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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

峠越えれば(21) 寒九の水

2009-01-18 | 峠越えれば
かんながら寒九の水で鎌を研ぐ  柏木豊

 か音が連なり耳に入りやすい。寒の入り九日目の水はとりわけ冷たく五臓六腑に染み渡る。それが滋養とは、言われてみれば納得の外ない。いかにもそんな気がする。その寒九の水で今はただ黙々と鎌を研ぐ。累代変わることのない、農の光景を凝縮すれば、こんな風になるのかもしれない。「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」神意でもあるかのように、それを当たり前のこととして受け入れてきたのであり、厳冬の今、ひたすらやがて野に出る支度に余念がない。

 根性のないことに、今年も越冬は峠のこちら側、むこうはやはり寒すぎる。ついでに、近世の秀句を三つあげてみる。「両の手に朝茶を握る寒さかな」(杉風)「叱られて次の間へ出る寒さかな」(支考)「くらき夜はくらきかぎりの寒さかな」(白雄) 屁理屈を承知で言うのだが、暖房のきいた室内で、蛇口をひねれば湯が出るようになってしまえば、骨に響くような、身の内を凍らせるような寒さの感覚も失せてしまうのであろう。柏木も含めて、上の句はすきま風や井戸水あっての句なのかもしれない。

 たまたまなのだが、近世の写本『白川家政録』『温知政要』が今手もとにある。虫食いだらけの崩し字を、つかえつかえゆっくり読んでいくと、却って書き手の息づかいまでが伝わってきて面白い。著者は松平定信と徳川宗春、どちらも教科書でお馴染みで、吉宗の治世を再現しようとした、その孫の、将軍であってもおかしくない老中首座と、その吉宗に異を唱えた、これも将軍になれたかもしれない尾張藩主。一国の政治を与るものとして、施政の方針と心得を説いており、内容は平易で、ごく分かりやすい。驚かされるのは、これがそれぞれ二十代、三十代の中半に書かれていることで 、その早熟、成熟さ加減であり、いずれもその立場の英才教育の最良の部分を体現しているのであろう。定信のものなどは、藩政の表裏を知り尽くした老人の物語としか読めないのだが、年譜上二十代のものとしかなりようがない。

 上下構造の身分制社会では、その頂点に近いほど、公私の公の部分をより多く担い、その自覚を強くせざるを得ないのであろう。儒教の倫理と教養が、それを支えてきたことはいうまでもない。資質や人柄につきるのであろうが、いずれもその公の自覚と、それに伴う自律といった点で、政治一般ではなく、政治家なるものを考える時に、今でも十分参考になりそうな気がする。

 温暖化というようなことまでもが加わって、井戸水とも、すきま風とも無縁な今の時代、寒さと言っても、近世のそれとは体感上同じわけがない。公の自覚といった点においても然り。身分制社会には、一方で今との比較の上で言えば、厳冬期の寒気にも似て、公の自覚や自律がより厳しく問われ、現に存在したにきまっている。片や、社会の隅々どこまでもが公私の境がぐじゅずじゅになり、私の部分だけが異様に肥大化してしまったのが昨今であり、これは特に、この数年、十年については特筆されてよい。それが何によるものかも、ここで繰り返すまでもない。

 百年に一度の景気の落ち込みより、危機はむしろこちらの方ではないのか。気づいてみれば、公を担う自覚が社会からすっかり抜け落ち、それが代わってどこからも育ちようのない社会が目の前に現れていたとしたら、これ以上の危機はない。公の自覚のないところに、国と言わず社会が成り立つわけもない。

 今回の騒動の大本のアメリカに、まだ救いが残されているのは、このままではだめという危機感を共有し、チェンジという単純明快なメッセージを大多数が理解できていることであり、公の自覚、使命を自覚した、それを発する人材が底をついていないことにある。求められているのは攻守所を変えたチェンジであり、変革でも改革でもないのであろう。天命が革まるほどの変化が今の政治にはありえようはずがない。そもそも、そんなものがあり得た試しはない。片や、この国においては、ということなのだが、今更言う気にもなれない。

 定信などが見事なのは、質素倹約を説き、時に棄捐令のような無茶のものまで持ち出したにしても、その限界も分かっていたらしいことであり、享保、寛政の改革といった困難な時代を生き延び、自らの生涯を全うする、政治家としての身の処し方もちゃんと心得ていたらしいことであり、これは自覚なくしてそう簡単なことではない。

 以下、慣れない崩し字でどこまで読み解けているか覚束ないのだが、少しだけ宗春の『温知政要』から切れ切れに引用してみる。

 総じて人には好悪の物あることなり。衣服、食物を始め、物好きそれぞれに変わるものなり。しかるを我が好むことは人にも好ませ、我が嫌なることは人にも嫌わせ候ようにしなすは、甚だ狭きことにて、人は上たる者、別してあるまじきことなり。その中に嬉しきこと、嫌なことは本心より出ること故、万人寄りても変わらぬものなり。さある上は、我に嬉しきことは人にも嬉しかるべし。我が心に悲しくいやなることは、人にも同じくその通りなるべし。
 
 万の法度、号令、年々多くなるに従い、自ずから背く者もまた多く出できて、いよいよ法令繁く煩わしきことになりたり。かくの様子にて数十年を経るならば、後には声高には話しすることも遠慮あるようになり、あげくは夜寝る間もなきように成り行かん。第一法令多過ぎれば、人の心勇みなく狭くいじけて、道を歩くにも後先を見るようになり、常住述懐のみにて暮らす。さあれば、その品々をとくと考え、人の難儀差し支えにもなるべきこと、総じて細かなる類は除き、止めるようにしたきものなり。万の事、取り扱い少なければ、努めることも守ることもしやすく、法度の数減ずれば、背く者も稀にして、心も優に諸芸も励み嗜むようになる。

 世間の様子つらつら考え見るに、何事にも用いらるべき者、未だ志を得たる初めの程は、我にて事執り行う役儀にも成りたらば、上の御為、下の為にも、万事滞らず程よく仕りてみせんと、心に思い口にも言うなどして、もとから器用に申せども、その職になると否、常々の心とは大いに違い始め、嗤い、譏り先と少しも変わることなく、却って前々の同輩の害になることばかり思慮するようになること、必ずあるは、皆々私欲、卑賤の心から、思案変わるなり。さあれば、最初の存念、工夫も、中半ならざる内に、必ず挫けるものと見ゆるを、慎み、恐るべきことなり。

 簡略、倹約の義は家を治るの根本なれば、もっとも相努めるべきことなり。第一、国の用脚不足にては万事差し支えるのみにて、困窮の至極となる。さりながら、正理に違いて、めったに簡略するばかりにては、慈悲の心薄くなりて、覚えず知らず無徳不仁なる仕方出で来たりて、諸人とも痛み苦しみ、簡略却って益なき費えとなることあり。人の益にもならぬ奢りを省き一つ二つにて済ましめ、物をあまた拵え、未だ用いられるる物をむざとあらため申しつく類、常住平生の事に勘弁、工夫ありたきことなり。

 宜しからぬ事にても数年久しく経れば、定まりたる法のようになりて、目にも耳にも染めつき、気につかぬものなり。悪しき臭気は暫しも堪えられぬものなれども、年月慣れては脇にて思うほどは苦にならずとみゆる。一切の事もその通りにて、悪しきことを改め、宜しき筋に直りて、古来の作法に立ち戻る類のことも、心に服せずいろいろと批判して、迷惑なるように思うこともあるべし。大酒、大食い、淫乱我が儘に暮らせし者は、身を失い家を損なう第一なれども、これよりよき事なきと覚え、身の養生よりはじめ心行の嗜みは、人間長久の至極なるを、さてさて迷惑窮屈なると、心得違うと同じことなり。

 昔も今も人の生まれて受け得たる所、気血はさして変わるもなきと見ゆる。古も七十に及びたる者は老人といい、早五十年の者は老人といわず、今とても同じことなり。然るに近来の十六七より二十にもなりたる若き輩を見るに、多くは顔色も悪しく、気根も薄く見え、寒暑にも一番にあたる。少しも食を喰い過ぎれば腹中ふさがり、仮初めのことにも楽たけく、口上にもただ弱りたることのみを言い暮らすようになりたり。 

 最後は今も変わらぬ、聞き慣れた愚痴なのだが、宗春は、子供に手っ取り早く楽をさせようとする教育が悪いのだという。その通りなのであろう。(つづく)

峠越えれば(20) 数へ日

2008-12-25 | 峠越えれば
数へ日の船をこぼるるねずみかな  中山道春

 数年前の日経俳壇にあった句で、選者の藤田湘子が秀作にあげていた。たまたま子年の連想も働いたものか、不意に思い出したのだが、実景であろうし、そんな光景が目撃されることもさして珍しいことではないのかもしれない。ただ、ここで勝手に、鼠の予知能力といった風なものに想像を膨らませると、なにやらこの船自体が少々気になってくる。あちこちで、住み慣れた古巣を追われたり、自らそれを見限ったりで、行く先不明のまま右往左往している、鼠ならぬ人の群れが、年の瀬の慌ただしさに重なっていやでも見えてくる、そんな一年であったというか。

 半年ぶりの「峠越えれば」であり、前回は、今田述の「明け易し原油六十ドルに乘せ」を引いてみたのだが、あの頃原油は130ドルほど、その後に更に140ドル中半まで高騰したところで、あれよあれよという間に暴落し、現在は30ドルほど。数字は正直で分かりやすい。バブルの典型もいいところで、投機を絵に描いたようなものなのだが、上がっている間は新興国需要がどうのこうのと、大方がこれは投機ではない、更に上がっても不思議はないとか言い続けていたのだから、いい加減といえばこれほどいい加減な話はない。

 これが株となると、話はいよいよ分かりやすい。昨年の今頃、夏に露呈した金融破綻はすでに目を覆うばかりで、それでも尚、来年後半、つまり今頃は持ち直して上昇に転じるはずと、大方どころか十人が十人言い募っていたのだから、今のこの惨状をどう言い繕ったものか。百年に一度とでも言い逃れる外ないのであろう。百年に一度ともなれば、予想など当たらないのが当たり前とでも言いたいのであろう。そうあってほしい願望が先にあって、もっともらしい理屈、理論やら分析やらはその後からついてくる、本来こんないい加減なものを学問と呼ぶべきではないのだが、改めて経済やら金融やら財政らやの専門性なるものの底の浅さ、もっともらしさを知るにはいい機会であったのかもしれない。

 百年に一度というのは、苦し紛れの言い逃れでしかなく、相当に無責任でいい加減な言い方なのだが、事実その通りであったとして、それをより正確に言いたいのなら、当然それに匹敵するのは、先の大戦間の大恐慌しかないわけで、まずその最低限の意味を、お復習いをしてみるくらいの用意はあって然るべきであろう。
 
 第一次大戦の戦場の外にいたアメリカが、新興の自動車産業とともに戦後の繁栄を一人謳歌し、その揚げ句に、共和党政権のもとで未曾有の恐慌に突入したのが1929年、底の見えない暗黒の中から、民主党に政権交代し新規まきなおしのニューディールに着手するのは、その四年後になる。以降ルーズベルトの長期政権のもとで、財政主導の需要創出が常態化し、古典的な自由主義とは別の国家の枠組みが作られ、今に至っている。同じ1929年に、パリ不戦条約が発効していることも、ここに付け加えておいた方がいいかもしれない。その第一条にはこうある。「締約國ハ國際紛争解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳肅ニ宣言ス」同じく第二条はこうなっている。「締約國ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス」 国際連盟の常任理理事国である日本が、これに署名していることは言うまでもない。

 アメリカに始まる1929年の世界大恐慌は、翌年には昭和恐慌を引き起こす。昭和五年にあたり、これを契機に、この国がどのような道を選んだかは、ここで繰り返すまでもない。かの国のニューディールなどは、ここでは視野に入りようもない。今では当たり前の週休二日制も、アメリカではすでにこの時期、恐慌後の不況対策として採り入れられている。

 近現代の現代は1929年に始まる。日本国憲法の労働基本権も生存権も平和主義も、すべてはそこから、世界恐慌と世界大戦の破壊の中から生まれている。市場原理に国家が様々な枠をはめ、その暴走を阻止してきたのも、それ以来であり、原油の大量消費と車の大量生産が、市場の大枠を形作っている限りは、それでどうにか大きな破綻なく、ここまではやってくることができた。サブプライムに端を発した金融の崩壊が、どこに連鎖したかというと、これがGMやフォードであったというのは、これまた、これ以上に分かりやすい話はない。サブプライム後を先取りしたような長いゼロ金利で、筋肉質に鍛え上げられていたはずの、この国の製造業、その象徴のようなトヨタもまた、例外というわけにはいかないということになると、今、目の前で起こっていることの、ごく大ざっぱな輪郭だけは大分見えてきたと言ってよい。

 大恐慌と世界大戦の破壊と引き替えに、この時代に手渡された遺産の、最も良質な部分を食い潰して、金融を小手先に操って、市場原理を暴走させてはみたものの、原油と車の上に築かれた、大量生産大量消費の限界を所詮越えることはできなかった、これがどうやら見えてきた、現代というこの時代の今であり、それなら百年に一度は確かに間違ってはいない。

 歴史というのは面白いもので、一見繰り返しと見えて、却ってその間の違いを分かりやすく示してくれたりもする。こうなれば、かつての世界大恐慌と、今のそれとをとことん比べてみればいいのであり、この先にあるものも、そこからある程度は読み取れそうな気がする。わずか半年前であったら、そうはいかなかったはずで、やはり問題はサブプライムなんかでは済むはずもなく、ここでは、どこまでいっても繰り返しのような、内山節の信濃毎日の連載(『風土と哲学』)の方が参考になる。

 例によって峠の向こうに行くと、週一回のたまった連載分をまず読ませてもらうのだが、このところ毎回のように1929年の世界大恐慌が出てくる。話が自然にそこに立ち返るほかないという、そのあたりが何とも興味深い。以下脈絡を無視して、少しだけ引用してみる。

……私たちはいま、二十世紀的世界の総決算を迫られているような気がする。近・現代史の総決算、と言ってもよいのかもしれない。……現在は1929年からはじまった世界恐慌の時代とは違うのである。八十年前の時代は、まだ環境や資源問題は顕在化していなかった。人々は自由や民主主義を本気で信じていたし、社会主義という未来に希望をいだく人々も大勢存在していた。そして人々は進歩や発展に疑いをいだいてはいなかった。たとえ大きな不況が発生したとしても、それを乗り越えれば再び明るい未来がくることを信じていた。だが今日ではどうだろう。今日の私たちは進歩や発展に無条件の信頼など置いてはいない。それをめざしたことが、私たちの社会を袋小路に追い込んだのではいかとさえ感じている。未来へと向かう時間が、明るい希望ではなく、少しずつ締め付けられていくような予感とともに展開している。すべてが無事でなくなっていくような予感。現在とはこんな時代である。死後に切実な未来を感じた伝統的な精神はすでになく、代わりに追い求めた現実世界の発展も信用できなくなった。死後的未来観の喪失と、現実的未来観の瓦解のなかで、私たちの社会に不安と無力感がひろがっていく。こんな状況をみていると、私にはひとつの時代が総決算のときを迎えているとしか思えない。市場経済や国家の側にもこの事態をたて直す力はなく、私たちの側は未来をつくる想像力を失っている。だから私たちは問いつづけなければならないのである。無事な自然と人間のあり方をつくりだすにはどうしたらよいのかを。無事な社会をつくるにはどうしたらよいのか。無事な世界はどうしたらできるのかを。この問いに対する答えをみつけだすには、まずは私たちのあり方から問い直さなければならないだろう。現代の人間たちは、結びつきを失った個人になっている。……私たちはバラバラになって社会のなかを漂流するようになった。そしてその結果、「結びつき」の部分を外部のシステムに重ねてしまったのである。市場経済のシステム、社会システム、国家システム、世界システム。それらに「結びつき」の部分を委ね、一人一人はこのシステムのなかで浮遊する個人になった。そのことが私たちの想像力を低下させたのだと思う。自然と結びついていなければ、自然と人間の関係についての想像力は生まれてこない。人間同士が結ばれていなければ、人間はどう連帯していったらよいのかを考える想像力は生じない。……(『風土と哲学102』08.12.6)  

 失ったものを回復し、なおその先にあるものを掴み取るために、何が必要かが断片的ながら語られているように思える。(つづく)

峠越えれば(19) 小国寡民

2008-05-30 | 峠越えれば
明け易し原油六十ドルに乘せ  今田述

 今田述については、【一景一句(23)】にあげた「豆腐手に泳がせて売る寒の水」をよい句であると思った位で、それ以上は知らない。この豆腐の句から、ある程度は世代の見当がつくのだが、上の句は紛れもなく最近のもので、随分好奇心旺盛な人物と見える。「クリスマス地雷一億地に殘し」という痛烈な句もある。

 数年前には20ドル台であった原油価格が、急騰して60ドルを越えたのは、三年前の2005年の夏、その後いったんは50ドル台に戻し、再び上昇に転じたのが昨年の一月、八月にサブプライム問題で株価の急落すると、それに歩調を合わせ、今年に入りあれよあれよという間に100ドルを越え、現在は130ドル前後、まだまだ上がるというのが大方の予想であるらしい。今田もこんな事態は予想しようがなかったはずで、頭を掻いているかもしれない。

 原油高騰の理由は、中国などの新興国需要の拡大があげられたりもするが、世界的な同時株安で、行き場のなくなった投機マネーが、原油他の資源に向けられたということであろう。サブプライム問題が、アメリカの住宅バブルであるように、これも同根のバブルであり、この方がその影響の範囲を考えると、より深刻かもしれない。サブプライムの信用収縮が峠を越えたかに言われ始めた途端に、今度はインフレの加速に脅えることとなる。大衆的な収奪という点では、株の下落よりこの方がはるかに質が悪い。

 大型連休の前後、ガソリンが120円に下がったかと思うと、翌日は160円になったりと、狐につままれてような不思議を目のあたりにしたばかりであり、ねじれ国会のドタバタ共々、政治の無力がこれほど分かりやすく示されることも珍しい。グローバリズムというのは、つきつめてみれば投機マネーの暴走でしかなく、政治の機能不全を指すだけのことかもしれない。投機など珍しくもない。いつの時代でも、そこが政治の出番であることに変わりはない。

 日本の非正規雇用の増大が、格差の拡大を招くとしてOECDが懸念を示しているという。行き過ぎた格差や貧困は、将来に付けを残し、社会の安定を脅かすことは、既にそれなりに先進国間では経験が共有されている。グローバリズムの本質が市場原理主義でしかないとしたら、それとの距離を測ることが政治の知恵であるはずのところを、無原則に同調することをもって「改革」と称し、辻褄合わせに、すべてはそれに伴う「痛み」であるとして、問題を先送りにしてきたということであろう。格差の拡大や貧困の増大は、外から指摘されるまでもないのだが、将来を考えるなら、それほどに深刻ということになる。

 北京オリンピックの異様な聖火リレーに唖然とさせられ、改めて中国の民族問題とナショナリズムに関心が向かったと思う間もなく、今回の四川省の地震で、それもあっという間に遠く霞んでしまっている。しかし、被災地にはチベット系住民も多く、天災とはいうものの、ここにも急速な経済発展に隠れて、別種の政治の機能不全が見え隠れしている。市場原理や経済発展に対して、政治がどのように、そこに距離を置くかは、意外に分かりやすい単純なテーマであり、この点ではアメリカも日本も中国も一つに括って考えることもできそうにな気がする。

 中国のチベット自治区に隣り合わせて、ヒマラヤ山中に、同じチベット文化圏に属するブータンがある。不思議な、面白い国である。

 かつてのヒマラヤ三王国の中、隣国のシッキムはインドの州に編入され、ネパールは内乱と王室の混乱を経て、つい先日王政を廃し、議会制へ移行したばかりであり、同じくブータンも、今年王政を終えたばかりであるが、その移行はごく平穏に行われている。ブータンの人口は60万ほど、面積は九州とほぼ同じ。ネパールは本州を除いた九州に四国と北海道を足した位、人口ははるかに多い。かつての国の規模としては、一番小さなシッキムは、ネパールとインドに簡単に飲み込まれてしまう。ブータンはといえば、植民地時代もネパールのようにイギリスの圧迫を受けることもなく、前世紀の初めようやく、まだ中世的なたたずまいを残したまま王政がしかれ、開明的な国王の下で国づくりが行われ現在に至っている。

 ブータンが国連に加盟したのは1971年、国の存在を知られるようになったのもそれ以降であり、戦後あっという間にGNP大国にのし上がった日本と、アジアの最貧国ブータンは、あらゆる点で対照的であり、よく比較されたりもした。GNPの規模とは別に、当時からブータンは見ようによっては豊かな国として注目されていた。最近になって「国民総生産」ならぬ「国民総幸福」が、ブータンの側から外に向けて盛んに発信されるようになったのは、これと無関係ではない。ブータンが、周辺の国や先進各国の経験から多くを学んできたことは間違いない。

 ブータンの開国もまた日本と同じように外圧による。ただし19世紀の話ではなく大戦後の1959年、この年中国軍がチベットに侵入し、今また渦中のダライ・ラマ十四世はインドに亡命する。それまで地の利もあって、他から干渉を受けることなく豊かに農業、牧畜を営み、伝統文化を享受してきたブータンは、この動乱を契機に、チベット側の国境を閉ざし、インドとは国交を結び、対立する大国の間にあって、独自の近代化の道を模索せざるをえないこととなる。

 今手許に『ブータンに魅せられて』(今枝由郎 岩波新書08.3.19)があるのだが、 著者はチベット仏教の研究者であり、国立図書館の蔵書整理に関わり、在住経験豊富な立場から、この不思議な国が、その対極にあるグローバリズムを映し出す鏡であることを生き生きと描き出している。ブータンの置かれた歴史的な位置については、簡潔に次のようにまとめられている。

……近代化・経済発展は、世界中の発展途上国にとって避けて通れない課題であるが、発展途上国が自発的に取り組むことはあまりなく、大半は先進国からの技術・資金援助のもとに、先進国のモデルを追従することになる。しかし、目標となる欧米的モデルは、当然のことながら、文化・宗教・社会といった人びとの生活の基本的な部分で、アジア・アフリカをはじめとする発展途上国のそれとは相容れなくはないにしても、歴史的にまったく異質のものである。それ故に近代化・経済発展が進むにつれ、様々の問題が生まれてくるのは必然であり、現に多くの発展途上国がそれに直面している。欧米諸国以外で唯一先進国の仲間入りを果たした日本も、この観点からすれば例外ではなく、明治以来の「模範的」近代化、めざましい経済発展は、社会的・精神的な分野で様々の問題を生んでおり、その深刻さは、近代化・経済発展の成功度に比例していると言えるであろう。この点、最も遅れて近代化に着手した国の一つであるブータンは、多くの先輩発展途上国の例を他山の石として観察することができたが故に、同じ過ちを犯すことなく、弊害を最小限に止めるための措置を講ずることができた、と言える。……

 また、こうも書いている。

……ブータン社会を見ていると、人間が人間的であるためには、仰々しいことではなく、人間的なサイズであることが必要なのではないかと思う。たとえば情報に関して言えば、片や新聞、テレビ、ラジオといったマスメディア、さらにはIT時代の象徴である大容量・高速のインターネットによる一方的な情報と、片や面と向き合い、肌のぬくもりが伝わる距離で、肉声により交換される情報、この両者のうちどちらがより人間的なのかは言うまでもないであろう。……この視点から見ると、ブータン人は人間的なサイズの社会で、自然と調和し、仏教の教えに従い慎ましく、等身大で人間味あふれる生活を満喫している……

 人の変わらぬ営みである、生活という一点に目を向けるなら、社会にも国にも自ずから「人間的なサイズ」というものがあり、具体的にはブータンのそれが一つの目安となるのかもしれない。国境のない資本を体現したグローバリズムに欠けているのは、この「人間的なサイズ」であり、政治の知恵とは、どれだけこれを自覚し、現実に応用できるかかであり、「小国寡民」は今でも生きている。ブータンならぬ大国であればあるほど、そうあって然るべき、そうは言えまいか。(つづく)

峠越えれば(18) お金儲け

2008-05-10 | 峠越えれば
渾身に堆肥をまけば山笑ふ  横山瑞枝

 連休に峠のむこうで畑仕事を手伝う。機械を使うようになって、楽になったとはいえ、やはり渾身の力を込める場面がなくなったわけではない。敢えて逆らい、そんな場面をつくってみたりもする。目覚めた山々に囲まれ、見下ろされていると、年甲斐もなくなけなしの力をふりしぼって、笑われるのも悪くない。百姓の血であろうか。

 世の中には、儲からない仕事というのは、当然のことながらある。それがなくなるかといえば、そうでもない。百も承知で、みんな当たり前のような顔をしてやっている。農業がその典型であろう。無知なのか、他に能がないのか、やはり血であろう。

 儲からない仕事や産業には、お金も人も集まらない。それでよいのだという。その分が他のより必要な方に回され、その成長を促す。これが市場原理であり、時代に応じた産業構造がこうして形作られていく。その通りなのだろうとは思う。

 一方から引き上げたお金を、よりそれを必要とする側に融通するのが金融であり、これを銀行が仲介するのを間接金融、銀行を介さないで、必要とする側が、証券を発行して自ら調達するのが直接金融、かつてこの国は間接金融が主流であり、それが普通であった。

 この国の間接金融を称して、護送船団方式などと悪口がいわれた時期がある。銀行が船団を組み、一団となって、その一番船足の遅い銀行に歩調をそろえ仲間をかばい合っている。要するに競争原理が働いていない。確かにその通りともいえるのだが、一面銀行がそれぞれの融資先の事情を配慮した結果、そうなる外なかったともいえる。儲かる儲からない、成長が早い遅いと、社会がそれを必要とするか否かは別次元で、成長が遅くても欠かせない産業もあれば、将来を見据えて投資すべき産業もある。当面利益を期待できなくても育てなくてはならなかったり、地域限定で必要とされる産業だってある。間接金融は、そのあたりを様々な銀行の棲み分けで、ある程度はカバーすることができた。銀行全体としては広角の目配りができたことになる。

 グローバリズムの名のもとに、ここ何年間に一気に進められたのが、直接金融であり、市場から直接資金を調達する、このやり方は長期の貸し付けには不向きで、お金は国境を越えて、いつでもどこへでも瞬時に移動する。儲かりそうもないところからは、何の躊躇いもなく資金が引き揚げられていく。

 儲かりそうなところにお金が集まるというのは、一見合理的にも見えるが、儲かりそうなは、「そう」でしかないわけで、この「そう」の程度はリスクとなる。儲からなくても、必要な分野であるなら、その分こっちの方は確実であり、安全といえる。目まぐるしく短期の資金が移動することを前提にした、直接金融の場合、そのリスクを分散させるために債権を証券化して、これも売買の対象にしたり、そのために値のつけようのないものを商品化するため、リスクを評価して格付けをしたり(それが金融から派生した営利事業であることを考えると、それが公正に行われると考える根拠など何一つないにもかかわらず)、その保証を引き受けたり(リスクのあるところ何にだって保険はある)と、その周辺に様々な業態が新たに発生することになり、金融はやたら複雑になり、当事者以外には分かりにくいものと化してしまった。

 銀行預金とは対照的に、証券の保有期間はごく短い。不安が生じれば直ちに現金に換えるし、そもそもがその本質は投資であるよりは投機でしかない。その短期の資金を、例えば回収まで何十年もかかる住宅資金に回すとなると、そこにどのような事態が生じるかは、これは素人目にも明らかで、不動産を担保とするといっても、何十年もその価格が安定していたり、右肩上がりになったりするわけはなく、どうそのリスクを分散しようが、このような分野が直接金融には不向きであることは明らかで、起こるべくして起こったのが今回のサブプライム問題であろう。

 と、以上は、本山美彦の近著『金融権力』を参考に、教科書風の金融の初歩をなぞっただけなのだが、金融も流通も、もの作りと共に常にあり、よくいわれるようなお金なしの自給自足の社会がそうそうあるわけもない。お金とのつき合い方は結構みんな心得ており、それがグローバリズムとやらで急に変わったりするものでもない。本山はこんなことも書いている。少し長くなるが引用してみる。

……「お金儲けは悪いことですか?」と尋ねられたらこう答えよう。「悪いことです。人を威嚇する方法で得たあなたの巨額の儲けの陰で、無数の人々が路頭に放り出された」と。……戦前の日本を崩壊に導いたのは、農村の貧しさであった。不在地主一人の収入が、村のすべての小作人の収入を上回っていた。人は、絶対的には低くても、平均線上に自分の収入があるとき、それほどの怒りに駆られることはない。しかし、突出した少数の人たちに収入が独占され、圧倒的多数の人々が平均よりはるかに下の収入しか得られないとき、人は、強烈な貧しさの感情に打ちのめされる。……農民は生活苦から借金を重ね、借金返済のために農地を手放した。悪辣な金貸しが農地を取り上げて大地主になった。土地を手に入れた金貸しは、土地なき農民に農地を貸し出し、小作料をつり上げた。土地なき貧農が増えれば増えるほど、小作料はつり上がった。農民の貧困が不在地主の懐を潤した。そして、地主に転がり込んだ莫大な小作料収入は、農地の改良事業に投資されず、さらなる農地の買い占めに投資された。現在の、サブプライムローンを借りた人たちが戦前の日本の小作人である。ローンを貸し、それを転売する金融機関が不在地主である。……(本山美彦『金融権力』岩波新書08.4.22)

 実に明解である。金融をいつの社会でも欠かすことのできないものとして、その本来の機能に照らし合わせてみさえすれば、今回の事態は、グローバリズムどころか、アメリカ標準のごく単純な仕掛けを、新たな可能性が試されているかのように錯覚させられたにすぎない。誰もが知っている、金融の古い野蛮な側面がむき出しになっただけのことで、改めてそれが本来どうあるべきかを振り返ってみるよい機会ではある。金融工学やら、ノーベル経済学賞などといったふれ込みは相当にいかがわしい。

 金融本来の意味を、お金の意味を、より本質に近いところで、振り返ってみてみるということになると、次の内山節の言葉も参考になる。上の本山とはかみ合わないようにも読めるが、問題を取り上げる時間軸の違いで、金融を捉える上で、二人は別のことを言おうとしてるわけではない。

……お金は人々のもとに平等には落ちてこない。その結果、金持ちも貧乏な人も生まれてくる。それは社会に欠陥があるからだと人々は考えていた。いまなら金持ちになったのは、自分に能力があったからとか、努力したからととらえられるだろうが、かつての人々はそうは思わなかった。社会に欠陥があるから、自分のところにお金が集まりすぎたのである。だから、集まりすぎたお金は、みなに戻さなければいけない。つまり、みな様のお金を、一時的に自分が預かった、と考えた。このような発想があったから、金持ちたちはいろいろなことをした。ときには用水路や溜池、橋の建設などに多くの「私財」を投じた。寺や神社をなおすために、多額の寄進もしている。……半世紀ほど前までの日本では普通におこなわれていたことである。このようなことをしないかぎり、金持ちは地域社会のなかで尊敬される人物になることはできなかった。日本では、お金を自分だけの所有物、私有財産としてのみとらえる行動を、卑しい行為としてとらえてきたのである。「金は天下の回りもの」であり、自己所有物としてのみとれえてはいけないという精神が、ヨーロッパ流の私有財産としてみる精神に変わっていくなかに、貨幣をめぐる日本の「近代化」はあったのだと思う。その変化を経て、今日の私たちが辟易している貨幣社会が生まれた。…… (「風土と哲学67」 08.4.5)

 お金をどのようなものとみるか、それを金融として、どのように機能させるか、そこに、社会や文化の違いは当然あるわけで、それを一律にグローバリズムで括ろうというのはどだい無理というものであろう。(つづく)

峠越えれば(17) 溜池

2008-05-01 | 峠越えれば

花冷えや平和憲法読み返す  田付賢一

 大戦末期に生まれた田付が、こような句を詠みたくなる立場はよく分かる。花鳥風月ばかりが句ではない。「終りなきテロの連鎖や神無月」、これもよく分かる。「囲炉裏端に九条を読む膝机」(大木石子)、田付たちの先輩が残した句であり、それは当然引き継がれなくてはならない。

 内山節ノートを続ける。文脈を無視して引用するが、最近こんなことを書いている。(「風土と哲学64」08.3.15)

……おそらく私たちが目指さなければいかなかったものは、普通に暮らすことが、荒廃や対立を解消していけるような社会の仕組みだったのではないだろうか。無事に暮らすことが無事な世界をつくりだすような社会の仕組みである。グローバル化していく市場経済や、国家に依存して生きるのではなく、人々が自分たちの生きる場に根を張り、そこに自然とともに無事な世界を築きながら、他者の生き方を尊重していける社会。そんな社会が生まれたとき、近代的な経済や政治の倫理に頼ることなく無事な時代をつくることができるのではないだろうか。私は近代世界は発展期から克服期に入ったのだと思っている。……

 内山の文章には、この「普通に暮らす」「無事に暮らす」「無事な世界」といった言い方がよく出てくるのだが、1950年生まれの内山が、あるべき社会の姿として、このような言葉を選ぶに到った、その背景に平和憲法があることは間違いない。憲法が、国のあるべき姿の輪郭を示すものであるとしても、そこから一人一人の生活のあり様が、具体的にイメージ出来ないものであったなら、それは空文に等しい。その大多数が最低望むであろう、最大公約数のような、あるべき生活(暮らし)の姿を、簡潔に「無事」と要約するのは、ごく適切であろう。上の大木の「囲炉裏端に九条を読む膝机」なんかには、憲法成立時の「無事」の安堵と切実さが、そのまま詠み込まれているような気がする。

 誰もが平穏無事な生涯を願っているし、それを望まない者はいない。誰も望んで波瀾万丈を生きたいとは思わない。経済や政治に問われるのは、その実現にどこまで寄与できたかであろうし、その枠組みとして憲法があり、それをいかに時代に適合させるかが国の役割にきまっている。

 前回表題とした「貧困ビジネス」を言い出したのは湯浅誠であり、その近著『反貧困』(岩波新書)で、ここでも湯浅は「溜め」という独自の用語を生み出している。貧困論で知られているアマルティア・センのcapabilityを言い直したというのだが、溜め池の「溜め」であり、確かにこの方がよほど分かり易い。このような言い換えが適切に出来るのは、提起した問題の現場を知り尽くしているからで、年季の違いであろうか、前回の堤未果に感じる生硬さは、湯浅にはまったくない。少々引用してみる。

……〝溜め〟とは、溜池の「溜め」である。大きな溜池を持っている地域は、多少雨が少なくても慌てることない。その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。逆に溜池が小さければ、少々日照りが続くだけで田畑が干上がり、深刻なダメージを受ける。このように〝溜め〟は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッションの役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。〝溜め〟の機能はさまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。十分なお金(貯金)をもっている人は、たとえ失業しても、その日から食べるに困ることはない。当面の間そのお金を使って生活できるし、同時に求職活動費用ともなる。落ち着いて、積極的に次の仕事を探すことができる。そのとき貯金は〝溜め〟の機能を持っている、と言える。しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。有形・無形のさまざまなものが〝溜め〟の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の〝溜め〟である。また、自分に自信がある、何かできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な〝溜め〟である。……

 上の経済学者アマルティア・センは貧困を論じて、金銭の多寡では貧困の程度を測れないとして、個々のcapability(潜在能力)の違いを強調している。例えば障害を負った者は、潜在能力をその分だけ失い、貧困の度合いはより深刻になるというような言い方をする。貧困の現実に進んで目を向け、自覚を深めようとするなら、もっと別の言い方があってよい。長く干ばつと飢饉に苦しんだ農耕社会の伝統を踏まえるなら、それぞれに地域単位で溜池を掘り、それを備えとし安心の拠り所としてきたのであり、この方が確かに話が早い。生活の無事を保障するのは、実はこの溜池の水量であり、それが干上がる時、社会も人も容易に暴走し自滅する。

 湯浅は、長年路上生活者の生活支援に携わり、その生活相談の経験から一見分かりやすそうな、この「溜め」が、どうにも外からは見えにくいのだという。「溜め」の枯渇した場面で、自己責任やら自助努力を説くことの空しさが、分からない者には分からない。自身の「溜め」に対する自覚がない限り、他のそれも見えない。食うくらいは誰も困らないという思い込みが、いつの間にか社会に染みついてしまったということもある。誰もが食えるようになったのは、実のところそれほど昔のことではない。そして、それが今また過去のものとなりつつある。

 格差は認めても、貧困の存在はあえて見ようとしない。「溜め」というのは空気のようなもので、失われてはじめて、その存在に気づくのであり、まだ「溜め」の恩恵を受けている者には、それが失われた者の無力は念頭にない。たまたま結果がよければ、多くは自分の手柄と思っている。

 そうこう言っている間にも「野宿者・ネットカフェ難民が増え、刑務所がいっぱいになり、児童虐待が増え、子が親を殺し、親が子を殺し、自殺が増えている」(湯浅)。「溜め」は有形から無形へと広げて考えることもできる。今目の前で起こっている信じがたい異常の多くは、その根を手繰っていけば、この「溜め」の枯渇で大方は説明できそうな気がする。「自分を大切にできる」、これも「溜め」の中であり、大切にされた記憶がなければ、それは最初から欠けている。自らを恃むことなくして、自助努力などあろうはずもない。貧困が「溜め」によるとしたら、それは世代交代によって引き継がれていく外ない。

 「溜め」が、空気のようなものというところで気づくのだが、一番大きな溜池、それが憲法ではないのか。社会の「溜め」として一番分かりやすいのは、雇用・社会保障・公的扶助に関わる、いわゆるセーフティーネットなのだろうが、その綻びたるや今や目を覆いたくなるばかりで、暮らしの無事が脅かされる、これほど分かりやすい話はない。「無事」を、「健康で文化的な最低限度の生活」と言い直してみるだけでよい。憲法の水位が下がり、やがて干上がる事態は容易に想像できるし、それが何によるものかは見ての通りであろう。

 湯浅の『反貧困』から、もう少しだけ引用してみる。

……野宿者の中にも、少なからぬ数の自衛隊経験者がいる。軍隊が好きだったわけではない。理由はただ一つ、「食べていくため」だ。日本は類希な被爆(戦争)体験をしたことによって平和への意識が高まった。しかし、同時に、類稀な高度経済成長を体験したことによって貧困問題を忘れた。そのためこの数十年間、両者を結びつけて考えることが少なかった。平和と戦争の問題は、平和に対する意識の問題、戦争体験の有無の問題として語られる傾向が強かった。しかし貧困が広がる中、それだけでは足りないことが徐々に明らかになってきている。……衣食足るという人間としての基本的な体力・免疫力がすべての人間に備わった社会は、戦争に対する免疫力も強い社会である。……

 問われているのは湯浅の言うように、「どうすれば、人の、そして社会の〝溜め〟を増やすことができるのか」であろう。(つづく)

峠越えれば(16) 貧困ビジネス

2008-04-14 | 峠越えれば
何桜かざくら銭の世也けり  一茶

 信濃毎日の『きょうの一句』で見つけたのだが、しばらく首を傾げてしまった。「かざくら」は「彼桜」。「何桜彼桜」「何ざくら彼ざくら」というような分かりやすい表記を、なぜか近世にはしようとしない。何の桜、彼の桜と浮かれていても、所詮この世は花より団子、カネ次第。身も蓋もない、一茶らしい自嘲の句。

 近世といえば、きまって身分制が強調されるのだが、実際のところ年貢以下、納め切れないことを承知の上で、不足分を貸し付け(拝借)、利子を年々加算し、借金でがんじがらめにする支配の形が、社会の隅々に及んでいることは、意外に見落とされている。この場合、金利は十数%が変わらぬ相場で、複利だとあっという間に元金を超えてしまう。一茶の「銭の世」は、その辺りのことも含めてということなのであろう。

 それでも、カネの支配を「銭の世」と詠む一茶の場合は、その核心を見透した上で、無理矢理句に仕立ててしまうだけの余裕があるのだが、昨今お馴染みのサブプライムとやらは、言葉自体からして、そんな余裕のかけらもない。いちいち「信用力の低い個人向け住宅融資」と長ったらしい言い直しが必要な、その実態はといえば、近世の「拝借」どころではないのだが、プライム(優良顧客向け)の次(サブ)位という怪しげな言葉が一人歩きし、いつの間にか分かった気にさせられている。

 参考までに、「信用力の低い個人」とは、どの程度に低いのか、具体的には次のいずれかに該当するものとされている。
①過去12ヶ月以内に30日延滞を2回以上、又は過去24ヶ月以内に60 日延滞を1回以上している。
②過去24ヶ月以内に抵当権の実行と債務免除をされている。
③過去5年間以内に破産宣告を受けている。
④返済負担額が収入の50%以上になる。

 信用力が低いも高いもない、絵に描いたような延滞、破産予備軍であり、そんな相手にぽんと数千万円の融資をする。これがビジネスとして成り立つというのだから恐ろしい。最初の二、三年を待って、その後に利子が10~15%にはね上がるというのは詐欺に近い。当然に予想されるリスクに対しては、債権を証券化して分散させ、累が及ぶのを事前に予防するというにいたっては奸智というべきで、たちが悪い。高利回りを売りにした、こんなでたらめな金融商品を、格付けたり、保証を引き受けたりと、その周辺の、寄ってたかってのいかがわしさも普通ではない。

 最近よく読まれている岩波新書の『ルポ貧困大国アメリカ』(堤未果08.1.22)によると、これは単なる金融の話ではなく、過激な市場原理が経済的「弱者」を食いものにした「貧困ビジネス」の一つだ、という。堤によれば、アメリカで中流階級の消費率が飽和状態になった時、ビジネスが次のマーケットとして低所得層を狙った、そこを新たな草刈り場としたということのようで、考えてみればここには新しさは何もない。

 いつの時代であれ、行き詰まった社会が最後に食い物にするのは、社会的な弱者ということになっている。連邦政府が発表した2005年のデータが添えられているが、アフリカ系アメリカ人の55%、ヒスパニック系の46%がサブプライムローンを組んでいるのに対し、白人はわずか17%というあたりを、上のサブプライムの線引きと照らし合わせて見ると、ローン漬けのアメリカの、凄まじい実態が浮かび上がってくる。「貧困ビジネス」とはよく言ったもので、そうとしか言いようがない。最近の移民の多いヒスパニック系の場合、そもそも銀行に口座を持っていない例も少なくないのだという。それでも住宅ローンが組めるし、組まされている。

 内山節は、「私たちの歴史はこれから、経験のない事態に次々と直面していくことになるだろう」という。例によって、峠の向こうでは、信濃毎日に連載中の『風土と哲学』をまず読むのだが、このところ、内山のエッセーにまで「サブプライムローン」が登場し、いささか興ざめという気もするのだが、歴史や哲学の立場で今を考える時、「今」の、その分かり易い象徴が案外こんなところにあるということなのかもしれない。

 内山は、世界経済が、アメリカ、ヨーロッパ、日本の三極構造をなし、すでにドルの基軸通貨としての役割は終わったにもかかわらず、その後もドルが防衛され続けてきたことに、現在の金融不安の背景があることする。ドルが基軸通貨であり続けるためには、外国からの投資を呼び込み、常にアメリカにドルを環流させ続けるしかない。

……アメリカへの投資は、はじめは企業買収やビル買収といった、実体のあるものに対しておこなわれていたが、だんだんアメリカに魅力ある売り物がなくなっていく。そのときアメリカのとった政策は金融商品を大量につくりだすことによって、投資マネーがアメリカに流れ込む状態を生みだすことだった。その代表的なもののひとつがサブプライムローンで、住宅が値上がりしつづけることを前提にした無理な住宅ローン制度をつくり、その貸付け金を金融商品に変えて世界中に販売する、というものだった。このような過程をへて、裏付けのとぼしい基軸通貨・ドルの体制ができあがってしまったのである。……(風土と哲学65 08.3.22)

 戦後を大きく俯瞰するなら、ニクソン政権のドルショックが区切りであることは確かで、その時点で基軸通貨ドルの役割は本来終えている。以来様々に策を弄して、ドルの延命を図ってきたのだが、その間のアメリカ社会の変質に多くが無頓着でありすぎたかもしれない。金と交換可能な唯一の基軸通貨ドルの下で、アメリカの製造業が世界を主導し、国内にはそれを支える中流階級が分厚い層をなしていた。累進課税と社会保障による所得の再分配が行われた、その成果としての中流であり、これは確かに一つのモデルとなり得ていた。テレビのホームドラマが描く、その家族像はといえば、例えば次のようなもので、日本でもお馴染みであり、その残像は、残像でしかないとしても、まだ現在のアメリカに重ねられている。

……郊外の庭つきの一戸建てに、ネクタイを締めた白人サラリーマンの夫、最新式の設備をそろえた広いキッチンで手作りのマフィンを焼く専業主婦の妻の周りには可愛らしい三人の子どもたちが走り回り、その足元には毛の長いふかふかの大型犬が眠り込んでいる。広い居間にはゆったりできる大型ソファが置かれ、窓の外に広がる緑色の芝生にはスプリンクラーの水しぶきがきらきらと光っている。……(堤『前掲』)

 ニクソンの頃には、こんな家族像を全ての国民に与える夢が語られ、それがまたアメリカの国際的な優位を裏付けていた。ところがアメリカのこの幸せな中流階級は、その後解体に向かい、「中流」に代わって「格差」が次第に社会を覆いつくして行く。このあたりの変質が外からは見えにくい、それが基軸通貨の基軸通貨たる所以なのであろう。相変わらずアメリカには、世界中の余剰資金が環流し、ローン漬けの金融の魔法で巨大な消費市場が維持され、それが世界経済を支え続け、今に至っている。

 実際には、そこで何が起こっていたかは、今では同じように「中流」と「格差」の間で揺れ動いている、この国の最近の変化を重ねてみれば、ごく容易に見て取れる。この間、アメリカでは、効率重視の市場主義がとことん徹底されたのであり、企業の活力を引き出すため、規制緩和と民営化、累進課税、社会保障、労働者保護の見直し等々が止まるところなく進められていった。その一方で、斜陽の製造業に代わって台頭した金融やIT、コンサルティングなどのサービス業は、経営の形も一変させ、独創力に勝った一部が核となり、成果主義が採られ、ここからも格差が生まれて行く。

 ドル支配の終焉に続く、国際の多極化、国内の階層分化、これは必然であろう。問題はその先の、内山のいうように、「その変化が対立に向かわないようするにはどうしたらよいかである。」(つづく)

峠越えれば(15) 万愚節

2008-04-02 | 峠越えれば
なまけもの大地耕す万愚節  牧稔人

 『一景一句』22で、有馬朗人の「なまけものぶらさがり見る去年今年」に触れてみたのだが、この「なまけもの」は、樹上にぶら下がっているところをみると、正真正銘のナマケモノでもあるに違いない。上の「なまけもの」はどうであろうか。ただのグウタラを指しているのかなと思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。環境・文化NGO「ナマケモノ倶楽部」の辻信一がこんなことを書いている。(NHKブログ「視点論点」08.3.17)

……笑いものになっている動物の研究をしたいと思う科学者があまりいなかったようで、長い間ナマケモノの生態はあまりよく知られていませんでした。でも、近年の研究の結果、驚くべきことが明らかになりました。まずなぜ動きがのろいのか。それは筋肉が少ないから。筋肉が少なければ、低カロリー、低タンパクで生きることができる。ミツユビナマケモノは木の葉だけを食べるベジタリアンです。筋肉が少なくて軽いから木の高みの細い枝にもぶる下がることができ、それだけ天敵から襲われる心配も少ない。一週間に一度、彼らはリスクをおかして木の根元まで下りてきて、地面に浅い穴を掘って排泄する。排泄にこんな危険な方法をとるのはなぜか。これも謎でした。「やっぱり低能だからではないか」という人たちもいた。でも、やがてこれが、生態学的には重要な意味を持っていることがわかった。高温多湿のジャングルでは、糞はあっという間に分解されて土を肥やさない。でも、ナマケモノは、葉を食べて得た栄養をなるべくその同じ木に返すために、そういう排泄をしているということがわかったのです。……

 正真正銘のナマケモノも時に地上に下り、大地を耕す。上の句に、不耕起・無農薬・無肥料・無除草の福岡正信を重ねて読むとなかなか面白い。一見ただの無精にも見える自然農法こそ、実は真に大地を耕す。逆説の農法は、信じない者の目には万愚節の酔狂とも映る。しかし、福岡は大真面目であり、ナマケモノを見習うべしという。(前回14)

 それにしても進化とは不思議なもので、大方の動物が、戦ったり、逃げたりするために、そのための筋肉を特化し、進化、発達させたのとは正反対に、ナマケモノはそれを必要としない方向を目指したものとみえる。何のことはない、敵をつくらなければよいわけで、互いに非力であれば、力に任せて仲間同士血を流し合うこともない。強い筋肉を維持するには、より多くのエネルギーを浪費しなくてはならないという理屈は、私たちの軍国の思想に、そのまま姿を変えている。

 ことのついでに、同工異曲がいっぱいあるが、辻信一ヴァージョンの小咄をひとつ。 

大家さんがナマケている若者を叱ります。
「なんだいい若いもんが、ナマケてないで、もっとせっせと勉強しなさい、がんばって働きなさい」
「がんばって勉強したり働くとどうなるんですか?」
「そりゃ、がんばればいい学校に入れるし、いい仕事について、たくさんお金を稼いで豊かになる」
「金稼いで豊かになるとどうなるんですか」
「そうなりゃ、おまえ、もうあくせく働かずにのんびり生きられる」
「それなら、もうやってます」

 小咄のついでに、たとえ話もひとつ。
 福岡正信の「国民皆農」を、禅の公案のようなものと喝破した卓説もあるのだが、もっと単純に、たとえ話として読んでも、それほど間違いとも思えない。例えば、今風のこんな話に、どこかで繋がっている。こっちの方の話の作者は玉村豊男。玉村は、田舎暮らしの達人で、峠のむこうのわが家とは沢筋は違うが、ほぼ同じ標高の山間でワイナリーを営んでいる。

……おかあさんはヒマを持て余していました。
 家の中をいくらきれいに掃除しても、夫は褒めてくれません。もちろんお小遣いをくれたりもしない。それどころか、ほとんど家にいないので気づかないのかもしれない。
 そんなとき、友だちから一本の電話がかかってきます。
「え、あなた、家で掃除なんかしてるの?バカみたい」
 家で掃除するのがなんでバカなんだろう。
「いいアルバイトがあるのよ。他人の家でお掃除をすると五千円もらえるの」「五千円も?」
 派遣された家で掃除をすると、一日五千円の稼ぎになる。そういう仕事の斡旋をしている会社があって、紹介してくれるという。もちろん奥さんはすぐに申し込んだ。
 部屋をかたづけて掃除機をかけ、あちこちの埃を払い、雑巾をかける。いつも自分の家でやるのとまったく同じことをやって、一日五千円。家ではタダなのに。
 味をしめた奥さんは、それから毎日のようにアルバイトに出かけました。お小遣いがどんどん貯まります。そのかわり、家の中はどんどん汚くなっていった。タダでは掃除をする気分になれないからです。
「最近、あまり掃除してないみたいだな」
 鈍感だと思っていた夫がそういいます。きれいなときには気づかないのに、汚くなるとすぐに気づく。
「隣の奥さんから聞いたけど、おまえ、最近パートに出てるんだってな」
「……」
「他人の家ばかり掃除してないで、たまには自分の家も掃除しろよ」
 だったらあなた五千円くれる?……とは、さすがの奥さんもいえませんでしたが、そこで、
「しょうがないわ、たまにはうちの掃除でもしようかしら」と考える奥さんは、まだ、甘い!
 賢明な奥さんなら、インターネットで掃除代行業者をかたっぱしから調べます。で、一日四千円でやってくれるところを見つける。やった!
 自分の家の掃除は一日四千円の業者にまかせて、自分は一日五千円もらえる家に掃除に行く。そうして差額の千円を儲けるのが、現代資本主義社会を生き抜くことのできる優秀なトレーダーなのです。
 かつては家の中の仕事だったものが、どんどん市場化されて外に出ていってしまう。掃除も、洗濯も、炊事も。
 そのかわり、おカネさえ出せばなんでも買えるし、やってもらえる世の中になった。
 が、こんどはそのおカネを稼ぐのに忙しくなり、おカネができてもそれを使う時間がない。生活の質を少しでも上げるためにおカネを稼ごうと思ったに、おカネを稼いだらかえって生活の質がさがってしまった。
 おカネ、おカネといいはじめると、だんだん心が荒んできます。優秀なトレーダーの奥さんは、これではいけないと思い直し、心を癒すためにボランティアをはじめることにしました。それは、他人の家をタダで掃除するボランティアでした……。……

 ヒマをカネに替え、「おカネを稼いだらかえって生活の質がさがってしまった」。その通りなのであり、規制緩和を唱え、何でもかんでもビジネスチャンスとばかり、掃除、洗濯、炊事はもとより、育児も教育も福祉も医療も、果ては環境や安全にいたるまで、市場に投げ入れ、カネに置き換えることを「改革」と称して、不思議とも思わなかったのは、つい先日までのことではなかったか。

 福岡は、ナマケモノなんかの方が「よっぽどすばらしい精神生活をしているんじゃないか」というのだが、ヒマがあっても、それを持て余してしまうところが悲しいところで、それを余裕として、悠々自適、楽しむことができるかどうかは、カネやビジネスとは別次元の、文化の質次第ということなのであろう。福岡が問いかけているのは、それ以外ではない。(つづく)

峠越えれば(14) ナマケモノ

2008-03-25 | 峠越えれば

生涯に余生などなし春田打つ  留末雄
捨て切れぬ山の暮しや春田打つ  高村寿山
日一日同じ処に畠打つ  正岡子規
海を見て十歩に足りぬ畑を打つ  夏目漱石
耕して百年前の空の紺  坪内稔典
標高千雲と遊んで耕せり  中村立身

 前回の「ごくどうが帰りて畑をうちこくる」は、自画像であろうか、村人の揶揄であろうか。いずれにしても、どこにでもありそうな光景で、どこか可笑しく懐かしい。春先、田や畠を打つ光景は、原風景とでもいうべきで、実際上の農の体験は問わなくてもよい。上の子規や漱石のように、それとは無縁の立場であっても、このような句が詠めている。一や十や百や千といった、単純な数字と相性がよいのも、変わることなく常に繰り返されてきた、心象としての原風景ならではであろう。

 「NPO法人ふるさと回帰支援センター」の理事長をしている、作家の立松和平が書いている。「定年退職をむかえた団塊の世代を中心に、都市から地方への移住がゆるやかに進んでいる。……都市から田舎への流れは、日本史上はじめてではないか。」(日経08.3.19) 帰農という流れは常にあるにしても、地方出身ではない、純然たる都市住民の移住が始まっているとしたら、確かにこれは「日本史上はじめて」であるかもしれない。

 「過疎」をもう一段階進めた、「限界集落」というような言葉が聞かれるようになったのは、ごく最近のような気がするが、過疎地の一部では、すでに高齢人口が半数以上を占め、このままでは居住も耕作も断念する外なく、その数はどんどん増えている。現在の人口構成は、高齢者2:労働者6:子供2、これが数十年後には4:5:1になる計算だという。人口ピラミッドの図に描いてみれば分かりやすいのだが、ここまで極端な少子高齢化は、過去どの時代にも、どの国にも例がない。「限界集落」宜成るかなである。

 サブプライムとやらによって、今、分かりやすい形で目の前に突きつけられているのも、案外この辺りから考えてみれば、意外に分かり易いのかものかもしれない。先日、株価は1万1000円台にまで下がり、1万円台も視野に入ってきている。昨年7月の1万8000円台からみると、あの頃の東証一部時価総額580兆円から、200兆円ほども消えてなくなった計算になる。日本の、かつての不良債権の処理損失額が100兆円、今回のサブプライム関連の、欧米推計損失は今のところ40兆円ほど、200兆円の重みはこの辺りから見当がつく。不可解なのは、この間の下落幅が、火元のアメリカより、怪しげなものに手を出さなかった賢明な日本の方が、はるかに大きいことであり、この点についてはあまり納得のいく説明がどこにもない。グローバリゼーションの波に一歩乗り遅れた、「改革」の遅れが、期待とは裏腹に、怪我の功名になっていない。

 今、株の時価総額が、企業の純資産の何倍に当たるかを示す、株価純資産倍率が1倍割れになる企業が続出している。株主としては企業の存続より清算を選ぶべきレベルであり、ここまで売り込まれる理由をどう説明したらよいのであろうか。思い出してみれば、昨年7月までの上昇局面でも、日本株の出遅ればかりが語られていたわけで、今また売られすぎが語られ、要するに日本株の買い手が国の内外共に欠けているのである。サブプライムとやらは、この事態をより鮮明に浮き立たせてくれただけということかもしれない。そこそこの金融資産を抱えながらも、将来を危ぶんで、自国への投資を躊躇っている国に、外からの投資を期待してもどだい無理というものであろう。

 そうであるとしたら、余った金と土地と人を、少子高齢化を前提として、生かす道はないものであろうか。

 以前この欄で、文明には必要なものを復元させる力も、プログラムとして組み込まれている、というようなことを書いてみたのだが(12鍬と携帯)、「都市から田舎への流れ」が確かにあるとしたなら、それは必然と考えるべきであり、この流れだけが案外本筋かもしれない。

 最近、福岡正信を読み返している。老子ばりの無為自然を、不耕起、無肥料、無農薬、無除草の自然農法の実践を通じて説く福岡は、1970年代に宗教団体を含めたコミューンを目指す多くに、国境を越えて影響を与えており、それなりの役割を果たしてきたことは間違いない。しかし、自然を神と言い切る、その強烈な個性は、固有の信仰とも哲学とも無縁な立場からは、もうひとつ近寄りがたい雰囲気であったような気がする。

 福岡は1913年生、健在であり、風貌はいよいよ老子めいてきている。力の入った『無』三部作のようなものより、会話調の『わら一本の革命』や『自然を生きる』のようなものに、福岡本来の姿がよく示されている。なかなか食えない爺さんだが、多分気むずかしいところはあるのだろうが、以前よりは面白く、親しめる印象を持った。

 福岡はナマケモノになりたいのだという。最近は、環境・文化NGOに、希少動物のナマケモノを守ろうではなく、ナマケモノになろう、ナマケモノのごとくに生きたいとする「ナマケモノ倶楽部」まで登場する時勢であり、究極の反グローバリズムとして福岡を読み直してみてはどうであろうか。ようやく時代が福岡に追いつてきたという言い方もできそうな気がする。少し長くなるが、最近新版の出ている『わら一本の革命』から引用してみる。

 ……私は、実は、国民皆農というのが理想だと思っている。全国民を百姓にする。日本の農地はね、ちょうど面積が一人当り一反ずつあるんですよ。どの人にも一反ずつ持たす。五人の家族があれば五反持てるわけです。昔の五反百姓復活です。五反までいかなくても、一反で、家建てて、野菜作って、米作れば、五、六人の家族が食えるんです。自然農法で日曜日のレジャーとして農作して、生活の基礎を作っておいて、そしてあとは好きなことをおやりなさい、といのが私の提案なんです。……昔の五反百姓は、貧農やなんかといわれながらも、年末がきて、正月があけたら、もう、やる仕事がなくて、一月、二月、三月は、山のウサギ狩なんかにばかり出かけておった。それだけの余裕があったんです。だいたい、正月というのが、昔は三ヶ月もあった。これが二ヶ月になり、一ヶ月になり、そしてもう、十五日がきたら、正月は終わりだといって、注連飾をのけるようになったのは、つい近年のことなんです。それがさらに、その十五日も廃止されて、このごろは、三日の正月になってしまった。その、三日の正月も、農村では、三日間丸休みすることがほとんどなくて、二日になり、一日になっているわけなんですよ。それほど短縮されてきた。で、先日も、私は驚いたんですが、村の小さな神社の拝殿を掃除しておりましたら、そこに額がかけられおるんですよ。それを見るというと、おぼろげながら、俳句が数十句、短冊のような板に書かれているですね。このちっぽけな村で、二十人、三十人の者が、俳句をつくっていて、それを奉納していた。多分、百年か二百年ぐらい前だと思うのですけれど、それだけの余裕があったんです。そのころのことですから、貧乏農家ばっかりだったはずですが、それでも、そういうことをやっていた。現在は、この村で一人だって、俳句なんかつくっている余裕はないわけです。……老子は小国寡民というようなことを言っていますが、小さいところで生きていたのでいいんだという考え方なんです。……百姓が日本中を股にかけて儲ける作物を作ったり、送ったりするというようなことは、本来のやり方ではない。もう、ここに坐っておって、この小さなところで田畑を耕して、そして、その日その日の最大の、余裕のある時間というものを獲得するような農業っていうのが、むしろ、理想の農業であったはずなんです。だいたい私は、労働という言葉がきらいなんです。別に、人間は働かなきゃいけないという動物じゃないんだ。働かなきゃいけないということは、動物の中でも人間だけですが、それは、もっともばからしいことであると思います。どんな動物も働かなくて食っているのに、人間は働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。ところが、実際は、そうではなくてですね。額に汗をして勤労するなんていうことは、一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕のある生活を送ればいい。まあ、熱帯にいるナマケモノのように、ちょっと朝晩出ていっって食物があったら、あとは昼寝をして暮らしている、こういう動物の方がよっぽどすばらしい精神生活をしているんじゃないかと思うんですね。こういうのがむしろ将来の農業の方向であるし、その方向へもっていかなきゃいけない。私が言っている国民皆農といいますのも、小さな村に住んで一生をそこですごして、それで満足できる人生観を確立する。こういう方向にもっていくのが私の目標でもある……

 「額に汗をして勤労するなんていうことは一番愚劣なこと」、確かにその通りなのだが、そう言い切ることのできる哲学者や宗教家はそうはいない。(つづく)

峠越えれば(13) 猫も食わない

2008-03-09 | 峠越えれば
 
ごくどうが帰りて畑をうちこくる    小松月尚


 例によって峠の向こうでは、まず内山節の信濃毎日の連載を読む。

……群馬県上野村の家にいると、たえずいろいろな情報が私のもとに届けられる。……私が何をしているときでもそれらの情報は伝えられつづけ、私は毎日山のような情報にふれながら暮らしている。……ところが東京にいると、このような情報は乏しくなる。それに代わって、活字やテレビの画面から伝えられる情報が多くなる。それらは一度加工された情報だから、信用してよいものかどうかわからない。信用するとするなら、その情報を提供したマスメディアなどを信用するしかない。情報自体を信用するのではなく、情報をもたらした組織を信用するのである。だがここで困ったことが起こる。それは、その情報をもたらした組織のことを、私たちがよく知らないことである。知らないのに、信用できるかどうかを判断しなければならない。……(『風土と哲学59』08.2.9)

 内山は、ここであえて「情報」というような言葉で括って、峠のこっち側の、その乏しさを対照させてみせるのだが、通常は山村に情報が溢れているとは誰も思ってはいない。ここで内山が言おうとしているのは、「私の耳や目、鼻、皮膚などに、つまり私の身体に直接伝えられてくる情報」であり、これもまた確かに情報には違いない。しかし、それは具体的には、「鳥の声だったり、動物の足跡や虫たちの動き、冬芽のふくらみだったり」で、それを読み解く力がないとしたら、それはないに等しい。情報とは、何であれ、もともとそのようなものでしかない。

 山村ではなく房総の漁村に仕事場を構える、写真家の藤原新也のブログは痛快で、時々覗かせてもらっているのだが、先日こんなことが書かれていた。(Talk&Diary 08.2.4)

 藤原の周辺で起こった、昨年の十大ニュースのひとつだというのだが、上海に行った知り合いが、それなりに良いホテルの魚肉ソーセージを、飼い犬用にみやげに持ち帰えり、与えたのだが食おうとしない。興味を持った藤原がそれを貰って帰り、いつも腹を空かせ何でも食べてしまう、近所の馴染みの野良猫に、与えてみたのだが、やはり嗅いでみただけで無視する。「天地がひっくり返るほど驚いた」と藤原が書いているところをみると、この猫にして、「猫も食わない」というのはよほどのことなのであろう。

 両人とも直接の話題としているのは、中国製冷凍餃子の例の農薬混入事件で、発覚から一月以上になるが、混入が製造から流通のどの段階で起きたものか、肝心な点は未だに分からないまま、何やら国家レベルの責任転嫁の泥仕合めいてきている。起こるべくして起こったにしても、起きてしまった以上、いづれ何らかの解決が図られる外ないのであろうが、それとは別に、今回の事件が意味していることはすでにあまりに明らかで、それを前にして、事件そのものの「解決」やら「解明」やら「決着」やらに、たいして期待することはないとも言える。

 内山は「現代とは、自分のよく知らない、あるいは手の届かないところにあるものを、判断しながら生きなければならないという困難を、私たちに与えられた時代である」とする。野良猫なら瞬時にやってのける判断を、結局の所私たちは、国の食品管理のシステムに依存する以外に手がない。それもこの場合は他国のシステムにである。「よく知らないシステムを信用するしかないという構造」は、経済から政治、軍事あらゆる分野に及んでおり、今更という気もするのだが、改めて食という生命の根幹に直接関わる、それにまでというところから、やはり何事か悟るべきなのであろう。

……生きて行くための「食い物を作る」という人間にとって基本的なことを他の国にまかせておいて、それに何が入っていたかにが入っていたと騒ぐのは自分の尻を他人に拭いてもらって汚れていると騒ぐに等しい。他の国の人間が利益を考えたとしても日本人の健康やお尻のことなんか考えるわけがないのである。……

 藤原流だとこうなるのだが、やはり物事はこれくらいはっきり言うに越したことはない。

 前回(12鍬と携帯)、農業はつまるところ鍬一丁あれば足りると書いて、少々引っかかるところがあり、今回の餃子事件で思い出したことがある。 『鍬と宇宙船』の秋山豊寛が、自身の農業体験を語るついでに、秋山と交流のある農業者のプロフィールをいくつか紹介しているのだが、さすがジャーナリスト、つぼを心得た描き方で、何れも魅力的なのだが、秋山同様、都会出身の俄百姓であり、無農薬、有機栽培を志している点は大方共通している。

 今の中国の農業事情を知りたければ、1970年代の日本のそれを思い出してみるだけでよい。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、有吉佐和子の『複合汚染』が読まれ、その影響の中で、当時の化学物質漬けの農業を乗り越える様々の試みが始まったのであり、多分秋山の周辺の誰彼も、その中に含まれるのであろう。

 当時よく読まれた中の、もう一人に福岡正信がおり、福岡は農薬や化学肥料のみならず、有機肥料も不用とし、更に不耕起、要するに鍬を使って耕すこと、それもまた不用とする徹底した自然農法と唱え、自ら実践し、当時多くに影響と与えていた。ことによったら農業に鍬が不可欠という、これも一度疑ってみる必要があるのかもしれない。

 秋山に触発され、自然農法のその後が知りたくて、とりあえず木村秋則の『自然栽培ひとすじに』を読ませてもらった。これが実に面白い。さすがに福岡のように種を仕込んだ粘土団子を撒くだけと、そこまでには到らないが、無農薬、無肥料で、ついには野菜や米より、その点でははるかに困難の多いりんご栽培に成功している。その試行錯誤と失敗の語り口が見事で、このようなやり方もありえることを十分に納得させてくれる。

 福岡や木村、それに秋山、藤原の書いたものに説得力があるのは、内山の言う「私の耳や目、鼻、皮膚などに、つまり私の身体に直接伝えられてくる情報」にのみ信を置き、「一度加工された情報」をとことん疑ってかかっているからである。

 りんご農家の次男に育った木村は、高校卒業後いったん都会に就職し、機械いじりに熱中したりしている。手で触っただけで、千分の一ミリの誤差を感じ取る、そこまでの職人技術の修練を経て、その後に帰農し、その経験を生かして、独自の自然農法を編み出してゆく。手作業や農業の現場は、元々このような人材には恵まれていたのであろうし、遺伝子のレベルでは、まだまだそれは豊かに受け継がれているに違いない。木村の試みはそれを証している。

 収穫を増やすことだけを目指して、機械と化学物質を大量に持ち込むようになった「近代農法」は、画一的な「一度加工された情報」に頼り過ぎ、経営的にもますます苦境に陥っているのが現状であり、一方「有機農法」といえば、堆肥作りの重労働はいうまでもなく、農薬から完全脱却というわけにもゆかず、そうなると要は程度の問題で、ついには「よく知らないシステム」に、その認証を委ねるといったことになりかねない。こうなると、耕さない、草も取らない、虫も殺さない「自然農法」にいったんは立ち返ってみるのが一番よいのかもしれない。

 木村は、自然農法でも、在来の農法の九割の収穫は可能とするのだが、これは千分の一ミリの誤差を感知することのできる修練と、自然を読み解く余程高度な能力なしには多分無理なのであろう。しかし、経営ではなく、自給を目指すのなら、自然農法でよい。何も好き好んで農薬を使うこともない。「一度加工された情報」に、これ以上振り回されないための保険のつもりであってもよい。いかがなものであろうか。(つづく)

峠越えれば(12) 鍬と携帯

2008-02-13 | 峠越えれば

生きかはり死にかはりして打つ田かな  村上鬼城
千年の昔のごとく耕せり  富安風生

 いずれもよく知られた句で、田打と耕は共に春の季語。耕(たがやし)は本来は「田返し」、雪が解けると、耕地を鋤き返し、種蒔きや植え付けの準備に入る。

 いささか場違いな話題ながら、昨年夏「サブプライム」とやらに触れてみた。(峠越えれば7悪夢) グローバリズム、市場原理の一面を知るにはよい機会と考えたのだが、その後も市場の強気弱気、楽観悲観が目まぐるしく交代する、右往左往の混沌を見ていると、この点はいよいよ分かりやすい。あの頃、日経平均底値13000円とか言い切る向きもあり、そう言っている本人も内心まさかそこまではと信じたくなかったのであろうが、何のことはない、年が明けてみれば12000円台の中半まで下がっている。ここでも不思議なことに、かつて同じ不良債権の山を築いた日本が、問題を国内に抱え込んだのとは対照的に、今回世界中にそれをまき散らした、火元のアメリカはといえば、ダウの方は日経平均ほどには下げていない。ゼロ金利のデフレすらいまだ克服できない、弱いところからまず集中的に剥ぎ取ろうという弱肉強食の常なのか、事態はまだまだ二幕三幕のある、その序にすぎないのか、暴走するグローバリズムのその先は誰にも知りようがない。

 考えてみれば、変化とは本来予測不可能なものをいうのであろう。混沌としたものには、そうとしかありえない、それなりの意義がある。それをいかにも確かそうに解説したり、分かりやすい進歩や発展の相に引き寄せて、改革を標榜したりするのが間違いなのだ。峠のむこうであれ、こっちであれ、グローバリズムからも市場原理からも逃れる術はない。しかし、それをどこまで突き放し、相対化して見ることができるかということになると、変化とは無縁な、変わりようのないものを、日々の生活の中に取り込んでしまうのが一番近道で賢い。

 生活の本拠地を山村に選んだ「哲学者」の内山節、同じく「ジャーナリスト」の秋山豊寛、どちらの書いたものも面白いし、貴重で、年季の入った「にわか百姓」である点が共通して頼もしい。共に地に足がついた生活を楽しみ、身近な花鳥風月を描き分けられるまでの余裕を持つにいたっている。

 秋山が「ロハス」をからかっている。LIFESTYLE OF HEALTH AND SUSTANABILITY 健康と持続性のあるライフスタイルとでも訳すのであろう。今のこんな生活は長くは続くはずないし、長生きできそうもないことをよく分かっているのである。秋山のところに農作業を手伝いに来た若者が黍を欲しがるので、東京では雑穀を食うのが流行なのか聞くと「ロハス」だという。そのための「講座」や「資格」まであるらしい。山村の暮らしはロハスそのもののはずなのだが、「都会暮らし」がミソで、山村に移り住むというような発想はそもそも最初から欠けている。秋山は黍を持たせ、ついでに食べ物くらい自分で育てるのがロハスだと教えてやる。物珍しさで黍を口にし、それでロハスの意味を考えるきっかけになるのならそれもよい。

 秋山は、雑穀の収穫とその後の手間がどれ程のものか、値段などつけてほしくないほどに、いかにそれが大変かをよく知っている。同じ雑穀の蕎麦は九割を輸入に頼っているが、昨年の秋、峠のむこうで、一面真っ白な蕎麦畑の、その後が知りたくて行ってみると、稔った蕎麦が収穫されることもなく、そのまま放置されているのを見て唖然としたことがある。観光用に花を愛でるだけというのも、休耕地を有効利用の一つ、畑を荒らすよりはましとでも考えたか。過疎地の高齢化が進み、耕作放棄の限界集落が増え、山村の衰退に歯止めがかかりそうもない現実は、ジャーナリストの目で十分確かめた上で、秋山は自らの「山暮らし」をこんな風に描いてみせる。近著『鍬と宇宙船』から少し引いてみる。

 阿武隈山地大滝根山周辺の花の盛りはほんの二週間ほどで終わり、五月も十日を過ぎますと新緑の季節に移ります。……この頃、畑の仕事、田圃の仕事も本格的に始まります。家のまわりの家庭菜園にはサトイモ、バレイショを植え、紫の藤の花が咲き始めますとニンジン、トウキビ、ホウレンソウの種を播きます。ナス、トマト、キュウリの苗床つくりはもう少しあと。タイミングが重要です。五月末までは遅霜が降る可能性が高いのです。田圃の仕事のハイライトは、やはり田植えですが、田植えの前にも、小さな山場はあります。たとえば、耕耘機とマンノーと呼ばれる四本刃の鍬で田起こしをしたあと、代かきに備えて水を入れる時も、ちょっとしたヤマのひとつです。水路から田圃に流れ込む水には、かえったばかりのオタマジャクシやメダカが泳いでいます。……タニシやアカハライモリも、田圃が彼らの暮らす環境としては条件が整っているのか、水路から移動を始めます。田に水を入れたその夜は、蛙の大合唱が始まります。樹々の色の変化を楽しみ、水辺の生物たちを観察しながらの農作業ですから、田圃や畑の作業は、休息が長くなります。この季節を楽しまずして何のための山暮らしという気分になっています。四枚あわせて一反という小さな、小さな田圃を整備して田植えに備える状態にするまで毎年一週間はかかります。こんなに時間をかけては百姓としては、落第でしょう。しかし、私の農作業の「生産性」の基準は、市場原理、競争原理とはいささか違う尺度ではかられますから、気分としてはけっして落第生ではないのです。田の中で、オタマジャクシがたくさん泳ぎ、蛙の数が多くなるのは、私なりの「生産性」の高まりです。蛙がたくさん「生産」されることは、たくさんの蛙が蚊などを捕食してくれるので、わが家周辺の「防虫システム」の充実にもなります。それに蛙がたくさんいることは、蛇のエサがたくさんあるということですから蛇が増えます。蛇は野ネズミの天敵でもありますから、ネズミ対策にもなります。こんな実用的な理由づけをしなくても、良いのかもしれません。たとえば、メダカが増えたせいか、この小魚を狙って、カワセミが飛んで来るようになりました。あざやかな緑色と濃紺のカワセミを近くで見ることが出来ることは、これは幸せというものです。生態系が豊かな田圃や畑を創り出す農業が日本各地で行われることは、自然の修復が加速されることになります。これは百姓、農家にしかできないパブリック・公共性のある仕事なのです。

 「カワセミを見る幸せ」と言っても、カワセミなど誰も見たこともないということだと、秋山の伝えたいところは、かなり厳しいことにならざるをえないのだが、幸い今のところ、都心の神田川であっても、運がよければカワセミならまだ見ることが出来る。見さえすればこれは誰でも納得する。

 内山節は、変化の先が読めない混沌と前にして、「変革のプログラム」を書くことは難しいが、将来に「何を残すのかというプログラム」なら簡単に書けるし、そもそも変化を見通して、変革の方向づけをするという発想自体が過去のものといえないかと問いかけている。百年後に暮らしている子や孫に何を残したいか、百年、千年を遡って、その間、変わることなく存在し続けているものあるとしたなら、それはそのまま将来に残すに値するとは考えられないか。そのようなものとして何を上げることが出来るか。内山は、縄文時代以来いつの時代にも、農業が存在したこと、そして、いつの時代にも、職人の手仕事が絶えることがなかった事実をまず上げる。手と、その延長としての道具、それを使って自然の中から必要な食物を得ること、この基本はどこまで行っても変わりようがない。文明には、必要なものを復元させる力も、プログラムとして組み込まれていると考えてもよい。身の回りを改めて見回してみればよい。自らの生活上の日頃の惰性には、この際目をつぶって、百年後の自分の子や孫の代に、残したいものと、残って欲しくないものを篩いに掛ける。こんな簡単なことを人任せにする手はない。

 秋山は、出てほしい時には繋がらず、出られない時に限って掛かってくる、厄介な携帯という不便な道具を笑い飛ばす一方で、年季の入った百姓が自在に使いこなす、同じ道具である鍬に注目している。その基本形は弥生時代から変わっていない。基本的には農業は鍬一丁で足りる。鍬で土地を耕す、これが農業であり、その気になれば誰にも農業は出来る。どれほど機械化されようが、農業がある限り鍬はなくならない。鍬がある限り農業もなくなることはない。これは確かなように思えるのだが、いかがなものであろうか。(つづく)

峠越えれば(11) 待つ

2007-11-22 | 峠越えれば
雪嶺を点じ山々眠りけり  大野林火

 峠のむこうではそろそろ冬の準備に入る。田圃の収穫が終わると、冬はあっという間にやってくる。葉を散らし、むき出しの真っ赤に色づいた柿の実が、どこに行っても目につくようになると、遠くの山には早くも雪が降り、里の黄葉とよい対照をなす。一時の黄葉の後、山は眠りにつく。山は眠り、里は小春、何もかも動きが緩慢になり、日々穏やかである。

 峠の向こうに帰る度、内山節の信濃毎日の連載をまず読む。何かを読み、理解するというのも、場所を選ぶ必要があるのかもしれない。そろそろ眠りに入ろうかという山を眺め、里の光景をあれこれ思い描きながら読ませてもらうと、内山の説くところは実に分かりやすい。

 実際には、この明快さがくせ者で、同じ里や山村の光景でも、もう少し違った風に見えることもありそうな気もするのだが、それはそれとして、浮世離れしている点は、これは「哲学」と割り切って読ませてもらう。以下少し長くなるが引用してみる。


……農村の世界は、間によってつくりだされた。たとえば稲作にとっては、刈り入れを終えた秋から翌春までは、稲作の間としてあらわれる。そればかりか、田植えを終えたときにもちょっとした稲作の間があり、水田で働いているときにも、手を休めたときなどにたえず小さな間が生まれる。このさまざまな間が農村の世界をつくりだす。かつての農閑期骨休め、伝統行事や伝統芸能、祭りや寄り合い、そして仕事の合い間にふと空の動きや虫の様子をみている瞬間、それらが村の世界をつくりだし、村に暮らす楽しさを生みだした。……

……日本では「時」と「間」は一対のものであり、時の動きは間をつくり、間があるからこそ時があると考えられてきた。……

……村で暮らすようになって覚えたもののひとつに「待つ」という感覚がある。たとえば村の農業は春をまたなければはじまらない。山菜も、茸も、それが出てくる時期を待たなければけっして手に入らない。木材として利用するのなら、木を切るのは、森の木々が活動を低下させる秋から冬がくるのを待つ必要がある。実に多くのことが、村では「待つ」ことからはじまっていく。それが、自然とともに働き、暮らすということなのであろう。自然の力を借りようとすれば、自然がつくる、それに適したときがくるのを待たなければならない。……ときを待つ暮らしにとっては、人間の意志は万能ではない。それよりも自然という他者の動きの方が重要で、人間の意志は、自然の動きをうまく活用する範囲内でしか有効ではない。だから、自然と結ばれ、ときを待ちながら働き暮らしてきた村の人たちは、人間関係のなかでも同じような感覚を育んだ。人間関係においても自分の一方的な意志は万能ではない。人々の動きを理解しながら、ちょうどよいタイミングがくるのを待って、そのときを逃さずに働きかけていく。それが村の人たちの人間関係のつくり方だった。……近代以降の歴史がこわそうとしたもののひとつは、このような関係のつくられ方であった。資本主義の社会は「待つ」という行為を、効率の悪いものとして退けようとした。経済効率を高めていくとは必要な時間を短縮していくことである。時間効率を高めることだといってもよい。ここから、「攻める」とか「仕掛ける」といった言葉が、価値を持つ言葉になっていった。人間の意志が絶対的なものになり、人間関係も自分の意志をぶつけ合う関係に変わった。それが今日の生産力、経済力をつくりだしたことは否定できない。その結果、私たちは、多くのものを消費し、物に包まれながら暮らすようになった。だが、この変化が、忙しいばかりで働く豊かさを感じられない労働の世界を成立させ、自然の動きを尊重しない経済社会を生み、信頼感のない人間関係をつくったことに私たちは気づいている。……


 山でも人でも眠っている間は、「間」であり、時間が止まっている。山はやがて春になると目覚め「笑う」、そして夏に「滴り」、秋は「粧い」、冬になると再び「眠る」、これを繰り返す。いずれも季語としてよく使われる。同じことを同じように繰り返すためには「間」が必要で、季節の移り変わりが、ほどよい間を用意してくれている。特に冬は、それ自体が「間」であるかのように、人は家に籠もったりもする。

 自然の成り行きにも、ものごとにも「間」があることを理解することが、「待つ」ということであろう。峠の向こうとこっち、一番分かりやすい違いがここにある。峠の向こうにいる限り、「待つ」ことは苦にならない。それどころか待つことが楽しみであったりもする。

 自然とは、本来変わりようのないものを意味するのであろう。そこにあるのは、常に循環して止まない繰り返しであり、成長とか進歩とは縁がない。人の生活の多くは、これまでそのようなものとして営まれてきたし、この先どこまで行っても、その本質が別のものに取って代わられるわけではない。

 いつか保育園の運動会に参加する機会があった。運動会といえば、駆けっこがメインであることは、保育園も例外ではない。面白かったのは、大人たちはしきりに競走させようとするのだが、肝心の当事者には、どうもその意味が分かっていないみたいで、途中まで走って、周囲に誰もいないことに気づいて、不安そうに立ち止まってしまったり、転んだ子を待っていたりで、笑いを誘う場面続出で、大いに楽しませてもらった。

 競走ならぬ、競争が当たり前の大人の社会は、それ自体が教育の成果であり、様々な動機づけが、長年にわたって加えられた結果でしかない。遅れた子を待って、手を差し伸べた幼時の記憶は、そうそう消えるものではない。人は本来誰も競争などしたいわけではない。繰り返しとは相容れない変化を、進歩、発展、成長と言い換え、それを過信したところから、何かが大きく変わってしまったのであろう。

 内山は、「間」はこの国の誇るべき文化であり、「間抜け」に注意に怠らないのが、この国の伝統ともいうのだが、そんな国に、「待てない」競争社会がかくも肥大する皮肉を、どう理解したらよいのであろうか。(つづく)

(10) まなざし

2007-10-05 | 峠越えれば
 柴田宵曲のエッセーの中にこんな話がある。(岩波文庫『団扇の画』)

 奥州磐城平五万石の安藤対馬守重信が、大晦日の晩に家康の碁の相手をつとめる。負け続けた家康は重信を帰そうとしない。松飾の用意をしなくてはならないことを言い訳にするが、家康はそれは持たせ遣わすから、今一番ということで、重信が負けないことには帰してくれそうもない。ようやく負けて帰ると、約束通り豪勢な松飾が届けられている。ありそうな話だが、問題はその先で、以来毎年暮になると磐城平五万石に、幕府から分に過ぎた当時のままの松飾が、きまった供揃いで運ばれてくる。それが何と二百数十年間続くことになる。

 近世の封建制の本質が、変わらないこと、変えてはならないことにあることをよく示している話と読める。

 秋の夜長の読書ではないが、もう一冊、数年前よく読まれた『武士の家計簿』(磯田道史 新潮新書)に、近世の、変わらないことを本質とする武士の生活について、分かりやすいデータが紹介されている。

 磯田は、武士の給禄制度の一番の問題は、現在の職務の内容とは関係ないところで禄高がきまっていることで、例えば二百年前の合戦で先祖が立てた手柄が、そのまま現在の身分を保証し、それに相応しい手当が支給されたりすることにあったとする。その手柄の中には、上の安藤対馬守の偶然の成り行きのような、たわいのないものもあったにきまっている。家柄とその根拠となる由緒が、子々孫々の生活の基盤となっている以上、何があっても家系を絶やすわけには行かず、家柄に相応しい体面を保つことにすべてが費やされたとしても不思議はない。

 実際に、これを家計簿の形で、その収支を覗いてみれば、生活の実態がごく分かりやすく納得できるのだが、適当な史料を欠いており、磯田のものが一番分かりやすい。平均的な武家について、稀な例外として、幸いここには使途と金額がすべて記録されている。支出の面で特徴的なのは、家柄にふさわしい格式を保つために必要な費用で、磯田はこれを「身分費用」としている。具体的には、召使いを雇う費用、親類や同僚と交際する費用、先祖供養その他の儀礼行事をとりおこなう費用等々ということになる。山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」が、虫籠作りの内職に励む一方で、下男を置き、登城の際には供に従える、その類の費用であり、これを支出しないと「江戸時代の武家社会からは、確実にはじきだされ、生きていけなくなる」(磯田)。武士の家計を圧迫していたのは、実はこの「身分費用」であり、今の常識に照らせば、その多くは余裕がなければ削ればすむだけの、見栄のようなものでしかない。

 当然のことながら、近世の初期には、これらの「身分費用」に見合う「身分利益」があったはずで、その収支はプラスであった。武士身分であることの利得の方が、武士身分であることによって生じる費用より少ないというような不自然なことは、制度の設計としてありえない。それがやがて経済変動と社会の変化により、俸禄は次第に目減りし、それと裏腹に、武士本来の職能は脇に置かれ、儀礼ばかりが増殖し窮屈が強いられ、生活の実質は奪われ、この収支は完全にマイナスに転じる。

 「たそがれ清兵衛」の幕末期には、年収の二倍くらいの借金を抱えている武士は珍しくなく、多くは過剰債務で首が回らなくなっている。身分制だけが支えとなり、債務の履行に手心が加えられなければ、家計はとっくに破綻している。磯田は「明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味をもっていた」という。武士の多くは、その特権の剥奪にそれほどの抵抗はしていない。抵抗しようのないところまで、形骸化した身分を持て余していたということであろう。武士の窮迫は、時代劇によくある、長屋暮らしの食い詰め浪人だけのものではない。


 少し遠回りしたが、本題に戻る。峠越えの度に、内山節の信濃毎日に連載中のエッセーをまとめて読み返している。これも最近のものから。(「風土と哲学35」07.8.25)

……共同体のあり方については、これまでいくつかの批判があびせられてきた。そのひとつは「よそ者」を排除する閉鎖性をもっている、というものであり、もうひとつは個人の主張を圧殺する体質をもっている、さらに家父長的な封建的性質があるという批判も加えられた。……だがそれらの批判は、村に対する「やさしさ」や「おだやか」な視線をもっていない人々の批判ではなかったかと思う。都市は先進地、村は後進地であり改革の対象という近代人の意識が、村に対する冷たい批判を成立させた。私たちはもっとやさしいまなざしで、おだやかに他者をとらえる精神をもっていてもよいのではないか。……

 確かに今以て、かつての伝統的な「共同体」は、アレルギーといってよいほどに不評である。閉鎖的であり、個性を否定し、家父長的であり、格式、家柄、体面を重んじ、形式主義であり、地縁血縁のみをよしてし、由緒を誇り、先祖崇拝に固まり、総じて変化を受け容れない。

 「武士」が没落して以来、この「共同体」なるものを象徴してきたのは、実は「村」であり、近世の遺物のように見れれたりもしてきた。根拠がないわけではない。近世の村では、一部その上層については、武家の風を進んで文化として取り入れ、本来無縁な身分制を村の中にまで持ち込んでいる。武士にあらざる者が、武士以上に武士らしく振る舞う。よくあることで、それが文化かもしれない。その影響もあって、武家特有の祖先崇拝や長子相続が、由緒や格式を重んじる家風とも一体になって、村の中にまで浸透し、そこに最後まで残ってしまったのは事実である。田舎暮らしに憧れることはあっても、いざとなれば、そこでのつき合いに躊躇いが生じてしまう。

 内山は、村に対して「もっとやさしいまなざし」が向けられてよいとする。そこには「村は後進地であり改革の対象」とする思い込みがあるとするのだが、それ以前の問題として、村がなぜ殊更に「冷たい批判」、視線にさらされてきたかについても、それなりに整理しておく必要があろう。本来の村のあり方と関わりのないところで、とばっちりのような批判がなされてきたといえなくもない。

 内山は、自らよく知る山村を踏まえて、共同体とはいっても、畑作と水田耕作の稲作地帯では大分様相を異にする点を例にあげているが、このような違いならいくらでもあげることができる。幕領と大名領、農山漁村、農間余業、出稼ぎ、伝馬の負担、新田開発等々、共同体の気風も成り立ちも、様々な事情に影響され、一様とはいかない。そもそも現実にはそれは幾重にも層をなして重なり合って存在し、機能しているのであろうし、その中には形骸と化したものも、新たに根付きつつあるものも含まれている。じっくりと腰を据えてつき合ってみないことには何も見えてこないとしたら、やはり、まずは「まなざし」ということであろうか。(つづく)

(9) 武蔵野

2007-09-16 | 峠越えれば
 内山節は『武蔵野』を愛読しているという。山村に住み着き、釣りを愛する内山が、「山林に自由存す」の国木田独歩を糧とすることに不思議はない。

 「里山」の今を考える上でも、『武蔵野』は見落とせない作品といえる。この中に、独歩が小金井の辺りに出掛けて、茶店の婆さんに冷やかされる場面が描かれている。
「今時分、何をしに来たゞア」
「散歩に来たのよ、たゞ遊びに来たのだ」
「桜は春咲くこと知ねえだね」
 明治二十年代の末頃の夏の話で、当時小金井は桜の名所として知られていた。郊外の散歩などという都会の風俗がまだ珍しかったのであろう。独歩は「郊外の散歩のどんなに面白いか」を、婆さんに分からせようとあれこれ骨を折ってみるのだが、「東京の人は呑気だ」の一言で片付けられてしまう。『武蔵野』に描かれているのは、この「郊外の散歩のどんなに面白いか」である。

 江戸から東京に変わっただけの市街から外れた、当時の渋谷村に住んでいた独歩は、暇をみつけては今の中央線の沿線を散策したものらしい。独歩の武蔵野は西は多摩川までで、私の八王子は、わざわざそこはもう武蔵野ではないとことわっている。独歩のお気に入りは、雑木林と田園の織りなす景観で、高尾山の麓の丘陵地帯は山の中でしかなく、武蔵野から省かれるのはいたしかたない。しかし、今では多摩川より東、立川から新宿に向かう中央線の車窓から眺める限り、その沿線に独歩の武蔵野の面影は、見事なまでに何も残っていない。

 皮肉にも八王子周辺なら、市街から少し足を伸ばすと、まだ多少はそれらしき片鱗を感じ取ることができる。少し南にそれた郊外には、多摩川支流の湯殿川が流れており、川沿いにわずかばかりの水田が残り、蘆や蒲の穂が揺れる川には鴨や、なぜか鯉が群れ、川鵜や翡翠を見かけることもある。川筋を避けて、斜面に残された雑木林を上ってゆくと、急に丹沢の山並みが一望できたりする。周囲には里芋や甘藷、玉蜀黍、蔬菜の類がよく手入れされ、たいていのものは植えられている。自然も農業も意外としぶとく生き延びており、風情のある野道が格好の散策路となっている。四囲を開発しつくされ、箱庭のように取り残された窮屈さを我慢すれば、これも武蔵野の面影といえないこともない。

 八世紀末までの東海道には武蔵が含まれていない。東海道を相模から下総・常陸に向かうには、三浦半島から房総半島に船で渡っており、東山道に属する武蔵を横切って行くのは、利根川河口の低湿地が障害となっていた。千葉県の房総半島の方が上総で、東京に接している方が下総と、上下が逆さになっているそのためである。時代が下って、この低湿地が巨大都市と化し、その消費を支えるために、外周の武蔵野台地の開拓も進められることになる。
 
 もともと萱原が果てしなく続くイメージの武蔵野が、独歩の雑木林と田園の織りなす風景に変わったのはそれ以降である。何よりも起伏に富んだ丘陵地に水利を廻らすにはかなりの困難が伴ったはずで、それだけでも膨大な労力が費やされている。農家が増えるにつれ、秣や薪や肥料を得る都合上、萱原や雑木林は常に手を加える必要があり、自然のままのものがそのまま残ったわけではない。要するに、ここでも里山と同じく、人工と自然との絶妙のバランスが保たれており、それ故の景観美が独歩によって見出されたのである。

……武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し、左すれば随処に吾らを満足さするものがある。……武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。……林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか、じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。……

 独歩は友人の文であることをことわりながらも、こうも書いている。「僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかし之は無論省かなくてはならぬ。」「東京は必ず武蔵野から抹殺せねばならぬ。」「しかし、其市の盡くる処、即ち町外れは必ず抹殺してはならぬ。」

 また、こうも書いている。「武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈を眺めた考のみでなく、またその中央に包まれて居る首府東京をふり顧った考で眺めねばならぬ。そこで三里五里の外へ出て平原を描くことの必要が有る。」

 独歩は単に都市の対極にある自然を賛美しているのではない。「生活と自然とが密接している処」の、その二つの均衡や調和、直接の文学の対象としては、町外れのありふれた人間模様、そこでの日常の葛藤に関心を寄せている。これは「里山」に重ねて考えることのできる、相当に射程の長いテーマと考えてよい。現実の武蔵野が、独歩の武蔵野でなくなったとしても、『武蔵野』がその価値を失わない理由がここにある。

 独歩は『武蔵野』の一章を次の句で結んでいる。

山は暮れ野は黄昏の薄かな   蕪村

 『武蔵野』には、どこか蕪村に重なる印象もある。(つづく)

(8) 里山

2007-09-09 | 峠越えれば
公達に狐化たり宵の春     蕪村
枯野原汽車に化けたる狸あり   漱石

 漱石が蕪村を相当に意識していたことは確かで、その影響のほどは『草枕』なんかでよく分かる。上の句も蕪村の向こうを張ったものかもしれない。狐や狸にしても、明治ともなれば、汽車くらいに化けてみせないことには面白くない。実際に汽車に化けて、汽車に轢かれた狸の話は少なくない。

 内山節は「1965年は日本の大きな転換点だったのではないか」という。各地の山村を釣り歩いていた内山が、この年あたりを境に、それまでどこでも聞かされた、狐に人が化かされる話を耳にしなくなったのだという。昔化かされた話はあっても、身近な誰それが化かされた話は出てこなくなる。「この時期を境にして、キツネが人間をだます生き物ではなく、単なる自然の動物」なり下がり、狐が人の意識の中にまで入り込み、茶飲み話に格好の話題を提供したりはしなくなる。

……かつては人々はさまざまの物語を編みだしながら暮らしていた。山の神や水神様、庚申様といった神々と人間との物語。動物たちと人間との物語。そそり立つ大木もときに物語の主人公であった。そして村の物語。わが家の物語。祖父母の物語。実にいろいろなものが物語の主人公になり、語り継がれていた。この世界が、1965年ころを境にして、急速に消えていくのである。とすると、この時期に日本の人々の精神や精神文化に大きな変化がおきたことにはならないだろうか。自然と人間や、人間と人間が結び合うとき、そこに物語が生まれ、その物語を媒介のひとつにしながら人間たちが存在していた時代が終わり、自然も人間も、自分にとっては客観的な他者になっていく時代が、このころからはじまったのではないだろうか。……

 十年ほど前にヒットした『平成狸合戦ぽんぽこ』で、多摩丘陵の狸たちが、これを最後とばかり化(ばけ)学を駆使し大暴れしたのは、狸暦の「ぽんぽこ三十一年の秋」、つまり昭和三十一年という設定であったが、多摩ニュータウンの開発が始まり、それが軌道に乗る頃と考えれば、内山のいう山村の事情もそれとあまり違わない。政治や経済とは別に、このあたりが、なかなかとらえようのない人の精神の営みにおける、一つの大きな区切りであったのかもしれない。

 先日のNHkの「世界里山紀行」(8.19~27)はなかなかよかった。取り上げられていたのは、フィンランドの熊猟の村、ポーランド北東部の湿原で牛を飼う村、中国雲南省の竹林の村の三つで、いずれも行ったことも土地ながらどこか懐かしい。ヒグマやフクロウ、コウノトリ、タケネズミといった大小の生き物が人の生活にとけ込み、今なお当たり前のように人の傍らに寄り添っている。野生の生き物と共存できる生活は羨ましい。。

 ここでは、人もまた、その気になりさえすれば、自給自足ができないわけではない。必要なものはすべて自前で用意できる智恵と技術が、世代を超えて引き継がれている。世界は広い。文明から取り残された、そのような例外もありえる、というのではない。フィンランドの例では、いったんは生き物との共存を断ち切る方向に舵が切られ、農薬に過度に頼る時期もあったという。トラクターのような機械は当然使うにしても、それに頼り切ってばかりはいない。変わることのない生活を価値と認め、それを豊かさと納得したのである。

 今どき自給自足などと冷笑するのは容易いのだが、内山言うところローカルな風土性といったものが、特別豊かな土地柄というのは確かに世界中どこにでもある。そこでは、多少のぶれはあっても回帰すべき方向を見誤ったりはしない。都市に、もの作りの職人芸が廃れそうで廃れないのとどこか似ている。案外、農村であれ都市であれ、この廃れそうで廃れない状態というのはなにも今に始まったわけではなく、いつの時代であれ、そんなものであったのかもしれない。一方では、時代に合わせて必要な技術や知恵を、外部から取り入れることを忘れてきたわけではない。腰が据わっているかいないかの違いでしかない。

 人が森や湿原や竹林に住み着いた時、先住の生き物との共存を模索する、気の遠くなるような時間の蓄積があったはずであり、それを象徴しているのが里山という存在なのかもしれない。里山を介して、人と生き物たちは、絶妙なバランスの上に、ちょうどほどよい関係を結んできたのである。そうであるなら、持続し変わらぬことを豊かさと考えるなら、里山こそ文明なのかもしれない。山があり、野生の生き物を見かければ、それを自然であるわけではなく、問題はこの絶妙のバランスであり、互いのほどよい間の取り方である。

 人も自然も「客観的な他者」となり、狐や狸が「単なる自然の動物」になり下がった、この何十年かは、里山が、無知故かくも徹底して破壊された例外として記憶されてよい。その回復に、どれほどの代償が必要かは計りようがないにしても、ともあれ里山が何であるかは知ることができたということであろう。

晩成を待つ顔をして狸かな  有馬朗人

 人を化かすことはなくとも、狸は相変わらず狸顔をして、今でも人の傍らに寄り添っているらしい。単なる自然の動物になり下がるというのも、実のところそれほど簡単なことではない。(つづく)

(7) 悪夢

2007-09-02 | 峠越えれば
 峠の向こうで例年通りの盆の行事を済ませて、こっちへ戻ってみると、とんでもないことが起こっている。往って帰る帰省の大移動の、一週間ほどの間に、株が大暴落している。盆の十六日には875円の下げ、こんなのは株価に自然と目が行くようになった2001年の9.11以来見たことがない。あの時でさえ683円下げただけで、翌々日には400円は戻している。

 わずか10日ほどの間に1800円ほど、日経平均の11%、東証一部時価総額の数十兆円分が消えたことになる。わざわざ細かい数字をあげたのは、サブプライムとやらの、今回の原因を作った当のアメリカのダウの方はといえば、同じ時期に、この半分の6%ほどしか下げていないことを確かめておきたかったからである。

 先の参議院選挙の終盤、与党不利の形勢は誰の目にも明らかで、与党の幹事長や代表が、苦し紛れに口にしていたのが株価である。すでに選挙結果が株価が織り込まれ始めている、このまま与野党逆転というようなことにでもなればどうなるか、というのである。政権が株を人質にしたような言い方が不快で、実際どうなるものやら見届けてやろうというつもりでいたのだが、こんな結果は誰も予想していない。日本の選挙や政局などとはまるで関係のないところで、サブプライムとやらで、選挙前の7月半ばには18000円を超えていた日経平均が、一ヶ月で3000円は下げたのである。実際に株に投資している立場であったら、真夏の夜の悪夢としか言いようがない。

 今年の二月末にも、この時は上海始発の同時株安で、どの国も株価を大きく下げている。しかし、どの国もこの下げを一ヶ月ほどで埋めて、その後何のかんの言いながらも順調に上げている中で、日本のみ株安前をなかなか超えられないまま、今回の暴落に到っている。そして、その後の八月末の戻りも、どこの国よりも悪い。踏んだり蹴ったりもよいところで、これも悪夢の悪夢たる所以である。

 サブプライムというのは、かつて日本の地価総額がアメリカのそれを上回る、正気とも思えないバブルのつけとして、住専の不良債権の山が残され、その後始末にゼロ金利のかつてない異常が、長く今に尾を引く、そのアメリカ版のようにも思えるのだが、さすがにアメリカのやることとて、債権を証券化して世界中にばらまいてしまったことから、張本人とは関わりのないところに、次々に飛び火して、今の大わらわとなったもののようである。新手の金融商品が無秩序にはびこり、いったん不良債権化したとなると、損失がどの範囲に及び、どの規模に達するか容易に把握しようがないのであろう。市場は疑心暗鬼、戦々恐々としている。その象徴が盆の最中、9.11以上、875円の大暴落、真夏の夜の悪夢であったのかもしれない。

 思い出してみれば二年前、郵政解散の後の総選挙、今回とは逆に予想外の与党の大勝を好感した兜町は、いつもなら閑散としている八月に、うそのような真夏の大商いに賑わい、秋にかけ株価は急上昇し、猫も杓子もの株ブームの果てに、その主役のような時代の寵児二人があっけなく逮捕される、出来すぎた小説みたいな幕切れに誰もが唖然としたばかりである。

 貯蓄から投資へ、かつての郵便局も全国津々浦々、慣れぬ手つきで投資信託を売る時代とはなって、株は最早日本経済新聞の読者のものだけではなくなっている。安全の疑わしい中国からの輸入食品同様、アメリカの怪しげな金融商品の影響も、あっという間に身近なところに押し寄せてくる。何とも厄介な時代である。高齢化により、そこそこの余裕資金が社会にあったとしても、それを有効に生かす手立てがなかなか見つからない。振り込め詐欺等という不可解なものが横行する背景も案外こんな所にあるに違いない。


 少々眼前の悪夢、株価といったものにこだわり過ぎたかもしれない。アメリカ標準の経済、金融のグローバル化に闇雲に同調させようとする「改革」が何を意味するか、一番単純な分かりやすい手掛かりが株価であろうと見当をつけてみたのだが、ここでも内山節によって、問題の核心を確認しておきたい。

……グローバル化とは、世界共通の市場が形成されるばかりでなく、主導権をとった国の経済システムが、世界標準になっていく、ということでもある。1980年代には、日本的生産システムが世界標準になりかかった。つづいて90年代になると、アメリカ的経済システムが世界の指導権を奪った。このような過程を経ながら、世界は均質な経済圏を確立していく。ところが経済システムは国際化しても、経済に対する人々の考え方は、風土の違いによって異なる。ここには、風土の中で育まれてきた伝統的な考え方がある。より多くを消費することに豊かさを感じる風土もあれば、日本のように、浪費と美徳とは思わない風土もある。いわば、経済と人間の関係は、ローカル性をもちつづけているのである。……

 アメリカ独自の金融のシステムに支えられた、アメリカ国内の底なしの消費の拡大が、株価を操り、世界経済を左右するというのは、考えてみれば随分無茶な話で、それと同調すべく「改革」を進めなくてはならないなどという理屈も、これまたそれ以上に無茶な話である。金融のシステムについていうなら、利子という発想そのものを否定し、投資対象の選定にまで信仰上の権威が関わるイスラム金融の存在などは、アメリカ標準のそれとはまさしくその対局に位置する。内山の説くところの「ローカル性」は、そうそう簡単にグローバル化の波に呑み込まれてしまいそうもないし、その必要もない。魑魅魍魎の跋扈する真夏の怪さながら、疑心暗鬼に乱高下する株価に、世界が翻弄されている現状を前にすると、それぞれの生活、経済に根ざした「ローカル性」の持つ意義は、かえってごく分かりやすいものとしてあるように思えるのだが、どうであろうか。(つづく)