燃やして灰となったものに、
あらたなヒを傍らに近づけるように 」
という、これは吉増剛造さんの『怪物君、詩乃傍(côtés)で』という詩の一節なのですが、3.11震災を経て書かれたこの詩から、何かただごとではない、根っこの方から揺さぶられて亀裂が生まれてしまうような、状態になってしまうのです。
それは、あの経験を経て現われた、誰かの、新しい言葉、でありながら、あの経験より遥か過去から響き続ける、誰でもないものの、言葉、でもあるかのような、つまり、あの経験から始まった、あの経験なしには始まり得なかったかもしれない、あの経験を経てこそ感覚されるようになった、現在の奥に存在している揺さぶり、を感じてしまう。
時間というものが、必ずしも何かを、和らげ、などしてくれるわけでなく、むしろ、より深く、より複雑に、時間の経過が痛覚を蝕んでゆくことや、希望することも絶望することも出来ない、ただひたすら対峙し続ける他にはない恐怖というものが、この世にはアルのだというような、認識(というのだろうか、いや、未だ予感なのか、それは分からないが、)が、あの日からずっと日増しに年を経るにつれハッキリしてきた気がするのですが、
この、ここにある、累々たる言葉から響き続ける響きに、僕は、いまだ、まだ、揺れ続ける揺らぎを、感覚させられ、そしてまた、いま新たな何かにも、新たに、揺さぶられてしまいます。
言葉、というものが明らかに身体を立てるチカラであり、それは同時に、根の揺さぶりに関わる、一種の発熱でもあるのではないかなあ、と、僕には思えてならなくて、それを、またしても強く思い直すようなきっかけが、この長大な「詩」から与えられ、いま、ということにも、否が応でも重なってくる気がします。
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あらたなヒを傍らに近づけるように 」
という、これは吉増剛造さんの『怪物君、詩乃傍(côtés)で』という詩の一節なのですが、3.11震災を経て書かれたこの詩から、何かただごとではない、根っこの方から揺さぶられて亀裂が生まれてしまうような、状態になってしまうのです。
それは、あの経験を経て現われた、誰かの、新しい言葉、でありながら、あの経験より遥か過去から響き続ける、誰でもないものの、言葉、でもあるかのような、つまり、あの経験から始まった、あの経験なしには始まり得なかったかもしれない、あの経験を経てこそ感覚されるようになった、現在の奥に存在している揺さぶり、を感じてしまう。
時間というものが、必ずしも何かを、和らげ、などしてくれるわけでなく、むしろ、より深く、より複雑に、時間の経過が痛覚を蝕んでゆくことや、希望することも絶望することも出来ない、ただひたすら対峙し続ける他にはない恐怖というものが、この世にはアルのだというような、認識(というのだろうか、いや、未だ予感なのか、それは分からないが、)が、あの日からずっと日増しに年を経るにつれハッキリしてきた気がするのですが、
この、ここにある、累々たる言葉から響き続ける響きに、僕は、いまだ、まだ、揺れ続ける揺らぎを、感覚させられ、そしてまた、いま新たな何かにも、新たに、揺さぶられてしまいます。
言葉、というものが明らかに身体を立てるチカラであり、それは同時に、根の揺さぶりに関わる、一種の発熱でもあるのではないかなあ、と、僕には思えてならなくて、それを、またしても強く思い直すようなきっかけが、この長大な「詩」から与えられ、いま、ということにも、否が応でも重なってくる気がします。
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