【橋川文三の文学精神】第14回 内容目次@本文リンク
十四 橋川文三追悼文集
『追悼ー橋川文三先生』は、橋川文三先生追悼文集編集委員会(代表:後藤総一郎)によって橋川文三没後の翌年1984年8月に刊行された。その追悼文集には橋川文三に教えを受けたゼミのメンバー二百余名と三十余名の大学院で学んだ者のうち、2期生(1962年卒)から24期生(1984年卒)までの46名の追悼文が収められている。どの文章も間近で橋川文三に接した者だけが知りうる観察が語られており、橋川文三を考える上での重要な一次資料たる価値を失わないのであるが、ここでは橋川文三の人間像を伝える回想に絞って断片を掘り出してみる。(なお名前は頭文字のみの表示とした)。
○先生が講義の中で触れられる文献を教卓の上に積み上げ、一冊一冊私たちに示しながら説明される姿は、非常な迫力があった。(略)また、その講義の中で、先生が言われた「歴史とは未来を拘束する力である」という言葉を私は鮮明に記憶している。それは、過去に拘束された現在を、あえて未来に力点を於いて捉えようとする言葉のように思えた。学生運動の挫折の中にあった私は、この言葉を何度も呟いたことを覚えている。(H・E。第4期生)
○数年前、先生と、ある酒場でお会いしたことがあった。先生も私もやゝ酔っていたが、学生時代の気分で先生に失礼なことを言い、私は先生に強く叱責された。その時、先生は「君は何を信ずるのか」と詰問された。私は口ごもり、結局、愚かしいことを答えた。しかし、その後先生にお会いした時には私の失礼をとがめようとはせず、何ごともなかったかのように柔和に接して下さった。(E・E。第四期生)
○「松下村塾には多くの十代そこそこのお弟子が来ますね。この連中がほとんど異口同音にいうのは、とにかく最初にうたれたのは、弟子と先生という区別がないということ。これはごく自然に差別がないんですね。そこで勉強してればすぐ傍らに来て教える。帰るというと、普通の若い友達という感じで送ってくれる」。先生は『吉田松陰』の中で「ヒューマニスト松陰をめぐって」このように評されている。教師としての先生は松陰のような素顔を持った人であったと追慕している。(E・Y。第8期生)
○「Mut verloren alles verloren」――昭和四十一年一月十九日、十号館一一0番教室で最終講義で、先生が黒板に書かれた僕達を送る言葉である。これはよく知られているように、ゲーテの言葉であり、「勇気の喪失は一切の喪失である」と訳す。もちろん、ドイツ語を辞書なしで直ちに理解できるはずもない僕たちに、訳文を説明されたのは先生であった。金銭の喪失よりも名誉の喪失がより重大であるが、さらに勇気を失うことは全てを喪失することと覚悟せよ、と読むべき一文だと僕は理解した。(T・A。第六期生)
○先生の講義や発言に接した人ならば、だれもがその言葉の慎重な使い方に驚かされたはずだ。それは、いったん表現された言葉は必然的に自身に返ってくることを十分自覚されたうえでの慎重な配慮からくるものであったと思う。だから先生と対話するのはひじょうな緊張感を覚えたものだ。(K・Y。第9期生)
○ゼミに出席し始めて間もなく、ほとんど初めて直に話しかけたとき、まず「先生」と呼ぶなと言われ驚いた。擬制の師弟関係で接してはならないという趣旨だったと思う。たとえ大学という場であったとしても生活者として対等である。互いにそのような位置で意思を交わさなければ学問は成り立たない、というように受け取った。あるいは、師と呼ぶにはそれだけの手続き覚悟がいるという意味だったかもしれない。ひととの接し方自体を問い直せと迫られ、一種の負担を覚えながらも、常に原則を通そうとし続けているのだと、新鮮な印象だった。ゼミを卒業した後、私の結婚式に出席してくれたときも、「友人としてつきあう」という挨拶だった。私には過分な言葉で恥じ入りはしたものの、言わんとされようとしていることは十分に推測できるように思った。(略)
思想としてすぐれるためには、やはり苦悩の体験がなければならない。しかしその体験は求めて得るようなものではない。そこには運命のようなものがあるかもしれない、と言われた。堪え難いような苦境に陥ったとき、それをどのように超えるかで個性が問われる。ただ、苦境は与えられるようにやってくることであって、今は自分の生活を大切にしなさい、というのが、私が会社勤めを始めるときに橋川さんが与えてくれたはげましである。(O・B。第9期生)
○大学紛争の最中、文三さんを槍玉にあげる学生は一人としていなかった。これも「野戦攻城」の姿勢が通じていたのだろうか。(K・I。第十一期卒)
○教室ではいつも抑制した姿勢の先生が、屈託なくにこにこしている様子は、私達まで幸福にした。又、先生はこの世には稀有な清らかさを自然に感じさせる人でもありました。(N・O。第十一期生)
○橋川先生は、本に書かれている内容がパーフェクトに理解できるということは、自分の言葉をもって言い換えることができるということであり、さらに、それは小学生位の年齢の子供にも容易に納得できる言葉を使わなくてはならない、とおっしゃっていた。私は、その時、その先生の発言に深く感銘し、理解とは、そのようなものだと、今でも自分で肝に銘じている。(M・M。第十六期生)
○先生が奥様のことを語るときの優しいまなざしが忘れられません。先生が私達に奥様の写真を見せてくださった時の、楽しそうなまなざしがすてきでした。(Y・O。第二十期生)
○私には、今でも一年半ほど前、連れ合いいっしょにと駿河台↓を歩いてきて挨拶を交わした時のことを思い出す。あの時の先生は、にこにこ笑っておられた。にこにこ笑っておられたが、先生の心の中には、常に悶々としたものが渦巻いていたように思われて仕方がないのだ。悶々としたものの一つの表れが、ある意味では、あの笑い顔ではなかったのか、感じられもし、未だに私の目に焼き付いて離れなくなってしまっている。(S・M。第二十二期卒)
○先生の文章や言葉の中に感じられる繊細さと強靭さが、あの様な自然さで表現されているという事の裏にどのような過酷な闘いがあっただろうかという思いにとらわれるとき、何か眩暈のようなものを感じたのは一度や二度ではない。(K・N。第二十三期生)
○先生の不思議な人格。それは上手く表現できない。先生の顔も今から考えると奇妙な表情を持つ顔であった。人間から煩悩を一つづつ取っていくと、橋川先生のような顔に似てくるのではないか。先生のちょっと首をかしげるおかしな仕草は、広隆寺の弥勒菩薩像に似ている。(K・M。第二十四期生)
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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●橋川文三先生の肖像 『追悼ー橋川文三先生』より
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