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わたしと向き合う

2020年初頭、自分本位に生きる事の虚しさに気づき心機一転。

閉じたハート

2019-11-15 23:16:30 | 日記
なんだか最近ハートを軸に色々な事を感じる事が増えたように思う。
その昔、Tシャツと同化してしまった某カエルの漫画があったけれど、
何かあるとそんな感じでハートの部分がぐっ、ぐっ、と飛び出てくるような感触
(胸がドキドキするとか苦しいとかそこまで強い感じではないけれど)がある。

そんでもって、今日仕事帰りの電車の中、座席に座って目をつぶってぼーっと頭に浮かんでくる思考に意識を向けていた時に、某有名人T(薬物所持でまた世間を騒がせた人物)の事が思い浮かんだ。
苦しいんだろうなぁ、本人なりに必死に生きているのだろうけど、なかなか思うようにはいかないのだろうなぁ・・・それでも、死ねないんだろうなぁ。僕も苦しいよ。絶望しないで生きてくれよ、と思っていたらちょっと泣けてきて、目を開けると涙がこぼれそうだったので、しばらく目をつぶってやり過ごした。
それから、最寄り駅の花屋で若い店員さんに、「何かお探しですか?」と声をかけられたので、部屋に飾る花を選んでもらった。話すのが苦手そうで不慣れな感じの人だったけど、丁寧に花を選んでくれた。ちなみに、お会計の時にその人の花の包み方がよくなかったらしく、ベテランの人が無言でばさっと包装を解いて、包みなおした時に、若干その光景がきついなぁと感じて、若干若い店員さんが不憫になった。

そういえば、最近ハートのところがぐっ、ぐっと飛び出ようとするような??感触がある。
お風呂に入って、ゆっくりしていたらハートを開きたいのに開けない、という思いがじわりと込み上げてきた。この時は素で泣いていた。




理由

2019-11-10 12:58:27 | 日記
人は理由に依存する。

今、苦しみの渦中にある人であれば、何故今自分がこんなに苦しいのか。
その理由や原因を知ろうとするだろう。そして、知る事で安心したいのだ。
一方で、一見して幸せな人を見ても、同じように今の状態に至る理由や要因を知ろうとする動きが見て取れる。
苦しんでいる人であろうと、幸福な人であろうが、今自身が置かれている状況を理解したい、それに至った原因を知りたいという欲求が常にあり、それを知らずにいては不安というか、落ち着かない気持ちになるように思う。

説明が拙いので、端的にまとめると、人は『因果関係』そのものに対する依存をしているという事。これは、本当に微妙でそれを自覚している人はあまりいないのではないかと思っている。

思考を作り続ける事の理由?

2019-11-10 11:00:23 | 日記
普段あれこれ考える事に煩わしさを感じていたとしても、考えは止まらない。
考えが静まった、と考えている時も「考えが静まった」という思考は起きていて、
言語化されていなくても思考の塊みたいなものは意識にあり続けている。

何気ない一瞬(秒単位)に思考がない事は1日の間になんどもあるけれど、思考のない瞬間に、思考がない事にむずむずするような感触がある。
そのむずむずを乗り越えられた事は今の所なく、それを乗り越えたら何が起こるのか興味はある。が、心は落ち着きなく動き回っているように感じているので、今の自分にはどうも難しい事のように思う。

自分自身は、生きるのも煩わしく、何もかもかったるく感じていて、仕事するのも日常を過ごす事だけでも、難儀をしているけれど、心の落ち着きのなさを見るに、まだまだ自分の心は、まだ色々な体験が必要なこどもなのだと思う。

大切な物は多分共有できない。

2019-11-09 23:49:49 | 日記
同じ製品を所有する事はできるし、同じ場所にいく事はできる。
同じ音楽を聴く事もできるし、同じ本を読む事もできるし、同じ時間を過ごす事もできる。でも、本当に同じ事を共有できているかというと、実は違っていたりする。
そういった体験を、言葉である程度補足する事はできるけれど、言葉は想いを切り取った表した写真のようなものだ。そこに表しきれない物は切り落とされてしまう。
共有を試みる事はできるけれど、同じものを共有している気分になるだけで、実際は全くかけ離れた、個々人の解釈による「相手の想い」を共有しているに過ぎない。


生きる事は楽しいですか?それとも苦しいですか?

2019-11-04 23:14:14 | 日記
こんばんは。
今夜はブログ登録と同時に何件も記事を書いているよ。

生きる事は楽しいですか?
それとも、苦しいですか?

僕はね、正直生きる事が苦しい。とはいえ、意外と楽しい事もある。
いやいや、しかし生きる事は苦しい。例えて言うと、苦の地面に立っていて、
歩くたびに生きる気力が吸い込まれていくのに、それでも生きる事を課されているような、そんな具合に。
昔は、生きる事が苦しいのは、自分の努力が足りないからだ、と自分を否定していた。
その当時一緒にいた友人は盛んに、自分達と異なる世代の批判をしていたような記憶がある。老人を老害と言い、自分より若干若い特定の世代をゆとりと言っていた。要するに、自分が苦労しているのはそいつらのせいというわけだ。
ま、それが真実かどうかはさておき、他人のせいにしていられるうちは良いさ。

表面的には、社会が国が、老人が、後輩が、自分の経済状況が、家族が・・・そんな事柄が自身の苦しみに対する理由として浮かんでくるかもしれない。
けれども、それは本質的な苦の原因ではないと思う。なんというか、自分が気づいた事は、苦が人生の根底にあって、普段その事を直視する事が難しいけれど、なんらかの外的な要因によって、その根底にある苦が顔を表していると言う事だ。だから、そういった出来事をきっかけになった出来事を苦の原因と取り違えているに過ぎないのだと思う。

苦というのは常に自分の生の根底に流れていて、自分はその上にもがいている。
楽になりたい。けれど、自分には死ぬ気力はないだろうし、かといってそういった苦から目をそらすしてくれるようなファンタスティックに依存できるエンターテイメントはないように思う。

生きる事は苦しい。生きていたからといって自分には何もできる事がない。
ただただ、その日をやり過ごす事しかできない。
それでも、生きていかなければいけない。
自分の思いや願望とは無関係にひたすら生きていかなければいけない。
人生とはままならない。