狐・狸・祭

フラメンコの故郷よりマイペースに発信、カンタオーラ小里彩のブログです

チャコン生誕150周年

2019年11月11日 11時12分37秒 | 日記
 フラメンコ・センターのパコ・ベナベント氏に「サンティアゴ地区のペーニャ・ティオ・ホセ・デ・ラ・パウラで地元の愛好家向けカンテ・フラメンコの勉強会があるよ!是非行ってみたら」と勧めていただき、早速申し込みました。毎年恒例の歴史ある講義で、もう23回目とのこと!全3回(今年は11/7 11/14 11/21)で最後に受講終了証明書がもらえます。

 第一回目の7日は今年生誕150周年(死後90年)という節目を迎えたヘレス出身の歌い手ドン・アントニオ・チャコンについて。市役所のほうでもアントニオ・チャコン関連の催しが多々ある中、本日の講義もその一環としてのコラボ企画とのこと。

あらかじめ手渡される資料には一通り1869年から1929年まで彼の人生の歩みを知らしめる文献が。なかでも、15歳の時に、同郷で同世代のハビエル・モリーナ(ギター)、アントニオ・モリーナ(バイレ)兄弟と3人でカディス県・セビージャ県・ウェルバ県の村々をほぼ徒歩で旅し、色々な出会いや冒険を経て芸術家として成長していったというハビエルの手書きの手記はとても生き生きしていて興味深かった!当時は旅をすること自体とても珍しく、フラメンコのアーティストという職業も身分としては低かった(ほぼ変人さん)にもかかわらず、世間体をものともせず3人の若者は各人自分の進むべき芸の道を理解し、手に手を取って裸一貫で世界に飛び出していった——とても価値あることだと思う。のちにマラガのカフェ・チニータスに出演して地元の偉大な歌い手ファン・ブレーバと出会ったことをきっかけにマドリッドへ。そこで大劇場をも上流階級・知識層の聴衆の喝采で満たす『カンテの帝王』としての確固たる地位を築くが、晩年はオペラフラメンコの流行等に押されて時代遅れとして寂しい最後を遂げたというのがとりあえずの定説らしい。

ホセ・マリア・カスタニョ氏の司会のもと、歌い手ダビ・ラゴスとエゼキエル・ベニテス両氏が壇上へ。「チャコンの魅力を一番知っているのはそれを歌おうと努力し聴き込んだ人」という観点から2人を招いての対談が企画されたそう。

「チャコンと言えばマラゲーニャという固定観念があるが、それは危険。また録音を聴くと声がテノールの印象→コプラの歌い手等どこか甘い感じ・・・とイメージする傾向があるが、聞く側は鑑賞する際怠惰にならないよう気を付けないといけない。」とダビ・ラゴス氏。それを証明するかのように、続いて1909年のシギリージャの録音を鑑賞。過去と現在をつなぐ遥かな糸をそっと手繰り寄せるように会場シンと静まる中、耳を澄ます。

フアン・ブレーバが「チャコンのマラゲーニャは革命的だ」と評したというエピソードから、幼いころチャコンのマラゲーニャ聞いて「これを歌いたい!」と感じたというエゼキエル・ベニテス氏(渋いお子さんだったんですネ!)は「ゆっくり引き延ばして聞き、音程や息遣いの繊細さなどいかにこの巨匠が非凡であったか痛感した。たった一つのレトラを歌えるようになるまでインプットに2か月もかかった」とのこと。

その後、舞台転換しペーニャ会長でもある歌い手ホアキン・フェルナンデス“エル・サンボ”氏が登場。アントニオ・イゲーラ氏の伴奏で模範演技としてチャコンのグラナイーナとメディア・グラナイーナが歌われました。さすがの貫禄・・・ところが、ちと最後は息が苦しそうで海女さんが水面に酸素を求めて浮かび上がるように椅子を立ったホアキン氏!「チャコンに殺されるかと思った」とのコメントに続き「アントニオのギターは生命保険みたいなものですね」とのカスタニョ氏の突っ込みも絶妙で観客は大爆笑でした。
 次回も楽しみです。

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