学生時代、橋川文三の日本政治思想史のゼミナールで使ったテキストで、特に印象に残っているのは、次の三冊である。
一、『日本浪曼派批判序説』橋川文三
ゼミの最初に橋川先生が「どんなテキストを希望しますか」と聞かれ、「え? 何を希望してもいいんだ。それなら、これしかない」と考えて、私が提案して決まったもの。先生は八〇分間フルに『日本浪曼派批判序説』という書物について語ってくれた。この一回の講義で入学金の元は取ったなと感じたくらい感動した。
二、『日本の思想』丸山真男
そろそろ丸山真男をテキストに選びたいという雰囲気がゼミ員の間に煮詰まってきた頃に、誰からということもなく提案された。
三、筑摩『現代日本思想体系』の『アジア主義(竹内好編)』
先生から「これはやっておかなければいけない」と指定されたテキスト。アジア主義? 何それ? と思ったくらい、その頃の私(たち)は無知だった。でもまあ、いろんなことを知っておくのは悪くないと思って受け入れたのだった。ところが、この竹内好編の『アジア主義』は、四~五ヶ月くらいかけて丁寧に精密に読んでいく講義だった。密度が濃かった。学部四年の十月から始まって終わったのは二月に入っていた。卒業まで、あと一、二ヶ月は残ってはいたが、このテキストを読み終えた時、橋川ゼミは終わった、学生時代も終わった、そしてひとつの時代さえも終わったというような、虚脱感が襲ったことを記憶している。
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今、ある決意を秘めて、『魯迅』と『魯迅文集』を除いた竹内好の全評論の中から、私が考えるベスト三を選んでみる。
・三位 「評伝 毛沢東」
ここで竹内好は〈純粋毛沢東〉という概念を提出している。毛沢東は井岡山で根拠地を建設したが、この根拠地を毛沢東は中国の全域に拡張した。その意味で、井岡山時代に〈純粋毛沢東〉が成立したと竹内は考える。〈純粋毛沢東〉というのはユニークだが危うい概念だ。たぶん、竹内好の弱点を象徴する概念と言ってもいいかと思う。竹内好の評論のワーストワンを選ぶなら、これになる。そういう問題作だと思う。そこで三位に選んだ。
・二位 「近代の超克」
竹内好自身は、この「近代の超克」を自分の評論の最高作に挙げている。廣松渉の労作『〈近代の超克〉論』と読み比べてみる時、竹内好の卓越性が見えてくる。評論が学術論文のレベルを越えるとはどういう事態なのか。思想を扱うとは最終的には言霊を扱うことである。そういう側面が違いとして浮彫りになってくるのだ。橋川文三の『日本浪曼派批判序説』とも親和性が高い作品である。
・一位 「日本のアジア主義」(筑摩書房『アジア主義』解説)
「日本のアジア主義」は竹内好の到達点を示す。これを越える作品を竹内好はついに書けなかった。この作品は一九六三年の作だが、その二年ほどあとに竹内好は評論家廃業の宣言をしている。おそらくこれ以上の完成度の高いものはもう書けない。そう判断したのではないか。『豊饒の海』以上のものは書けぬと見極めて自決した三島の場合が想起される。「日本のアジア主義」は特異なテキストだ。竹内好がそれまでに書いた評論、それ以降に書いた評論に、実に巧みにリンクが掛かっている。つまり竹内好の全評論に対してのメタ・テキストの位置を、この作品は占めている。
★毛沢東が井岡山に於いて規定した「三大紀律八項注意」
わたしも、橋川ゼミに入室しておりました。
1976年の入室です。明治大学卒業というよりは、橋川文三ゼミ卒業ということに未だに拘って生きています。
わたしが4年の半ばのときに、先生はプリンストン大学に行かれたので、直接指導を受けたのは1年余りだったのですが、先生の印象は強烈なものでした。
わたしが入室したときに、1年上のゼミの先輩達が歓迎会を開いてくれたのですが、そのときの先生の言葉と表情が今でも鮮明に記憶に残っています。1976年の4月のことです。「気が滅入っている」。独り言のように、先生が呟いたのです。どこか思いつめたような青ざめた表情でした。
酒が入っているのに、その表情がわたしには不可思議に思えたのです(もっとも、先生は酒を飲んでもあまり変わばえはしませんが…)。
ちょうどその頃に、竹内好の特集をくんだ「ユリイカ」が発行されていました。もちろん、先生が関わっていたのですが、その「ユリイカ」の中に先生の弟さんの詩集が掲載されていたのです。被爆した弟さんはそのときには、既に故人でした。フランスの詩人のアラゴンを敬愛していたようで、ペンネームを「荒川磯男」としていました。
正直に申しますと、わたしは弟さんの詩に涙しました。
先生は弟さんの詩を掲載するに当たってコメントを書いておりましたが、その文章のトーンは異様に暗いものでした。弟さんに対する先生の原罪意識とでもいうのでしょうか、わたしは何故かそんなものを先生の文章の中に感じたのです。「気が滅入っている」。先生のその言葉の意味を、わたしは弟さんの詩と結びつけていたのです。
どうして先生が弟さんの詩をあの時点で掲載しようとしたのか、いつか訊こうと思っていたのですが、残念ながらそれは実現しませんでした。訊いてはいけないことのように思えたからです。
「詩人としての橋川文三」ということを先輩(?)が言われていますが、わたしも全く同感です。弟さんの詩情と同じものが、先生の心の中に流れていると思うからです。
そして何よりも、「日本浪漫派批判序説」こそ、詩人的な直感から導き出されたものと考えるからです。
詩人である石川啄木が時代の匂いとして感じ取った「時代閉塞」という黒々と渦を巻く感覚のカオスを、先生は問題にしたのだと思います。
わたしの学年の橋川ゼミの連中は、1年上の先輩達と比べるとちょっと異質でした。アナーキーなセクトに入っている者もいましたが、政治思想というよりは何となく文学くずれのような連中が多かったのです。先輩達から見ると、どうも不真面目に映ったようです。
3年の夏のゼミ合宿は白馬山麓で行われました。ゼミの先輩がやっているペンションを利用させてもらったのです。
石牟礼道子と会われたとかで、先生は熊本から直接白馬にこられたのですが、土産に球磨焼酎をもってきてくださいました。あの晩の先生は酷く上機嫌で、酒もずいぶんと飲んでいました。先生は、学生の頃に太宰治の家に押しかけたこととか話してくださいました。
その席で、わたしは先生から言われたのです。
「四十過ぎたら、小説を書け」。
先生は冗談で言ったのかもしれません。でも、わたしにとっては、その言葉は絶対的なものでした。
先生は、わたしの精神的な幼稚さを見抜いていたのだと思います。わたしは小説のようなものを書いてはいましたが、とても他人に見せられるようなものではありませんでした。わたしは、小説を書いていると先生には一言も言ってはいません。が、どうやら先生は気づいたようです。
社会人になって、いつの間にか仕事にのめり込んでしまうと、先生の言葉が遠い過去のものとなっていきました。が、仕事からくるストレスで鬱の状態になってしまい、42歳で転職したことが切欠で、先生の言葉が甦ってきたのです。実際に小説を書いたのは47歳でした。それからは、毎年投稿しています。が、結果は惨憺たるものです。
先輩(?)は「アジア主義」についていわれていますが、
わたしが思うことを少し書かせていただきたいと思います。が、これはとりとめも無い、あやふやな直感めいたもので、何らの論理性もないことを予め断っておきます。
竹内好が「アジア主義」を唱えた意味はとてつもなく大きなものであると思いますが、ただ竹内好が生きた時代の文脈の中で考えなくてはならないのではないでしょうか。
資本主義も社会主義も西欧から生まれた思想であり、社会構造であると思います。その二つの思想の基底には、人間の理性を絶対化し、自然を対象として捉え科学の力によって人の思いのままに変えていけるという、西欧の風土に根ざした心情(?)が流れていたのだと思います。が、わたしもそうでしたが、資本主義と社会主義は相反するものと思われてきた。世界的に見ると、資本主義か社会主義かという二者択一的な捉え方が支配的でした。その中にあって、「アジア主義」というのは全く新しい別の見方だったのだと思います。アジアという風土に根ざしたものの考え方。それは、資本主義とも社会主義とも違います。
アメリカ文化をスタンダードとするグローバル化という津波のような波が押し寄せ、その波はアジアも飲み込んで、津波が去った跡のように殺伐といた瓦礫の光景が続くばかりです。
今では、誰もが資本主義と社会主義が双子であることに気づいています。理性が絶対でないことも、科学がある特定の条件の中での真理でしかないことにも気づいています。
竹内好は、中国の風土が長い歴史の中で育んできた土着的な思想の中に新たな可能性を見ようとしたように、わたしには思えます。
中国の変貌は凄まじいものです。「アジア主義」という思想の中には、竹内好が生きた時代にも負の面は確かに存在したのです。石原莞爾の思想の中にさえも「アジア主義」的なものが色濃く滲み出していたはずです。
しかし、竹内好が生きた時代に「アジア主義」を唱えることは負の面よりもプラスの面の方がはるかに大きかったし、意味があったし、先見性があった。そして、負の面からの誤解による反動というレッテルを付けられる危険もあった、と思います。
今、わたしは「アジア主義」と唱えることの意味に懐疑的です。中国のナショナリズムの高揚との連関から言っているのではありません。
「アジア主義」ということが、今のグローバル化に抗し得る有効な思想とも思えません。アジアと広く括ることで、より見えなくなってしまい、複雑になってしまうのを怖れるからです。
ローカル。郷土性。むしろ、この狭いレベルから始めるほうが、今日のグローバル化に抗し得る有効な思想になるように思えてなりません。
以上、長々とくだらないことを書いてしまいました。
先輩(?)のような方を見つけ出すことができて感激しています。わたしは橋川文三ゼミにいた端くれですが、先輩のような方がいた橋川ゼミを誇りに思います。
最後に、白馬の合宿のとき、飲み始める前に先生と風呂に入ったのですが、先生がわたしに身体を見せて言ったことを思い出しましたので書いておきます。
「身体の色が抜けてしまってね。なんだか分からないんだけど…」。先生の身体は所々白く皮膚の色素が抜け落ちて斑になっていました。よく見ると、顔の皮膚も色素が抜けていたのです。わたしは、強い酒の飲みすぎなのかなあ、何て思ったものです。結核を患った先生は、元々が色白ですので皮膚の色素が抜け落ちても言われなければ分かりません。でも、本人は凄く気にしている様子でした。
因みに、何の因果か45歳を過ぎてわたしも顔の皮膚の色素が抜ける病気になってしまいました。正式な病名は「尋常性白斑」というのだそうです。抗体が自分の皮膚の色素を侵入者と勘違いして攻撃してしまうらしいですが、原因はよく分かっていないようです。蛇足ですが、感染はしませんのでご安心を……。
口の周りと、耳の辺りなので、髭でどうにか隠しています。あのときの先生の心境が分かります。
また、コメントを書かしていただきます。
お身体を大切に、ご自愛ください。