長していったというハビエルの手書きの手記はとても生き生きしていて興味深かった!当時は旅をすること自体とても珍しく、フラメンコのアーティストという職業も身分としては低かった(ほぼ変人さん)にもかかわらず、世間体をものともせず3人の若者は各人自分の進むべき芸の道を理解し、手に手を取って裸一貫で世界に飛び出していった——とても価値あることだと思う。のちにマラガのカフェ・チニータスに出演して地元の偉大な歌い手ファン・ブレーバと出会ったことをきっかけにマドリッドへ。そこで大劇場をも上流階級・知識層の聴衆の喝采で満たす『カンテの帝王』としての確固たる地位を築くが、晩年はオペラフラメンコの流行等に押されて時代遅れとして寂しい最後を遂げたというのがとりあえずの定説らしい。

ホセ・マリア・カスタニョ氏の司会のもと、歌い手ダビ・ラゴスとエゼキエル・ベニテス両氏が壇上へ。「チャコンの魅力を一番知っているのはそれを歌おうと努力し聴き込んだ人」という観点から2人を招いての対談が企画されたそう。

「チャコンと言えばマラゲーニャという固定観念があるが、それは危険。また録音を聴くと声がテノールの印象→コプラの歌い手等どこか甘い感じ・・・とイメージする傾向があるが、聞く側は鑑賞する際怠惰にならないよう気を付けないといけない。」とダビ・ラゴス氏。それを証明するかのように、続いて1909年のシギリージャの録音を鑑賞。過去と現在をつなぐ遥かな糸をそっと手繰り寄せるように会場シンと静まる中、耳を澄ます。

フアン・ブレーバが「チャコンのマラゲーニャは革命的だ」と評したというエピソードから、幼いころチャコンのマラゲーニャ聞いて「これを歌いたい!」と感じたというエゼキエル・ベニテス氏(渋いお子さんだったんですネ!)は「ゆっくり引き延ばして聞き、音程や息遣いの繊細さなどいかにこの巨匠が非凡であったか痛感した。たった一つのレトラを歌えるようになるまでインプットに2か月もかかった」とのこと。

その後、舞台転換しペーニャ会長でもある歌い手ホアキン・フェルナンデス“エル・サンボ”氏が登場。アントニオ・イゲーラ氏の伴奏で模範演技としてチャコンのグラナイーナとメディア・グラナイーナが歌われました。さすがの貫禄・・・ところが、ちと最後は息が苦しそうで海女さんが水面に酸素を求めて浮かび上がるように椅子を立ったホアキン氏!「チャコンに殺されるかと思った」とのコメントに続き「アントニオのギターは生命保険みたいなものですね」とのカスタニョ氏の突っ込みも絶妙で観客は大爆笑でした。
 次回も楽しみです。

フラメンコに見るロマ語の足跡 その2

2019年08月17日 14時46分00秒 | 日記
 では、フラメンコの歌詞によく出てくるカロとロマ語はどう違うのだろうか。「カロは、言語でも方言でもありません。ロマ語のいくつかの語彙がスペイン語化され、隠語として使われ定着したものです。例えばcamelarという動詞は愛するという意味ですが、一人称単数camelo、二人称単数camelas、一人称複数camelamos…という風にスペイン語文法の動詞活用をします。これはロマ語文法とは一切関係ありません。」共存や混血が進む中で南アンダルシアに住み着いたロマのアンダルシア化、アンダルシア人のロマ化が緩やかに行われ、文化や言語が融合されていった。他国のロマから見て、こんなにもスペインのロマがロマ語を忘れていることは実に不思議だそうだ。国土も共通の宗教も持たない、世界各国に散住しているロマ民族を同一民族たらしめているのはロマ語に他ならない。彼らの間では「ロマ語を操るかどうか」で仲間か否かを判断するのが一般的なのだそうだ。

 一方で、ヘレスのいわゆるパジョ(非ロマ)の「ロマ度の高さ」も同様に驚かれるというから面白い。「ここへレスではパジョも無意識のうちに驚くほど多くのロマ語起源のカロを操って日常生活しています。例えば若い男性を指すchabal(女性はchabala)はロマ語のchabo起源。「me vale(事足りる)」 の意味で使う「me mola」というのも同様です。面白いのは、パジョ男性を指すgachóと言う語をパジョ同士で単に「あいつ」という意味で使うようになっていること。ちなみに、この語に関しては、複数形の語尾変化もスペイン語風に gachosとならず gachéとなり(女性形は単数がgachíで複数がgachias)、標準ロマ語の語尾変化と一致するんです。」
カロ以外にも、死、排泄、性にまつわるタブー用語の多用、縮小辞(cama→camitaなど)の多用などアンダルシア特有の日常生活における言葉遣いとフラメンコへの影響についても言及した。

 現在フラメンコのルーツを探る研究も大学研究機関を通して盛んに行われているものの、まだまだ根強い差別の念から根拠のない嘘がまことしやかに語られたり、教授陣に当事者のロマ出身者や現役アーティストがいないことが問題視されている。
 「我々は何世紀もの間研究材料にされて閉口しているわけですが(笑)幸いなことに、スペインにおけるロマの社会的地位は他国の同胞がうらやむほどに向上しました。今までは日々のパンに追われてパジョが制定したフラメンコにまつわる様々な定説を覆すほどの研究をする時間的、経済的ゆとりはなかったわけですが、現在では実力のある人が台頭してきている。」

「どの学問に関しても言えることですが、大切なのは常識とされている物事を疑うこと。それこそが、真実に近づき、より深くフラメンコを味わうためのカギと言えるでしょう。例えば、結婚式で歌われるalboreaの語源は、長らくアンダルシア語の明日を意味するalboradaから来ていると考えられてきましたが、今ではロマ語のエル・ボリア(嫁たちへ)であると明らかになっています。ちなみにこの曲はロマ社会の外で歌う事がご法度だったにも関わらずラファエル・ロメーロ“エル・ガジーナ”が初めて録音して世に出し、当時は大いなるセンセーションを巻き起こしたという過去がありますが、今ではよく知られる曲種となりました。この曲のリフレインの「yeli」は音だけの効果を狙ったいわゆる「ロライロ」ではないんです。ロマ語のyalar——やはり去るという意味ですが、(彼女は新しい家族と一緒に)行ってしまった、という含みなんですよ。有名なヒターノ賛歌yelen yelenも同じ動詞で、こちらは訳すと「anduve anduve」となります。個人的に今興味深いのは、ハンガリーのロマ社会にシギリージャとリズム、音楽性、歌詞のテーマなど実にそっくりな音楽が存在すること。シギリージャはその語源自体も含めまだ研究段階ですが、共通点を調べるうちまた新しい発見があるかもしれません。」

 最後にホアキン氏にズバリお勧めのカロとスペイン語の辞書を尋ねるも、「今現在、太鼓判を押せるほどよいものが残念ながらまだ世に出ていない。強いて言うならば、ロマ文化研究機構が出版した『Sar San?(お元気ですか)』という名のロマ語入門書がお勧めです」とのこと。
 フラメンコの軌跡を探る口実でロマ語の勉強を始めてみるのも、なかなか楽しいかもしれない。