
【紀州口熊野マラソンの棄権】
全国のマラソン大会走破を目標に、東北・関東・中部・北陸・東海そして近畿も滋賀・京都・大阪・奈良・兵庫を走り残るは和歌山のみ、2月2日の「紀州口熊野マラソン」にエントリーした。和歌山といえば徳川御三家の紀伊藩だが、世界遺産の熊野古道が走れるうえ、南紀海岸の景勝地や熊野詣での史跡巡りが出来るとあって、二泊三日のドライブ旅行をセットしていたところ、1週間前から風邪で寝込んでしまい、咳が止まらず頭痛も続き、マラソン当日の雨天予報もあって、大事をとりやむなく前日に棄権を決めた。
今回の「紀州口熊野マラソン」は、南紀白浜の上富田町から熊野本宮に向けた熊野街道を走る大会で、紀伊田辺に前泊してマラソンのあと本州最南端の南紀を巡って串本温泉に宿泊、翌日に紀伊勝浦から熊野古道・大門坂そして那智の滝から熊野本宮大社を回り熊野詣でを探訪しようと行程を練るうち、「和歌山観光ホームページ」で和歌山に記紀の主要テーマである「神武東征」の舞台があることを知った。宮崎の日向から大和に東征してきた神武天皇が南紀の海岸に上陸したというのである。この機会に神武天皇上陸地の碑を訪ね歩いてみたいと宿泊ホテルを追加したが、風邪によるマラソン棄権は本当に悔やまれてならない。実は私が今夢中になっている古代ロマンへの旅路は、この神武東征の謎解きが奔りだったのである。熊野マラソン出走に備えて40年前の古い書籍(掲示の写真)を引っ張り出していたので、少し整理してみたい。
【神武天皇の東征神話】
「神武天皇東征神話」とは、日向国(宮崎県)高千穂宮の神日本磐余彦尊(後の神武天皇)が、東に良い国があるので移住しようと兄弟三人と軍勢を率いて、日向から宇佐・安芸・吉備経由で難波に上陸するも、大和の長髄彦の激しい抵抗に長兄が負傷し死亡、日の神の子が日に向かって戦うのは良くないと、紀伊半島の南を迂回するが、暴風に遭いこれを鎮めようと次兄が剣を抜いて海中に身を投じてしまう。ようやく上陸した磐余彦尊は、険しい熊野山中を八咫烏に導かれ、長髄彦との最後の決戦では金の鵄が弓の先に止まり輝きで敵軍の目を晦まして勝利し、ついに大和を征服し橿原宮で初代・神武天皇に即位したという、古代日本の建国神話である。
もちろん「神武天皇」は神話上の架空の人物であり、日向から大和に東征して初代天皇に即位した話も歴史的事実ではないが、大和に誕生した先住王権が安穏に自律的に発展して大和朝廷になったとはとても思えない。西日本の銅剣銅鉾文化圏に対抗する大和地方の銅鐸文化圏があるとき突然に消えて、巨大な前方後円墳の時代が突然現われ、なにか大きな支配体制の変革があったことはまちがいないのである。どこかからやってきた強大な武力勢力が、銅鐸と呪術祭祀中心の弥生文化の先住王権を征服して古代天皇家の起源となったのではないだろうか。「神武東征」は確かに神話ではあるが、外来勢力が侵略してきたという歴史的事実や伝承が反映されたものではないだろうか。そして神武天皇東征の熊野ルートこそ、外来勢力が大和に侵攻してきたルートだったのではないだろうか。その聖なるルートは、後に天皇や皇族、貴族そして武士や一般庶民に至るまで、熊野詣での篤い信仰に繋がっていったのかもしれない。それでは神武東征神話に隠された重大な歴史的事実とはなんであろうか。思い浮かぶのは騎馬民族征服王朝説と邪馬台国東遷説である。
「騎馬民族征服王朝説」は、東洋史学者の江上波夫が古墳副葬品の変化や記紀の伝承などから、東北ユーラシア系の騎馬民族が南朝鮮を支配し、やがて北九州に進出して4世紀後半から5世紀に東征して大和地方の在来王朝を征服して大和朝廷を立てたとする説であり、「邪馬台国東遷説」は、魏志倭人伝にある邪馬台国が大和ではなく九州にあって3世紀末に東遷して大和朝廷を樹立したとする説である。確かな中国の史書である「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国なる国が倭国にあったのは事実である。邪馬台国が大和にあって大和朝廷に発展したのか、外来王朝によって征服されたのか、はたまた九州にあった邪馬台国が東遷して大和の先住王権を倒したのだろうか。私には神武東征の神話が外来王朝や九州邪馬台国の大和征服を暗示しているように思えてならない。
【邪馬台国はどこにあったか】
「邪馬台国論争」は日本古代国家の誕生が左右される日本古代史上最大の謎である。特に位置論争は九州説と畿内説が激しい論争を繰り返されており、従来は朝鮮半島に近い九州に遺跡異物が多いことから九州説が優力だったが、奈良の纒向遺跡や箸墓古墳が注目されて畿内説が俄然優勢になり、私も「魏志倭人伝」の朝鮮半島から邪馬台国までの行程計算や発掘ニュースから畿内説に肩入れしていた。
1月18日の土曜ロードショー「まぼろしの邪馬台国」で、盲目の宮崎康平を妻和子が支えながら邪馬台国を探し歩く竹中直人と吉永小百合の熱演にすっかり魅せられてしまった。昭和42年に出版され第1回吉川英治文化賞を受賞して、全国に邪馬台国ブームが沸き起こり、文学に縁遠い私も歴史ロマンの虜になった当時のことが懐かしく思い出される。そして九州の美しい大自然の映像と魏志倭人伝の諸国名の羅列に、やはり邪馬台国は九州なのかもしれないと、盲目で我が儘な直人の手をひく小百合ちゃんと島原半島を探し巡っていた。
久方振りの邪馬台国ブームの再燃に胸ときめかせていた時、偶然だが埼玉県広報誌に「邪馬台国について話そう」という企画を見つけた。2月下旬の開催だがまだ定員に満たないという。人気がないのか、敬遠されているのか。講師と同じテーブルで議論しあう資格も学識もない野次馬同然の私だが、思い切って参加してみることにした。しかし恥をかく訳にはいかない。40年前の書籍を引っ張り出して読み漁っていたとき、テレビに「卑弥呼の鏡」を再現した眩いばかりの映像が放映された。
翌日(1月30日)の朝刊で「卑弥呼の鏡は魔鏡」という報道が社会面を賑わしていた。邪馬台国の女王卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡が、鏡面に光を反射させると背面の文様が壁に映し出される特性を持ち、太陽を崇める祭祀で光を操って権威を高める古代鏡の用途解明の糸口になりそうだと報じているのである。なるほど銅鏡の文様にはこんな呪術的な目的があったのか。卑弥呼について魏志倭人伝は邪馬台国の女王だったと記しているが、政治的な支配者というより祭祀を取仕切る巫女の役割が大きかったのではないだろうか。新聞記事の末尾に、「三角縁神獣鏡」は中国に出土例がなく国産か中国産かを巡り論争が続くと書かれてあった。確かに魏志倭人伝に卑弥呼が景初三年に魏から銅鏡百枚贈られたと書かれており、景初三年の銘のある三角縁神獣鏡が発見されてこれぞ卑弥呼の鏡と騒がれ、三角縁神獣鏡が畿内に大量に出土して、邪馬台国畿内説の有力な考古学的裏付けになったのだが、その三角縁神獣鏡が中国には出土例がなく卑弥呼の魏鏡ではないとする学説に触れたこの記者の冷静な学識と勇気に敬意を表したい。私もかくありたいものだ。かくして再開した私の邪馬台国探訪の旅は、畿内説から九州説へと迷走していった。
【魏志倭人伝の邪馬台国】
邪馬台国はどこにあったか。唯一の手掛りというべき「魏志倭人伝」に書かれた朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの行程の解釈などから九州説と畿内説に分れているが、40年経って改めて読み下していくといろいろなことが見えてくる。
昭和40年代に松本清張の邪馬台国講演会で受けた衝撃はいまだ記憶に新しい。当時の指南書になった著書「古代史疑」を少し拾い読みしてみたい。日本のことを「前漢書」に<楽浪の海中倭人有り、分れて百余国と為る、歳時を以って来り献見す>、「後漢書」には<倭奴国が貢物を奉った。光武帝はその使者に印綬を賜わった>とあり、後漢が滅んで魏呉蜀の三国時代になると、中国大陸の北部に拠る魏は、朝鮮の楽浪・帯方二郡を所有し帯方郡(京城付近)に統治機関を置き、倭国の女王国は帯方郡の太守を通じて魏の都洛陽に朝献し、その初めが景初三年(239年)だったという。
「魏志倭人伝」は、魏の使者が帯方郡を経て倭の女王国に行ってきた見聞をもとに晋の歴史家陳寿が「三国志」の「魏書」巻三十「東夷伝」の倭人条に編纂したもので、その内容には見聞の聞き違いや資料転記の間違い、言語や発音の間違い、地図の方位や距離の不確かさなど、多くの欠陥を持つにもかかわらず、3世紀後半の日本を知る唯一の文献であり、魏志倭人伝の研究は江戸時代から多くの学者によって論争されて、これくらい深くて大きな歴史上の謎はない、と松本清張の高揚感が伝わってくる。
邪馬台国はどこにあったのか。魏志倭人伝の原文から、邪馬台国までの行程を概略してみると、
<帯方郡(京城付近)より倭に至るには、海岸に従い水行し、韓国を歴て、乍く南し、乍し東して、狗耶韓国(金海付近)に至る。七千余里なり>→<始めて一海を渡ること千余里、對馬国(対馬)に至る>→<又、南一海を渡ること千余里、一大国(壱岐)に至る>→<又、一海を渡ること千余里、末盧国(唐津市)に至る>→<東南陸行すること五百里、伊都国(前原市)に至る。世々王有り、皆女王国に統属す、郡使の往来、常に駐する所なり>とある。
朝鮮半島の帯方郡から伊都国まで延べ一万五百里の行程については、文面通り異論なくすんなり連続して、女王国に統属する伊都国が、女王国に向かう魏の郡使の終着点だったのだろう。
問題はここからである。<東南、奴国に至るには百里><東行して不彌国に至るには百里><南、投馬国に至るには水行二十日><南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月>とある。
この行程を伊都国からさらに奴国と不彌国と投馬国を経由して邪馬台国に至る行程を記述していると解して、伊都国までの行程に200里と水行20日、水行10日、陸行1月を合算すると、畿内地方に達する距離になり、これが邪馬台国の畿内説の大きな根拠になっている。しかし不彌国から南に水行二十日で投馬国に至り、さらに南に水行十日陸行一月で邪馬台国に至るとあるが、方位的に南に行くと、投馬国は南九州そして邪馬台国は九州のさらに南海の果てになってしまう、この矛盾を邪馬台国畿内説の論者は、魏志倭人伝は東を南に誤記したのだと解釈しているらしい。中国の正史なるものが東を南に誤記するものだろうか。異国の伝聞ではなく魏の使者が実際に邪馬台国に行った報告である。邪馬台国をどうしても畿内に持ってきたい論者の屁理屈ではないだろうか。どうしてもそこのところが納得できない。
ここで、前段と後段の行程の表現の違いに着目して、伊都国から放射状に夫々の国までの行程を併記しているのであって、邪馬台国まで積算する行程ではないとする説がある。邪馬台国九州説の根拠でもある。伊都国までの書き方は<海を渡ること千里で〇〇国に至る>とあるが、伊都国からあとの書き方は<△△国に至るには百里>と違っている。つまり〇〇国まで千里あったが、ここから△△国には百里あるそうだ、と伊都国から先の国への行程を伝聞した書き方である。つまり魏の使者は、奴国や不彌国や投馬国に行こうと思っているわけでなく、ただそういう国があるらしいと書いただけで、魏の使者は前段の記述で既に伊都国に到達して、その南に隣接しているのが邪馬台国なのである。
そして最後の<水行十日陸行一月>は、投馬国から邪馬台国までの行程を言っているのではなく、書き出しの<帯方郡より倭に至るには>の結びであり、出発地点の帯方郡から邪馬台国までの全行程を差しているのではないだろうか。帯方郡から邪馬台国まで12000里という記述もあり、日数と距離の両面から実に的確に魏志倭人伝は書いているではないか。魏志倭人伝の行程の記述が曖昧だとして江戸時代から邪馬台国はどこにあるか諸説乱立してきたが、私に言わせれば曖昧どころか実に明解な旅行記である。魏志倭人伝の原文をにらめっこするほどに、これまでの畿内説から九州説に傾倒している自分がいた。
【邪馬台国の東遷説】
この邪馬台国はその後どうなったのだろうか。先日の土曜ロードショー「まぼろしの邪馬台国」で、雲仙岳の大噴火がフィナーレのシーンであった。吉永小百合扮する巫女卑弥呼が真っ赤な炎に向かって鎮火の祈りを捧げていた。九州の邪馬台国はやがて畿内に進出して大和朝廷を開いたとする「邪馬台国東遷説」が、明治期に東洋史家の白鳥庫吉によって示唆され、大正期に哲学者の和辻哲郎、以降井上光貞、森浩一、奥野正男など多くの有力学者により提唱されている。
「魏志倭人伝」の後半に、女王卑弥呼は南に接する狗奴国の男王と抗争を続けており、卑弥呼の死後に男王を立てるが国中が収まらず殺戮が行われて、卑弥呼の宗女壱与13歳を王にしてようやく安定した、とある。その女王壱与が266年に晋に遣使した後、邪馬台国は中国の史書から消えてしまう「空白の4世紀」である。邪馬台国はその後どうしたのだろうか。敵対する狗奴国に滅ぼされたのだろうか。ポンペイ噴火のように雲仙普賢岳の灰の下に埋没してしまったのだろうか。
邪馬台国の消えた同じ時期に畿内地方で大きな異変が起きていた。畿内の弥生式時代を代表する銅鐸文化が突然その伝統を絶ち、巨大古墳文化が突然発生して全国に広がっていったのである。この時間的関係から邪馬台国の東遷があって、畿内地方に初代ヤマト政権の「崇神王朝」が成立したのではないかと考えられている。
後世に編纂された記紀の中心テーマである天照大御神と高天原伝説は、天上界の神々が九州日向の高千穂に天孫降臨して、神武天皇が畿内へ東征して即位する建国神話である。畿内に直接天孫降臨させればいいものを、わざわざ九州に降臨させて、大和朝廷の故地が九州にあったことを暗示しているのはなぜだろうか。記紀の編纂当時、大和朝廷の祖先が九州にあったという否定できない伝承があり、中国の史書が実在を伝えていた卑弥呼と邪馬台国を、天照大御神と高天原に比定して、神武東征の建国神話を創り上げたのではないだろうか。
それではなぜ邪馬台国が畿内地方に東遷したのだろうか。南に接する狗奴国との戦いで敗れて渡海して畿内に逃げたのだろうか。もしくは九州を制圧してさらに豊かな土地を求めて畿内に向かったのだろうか。あるいは朝鮮半島からの新たな侵略勢力(後に東征する応神天皇)に圧迫されて畿内に逃れたのだろうか。もっとも肝心なところだが、文献のない「空白の4世紀」を埋めるのは、考古学的発見がないかぎり、我々の想像しかない。状況証拠は東遷説に極めて有利である。記紀の伝える神武東征神話は、九州にあった邪馬台国の東遷を伝承的に伝えたものと考えていいのではないだろうか。
【畿内の巨大古墳群】
古墳時代は3世紀半ばから始まったといわれる。弥生時代の墓制は方形周溝墓が一般的で墳丘墓もつくられてはいたが、3世紀半ばに畿内地方に唐突に巨大な前方後円墳が多数出現したのである。その背景に弥生時代を超越した全く異質な社会が形成されて、大王中心の身分的秩序と支配体制の確立があったと考えられている。そして巨大古墳の造営は単なる王の埋葬儀礼を超えて、共同体の利益を体現する首長の霊威を祀り継承する政治的な行事に変わっていったと考えられている。
近畿地方には、奈良盆地の東西に柳本古墳群(景行・箸墓・崇神)と馬見古墳群(宮堂・川合大塚)、生駒山地を挟んで、大阪平野の東西に誉田古市古墳群(応神・河内大塚)と百舌鳥古墳群(仁徳・履中)の4大巨大古墳群がある。この4大古墳群こそ4大王朝の墓域であり、ヤマト王朝交代史の証人である。
まず奈良盆地の馬見古墳群は、大和に先住土着する古代豪族葛城氏の葛城王朝(鳥越憲三郎説)の墓域といわれており、西側の柳本古墳群は、4世紀に葛城王朝を滅ぼして大和の三輪山麓に本拠を置いた崇神天皇の三輪王朝(水野祐説)墓域で、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳を含んで、これぞ九州から畿内に東遷してきた邪馬台国ではないだろうか。箸墓古墳は崇神天皇の墓なのかもしれない。そして大和の地名も邪馬台国の名からきているのかもしれない。
大阪平野の和泉にある誉田古市古墳(允恭天皇系)と河内にある百舌鳥古墳群(履中天皇系)は、5世紀に奈良の崇神王朝を倒した外来征服王朝の応神王朝(水野祐)墓域であり、6世紀に越前地方に起きた継体王朝に皇位を簒奪され、その皇位が現天皇家に続くとされている。
紀州口熊野マラソンへのエントリーから、神武天皇東征、そして邪馬台国東遷、そして魏志倭人伝から王朝交替へ、古代ロマンは果てしなく広がってしまった。相変わらずの独断と偏見、そして生齧りな知識の切り貼りだが、2月下旬の公開講座「邪馬台国を話そう」が大いに楽しみである。
せっかくですから、奥様とご一緒に、春の紀州散策はいかがでしょうか♪
うまくまとまらなくて、放ってあるのですが、
宮崎で鵜戸神宮、青島神社の両社を回った時も
学生時代の不勉強を嘆きました。
記紀万葉は1年次の必修でしたから……
しかも万葉仮名まで勉強させられたのに!
少年老い易く学成り難しですね……
卑弥呼の鏡、不思議な世界でしたね。
STAP細胞の小保方さん報道ですっ飛んだようで、
もっと詳しく報道してほしかったと残念ですが。
私も、以前は畿内説だったのですが、今は邪馬台国=九州説を支持しています。
カーテンコールさんのように、資料を読み込んだわけではなく、何となくでお恥ずかしいですが。
あの宮崎のお社を見て、なおさらそう感じました。
それと、昨日は拙ブログへのコメントをどうもありがとうございました。
勝手ながら、一部、伏字にさせていただいたこと、こちらでお詫びいたします。
あれだけ何度も出かけていると、いらっしゃる方たちと顔なじみになってしまい、
ブログにいろいろ書き連ねているワタシを、特定されるちょっと気まずいかなと……
新しい記事では、固有名詞を極力控えているので、ごめんなさい。
その意味で今回のマラソン棄権の決断は断腸の思いでしたが、結果的には事前の考察が更に深くできたし、近い将来の歴史探訪のためにはむしろよかったかもしれないと今は思っています。
釉さんがご紹介された宮崎の鵜戸神宮については知りませんでしたが、主祭神が神武天皇と東征中に死んだ三人の兄たちの父親とは、しかも日向の大海原に面して断崖絶壁に建っているとは、まさにこここそ神武東征そして邪馬台国東遷の出発地点だったのかもしれませんね。
お話を伺っただけで、東国に向けて出帆する息子たちの大船団を眼下に見送る父の日子波限建鵜草葺不合命の姿が浮かんできます。
実は昨日に公開講座「邪馬台国について話そう」の講師から電話があり、参加申込が予定の倍になったので広い会場を変更するとのこと、やはり古代ロマンを探訪する仲間は多いのですね。恥をかかないようにもっと勉強しなければと、仕舞い掛けた書籍を広げています。
釉さんは記紀万葉を1年次に必修されたとのこと、そんな方相手に門外漢が一夜漬けの知識で論陣を張ろうなんて、畏れ多いことでしたね。汗顔の至りです。今後ともご指導をよろしくお願いいたします。
ブログコメントの件では思い至らず失礼いたしました。