酔歩会の記録

健康の為アウトドアで気持ちよく活動している男の記録

大阪くらしの今昔館 (其ノ参)

2006年05月14日 | ご当地紹介
 さて家の中も覗いてみましょう。リアルな体験ができると思います。


下の写真は「かまど」ですが大坂では「へっつい」と言います。

今で言う「流し台」ですね。木でできているから不思議な気がします。







ずっと手抜きをして写真だけを並べました。
この便所は随分狭いと思いませんか?この便所は長屋の便所です。
1枚前の写真が商家の厠です。
この時代から格差というものは存在していたのだ。
何も小泉政権になってから酷くなったのでは無いのです。

これでタイムスリップ編はお終いです。





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14 コメント

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凄い凄い、すんごく懐かしいぞい (熊子)
2006-05-15 00:36:50
ああ、とうとう、昭和の30年代の熊子3歳の想い出の我が家の流しが目の前に・・・。そうそう、釜戸はこうだったな。土間って言っていたな。母が釜戸に薪をくべて(火をつけて)、なんだか木の棒をフーフー吹いて、パチパチと火が強くなり、お釜がグツグツいっていい匂いを想い出します。そしてお釜からご飯をおひつに移して釜の底についたコゲをヘラでこそげて、私らチビの手に少し乗っけて塩パラパラしてくれて、父が食べる前にご相伴でした。そして便所の様子、そうそう、こうでしたよ(下の写真)。便器は取り外しているのかな?、それも当時は外便所でしたから、夜になると母が懐中電灯を照らしてくれてね、用をたしたもんですたい(笑)。水瓶にひしゃく、そして井戸、、、。懐かしいな。手洗い用の水を溜めた容器で、口を手で押すと水が出る奴もあったはずだけどな?。井戸からポンプになって、ポンプから外水道になって、各家庭に水道が引かれて、ボンベガスが普及されて北の生活が様変わりしたのは昭和36年の現天皇陛下の結婚式のとき。すでにテレビもあって、相撲も我が家に見に来る人がいました。テレビ(白黒14インチ)・洗濯機(搾り器付き)・冷蔵庫(一層式)・ガスレンジ(ガス口一個)、母の生活が一気に楽になったときを想い出します。
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一番下の便所 (あまもり)
2006-05-15 12:17:09
山肌にへばりつくように家々が建てられていたとある田舎に泊まった時に体験。

便所は外にあり、便所の外にも中にも電灯は無し。戸を閉めれば真っ暗け。中はこのように四角くくりぬかれているだけ。

外の月明かりで穴の場所を確認し、恐る恐る入ったことがありました。

江戸時代の長屋の便所はまともな戸も無かったって聞いたことがあるけどほんとかなぁ。

へっついさんという落語を聞いて、へっついさんが想像できなかった。かまどのことだと随分あとになって知る。当時大阪ではもうかまどが無かったからへっついという言葉も死語になっていたんやろか?

お釜は知ってるで、かんてき(七輪)に炭入れて炊いていたのを知っている。

多くの説明はいらないほど、写真が充実しています。

一度行ってみよう。



ものもらいのこと「めばちこ」と言いまっせ~。

むしろ「ものもらい」を最初に聞いた時、理解できなかった。
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姉様へ (酔歩)
2006-05-15 21:24:56
姉様のリクエストがあったので室内を写した写真を寄せ集めてみました。

こんな中途半端な写真でもこれ程喜んで頂けるとはとても嬉しいです。

初めからトイレに便器は無いはずです。なんせ江戸時代ですから・・・・。

きん隠しが登場するのはもう少し時代が下ってからではないかと思います。

北海道の近代化は内地に比べるとそうとう遅れていたと聞いています。

うちの嫁さんなどが子供の頃は、冬の朝には湯のみの水が凍っていたとか、汲み取りは冬にはできなかったとか、私には信じられない出来事がたくさんありました。

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あまもりさんへ (酔歩)
2006-05-15 21:58:11
そうそう、大阪では「へっついさん」と「さん」をつけて呼ぶことが多いですね。

写真が多いとのお褒めの言葉、恐縮しています。

あまり室内の写真を撮らなかったので後悔しています。

ここが好きな人はずっと座っている人もいますから長期滞在もOKみたいですよ

今度はあまもりさんが是非行かれて、たくさんの写真を写してきて発表して下さい。



大阪人が方言とは思っていない言葉で、「違う」ということを「ちゃうちゃう」と思わず言ってしまいますが、これは関東の人には非常に奇異に聞こえるようです。

「ぼんさんが屁をこいた」と言わずに「だるまさんがころんだ」と言うのも、初めて聞いた時には変だった。

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うんうん (熊子)
2006-05-15 22:52:36
そうそう、冬の便所は大変でしたね。なんせどんどん凍って膨張し使用禁止になるぐらいの悲惨さで、父は毎回鉄の棒で砕いてくれて、、、、食後だからいいよね(笑)。水洗になったのが高1の年だからね。それにね、奥様の時代はどうだったかな、小学校時代はね、縄にゴザがかかってし切りになってね、細い溝が長く長く掘ってあって、運動会のときはそこでね・・・!!後は解るべさ。そんな小学3年時代でした。母や姉にはその記憶が消えていてね、しっかし、おいらはきっちり記憶しているんだわ。シモネタ大好き熊子でした。あ!DDTって解るかな?熊子小1まで毎晩DDTでしたよん。熊回顧録どんどん蘇りますわい。
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DDT (あまもり)
2006-05-15 23:13:02
淡い記憶の隅にある・・・あの真っ白な粉だべさ。

確か、大掃除の時に畳の下に振ってあった記憶がある。

た・だ・し、頭にふった記憶はなし。

しっかし、DTTの話は酔歩さんには分かれへんやろうなぁ。

鉄の棒で叩き割るのはさすが北海道。

大阪が下水道完備したのはいつ頃だったかなぁ。

小中学校はボットントイレであったことは確か。

でも、トイレ用の細長い溝は知らない。これってまるで中国式やね。びっくり。



酔歩さん、そうそう、懐かしい言葉を思い出してくれること。

ぼんさんが屁をこいた。大阪はこれですよね。

お坊さんも人間、屁をこくことあります。

だるまさんは転ぶんじゃなくて転がるやろが。

ツッコミ入れたくなります(笑)
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姉様へ (酔歩)
2006-05-16 20:25:44
DDTは知識として知ってます。ノミ・シラミ駆除の為に頭に振った白い粉の薬品ですね。

さすがにそれの経験は有りません。



でも凍った糞尿を棒で突き崩した話は、旭川で聞かされましたよ。

今でこそ冬場でも室内では半袖Tシャツでいられるほどの環境が整っていますが、一昔前までは悲惨な越冬状況であったのだなぁと感じています。

良い時代になったもんです。

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あまもりさんへ (酔歩)
2006-05-16 20:36:45
私の小学生時代もまだ木造校舎でして、トイレは薄暗い汲み取り式でした。

私は絶対に学校では大便はしないでおこうと強く心に誓ったものでした。

もちろん私もDDTの経験は有りませんが、知識としてはありました。

それよりもこんな古い話ばかりしていてまた思い出したのですが、小学校で1年に1回ぐらいチョコレ-トのようなものを貰って食べませんでしたか?

私の記憶ではそのチョコレ-トを口の中に入れて舐めていると、中にオレンジ色の物体が入っていました。

それを貰って食べるのを楽しみにしていたもんです。

今から思うとそれは回虫退治の薬であったのではないかと思うのですが・・・・。

あまもりさんなら真実をご存知ではないでしょうか?
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懐かしい~ (ラベンダーK)
2006-05-16 21:36:14
私が子供の頃、山形にある祖母の家は茅葺屋根の古い家でかまどがありました。

トイレも外でまたぐだけのものでした。

薄暗いし、トイレの下から「手が出てくるよ」と従兄にからかわれて言われた言葉が怖くてトイレが恐怖だったことを思い出しましたよ~



「だるまさんがころんだ」が大阪では「ぼんさんが屁をこいた」って言うの~

初めて知りましたー(笑)
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それはね (熊子)
2006-05-17 01:32:00
虫くだしだべな。回虫なんてゾロゾロいた時代を若も一緒に過ごしたんだね。うん、その昔の北の冬は大変だったわ。わが家ではないが、朝起きたら自分の息でまつ毛が凍って目を開けれなかったとか、屋根の隙間から霜がサラサラ降ってきたとか、そんな時代は確かにあったわ。熊も歩いて通った小学時代はマスクの下から出た自分の息で長い長いまつ毛が凍ってウェンウェン泣くとね、当時は優しかった若草姉妹の姉たちがみんなでハーハー息をかけて溶かしてくれたもんです。懐かしい姉妹愛でした。若、昔ばなしはおもろいな。
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