りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

タイトル

2023-11-10 04:09:45 | 更級日記
「更級日記」という作品タイトルには不思議な響きがある。
そう呼び習わされて千年経つわけなので、もはや名称としてすっかりオリジナルな風格を備えた「本物」に聞こえてしまうのだけど、当時、この作品にはタイトルはなかったそうで。
筆者、菅原孝標女はタイトルをつけていなかった。
そうと知っていても、「更級日記」は「更級日記」として書かれたわけではないというのは、なんだか意外に思えるのである。
誰か作品の「名付け親」がいたのか?あるいは人々の間でいつの間にかそう呼ばれるようになったのか?
事の次第はまったくわからないのだけど、いつの頃からか「更級日記」と呼ばれるようになった。

だが、これは「日記」の体裁として、普通なのだろうか?
なるほど、それは確かに彼女の人生のシーンというべき時に、何を見て、何と出会い、何を考えたか、何を得て、何を失い、何を祈ってきたのかを書き連ねている。
「日記文学」を言うと、まず「土佐日記」が思い浮かぶが、「土佐日記」の描く時間と比較してみると、その違いは歴然としている。「更級日記」がカバーする時間はほとんど人ひとりの人生に及ぶ。

「夢」と「現」の間に生きたひとりの女性の回想録とも呼べるが、どこか「私小説」のような雰囲気が漂う。
全体を構成的に読ませてしまう筆が「日記」というタイトルを裏切る。「事実」、あるいは「体験」として呼び出されるエピソードは、構成のために選り抜かれている。そのおかげで、よりスケールの大きな「物語性」が彼女の人生に浮かび上がってくるように読める。
「日記」だと思って読んでいたら、「物語」的構造が見えてくる。途中、唐突に別のイメージが、「祈り」だったり、「夢」だったりするイメージがオーバーラップする。これは「物語」=「フィクション」なのではないか?と思うと、絶妙なタイミングで「物語と違って、現実は。。。」と、ため息にのせてこちらを「現実」へと引き戻す。これは「おとぎ話」でない、「フィクション」ではないと釘を刺す。
だが、彼女の語る「現実」は、少々ぶっ飛んでいる。むしろ、これが「現実」であることの方が不思議だ、とさえ思えてくる。あたかも「巫女」の「夢解き」の如し。この「夢」までを含めて「ノンフィクション」なのだから、彼女の言う「物語ではない」「現実」の出来事は、どれだけ控え目に言っても「ファンタジック」である。


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