次の舞台公演のための作品制作にとりかかっている。
いくつかの音を試作しては踊り、踊ってはまた音を試作する。
秋公演の反省をつめることから、音への興味が新たにひろがり、稽古を始めた。
9月に行なったフランク・ミルトゲン氏の美術とのコラボレーション(記事)では、機械仕掛けのオブジェが発する単調で果てしない音が、ダンスにとっては困難ゆえ実に面白かった。11月に行なったソロ公演『沈黙ヨリ轟ク』では、沈黙からイメージを拡げ、極めて微細な音や、しじまと身体の関わりをさがした。現代の底に響いている何かを捜そうともした。
きょうは野外で稽古をしたが、寒気に乗ってさまざまな音がクリアに響き、肌に乱反射した。湿度の問題もあるのか、夏より冬のほうが、さまざまな音がくっきりと感じられる。そして、あらゆる音が、速く行き来しているように感じる。
冬になればなるほど光と影の境目がくっきりとするように、音の通りも鋭くなる感じがする。
冬の音は、好きだ。
踊るとき、音にかかわってゆく感覚は、僕にとって、ひととかかわることに限りなく近しい。
音を感じることは、だれかの呼吸や体温を感じるのとも似ている。
ただ聴覚だけで接していたのでは音を感じたことにはならないのではないか、とも思う。
幼時から習った体操をやめたあと音楽に興味が出て、中学高校とオケでティンパニをした。あれは、楽譜で決まっている音に調律して叩く。ティンパニにはネジ式のものやペダル式のものなど色々あるが、調律作業をしながら演奏する便利さや正確さを求めて楽器をさがす。太鼓の革に顔を近づけて、ン~~、と決められた音を小声で歌うと、響き方が澄み切ったときに調律がキまる。気持ちがよい。楽譜によっては皆が演奏している途中にどんどん調律を変える。調律しては叩き、叩いてはまた調律する。ショスタコビッチなど現代音楽に近ければ近いほどそれが頻繁で面白かった。音と出会う感じがした。音と出会うことが人に出会うことのようにも感じた。そのような作業の楽しさは、ダンスで音を探ってゆく楽しさと、どこか似ていると、いま僕は思う。
ダンスでそんなことを感じた思い出のひとつに、甲斐説宗氏のピアノ曲を踊った体験がある。ひとつの音が次第に変化し、移ろい、やがて楽音からノイズにまで音の領域がひろがり、フォルティッシモと静寂の交錯が激しい感情宇宙を紡ぎ出してゆく。ピアノという楽器を限界まで突き詰めたような音楽である。そのなかで、たしかソ#の音だったかしら、同じ音が何度も出てきたのだけれど、出てくるたびに身体への触り方が著しく異なっていて、感激した。調律とはまた違うのだけど、ひとつの音に内在する表情が無限なのだということを、甲斐説宗の音楽を踊りながら、思った。音楽というものに対する親近感が大きく変化した。演奏家に対する気持ちも変わった。
そういう経験は何度もあった。鎌倉小学校(横浜国大附属)で子どものためのダンス公演をしたとき、作曲・演奏の寒川晶子さんはド音ピアノというもので演奏された。ピアノの全ての弦をC(ド)に調律してしまうのだ。だから、どの鍵盤を叩いてもドの音しか出ない。なのに、非常に豊かに音は変化して身体をつらぬき空間を飛ぶのだ。ビックリしたが、同時に、音楽の最も原型的なものに関わった心地があり、納得できた。
ほかにも、言い出せばきりがない。阿部薫さんが録音されたサックスを踊ろうとして挫折したときのこと、モーツァルトのレクイエムミサにおける反復音列のこと、ダンス白州で試みた水流と金属音のからまりのこと、ソロ公演『青より遠い揺らぎ』(2012)でパイプオルガンの調律を取材して踊ったときのこと、、、。(いづれも、いつかくわしく書きたい)
ダンスにおける、音との出会い、音との関係づくり。それは人と関わることの喜怒哀楽にも、壁にも、困難にも、ほどけにも、相似しているのではないかと思える。
音の体重、音の湿度、音の質感、音の色彩、、、。
音が近づいてくるとき、そして音が遠ざかって消えてゆくとき、僕は、何か特別な感情が噴き出しそうになる。
生まれる子どもをむかえるときの感覚、亡くなる人をみおくってゆくときの感覚、、、。
そのような感覚を思い出すことがたびたびある。
音は存在なのではないかと、僕は思う。
ますます、そう思うようになっている。
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