photo=rehearsal for next performance
踊りは聴くことに限りなく接していて、踊っていなければ聴こえないものさえあるのではないか、と、ずっと、思っている。
なにかを聴く、なにかに耳を澄ます。
ということと、踊る、ということが、どうにも重なる。
踊っている時でないと聴こえないものがある。
そう思えてならないのはなぜだろう。
そう考えるとき、踊りというのは一種の神経の目覚め方と関係する行動なのではないかとさえ、思えてくる。
静寂を聴くこともある。静寂こそ音と、心のどこかで思っているかもしれない。
色にしても形にしても、僕の場合、それらは聴覚に働きかけてくる力が非常におおきいように思えてならない。
聴く、というのは、受ける、ということでもある。
聴く、ということは、いったん自分の我を消すことにも結びついている。
「いまここ」の気持ちを停止して、よく聴けば、外部から何かが訪れる。外部とは遠方である。遠方から訪れる何かが内的な火に変わるとき、筋肉が緊張して神経がざわめき、やがて、何かが切れる。
聴覚のおこす火は、言葉の火よりも原始的な力を持っているにちがいない。その力を待たなければならない。
踊る稽古は僕にとっては聴く稽古でもある。色々と迷いながらも、そのことはなぜか変わっていない。
聴くことは受動である。受動的なことはとても大切だと思う。
世の多くは能動的であることを奨励するが、好きでない。自分が自分がという声や言葉や人は、どこか恐ろしい。
受動体。
聴く体。
聴くこと、身をゆだねること。
しんとすること。
そのようなことを、いつもいつもいつも、思う。
聴くことは待つことでもあるかな。
待つことができなければ聴くことはできない。
待つことが出来なければ、踊りは沸き出してこないだろう。
受容。
これがダンスの最小単位で、聴覚はその先端を担っているのではないか。
そして、聴覚は触覚にもつながっているのではないか、つまり、聴くことは触れることでもあるのではないか、とも思う。
たとえばそのような仮説から、いましばらく考えをすすめてみたい。
(from notes for dance2021:Sakurai Ikuya)
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