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わたしと向き合う

2020年初頭、自分本位に生きる事の虚しさに気づき心機一転。

寂しい、からの何故かお墓まいり。

2020-01-12 23:41:01 | 日記
最近、ずっと寂しさを感じていて、毎夜毎夜泣きながら眠りについていた。
そんなこんなの日常を送っている最近。今日は出かけたついでに菩提寺にお墓まいりしてきた。
本当はお墓に手を合わせるだけのつもりが、お墓が鳥の糞などで汚れいたので、急遽お掃除用品を買いに行き掃除をしてから手を合わせる事となった。
ところで、お墓を掃除していて、ふと、家の若者が(といってもアラフォーだがけど)、
自分達(先祖)の事を気にかけてくれない、という事はとても寂しい事なのではないかと思った。
また、現代ではお墓の存在意義に疑問が投げかけられている一方で、お墓に存在価値がないのならば、何故現代までその習慣が残っているのだろうか?お墓は本当に価値のないものなのだろうか?本当に?という、素朴な想いを湧いてきた。

ま、寂しい事は辛いけれど、それがきっかけでご先祖様を大事にしようという想いを抱く事ができたのはとても良い事だと思う。

ネガティブな考えの実体

2020-01-11 22:08:43 | 日記
ネガティブな考えが浮かんできた時、それがどれだけ真に迫ったものに感じられたとしても実体があるものではない。考えを落として、その考えの前に存在するモヤモヤとした考えの種のようなものを感じてみると、それ自体にはネガティブさなど一切含んでいない事が分かる。

一見して、何かの衝動のようなものがあったとしても、それはネガティブでもなければポジティブなものでもない。どちらの考えも表面的な装飾であって、その根底にあるモヤモヤとは何ら関係がない。その表面の形にそった形でモヤモヤが現れているのであって、モヤモヤ自体は何の性質も持たない

なぜ、そのようにモヤモヤがネガティブ、あるいはポジティブな形に沿って現れてるのだろう?

自分が何をしたいのか分からなくなってしまう原因

2020-01-10 21:58:25 | 日記
自分が何をしたいのか分からなくて困っていたけれど、その理由がおぼろげながら分かってきた。

自分に湧き上がってくる些細な希望と、それに伴う思考や感情を全て否定しているからなのだ。否定するうちに、そんな感情を抱く事自体に微妙な罪悪感を感じてしまっていた。なぜ、否定してしまうのかというと、そういった事を受け入れてしまうと、自分がとんでもなく酷い事をしてしまうのではないか、と強い恐怖あるからなのだ。

たとえば、親しい人の行動に腹がたって、心の中で相手に対する罵詈雑言が浮かんでしまった時、そんな風な思考が存在する事を受け入れてしまうと、そのまま相手にぶつけてしまうのではないか・・・・という恐怖心。これは、つまり自分は、自分の想いを受け止める事と自分を正当化する事を同一視してしまっていたのだ。


恋愛はめんどくさい。

2020-01-08 22:29:47 | 日記
恋愛はめんどくさい。なによりも、自分の思考や感情が不安定に揺れ動くところがとてもめんどくさい。自分のみっともない姿を目の当たりにして、自分自身に呆れてしまう。
不安定な事が嫌、というよりはそうやって右往左往している自分を認めたくないから、そういった恋愛に煩わしさを感じているのだ。

自分にとって都合の悪い思考や感情を認識したくない、受け入れたくないという想いが根底にある。そんな考えが意識にあると、ひどい事をしてしまうのではないか、と不安に感じる節がある。


自分のために生きる事の限界

2020-01-05 23:04:06 | 日記
自分のために生きる事には限界がある。自分にとっての夢や希望や欲というものは、とても小さな事でしかない。

欲は依然として自分に根強く存在してはいるが、それでもその個人として抱く欲の空虚さに気づいてしまっていて、昔のように幻想を抱く事は難しい。欲をいくら貪っても、充足感というのは訪れない。不足感を補うために、より多くを求める事は不幸の入り口である。不足感を補うために物を求める事をやめると、それほど多くの物を必要とせずとも、充足感が得られる事に気づく。過剰に物を求める事はなみなみと水が注がれたコップにさらに水を注ぎ込むような事と同じだ。結局、求めて得た事は深く味わう事なく、コップからこぼれ落ちていくのだ。
さておき、個人として抱く欲というのはそれほどたくさんの事を求めなくても、充足感を簡単に得られるものだという事なのだ。その事に気づけないのは、色々な方面で飽食になっている現代人としての生活の弊害だと思う。

そこで、自分が思った事は、自分以外の家族や友人、知人の存在が、個人としての小さな欲を乗り越えさせてくれる大きな存在となり得るのではなかろうか、という事なのではないか?と最近思い至るようになった。実際、それが事実かどうかはこれから自分できちんと、自分の心で確かめていきたいと思う。