櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

断想:学生さんたちと

2023-01-28 | ダンスノート(からだ、くらし)

バタバタするうち、もう一週間以上経ってしまったが、長く関わっているダンス学校で3年ぶりに有観客の卒業公演(渋谷公会堂)が実現され、舞踊監修と演出面でお手伝いをさせていただいた。

僕自身の運営する稽古はどのクラスも少人数で個と個の関わりから生まれる踊りを目指しているが、この学校では100人単位の指導や演出を担当してきた。対照的ながら、積み重ねてきた指導経験の相互作用はあると思う。

公演では、コンテンポラリーダンスはもちろん、ストリート、ジャズ、クラシックバレエ、ほぼ全領域にまたがる演目で16歳から20歳が踊ったが、相当なエネルギーが発散され、胸を突かれた。

こないだ書いた土方さんのことを何回か話してもいた。危機に立つ身体という言葉があったが、このごろ、若い身体に、それを連想させられることが時々ある。踊りの奥に、何か剃刀のようなものがある人に、時々出会う。

最も多感な時期に震災を見てパンデミックのなかで成人を迎えてゆく世代。がんばる、ちゃんとする、そんな言葉をよく口にする。いろんな面で複雑な心情を背負っている気配を普段から感じてきたが、彼らの表現にとってそれは決してマイナスではないことを見せられた。初めてナマの観客に囲まれ、緊張し、集中し、目前の人と対峙する姿が、実に必死かつ粛々としていた。

僕個人のソロ公演は、様々なご協力や縁があって2001年夏に再開することができた。しかし、こちらの学校公演では、かなり多数の出演者とスタッフが関わるので、無観客公演が続き、公演以前の稽古運営もなかなか大変だった。この状況でこそ得られた学びもあったが、状況が長く過酷は否めなかった。

久々の正常開催で、人が人前で踊ること行為すること交感することの重要さを、人が人と同じ時と空間を共にし向き合うことの重大さを、たしかめた。

 

 

 

 

 

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断想:土方巽さんの命日に

2023-01-23 | ダンスノート(からだ、くらし)

週末1月21日は、土方巽さんの命日だった。

今年は稽古をつけさせていただいたあと、縁ある人の公演におじゃました。だから一日踊りを見るということで過ごすことができた。昼の稽古は〈振付・創作クラス〉と〈基礎クラス〉で、いづれも踊る身体と日常身体の相のちがいを強く感じさせられる稽古だった。踊りで振付をもらうというのは人がとても大事にしているものをもらうのだから、これは本当に踊り独自の文化だと思うのだが、この日の振付・創作クラスではいま手がけている景のおさらいをしたあと振付を味わい楽しむことと即興との深い関係について話を交わし、そのあと基礎クラスでは、さらに具体的に身体の動きを誘発してゆくための体の立ち上げ方や力加減を稽古したが、対話としても日本人の体ということや身体やダンスに対する捉え方について話が及んで、かなり重要な日になったと思う。参加の方々もこの日がどういう日なのかはご存知と思ったから、土方さんの話題はあえて出さなかったけれど、やはり自然に、この日ならではの言葉が体から出てきたのだと思えてならなかった。また、夕方に観に行った舞台というのが正確な重さに満ちていて非常に考えさせられるものだったし、たまたまお会いできた方々も沢山いられたこともあり、帰宅後は慈悲心鳥のあの少し張ったような声を思い出しながら、古い本をパラパラとめくり眺めて飲酒した。

土方さんといえば舞踏ということなのだが、僕にとっての「ひじかたたつみ」という人は、劇場・舞台というものを思い知らせてくれた人でもある。踊りの場所、つまり、「ひとの前に立つ」「ひとを見つめる」という文化を創始した古人は本当に偉大だと思うようになった大きなキッカケは、この人の公演だったのだ、と今リアルに思う。そして同時に今リアルに感じていることが、このコロナ禍のえげつなさのなかで、ようやく少しづつ劇と踊りの回復を探り始めながら、やはり、人が人の前に立つ、生身の観客が生身の演者を受け止める、ということは素晴らしいことなのだという感情の再燃である。観る、という言葉のほかに、立ち会う、という言葉があるが、これも受け止めなおしたい言葉だ。舞台芸術は、まず人がそこに居る、という大前提から始まる。聖書外典のひとつに、真を知りたくば劇場に行け、という文言があったことを思い出す。

人と人の交響が生み出す瞬間を、その凄さを、やはり思う。

 

 

 

 

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断想1/10:繰り返しつつ始まる(例えばベートーヴェンから)

2023-01-10 | ダンスノート(からだ、くらし)

クラスの前にようやく自分の稽古はじめを行い、反芻中の前作ソロの返し稽古に加えてベートーヴェンのクロイツェルをさらった。

上はクラスレッスンでもたびたび踊ってもらっている曲でもあるけど、これを踊っておかなければと思ったのは、構想中の新しい作品にも無意識のどこかで関わっているのかもしれないと思うからだった。そういえば年末に第九を何度もきいた。どちらも、聴いても聴いても刺さり、ズキズキする。二曲いづれも舞台で踊ることはまだ出来ていないが、いったい何年くらい聴き続けてきたのだろう、もはや一生聴き続けるかもしれない、とか、思ってしまう。

同じ音楽を、何度も、何歳になっても、聴き続けることができるのは素敵だと思う。何歳になっても聴き続けることが出来る音楽を生み出せるというのは、もっと素敵なことだと思う。そのような曲をいくつも産んだベートーヴェンはやはり、とてつもない。

踊るとき、なぜか音楽は知らない猛獣みたいだと思う。舞台で踊った音楽は結構あっても、どの曲も、もういいかなと思ったことがなくて、次にこの曲を踊るときはああしたいこうしたいと妄想してしまう。例えばベートヴェンの場合でも、昔々オケにいたころ初めて演奏したのは6番だったということに始まり、ずいぶん色んな機会にさまざまな曲が出現したが、曲から髪を鷲掴みにされたような思いが何度も湧いて、いったいこの作曲家は何者なのだろう、と、いつも思えてきた。

僕が興味を持ってしまうひとつには反復性ということもあるかもしれない。繰り返すこと。これは僕のダンスにもどこか重なる気がする。常に新しくあることは常に異なってゆくことではなく、繰り返しをいかに生き活かすことができるかという反復にこそ新しさが宿るのではないかと、僕は考えている。ベートーヴェンの音楽の中では、いつだって何かが繰り返される。何かが繰り返されながら、繰り返されることによって、熱を帯び力を蓄え光を放ってゆく、そんな感じがする。確かに感じる。

繰り返す、ということ。これは、僕にとって、生活的にも舞踊的にも創作的にも、とても必要なことだったりする。同じ本を読み続けたり、同じ人と話し続けたり、同じ場所に行き続けたり、そういうところから、僕の場合は、踊りが出てくる元があるのではないかという気もする。「繰り返す」という行為には、人間にとって根源的な重要さがあるのではないか、と僕は思っている。繰り返すことによって、自分では気づかないほど少しづつ認識力や生命力が宿ってゆく。ダンスを通じて、そう感じてきた。

同じことを何度もやるのはつまらないと言う人も沢山いるが、僕は同じことを繰り返し続けてきた。同じことを繰り返すことからこそ、何かを開発することが出来ると思っている。また、繰り返しが出来る人を立派だと僕は、感じている、感じてきた。

「繰り返す」ということから、稽古や練習に関わる「り、はーす」という言葉も連想する。reは反復、hearsは鋤で耕す、ということだから、リハーサルというのは繰り返し耕すという意味なのだろう。そこに現れているように、「踊る」というのは、繰り返し動き、ながら、すなわち、身体を耕すことだったりもする、そんな気がしてならない。踵や指先や心臓や背中から、膨大なものが脳味噌に流れ込んでくる。繰り返し動き、繰り返し感じ、という、そのようなことからこそ、何か、始まりの種子が育ってゆく。そんな気がしてならない。

「繰り返し」動き、「繰り返し」感じ、「繰り返し」歌い、「繰り返し」語り、「繰り返し」泣き、「繰り返し」苦しみ、「繰り返し」味わい、、、。

「繰り返し」は身体を存在を耕してゆく。何かを繰り返すことからこそ何かを生む土になってゆく。もしかして、すべてはそこからなのではないか。

と、いまおぼろげに、おもう。

 

 

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断章1/04:「いれかわってゆく」瞬間

2023-01-04 | ダンスノート(からだ、くらし)

受け容れる、

ということから

踊りは始まるのだろう、

なんて、今更またしきりに思う。

伝えようとする前に何を受け止めたか受け止め得たかということがないと、踊る、ということ自体が始まらない気がして、ならない。

現実のことでも夢でも予感でも何かしらが、訪れて、それを全面的に、感覚し感受する、ということが、肉体を振る、のではないかという感触があって仕方がない。

これという出来事とか原因があったわけではないのだけれど、ある日の稽古を境に、ずんと思うようになった、冬の気配がする頃だったが今年の新作公演を事後検証するための稽古を何度か繰り返していた。

上演が終わった作品を稽古することは次作への結構大事な作業なのだけれど、それと同時に、ちょっとした痛みにつきあっていた。

体の痛みや心の痛みは、いろんなことに敏感になるのか、やはりある種の回路を作り出すのかもしれないし、作品反芻と同時に、体を反芻するというか、舞踏体というもの自体を経験しなおそうとしていたのかもしれない。

踊り、というのがなぜかくも抑えがたいものなのか、、、。

踊り、というのは表現でもあるが、表出でもあるんだと思う。意図的な行動でもあるが、抑えがたい衝動から出てくる純粋行動でもある、そう思う。

言い換えれば、それは意識と無意識の同時シンクロであるし、何かの訪れによって自分の奥のほうが波立ち、肉体が何かを受け容れて別の存在感に変容してゆく、ということだ。

これは、一種の存在の「旅」なのではないか、とも思う。

ワタクシというものが

ふとマッシロくなって

「いれかわってゆく」瞬間、、、

そのようなことを作品とか舞台に反映することができるには、どれくらい時間がかかるか分からないが、やはり、これは課題と思えて仕方がない。

そんなことを思いつつ新年の数日を送る。胸のなかが、ざわざわする。

 

 

 

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断想12/01(ことばのこと)

2022-12-01 | ダンスノート(からだ、くらし)

久々に読んだ本があった。一語一語が腹の底にどすんと落下してくるようで、こんなに強い言葉たちがこの一冊の中に封じられていたのかと溜息をついた。それらの言葉に、言葉の余韻に、身体を内部からひっくる返されるようでもあった。

変な言い方かもしれないけど、言葉のひとつひとつに体重があるのではないか、と、たまに思う。言葉は響きとともに空間を生み出すが、言葉には色彩や光や音が宿ってあり、それらが、その言葉の体重を生み出しているのではないかと思ったりもする。

言葉を巡って踊っているときは、言葉を受けとめたり、言葉に受けとめてもらったり、している。そんななかで、次第に言葉にも体重があるように感じるようになってきたのかもしれない。

音楽に身を揺すられるのもいいが、言葉と身体の関係には、また特別な感じがある。

初めて言葉を聴いたときの記憶や、初めて言葉を喋り得たときの記憶は、生きてるうちにどこかに消えたが、言葉を巡って踊っているときは、それらを思い出しているような感覚になることがある。

 

 

 

 

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断想11/20 (至近稽古記より)

2022-11-21 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

稽古しているときの面白さのひとつに、身体と自我との関係にハサミを入れるという感覚がある。

踊りによってものごとの認識が少し変わってゆくという現象もある気がする。舞台稽古など極端な集中力が必要なものでは、稽古によって細胞が入れ替わっているのだろうかと勘違いをすることもある。

肉や血は祖先から繋がっているのは勿論だが、人体の大部分は自分以外のもので出来ているのだと思う。それが、踊っていると非常にハッキリしてくるのだ。

体が思うように動かせるように稽古するというのもあるのだが、こうしたいああしたいということが出来ても特に面白くなくて、むしろ、思うようには動かないということを感じとることから、色々な疑問や感触や面白さというものを味わうことが圧倒的に多い。

病気の声や怪我の声や年齢の声もあるし、食った物の声や読んだり聞いたりした言葉の声や、耳から忍び込んできた音楽の声や街の人々や物質の声が、ギシギシと肉体の奥から、何か自我に何か喧嘩を売ってくるみたいでもある。そのような内的闘争感というか調和が壊れる、そういうところから作品が生まれてくる感じが、やはり強い。

僕にとって身体というのは、矛盾みたいなもので、ちょっと怖い気もする。矛盾は現実の証なのではないか、というようなことをシモーヌ・ヴェーユは書いていたように覚えているが、僕はその言葉に若干頷く。

 

 

 

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断想11/12

2022-11-12 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

肉体とともに、刻一刻と何かが盛衰しているのだろう。

形の無い生命かもしれない。

(櫻井郁也ダンスソロ『やがて、、、(タトエバ切ラレタ髪ノ時間ト)』創作ノートより)

 

前作反芻を進めつつ次への身体を探っていて、時折思い直すひとつがこれ。漠然とした言葉だが、これをメモしたときの感覚は比較的いまも新鮮だから次作にもどこかで繋がってゆくかもしれない。

似ているものの一つには、肉体の場所や時間に関わる認識があると思うが、これは観賞する場合にもたびたびあって共有しやすいかもしれない。

踊っているときでなくとも、別の肉体が踊っているのを眺めているときでも、ごくまれに、場所の認識や時間の感覚が変化することがあって、これはやはり印象に残る。

場面が見えてくるのは当たり前だが、それとは別に、何と言えばいいのか、代わりが無い場所、代わりが無い時間、とでも言うようなものが出現して、さまざまな物事に無常さとか名残惜しさを感じることがあるのだ。

視覚が捉えている物理は同じでも、その大事さが急速に変化するというのかしら。肉体がしっかり生かされていると、場所や時間も生きていることが、分かってくるのかもしれないし、それと共に、刻一刻の儚さが際立って体感されてくるのかもしれない。

かと思えば、ふと場所が消えたり、時間が停止したまま動かなくなってしまったように、感じることもある。特別な集中力が出た時に限ってだが、これは、深く真っ暗な所のような、少し怖しいような感覚でもある。

肉体が纏っている場所や時間が移ろいゆくような働きが、もしかすると、踊りにはあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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断想10/22(季節が変わり、やっと)

2022-10-22 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

 

久々に連絡をとった方が公演の感想文だよと送ってくださった手紙を拝読。この夏に上演した新作とコロナ前の2019年に上演したもの二作についてくわしく書かれていてこんなことは初めて。強く参考になった。

季節が変わり、やっと7月公演の反芻作業も渦中に入ったところ。そこに、ゆっくり選ばれた言葉を投げていただけたこと、これは上演時の舞台と客席の間の無言の対話が継続しているようで、背を正す思い。僕自身も舞台を観た感想というのは時に何年も残り、発展してゆく。ダンスは一回性が強いと言っても、その残照残響がどこまで続くかは、ものによって、はなはだ未知なのかもしれない。そう考えると、創作も稽古もまた面白い。

過去にも感じたことがあるが、ソロ公演からしばらく経つと、自分の内部が変わっているように思えてくることがあって、それは次作構想ともやはり絡む。

作品というのは作るだけでなく、作る代わりに壊れるものも、ある。そして、上演という行為によって揺すり揺すられる。上演初日の最初の瞬間から終演日の踊り切リの瞬間までのどこかで、踊りと注視とがあいはたらきあってピッと張り詰めた水晶のような時空が生じることが、稀にある。日常にはなかなか生じない空間は忘れがたい。独舞と言っても一人から何かが生まれるわけではない、踊る肉体とそれが関わる魂すべてが働き合って何かが生まれるのだと思う。舞台では自分のイメジネーションのみならず観客の想像力とも踊ることに成るから、予想外の新たな火種も生まれる。今年の新作『やがて、、、(タトエバ切ラレタ髪ノ時間ト)』では、それが強くあった気がしてならない。

反芻を進めつつ、次作に向けて確かな作業を進めていきたい。

 

 

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断想9/11(あの日のことから)

2022-09-12 | ダンスノート(からだ、くらし)

ちょうどいまごろの時間、悪寒とも少し違う、異様な予感で落ち着かないまま、テレビを見つめていた。巨大なビルの崩落が、繰り返し、流れ続けていた。20数年経っていると思えない。

あの日、稽古から帰宅するとNYでビルが燃えているというので、テレビに目をとられて身震いした。21時46分アメリカでは朝8時46分、さらに22時03分アメリカ9時03分。2台の旅客機が乗客を乗せたままワールドトレードセンターに突入した。そしてペンタゴンにも。あの瞬間から、突然、怒涛のように現在が始まった気がする。

9.11事件は21世紀の扉を暴力的にこじ開けたのではないかと思うことがある。

暴力の連鎖が始まっていることを生々しく知らされた。これまで感じたことのない種類の、深い暗さが近づいてくるように感じた。あれ以来、関係あることも、まるで別の次元のことも、なぜか雪崩のように物凄いことが次々に起きて、私たちがどこまで行ってしまうのか、わからないまま、いまここにいる。

あの直後に衝動に駆られ、つくり始めた作品群があった。『非暴力と不服従へのダンス・第1番〜第4番』である。

第1番はソロ、第2番がデュオ、第3番はカルテット、第4番で再びソロとなる。個体性と関係性のあいだを、揺らぐように、迷いながら、作品を作っては上演し、3年を過ごした。

その翌年、この4連作を通じて蓄積されたものから生まれたのが『カナリゼーション〈祈りの河〉』という作品だった。

男女のダンサーによってソロとデュエットが交互に踊られ、そこに一人の女優によるアクトが絡み、数え切れない量の身振りや言葉が浮かんでは消え、時間に運ばれて流れ去ってゆく。

これら合わせて5つの作品について、再考することが多い。この作品群を境に、現在までソロ作品が連続している。

(関連記事)

 

 

 

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断片12/18(ダンス、言葉の封印を、、、)

2021-12-18 | ダンスノート(からだ、くらし)

クラスで言葉について話す時間を得た。たびたびあることだが、、、。

以下は今年秋の日記から。

 

言葉、からダンスを起こしてゆく面白さは日本の諸芸にはとても明らかだが、

夏の独舞公演『血の言葉』のあと、言葉とダンスの関係に、あらためて、より、ハマっている。

音楽から、空間から、日常の出来事から、特に意味のない抽象的な想像から、エトセトラ、実に様々な物事からダンスは生み出されるが、言葉も例外ではない。

言葉では全く形容や説明が難しいような、純粋に運動感覚からばかり出てきた振付だけでダンス作品を作ることも多々ある。

しかし、過去に言葉からインスピレーションを受けてダンス作品をつくり踊った回数は数えきれず、いまもそれはとても面白い作業になっている。

そもそも言葉というものについて考えを巡らせたり、言葉をいかに体験するかという試行錯誤をしてゆくというのは、かなりニンゲンというものについて考えることにも重なってくる。

言葉に縛られたり惑わされることはあるし、言葉ばかりで物事を考えるのも好かない反面、言葉からもらうエネルギーや、言葉によって呼び覚まされる内的な力が、自分というものを変化させる力に転じて、人生を実際に切り開くことさえあることも、確かに感じる。

また、言葉というものがこの世に存在している事自体が、とても神秘的なことに思えることがある。

以前、ある言語を話す最後の一人になった男の人を撮影したドキュメンタリーを見たことがあるが、自分以外に誰も離さず、誰も理解さえ出来ない言語で、その人は毎日毎日しゃべり続けていて、具体的に何もわからないにだけでなく、感情の抑揚さえあまり予測することもできなかった。なのに、その言葉の連続は、その喋り話し語る人の記録からは、強いエネルギーを感じてしまった。

言葉から踊りを起こす、、、

これは、言葉を生きる力に転換するのと、もしかすると近しいのでは。そこには、音楽に触発されるのとはまた異なった意識の層があるのでは。そんなことを、あらためて思うことが、この頃ある。

言葉は僕らの知性に働きかけるだけではなく、言葉には熱や湿度や毒や薬や色んな力が封印されていて、それらが自分の感情や生理に働きかけてくるのかもしれない。

身体を動かしながら、あるいは、身体を動かそうとしながら、言葉を聞き、言葉を問う。

いま、この瞬間、自分がその言葉から何を聞き取り、何を受け容れているのか、そして、何によってどのように動かされているのか、ということが直感される。無知も、未知も、直視される。自分のアタマや心の、固さも柔らかさも、身体によって露わになる。

言葉から踊る、ということは、他人を受け入れることから始める、ということでもある。それは同時に、自分を拡張しようと試みる、ということでもあると思う。

ロゴスなるものに潜在するのは、火の力、なのではないかと思うことが最近、多々ある。

言葉の封印を解く力が、肉体的な行為や行動には、あるのだろうか。

(2021日記から)

 

 

 

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ただいま前回ダンス公演の記録をご紹介しております。次回公演の日程は年明け発表します。いましばらくお待ちください。

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断片10/13

2021-10-13 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

ソロ公演には、一回一回の本番に独特な出来事があり、その体験と作品はセットになって記憶され、そして、その記憶の反芻が、新しい作品の種になります。

僕の場合、ダンス公演は、毎日の細かな感情の蓄積や、身体を通じた経験や、それらを元にした振付の反復、そこからまた出ては消える思考の「かたまり」によって生み出されます。

踊りに集中が高まる中で、次第に、自分の元々の考えや経験が、いったんグラグラと不安定になって、崩れてゆくような心地になることがあります。

そこには、踊りという言葉をも忘れさせ、カラダという観念をも、ぐらつかせてゆくような感覚が伴います。

解体してゆくこと、解体されてゆくこと、、、。

ダンスは、僕にとって、ある種の分解的な作業なのかもしれない、と、ときどき思うことが、最近少しあります。

そのような記述がいくつも、今年前半のノートにあり、見つめています。

7月半ばに行った今年のソロ公演から3ヶ月目に入り、新たな作品への試行錯誤が始まっています。

 

 

 

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断片9/19

2021-09-20 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

photo=private rehearsal by Sakurai Ikuya

 

ダンスでは人体の動きが想像力に働きかけ、様々な人や出来事に影響を与えることがあります。しかし身体そのものが何かを語るのではない。身体、カラダ、と呼んでいる実体に蓄積した全てが何かを語っているのだと思います。いま動いているその体を成り立たせてきた人の生の来し方と、瞬間瞬間の体を突き動かす原動力が、如何なるものかのか、ということに、やはり興味をそそられます。

立派な人が素敵なダンスを踊るとは限らないし、丈夫な体が美しく踊るとも限らず、善き人の体が感動を誘うとも限らず、、、。

心躍るから体が踊る。というけれど、その心なるものも、何かと作用しながら刻々と変化しているところがあったり、頑丈に不変たろうとしているところもあるに違いありません。

また、体の動きには運動という意味での動きもあるが、体育の動きとダンスの動きの素晴らしさは、これまた別で、ダンスには雰囲気や音楽性や存在感などの「うごき」もある。このあたりになると、単に個人の「いまここ」の心の問題でもあるまいと思うのです。

実は、思いのほか広いところから、さまざまな複雑な現象や働きが個体に働きかけて、体の動きの衝動をもたらしているのではないかしらん。なんて。

そんなことについて、あれこれ考えたり調べたりすることが、この頃になって再び楽しくなってきています。新しい作品の構想を進めながら、なのですが。

 

 

 

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ただいま前回ダンス公演(2021年7月)の記録をご紹介しております。次回公演情報は、いましばらくお待ちください。

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断片 9/10夜 (あの9.11から20年 )

2021-09-10 | ダンスノート(からだ、くらし)

 

 

たしか、日本時間で夜の9時半ごろから10時過ぎあたりのあいだだったと思います。

NYで大変なことになっているみたいだ、大きな火事だろうか、いや、飛行機が墜落したみたいだ、、、どうしたんだろう、、、、そう思ってテレビを見つめていると、2機目の飛行機が、、、、。

2001年9月11日。

この日から始まったことは、自身のダンスにも、重要な問いをもたらしました。

この日の同時多発テロに続いて、10月にはアフガンの出来事があり、それらをめぐる不安や慄きや怒りや悲しさのなかで、そして、あの出来事に続く世の中の急激な変化の流れを感じながら、衝動のまま、ごく短期の間に企画制作したのが、写真上の舞台でした。下は当時の公演チラシ裏面の文章です。

『ガラスの背後からの叫びと共に 〜 非暴力と不服従へのダンス第一番(2001年plan-B、ソロ)

と題したこの公演から以後、次第に「独舞」というものに対する追求心が強まっていき、いつしか僕はソロダンサーという活動の仕方を重視するようになっていきました。

また、次第になのですが、私はなぜ踊るのだろうか、ということ以上に、人間はなぜ踊るのだろうか、ということに、創作の軸が変わっていった気がします。

20年前の出来事とそこからの創作は、現在継続している公演シリーズの開始点とも言えるし、ダンサーとしての第二の出発点だったかもしれません。

やがて、震災があり、放射能が降り、このコロナ禍が訪れ、

想像さえ出来なかったことが次々に身辺に起こって世の中が変わって、

いま現在、というものが、ここにあります。

ここから、私たちは、どのように歩いてゆくのでしょうか。

 

 

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断片8/15:ロイ・フラー、イサドラ・ダンカン

2021-08-15 | ダンスノート(からだ、くらし)

もう一週間ほども経っていますが、1995年に放送された『映像の世紀』というテレビ番組の初回が再放送されていたのを、たまたま見たのですが、冒頭いきなりロイ・フラーのソロダンスに始まり、そして彼女のアンサンブルの映像があって面白く感じました。

あの有名な布を振り回す動きをする沢山の女の人の動きの中心に、サムライのような固い型式的な動きをする男踊りが一つだけある。パリ万博だというのですが、川上音二郎を真似た誰かなのでしょうか、説明は聞き逃したが、見た感じは日本人ではない。あれは、ちょっと興味深い映像でした。

止まって見せようとする日本の踊りに対して、動いて見せようとする欧州の踊り。これをハッキリとやっている。自分の出すエネルギーをあらわす欧州の踊りに対して、他人の有様やエネルギーを真似て我が身に映し出そうとする日本の踊り。とも言えるのかしら。ほんの短いフィルムだったが長い長い歴史の対比を身体が強調しているような感じがしたのです。

番組は例によって政治的なものや文化的な多数の映像が紹介され劇的な流れを演出してあったのですが、いづれも21世紀の僕らがやっていることと極端には違っていないように思えました。

そんな中に、イサドラ・ダンカンの映像と発言もあって、これは、フラーのダンスとは対極的な位置にあるような気配がして少し深刻なものを垣間見た気がしました。

ダンカンの踊る姿は一人で踊っている姿でしたが、これは、非常に華やかなのだけれど、どこか少し孤独なような、何か言い知れないものに向き合いながら踊っているような複雑な表情、気のせいか、そんな印象がしたのです。たったの一瞬の映像に、そんな感じが映っているように感じたのはちょっとした衝撃でした。

そして、その映像に添えられたダンカン自身の言葉はロシア公演の時に見た革命直前のペテルブルグについてのもの、とりわけ、血の日曜日事件についてのものだったのですが、深身があり、重力があり、それゆえ心揺さぶられるような言葉でした。

目の前に繰り広げられた事件の痛みをそのまま踊ったダンスは大好評だったが、それに感激したのは、血の日曜日事件の現場にあった人々ではなく、実は、大富豪や貴族たちだったのだ、というダンカンの告白は、やはり、非常な重みがあり、その時その瞬間の経験を言い表しているだけでなく、どんどん別の場所での出来事にも重なり得るし、もしかすると、僕らの現代にさえも、何らかのかたちで重なりひびいてくるのかもしれぬとさえ思わせられるような感じがしました。

 

 

 

 

 

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断片7/05(土方巽さんの、、、)

2021-07-07 | ダンスノート(からだ、くらし)

踊りは、その人の内にあるものことごとくを映し出すのではないか。そんな気がしてならないです。

稽古をすればするほど、中が透けてきます。舞台を重ねるほどに本性が あらわ になってゆく感じもあります。実感です。

踊りをみているとき、体の中に染み込んだものや住まうもの、そしてその体が孕んでいる言の葉のすべてが運動によって視覚化されてゆく。蠢いている体の後ろにある何か、あるいはその体を動かしている何か、を見ているのか、などと思うこともあります。

その人の歩いてきた道、その人のかつて居たところ、その人が関わってきたさまざま、関わり損ねたさまざま。そして、その人の心の根。それらが、語らずとも聴こえる無音の言葉として、踊っている身体から滲みでてくるように感じてならないです。だから、踊りで嘘をつくことはなかなか出来ないのでは、とも思います。

こんな記憶があります。

もう何十年もたっていますが、土方巽さんが「舞踏懺悔録集成」という題名の週間を企画されて通い観たときのことを、まだ覚えています。「懺悔」という言葉が、ツッと心を刺したのです。それは、いまの世情とは違う、奇妙に浮かれた街の雰囲気の中に投げられた石礫のようでもありました。嘘くさい繁栄のなかに、なにか肉の蠢きだとか自我の葛藤するような真剣な雰囲気がパッと投げられたように感じたのでした。

僕自身の個人的な気持ちにも、そのころすでに強い原罪意識があり、ここまで生きてきたことそして今ここにいることに対する懺悔のような感情が、僕の場合はどうしてもあって、そこに何か心情的な関係力が出たのかもしれません。

発せずにいられない心境と環境の中で発せられたのであろう「懺悔」という一言に惹かれ心射られたことそのものを噛み締めるような思いで、劇場に通い、土方氏に関わる様々な人が紡ぎ出す踊りの瞬間瞬間を見つめました。

土方氏ご自身は舞台に立たなくなっていられたのですが、それでも、その存在を感じるとき、どこか事件めいた匂いがするようでした。

当時、土方氏が企画する会や、氏が直接に演出する舞台がたびたびあり、それらを見に行くたび、共感と違和感が混ぜこぜになったような、かき回されているような心地でした。そして、それゆえに、何年経っても忘れず、むしろ、あの空気感の奥に何があったのかと考えたり想像したりすることが増えました。

僕は、踊りを通じて、言葉というものが身体に及ぼす力の重大さを、感じてきたけれど、そのきっかけになった一つが、この、土方巽の「懺悔」という一言とそこに連なる幾つもの踊りの舞台だったかもしれない、と、このごろ思うようになっています。

土方巽の「懺悔」。あの一言の奥の奥に、いったい、いかなる、、、。

言葉は非常に切実な踊りです。言葉と人の生は互いに深く絡みあって光と闇を生み出しているに違いないと思います。

どのような言葉を思い、どのような言葉を語り話し喋り書くか。それは、その人の生き方や人間関係まで作ってしまうのだから、大事の大事であるのだと思うのです。

言葉と肉体との不可分は当然、とも思います。

踊りと言葉との関わりは単純に論じられないほど複雑なのでしょうけれど、そこには非常に大切なものがあるのではないかと僕は考えています。

 

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東京・六本木 ストライプハウスギャラリー地下

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