Dear..

誰かの親愛なるあなたである、みんなのために、時々コッソリ更新中・・・。

2005年06月26日 | 思うことイロイロ
久しぶりにやってきて、
『器』だなんてタイトルにしたけれど、
食器の話ではありません。
お義父さんは、陶器販売業ですが。
(スーパー前とかで、伊万里焼売ってるのよ。)

たまぁに書くと、調子が出ないもんですねー。
も少しマメに更新しよう。
でもね、だってね、役員仕事に忙殺されてると、
頭が考える事を忘れてしまうのよ。

役員仕事、宴もたけなわです。(←使い方、間違ってるな)
この時期、園ではイベント盛りだくさんです。
次男の幼稚園では、クラスから役員を一人選出しますが、
それ以外の方も、全員何かの担当になります。
夕涼み会や運動会の売店とか、アルバム作りとか。
全てのイベントに役員は絡みますが、
それぞれの担当で実際に動くのは担当者で、
役員は担当者のお手伝い(園との交渉・未収園児の子守など)をします。
実情をぶっちゃけトークで言うと、
大人しく役員の言われるままに「猫の手」をこなすタイプの担当仕事もあれば、
古株担当者が毎年同じ担当をしているため、役員よりもその担当について詳しく、
ともすれば役員が古株担当者の「パシリ」になってしまう仕事もあります。
ちょうどこの時期は市のお祭りに出品する七夕飾りの製作と、
夕涼み会の準備が入り、
週に1回は園の仕事が入る今日この頃ですが、
夕涼み担当者は「猫の手」スタンス、
七夕飾りでは「パシリ」状態です。
製作系の仕事は、担当者の力が入ってしまう事が多いようです。
ありがたい事ですが、困る事でもあり。

市のお祭りに出品する七夕飾り、
子供達が作る折り紙細工をまとめ、市の大通りに展示します。
初期は園にある材料でまかなって、出来る範囲で展示すると言うもので、
子供達の作品がメインで、それを単純にまとめるだけのシンプルな形式でした。
でも、せっかく作るのだからと欲が出てきたのでしょう、
年を追うごとに、完成度の高いものになってきました。
担当者の中に、昔そのようなお仕事をされていた方がいるようで、
リーダーシップを発揮してくださいます。
ここ数年の素晴らしい七夕飾りはその方のご尽力があっての事、
とてもありがたい事だと思うのですが、
どうも無条件にありがたがってばかりもいられず。

乳児幼児が泣き叫ぶ中、
子供達を抱え、汗だくで子守する役員。
蒸し暑い部屋の中で、黙々と作業をこなす下っ端担当者。
「ここ、違ってる!」とズレを発見する古株取り巻き担当者。
一度止めたホチキスを外し、全てを見直す。

まるで修行のようです。
なんか違ってるような気がするんだけど。

製作系の仕事に完成度を求めてしまうのは判る。
せっかく造るのだったらいい物を作りたいよね。
でもさ、出来る範囲でいいじゃんないかな。
「昔取った杵柄」担当者さんも、立ててあげたい。
恐らく子供のために家庭に追いやられている今なのでしょう、活躍させてあげたい。
でも、担当者さんの中には頑張れない事情の人もいるかもしれないんだし、さ。
もう少しバランス必要なんじゃないかな。

ここで必要になってくるのが、
「器」です。
会長の器。
今年の会長さんは、頑張りやさん。
杵柄担当者さんと仲良しのようで、
「納得の行くようにやっていいからね。」と思っているよう。
ま、
杵柄担当者さんも、今年が園生活の締めくくり、
納得の行くようにやってもらっていいのかもしれないが…。

私も上に立ち、下働きもして、
前は見えなかったけど、見えてきた部分があります。
上に立っている人間は、引っ張って行きがちになるけど、
見回す余裕も必要なのだと。
かつての行動を振り返り、申し訳なく思う事もあります。


七夕飾りの仕事、来年はだいぶ様子が変わっているのだろうな。
こうして人が変わり、時が流れ、園の様子も変わるのでしょうね。

「自分の」

2005年04月11日 | 思うことイロイロ
「自分の」って、最近一番人気の言い回しだと思いませんか?
スポーツニュースを見れば選手やキャスターが「自分の野球」だの「自分のゴルフ」だの「自分の走り」だの言ってるし、
(この場合の“走り”の用法も最近のものだなと思うけど、まぁこれは置いといて)
googleで「自分の」の最新ニュースを検索すると、めくってもめくっても、今日のニュースが続いています。
参照:Google ニュース検索・日付順
「自分の右手」、「自分の靴」など、昔からある使い方以外に、「自分の心」「自分の自信」(←これ、用法に軽く違和感あるんですが)のような『自分自身のありよう』を指し示す使い方がグンと増えてきているからなのでしょう。
ブログなどで自分の意見を公開するのも、『自分自身のありよう』を模索する今の世の中だからこそ、こんなに流行っているのだろうな、と思います。
今の日本、生活に追われることなく自分自身を見つめられる、豊かな時代になったのでしょうね。
ってすごくババ臭いけど、生まれた頃はすでに結構豊かでしたが。

「自分の」でgoogle検索して、面白いページに行き当たりました。
自分の名前をキーワードに、検索してみたら・・・
私と同姓同名の人、どんな人がいるんだろう。ないとは思うけど、自分自身の事が知らない所で噂されてるのも見つかるかも。ちょっぴりドキドキしながらやってみたら。
同姓同名に、筑波大学の教授とか、どっかの市の議員さんとか。
そーかー、このお名前ってお偉いさんが多いのかも~。(なんとなく鼻高々)
と言うより、お偉いさんだからネットに出てるのかもしれませんね(笑)

絆、いまむかし

2005年03月30日 | 思うことイロイロ
今朝、車内で聞いたラジオで、
「家族に対する捕らえ方が変化している」と言うアンケート結果の話題を聞いて、
読みかけの本のことを思い出しました。

先日、懐かしくなって向田邦子さんの「冬の運動会」を読んでみました。
昭和52年に放送されたホームドラマの脚本です。
向田さんの書くものは柔らかな視線が隅々まで行き届いている所を好ましく思っていたので、期待して読んだのですが、今の時代とのギャップに違和感を感じて読むのを途中でやめてしまいました。

ストーリーは
高校生のときに出来心でした万引きのため就職先の決まらない男。
その男のために軍隊時代の地位に物を言わせて就職先を探してやる祖父。
男も、父も、祖父も、家族の中に安住の地を持てず、家族の外に生き生きとした人間関係の場を持っている。
家族として親密な人間関係を築きたいと望んでいるのに、それができずに家族の外へ逃げ場を持っている。
と言うもの。
「あとがき」には『1980年代の家族の問題点を鮮やかに示唆している』と書かれています。

80年代の家族が『家族としての親密な人間関係を望みつつ得られない』のなら、
今は『家族の中も外も、リアルな人間関係は希薄化している』と思います。
コミュニケーションの方法は多様化しているのに、自分個人を知っている家族や世間に対しては、ごくアッサリとした付き合いになっているように思います。
家族にも友人にも本音を隠し、笑顔の仮面を被っているけれど、匿名の世界(=Web世界)には本音をさらけ出し、バーチャル世界の友人とは瞬時に距離もいとわず激論を交わすのが今の世の中の特徴でしょうか。

向田邦子さんは昭和56年に飛行機事故で亡くなりました。
脚本家としても作家としても脂の乗り切った時の不慮の事故、残念でなりません。
今の時代に脚本を書かれたら、どのようなものになるのか、是非拝見したかったなと思います。