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こじこじ

こじろうの写真や日々のできごとなど

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

2008-09-06 | 
映画「ブレードランナー」の原作ですね。
映画、小説ともにカルト的な人気を誇る作品で、
作品中に登場する台詞や概念、あるいは
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
 (Do androids dream of electric sheep?)」という
タイトルなんかをもじったものを
いろんなところで見かけます。

いまぱっと思いつくものは「GANTZ」の
ねぎ星人でしょうか。
「ねぎだけでじゅうぶんですよ!!」ってやつ。
ブレードランナーに似たような台詞があります。

あと「封神演義」という漫画で、
ある登場人物が着ているTシャツに
さりげなく「デンキヒツジ」とプリントしてあったり。

最近だとL'Arc〜en〜Cielのシングル曲
「NEXUS 4」は
本作に登場するアンドロイド、ネクサス6型から
きているんじゃないかと思います。
「迷える僕等は夢見てる electric sheep」
なんていう歌詞があるので間違いないでしょう。

そんなかんじにさまざまなジャンルで
多大な影響を与えている作品なので
いまさら内容について言うことはないんですが
このまえ、ぱらぱらっと見返してみたら
ひとつだけ気になる部分が。

「1992年1月3日の予定表を調べると・・・」

という文。
はい、そうなんですね。
1992年の設定なんですね。

第三次世界大戦後の荒廃した世界が舞台で、
人間と見紛う性能のアンドロイド
ネクサス6型が生産され、
人々は他の惑星に移住を始め、
ムードオルガンでその日の感情をコントロールし、
車は空を飛んでいる世界、なんですが
1992年なんです。

どうでもいいじゃないかって、
まぁ、どうでもいいんですけど
俺は結構こういうの気になっちゃいます。
てっきり未来の話だと思って世界観に浸ってるところで
急に現実に引き戻されてしまうというか。
いや、違うかな。
なんというか、
「未来の世界を想像しつつ読む自分」で
いいはずなのに
「設定は過去だがそれはとりあえずおいといて
 これからこういう未来もあるかもしれないと
 想像しつつ読む自分」なんちゅう
余計な視点が加わってしまって
なんともいえない気分になってしまいます。
わけわからないですね、すみません。
自分の生きている世界の延長としてではなくて
パラレルワールドとして読まなくてはいけなくなる、
と表現したほうがいいのでしょうか。

映画化(1982年)の時点で、さすがに
間に合わんと思ったのかブレードランナーは
2019年の設定になってます。
今からあと10年ちょっとです。
それまでにネクサス6型は生まれるのでしょうか。

神々の指紋

2008-08-01 | 
グラハム・ハンコックの
「神々の指紋」という本ありましたよね。
「世界ふしぎ発見!」なんかでも取り上げられて
ちょっとしたブームになったので
知っている人も多いと思います。
とくにTBSのハマり方は相当なもので
そのころ「神々のいたずら」「神々の詩」
なんていう名前の番組を立て続けに作ったのも
神々の指紋の影響じゃないかと、勝手に思ってます。

読んでない方のために本の内容を説明しますと、
ポイントは「1万年前」です。
マチュピチュ、ピラミッド、テオティワカン、
地球上には不思議な遺跡が数多くありますが
それらから読み取れるメッセージは皆、
あるひとつの時代を指し示しているんです。
つまりそれが1万年前です。
1万年前、地球上には超古代文明が存在していました。
それを示す証拠が世界各地の遺跡や伝承に
はっきりと残されているのです。
みたいな。

中2のときに神々の指紋を読んだのですが
中2男子にこういうもの読ませちゃいけませんね。
かんっぜんに信じちゃいました。
だって超古代文明とか言われちゃったら
わくわくするっしょー。
中学校の選択社会で、自分で自由にテーマを設定して
レポートを書くというのがあって
ピラミッドをテーマにしたんですが
神々の指紋に書いてある通りのことを
書いてしまったんです。
つまりは、ギザのピラミッドが
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓だというのは
嘘っぱちであり、これらは
1万年前に存在した超古代文明が
自らの卓越した技術を後世に伝えるために
建設したモニュメントであると。

どうだ!
定説は覆ったぞ!
みたいな勢いで。

マジです。
マジだったんです。
あれ読んで先生なんて思ったかなって
考えると赤面しちゃうんですけどー。

神々の指紋が世間でトンデモ本としての
扱いを受けていることを知ったのは
だいぶ後のことですよ。
え!そうだったの!?ってかんじで
もうびっくりしました。
でも大人になってからあれは間違いでしたなんて
言われても、もう無理なんですよね。
超古代文明が作ったって刷り込まれているもんですから。
だって、どう考えてもね、
階段を一歩一歩上っていくような
進歩の仕方では絶対に建築不可能な遺跡、
結構ありますよね。
エレベーターでぐーん!と上ったみたいな。
それが超古代文明なのか宇宙人なのかはともかく
何者かが一枚かんでるんですって。
アホだと思われるのもいやなので
おおっぴらには言わないですけど
やっぱりどこかでそう思ってます。

生物と無生物のあいだ

2007-08-19 | 

興奮しすぎて鼻血出そうになった本。
『生物と無生物のあいだ』

とにかく文章がかっこいい。
一文一文にゾクゾクして
ページをめくる手がとまらなくなる。
小説読んだってなかなかこんな感覚にはならないのに。

「遺伝子の本体はDNAである。」
たったこれだけの文章でもシビれてしまう。

ただ、読み進めるうちに、読むスピードが失速してきた。
その原因はなんだろうなと考えたときに
たぶん、やりすぎたのではないかと。
観客を泣かそう泣かそうとしてくる映画を
見てるような感覚になってしまった。
残念だけど、そのテにはひっかかりませんよ、
っていう一歩引いた見方をしてしまう。

もうひとつ、
それとはまた別の問題なんだけど
例えば、
タンパク質がくっついたり離れたりする様子を
「かすかな口づけ」とか「接吻」なんていう
言葉で表現されてしまうと
読んでるほうはウヒャー!やめてー!となって
どうしていいかわからなくなる。

こういう文章を次から次へと生み出せる
著者の福岡氏は、結構なナルシストじゃないかと
勝手に想像してるんだけど、
ほんとのところはどうなんだろう。

まぁでもそういう部分を考慮しても
文系の人には強くおすすめしたい一冊。
学術的な内容もわかりやすく書かれているし、
馴染みの薄い、理系の研究者の世界を垣間見ることができる。

『逆転』

2007-04-09 | 
伊佐千尋のノンフィクション
『逆転』を読んだ。

1964年、沖縄で米兵殺傷事件が起こる。
容疑者として逮捕されたのは4人の沖縄の青年。
まだ沖縄が日本に復帰する前のことである。
米兵が沖縄人に危害を加えてもたいして重い罪にはならなかったが、
逆に沖縄人が米兵を殺傷したとなると
極めて重い刑罰に処せられることが予想された。

この事件の裁判の陪審員に選ばれた著者は、
本当に4人の青年が米兵を殺したのか疑問を抱く。
しかし、他の陪審員たちは皆被告人たちを有罪と見ている。
果たして逆転を生じさせることができるのか・・・

うーん。読みごたえがあった。
沖縄の米軍基地は現在進行形の問題であるし、
国民が司法に参加する裁判員制度もいよいよ始まろうとしている。
30年ほども前の本であるけれども
その意味ではほとんど古さを感じさせない。

そういうわけで
興味深い内容ではあるのだが、幸か不幸か
おそらくこの本はどっちかというと
本そのものというよりは
「ノンフィクション『逆転』事件」としての方が有名のような。

この米兵殺傷事件、沖縄では大きく新聞報道されたが
本土では報道されることもなかったらしく、
そのため4人の青年のうちの一人は事件後、
住みにくくなった沖縄を離れて
事件を知る者の少ない東京へ移り住んでいた。
彼は東京で仕事を見つけ、結婚し、
会社にも妻にも事件のことは隠して
12年間、平穏な生活を送っていたのである。

ところがそこにきて
4青年たちの実名も含め、事件について詳細に書かれた
ノンフィクション作品『逆転』が刊行された。
(実名使用については所在不明だった彼以外の
 2名からは許可を得、1名は既に他界していた。) 
事件に関する事実を公表されて精神的苦痛を被ったとして
彼が著者に対し、慰謝料の支払を求めたのが
「ノンフィクション『逆転』事件」である。

この本の目的は青年たちが真犯人ではないことを明らかにし、
陪審制度の利点を世間に広め、さらに
アメリカによる沖縄統治の実態が決して善政などではなかった
ことを主張することにある。
これらの目的を達成するうえで、平穏に暮らしている人の実名を
どうしても明らかにする必要があるかというと
そういうわけでもない。
裁判所もそのへんを考慮して
慰謝料の請求を認めた。

陪審員として「逆転」を生じさせ、青年たちを救った著者が
今度はそのうちの一人に訴えられ、そこではついに
「逆転」を生じさせることができなかったわけね。
なんてことを考えながら読むと、またおもしろい。

ノンフィクション「逆転」事件 - Wikipedia

『日本近代法の父 ボワソナアド』

2007-01-17 | 
『日本近代法の父 ボワソナアド』
という本を読んだ。

明治期の日本は近代化を進めるために
いろいろな分野で外国人を高給で雇って
その知識を吸収しようとした。
ボワソナードもそんなお雇い外国人の一人。

読んでみて思ったのは
ボワソナードという人は
なんていい人なんだろうと。

日本のためになにをすべきかというのを
常に考えていた人のように思う。

いい人じゃなきゃわざわざパリから日本まで
来ようとは思わないだろう。
当時のヨーロッパから見たら日本はまだまだ僻地だし。

個人的には
拷問についてのエピソードが面白かった。

今日も日本人相手に講義をするためでかけるボワソナード。
いい天気だ。風が心地よい。
小鳥のさえずりが聞こえる。
ピーチクパーチク。
ウ~。ウ~ン。
ピーチクパーチク。
ウ~ン。ウ~ン。

日本デハ「ウンウン」鳴ク鳥ガイルンデショウカ?

声が聞こえる方へ近付くボワソナード。
そっとのぞいてみるとそこでは
拷問が行われていた。
見るに耐えない光景。
大変なショックを受けるボワソナード。

彼は泣き出さんばかりに周囲に何かをまくし立てる。

拷問ヤメナサイ!
オ願イダカラ。
ヤメテ。
ヤメロッテ。
オイコラ。ヤメロ。
ヤメナイトブッ殺ス!拷問シタル!

この日の彼の興奮ぶりは尋常ではなかったらしい。
周囲の日本人たちはなぜ彼がそこまで興奮しているのか
ピンとこない。当時、拷問は普通に行われていることだったので。
あまりの興奮ぶりに
先生もついにアレか?と心配したようだ。

『宴のあと』

2007-01-08 | 
三島由紀夫の小説
『宴のあと』を読んだ。

都知事候補野口雄賢と、彼を献身的に支えた
女性、福沢かづの恋愛を描いた小説。だと思う。

この小説、
元外交官で、1959年の東京都知事選に
立候補した有田八郎と、その妻である
高級料亭の女将がモデルとなっている。

当時は、有田氏の立候補やら、
二人の離婚やら、女性の所有する
高級料亭の売却やらが大変話題となって

「宴のあと」を読めば誰でも
「あぁあの人たちがモデルだな」と
ピンとくる状態だったらしい。

そんなこんなで
プライバシーの侵害であるとして
結局、三島由紀夫は有田氏から
訴えられてしまう。

まぁ怒るのも無理はないと思う。
妻をさんざ殴打しただの
最初のキスがいつどこだだの
妻の体がどうのこうのだの
まるでのぞき見したかのように描かれているのである。
書いてある内容が嘘だったとしても
でたらめ書くんじゃないと怒るだろうし
書いてある内容が本当だったとしたら
より一層恥ずかしい。

三島由紀夫の格調高い文章で描かれちゃうと
ちょっと下世話な内容でも
芸術に昇華しちゃうけれども
だからって書かれたほうの恥ずかしさは
変わらない。
芸術的な文章で書かれたほうが
逆に恥ずかしかったりする。

夜な夜なパソコンと向かい合って
卑猥な動画ダウンロードしている様なんかを
こいつは毎晩こんなことしてるとか
どうやら巨乳ばかり集めているようだとか
いくら芸術的価値の高い文章で書かれたとしても
俺は嫌だ。

芸術性が高いほど多くの人に読まれるのである。
より長く後世の人々に読まれるのである。
10カ国語くらいに翻訳されて全世界の人が読むのである。
ギャーー!!やめてー!!
ってなるよね。

『落日燃ゆ』

2006-11-24 | 
城山三郎の『落日燃ゆ』を読んだ。
A級戦犯として死刑となった7名のうちの
唯一の文官、広田弘毅の生涯を扱った小説。

貧しい石屋の子に生まれながら、
外交官となり、外務大臣そして総理大臣
にまで上り詰めた広田弘毅。
戦争の防止に努めながらも結局
戦争を止めることができなかった責任を感じ
東京裁判では一切の弁解をしなかった。
結果、絞首刑を宣告されることとなる。

ちなみにこの小説は死者の名誉毀損について争われた
「『落日燃ゆ』事件」としても有名。
小説の中で、故 佐分利貞夫 元公使の私行について
よからぬ記載をしている部分がある。
これをめぐって佐分利 元公使の甥にあたる人が
慰謝料や謝罪広告を求めた事件。

佐分利 元公使本人は本が出版される40年以上も前に
亡くなっているので、名誉を毀損されたとしても
もはや訴えることはできない。
問題は、死者の名誉毀損によって
遺族に対する不法行為が成立するのかどうかという点。

確かに、自分の身内が小説やなんかで
悪く書かれていたらいい気分はしない。

けれども、結局この事件において裁判所は、
本人が亡くなってからだいぶ年月がたっているし、
書いてある内容が嘘であるとも言い切れない
ことなどから、慰謝料や謝罪広告を認めなかった。

『英仏百年戦争』 佐藤賢一

2006-11-11 | 
佐藤賢一氏の『英仏百年戦争』を読んだ。

英仏百年戦争がいかなる戦争であったかを
ガチで検証している本。小説ではない。
したがって、
佐藤賢一先生の本でありながら
スケベな描写は一切なし。
この本を読んで最も驚いた点のひとつである。

しかし、小説でなくても
読む者をどんどん引き込む筆力は相変わらず。
すいすいと読むことができた。

なんでも、
「英仏百年戦争」というのは
ネーミングからして正確ではなく
後世の人々が「英仏百年戦争」と呼ぶようになるその戦争は、
実際には、英仏間の戦争でも、
百年の戦争でもなかったらしい。

つまりは
「東京ディズニーランド」が
実際には東京にないのと同じ。

「ケンちゃんラーメン新発売」が
全然新発売じゃないのと同じ。

「ファイナルファンタジー」が
いつまでたっても
ファイナルを迎えないのと同じ。

99.9%は仮説

2006-10-29 | 
『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』
竹内薫 光文社新書

なんかもうだいぶまえに買って、途中まで読んで
そのままほったらかしにしてあった本。

もったいないので読み上げた。
理系の人にとっては常識なのかもしれないけど
自分は文系なので、はじめて聞く話も結構あった。

要は、当たり前だと思っていることでも
実は当たり前じゃないことがよくあるんですよ
だから自分の価値観や固定観念にとらわれないで
物事を見てみましょうね、そうすればきっと
新たな発見があるはずですよ

ということを言ってる本のよう。

ちょっとまえの冥王星格下げの際に
「実はね、かなりの数の天文学者は冥王星を
 惑星とはみなしていないんだよ」
などと、この本からパクった知識を
人にひけらかしたことがある。

その意味でこの本は十分役に立ったと言えよう。

著者は次のような問いでこの本を締めくくる。
「すべては仮説にはじまり、仮説におわる」
というわたしの科学的な主張は、はたして反証可能でしょうか。

「すべては」にこの主張自身も含まれるのなら
この主張そのものが仮説ということになる。
「すべては」にこの主張自身は含まれないのなら
この主張に対する反証は不可能だろう。
本のタイトルのように99.9%は仮説だとして、
仮説ではない残りの0.1%にあたるものが
この「すべては仮説にはじまり、仮説におわる」
という主張なのかな。

『オクシタニア』 佐藤賢一

2006-10-24 | 
今日は佐藤賢一氏の『オクシタニア』を読み上げた。
どういう本かというと
まぁすごいんでとにかく読んでください。
(↑一番だめな紹介のパターン)

まじめに紹介すると
13世紀フランス南部で栄えた異端カタリ派と
それを討伐するアルビジョワ十字軍
そして、それに翻弄される男女の運命を描いたお話。かな。

佐藤賢一氏は1999年に『王妃の離婚』で第121回直木賞を受賞している。
この人のお父さんは警察官(かあるいは警察関係の仕事)
をやっている。うちの父親も警察官ということで
そのつながりで、本にサインしてもらったことが何度かある。
同じ山形県出身。

この人の本はだいたい長いけれども
読み疲れたということがあまりない。
おもしろくて一気に読み上げてしまう。
でもたぶん女性は読んでも面白くないと思う人が多いかもしれない。
なんとなくそんな気がする。
それというのも
佐藤氏の本にはお約束のようにわりときつめのスケベ描写がある。
最初は、話の流れからどうしても必要なので書いているのかと思っていたが
読む本読む本全部そんなかんじなので
たぶん書きたくてしょうがないんだと思う。
『オクシタニア』もその例外ではない。