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風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

神様の願い・・   (「荒野の食卓」より)

2004-02-19 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
 神様は私たちが神様のために何かをする事を望んでおられるのではなく、私たちに与える事を望んでおられるそうです。 与えたくて与えたくてしようがない、そうです。 だって、神様はとってもお金持ちというか、豊かだから! (普通、宗教だと、お金が要求されますが…)
 今日のウォッチマン・ニーさん(殉死された中国の伝道者さん)の 「荒野の食卓」から、そんな事を学びました。 またまた目を覚まされ、はっとさせられるものでした。 


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<font color=brick>『急いで一番よい着物をもって来て、この子に着せなさい。』
             聖書:ルカ 15.22

神はものすごく富んでおられる方なので、神の一番の楽しみは与えることです。

神の宝の倉はあふれているので神は私たちに宝を惜しみなく与えようとしておられるのに、私たちが神を拒絶することは主の悲しみです。放蕩息子が家に帰ったとき、父親は息子の浪費を非難する言葉も、内容について問いただすような言葉も口には出しませんでした。

単純に父親は、息子の帰還によって息子がさらに消費してくれる状況を喜んだのでした。父親は、息子が礼服、指輪、くつ、祝宴を求めている者であることを知ることができて、幸せでした。が、長男にはそうした要望がないのは父親の悲しみでした。

私たちが主に何かを提供しようとするとき、主は心に深い悲しみを覚えられます。神はものすごく、ものすごく、富んでおられる方です。私たちが主に願って与えていただき、与えていただき、もう一度与えていただいたときに、主に喜んでいただくことができるのです。

主は永遠に「供給者」であることを望んでおられます。そして主は永遠に「行為者」であることを望んでおられます。神がどんなに富んでおられ、神がどんなに偉大であるかを私たちが知りさえすればいい
のですが。
</font>
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 放蕩息子の話は イエス・キリストのされた例え話のひとつです。

 ある父親に二人の息子があり、財産分与をしました。兄は無駄遣いせず、父のもとで堅実に働きましたが、弟は家を出て、もらった財産をすぐに浪費し、路頭に迷う生活をするようになりました。弟はいよいよ困って、父の所に戻ることにしました。 しかし、自分が悪いと承知しているので、「子供のまま」では迎え入れられない、「雇い人」として使ってもらおうと思ったのです。 食べるのに本当に困ったのでしょう……。
 さて、父は毎日息子の帰りを待っていたに違いありません。 遠くにぼろぼろの息子の姿が見えた時、父は自らかけよって抱きしめてキスしました。 弟が謝り、雇ってくださいとお願いすると、父はなんと、息子をそのまま受け入れ、きれいにして立派な服をきせ、ご馳走の宴を設けました。

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