giornale di musica

「吾沙鷺百式」主宰 ギター弾きのまつもとあきら

科学データに基づいた現実的な話がきけない人達のこと

2012-10-08 | 検証・まとめ・資料集

今回は長文です、ゴメンナサイ。

なんかわかってきたかな。
科学データに基づいた現実的な話がきけない人達のこと。

彼らがいつも言うのは理解できない際に
「共感できない」「納得できない」「責任とれるのか」。

先に言うと、「現実的な話」は
通常、彼らにとって
「共感できない」「納得できない」「責任とってくれない」
ものであって当然、という結論です。

「共感できない」のは、
自分の心理にそぐわないから。

「納得できない」のは
自分の気持ちが求めてる結論じゃないから。

「責任とれるのか」というのは
面倒みてもらおうと思ってるから。

言い換えると、彼らが
「共感できない」「納得できない」「責任とれるのか」
と言いたくなる話こそ、
ちゃんと検証する価値のある話だと判断していい、ということです。


普通の社会人てのはさ、
基本的に自分のこと、もしくは周辺のことで精一杯なんですよ。誰でも。
仕事と家族とプライベート。さらに大災害。故郷のこと。復興のこと。
だから、見ず知らずの人の面倒見る余裕なんかないんですよ。誰でも。

今東北にいて、あるいは関わって、
そのためにちゃんと放射能の影響考えてる人達っていうのは、
自分や家族、友人たちが関わる上に於いて、
どう関わっていくかという前提で検証してるわけ。

ツイッター上で検証情報出してる人っていうのは、
そうやって自分のために調べたものであって、
その経緯がこれから調べようって人にも役に立つだろうから公開してるってこと。
つまり、自分で責任持ってる人「同士」の情報交換であって、
困ってる誰かの面倒見てあげようって思ってるわけじゃない。

それは冷たいんじゃなくて、誰しもそんな余裕ないのが「当たり前」なんだよ。

それってさ、就職でもアルバイトでもそうでしょ。
指導役の人だって自分の仕事が精一杯で、
必要な研修、指導はするけど、
それでついてこれない人の面倒丁寧にみてあげようなんてことは
一般社会では通常ないのが「当たり前」。

だから、まっとうに検証してる東北の人たちは
みな「自分で勉強してください」って言うのが「当たり前」。
なぜなら「自分で手間暇かけて勉強してきた」人ばかりだから。
手取り足取り教えてあげようなんて人は普通いません。

ツイッターだと勘違いする人多いけど、
リプは自由に飛ばせるけど「見ず知らずの人」であることに変わりはないでしょ。
一、二回質問には答えてくれても、いきなり質問攻めにしたら
何でいくつも丁寧に答えたらないかんねん、おれそんな暇ちゃうわと思うよ誰でも。

ところが世の中には、
自分で責任持てない人たちに優しく手を差し伸べる人って言うのもいる。

中には人並み外れて優しい性質の人っていうのも稀にいるんだけど、
自分がそれできるかどうか考えてみたらいい。
社会人の立場で、見ず知らずの人達の面倒とことん見てあげようってヒマなことあなたならできるの?

世の中にそういう人がいた場合、
たいがいはね、「見ず知らずの人達の面倒をみること」が受益になってるはず。

あ、これは別に悪い意味で言ってるわけじゃないよ。
いわゆるカウンセリングとか、私がやってる講師業てのもある意味これにあてはまるわけで。
これはね、対価を得られるから成り立つわけ。

私の場合はギターや音楽の技術、知識を教えるのが仕事だけど、
対価もらえずに時間と情報提供しようとは思わない。
これは職業なら「当たり前」でしょ。

企業で研修するのはスタッフがスキル身につけてくれないと業務にならないから。
何もスタッフの人の人生にプラスになるからとかでやってるわけじゃない。

世の中には楽器無料で教えますって人もいるんだけど、
そういう人はそれで対価得なくてもいいだけのお金があって、
教えるのが趣味だったり若い子とコミュニケーションが楽しみだったり、
その人なりのメリットがあってやってる。

でも、そういう人に「専門職」のレベルの人はまずいない。
だって、「専門職」のレベルに辿りつくのにかけた費用と時間は
趣味で人に提供できるような安っぽいものじゃないから。


んでね、原発事故から1年半以上も経って、
これだけあらゆる情報が提示されてる今以て放射能怖いって言ってる人達っていうのは、
まだ自分でちゃんと向き合う気持ちが持てない人。

そういう心理では、「自分で勉強して」って言われると
突き放されたような気持ちになるから納得できない。

そして、自分の「コワい」って気持ちを肯定してくれる情報はストンと受け入れちゃう。
なんでか、それが心地いいから。

「正しいかどうか」でなくって、「心地いいかどうか」、で判断しちゃう心理になってるんですよ。
こういう心理の人は、不安を肯定してくれる人を求めてる。不安を裏付けてくれる話を求めてる。

こうなると、「不安ですよね、わかります」って切り口で始まる話は素直にきいちゃう。
聞いてしまうと、その人がいう「不安ならこうしてみましょう」と薦められることは素直にやろうと思っちゃう。
カルト宗教の怪しいセミナーやら修行やら、傍から見たら変なのってことにのめりこんじゃう。

傍から見たら明らかにおかしくっても本人が心地いいからやっちゃうんですよ。
んでさ、そこまででなくても、
放射能に効くって聞けばただのサプリを数千円でも買うし、
内部被ばくに効くと効けばただの水を数千円でも買っちゃう人がたくさんいたわけでしょ。

程度に差はあれど一緒です。
で、見ず知らずの人が傍から見ておかしくても本人が納得してるなら
いちいち(直接は)口出ししないよね。身内や友達なら別だけど。

社会では「自分のことは自分でやって」が当たり前。人の面倒なんか見てくれない。
それが当然だから、やたら自分の面倒見ようとしてくれる人がいたらむしろ変。
何で?って疑わないと、何があるかわかったもんじゃない、でしょ。


まとめると、

・「まっとうに検証してる一般社会人が、見ず知らずの勉強する気がない人の面倒見てくれる」
なんてまずありえない。
・「まっとうな検証してる人は突き放す厳しい態度と感じる」ので共感できない。
・「間違ってても自分の心理を肯定してくれるもの」は素直に共感できる。

言い換えると、
・自分で勉強してって厳しい態度の人は自分で責任もって検証してる人と見ていい。
・現実的な情報は必ずしも自分の心理を肯定してくれるとは限らない。
・自分の心理を肯定してくれるものに囲まれてる状態は、
自分を客観視できてない、現実が見えてない状態、ではないか。
・自分の心理を肯定してくれない情報こそ、冷静に現実を直視して考えるべき情報ではないか。

「納得できない」「責任とれるのか」というのは、
・「納得できる結論を自分の力で求めてない」
・「自分で責任もって考えてない」
と断言してよい。

そうでなければ
「自分はこういう根拠を以てこう結論づけているから」
と責任もって反証をいうはずだから。


結論として、

「現実的なまっとうな情報」は、

コワいって心理が強い人には
「突き放されたように感じる」し、
「納得できない」し、
「責任持ってくれない」もの、

ということになるね。


じゃあ、脱脳した人は何で受け入れられたのかな?そこに脱脳の鍵があると思うんだ。

これは言葉で言うのはカンタンです。
「コワいって心理を肯定することを一旦やめる」こと。

そうすれば、
「突き放されてる」んじゃない、「自分のことは自分で考えることが当たり前」
ってことに気付いて、
「納得できない」なら「自分が納得できるまで調べる」ことができるし、
「責任は自分で持てる」から、自分の不安と向き合うことができるわけです。

多くの人のその動機は、
「自分が東北に関わるなら、怖がってばかりではいられない」
もしくは、
「東北を無闇に避けようと騒ぐことで、不当に傷つけてることになってないか」
って考えることがきっかけになってるケースが多いように見受けられます。

当地の方はもちろんですし、
圏外の人でも家族、親せき、友人がいた場合とか、支援活動に関わる人とか。
私もそう。震災があった3月からいわきに通ってたからね。

脱脳できない人は「東北と関わろうと思ってない」人が多くないかな。
我が事にする必要がない、他人事でいい、目をそむけたままでいい、
そういう人が多くないかなと思う。

言葉で言うのはカンタンだけど、自分の心理を乗り越えるってなかなか困難なもの。
やろうと思うと、かならず一定期間「自分の心理に抵抗感を持ち続けること」になるから。
でも、現実を直視するって、通常そういうことのはずなんですよ。

自分だって、別に特別危険でないものに抵抗感じたり受け入れられなかったり、
そういうことで克服できないでいるものもあるからね。。


最後に、
「突き放されたようで厳しい」と感じるかもしれませんが、
自分で責任もって一歩踏み出そうとする人には
手を貸してくれる(差し伸べる、ではないね)人はたくさんいます。

「信者」ではなく、「同士」になろうと意思表示すること。
それが自分で責任もって踏み出す第一歩。

私のブログの情報検証ページも、
そういう人の一助になれば、という気持ちで書いてますので、
ご参考にされてください。

ただし、私とて人の面倒いちいち見るほど暇じゃないので、
「共感できない」「納得できない」「責任とれるのか」
と言われても、「はい、それで結構です、ご自由に」と言うのみです。

放射能の情報検証はだいたい出そろったのでもうそろそろ終わり。
私自身にはすでにもう必要ないし、他にせないかんことあるからね。


どう?
「共感できない」「納得できない」「責任とれるのか」
と言いたくなる人にとって、
抵抗感たっぷりの
スッキリしない話に仕上がってると思いますが。
いかがでしょうか。



注。

こういう話するとき必ず添えておかないといけないこと。
「必ずしも全ての人にあてはまるわけではない」。

様々な事情の人がいますから、一概に言えることではありません。
私が自分で見て触れた範囲に基づいての、一個人の一般論としての考えです。

読み手によって受け取り方は違うでしょうけど、
はっきりした事実誤認でなければ、自由に解釈して頂ければ良い話です。


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