アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

マラティー・タンベー・ヴァイディヤーさんのこと

2011-03-02 | インド映画

今日は私のインド人の親友、Malati Tambay Vaidya(マラティー・タンベー・ヴァイディヤー)さんの命日、1周忌です。彼女は日本でのインド映画上映にも大変な貢献をしてくれた人なので、ちょっとご紹介をしておきたいと思います。

<マラティー・タンベー・ヴァイディヤーさん。2006年>

私が初めてマラティーに会ったのは、日本で初のインド映画祭をやろうとしていた時期でした。私と友人たちは、3本のインド映画『芽ばえ』 (1974/原題:Ankur)、『ままごとの家』 (1977/原題:Gharaonnda)、『サーカス』 (1978/原題:Thampu)のプリントを16ミリで手に入れ、それを<インド映画祭>として日本の観客に見せようと考えたのです。1982年のことでした。

<『芽ばえ』 監督:シャーム・ベネガル>

<『ままごとの家』 監督:ビーム・セーン>

<『サーカス』 監督:アラヴィンダン>

ちょうどその年、国際交流基金が設立10周年の催しとして、<国際交流基金映画祭-南アジアの名作を求めて>という映画祭を開催、インド、スリランカ、インドネシア、タイ、フィリピンの映画を計11本を上映して大好評を博しました。そのお手伝いを少しばかりやった私は、基金の人から、インド映画を海外に出す窓口はボンベイ(現ムンバイ)にある国立映画開発公社(National Film Development Corporation/略称NFDC)だと教えてもらいました。そして1983年の1月、<インド国際映画祭>に行った時にNFDCのトップに会って交渉したのです。それがマラティーでした。

NFDCの本部はボンベイにあり、その他、ニューデリー、マドラス(現チェンナイ)、カルカッタ(現コルコタ)等に支所を持っています。一番上のディレクターは名誉職で、有名監督などが就任します。その下ですべての事務を取り仕切るManaging Directorがいるのですが、それがマラティーの肩書きでした。彼女は多分、高等行政官試験(IAS)に合格したのだと思いますが、最初は観光省で働き、その後NFDCのトップになったそうです。結局定年退職する1990年代の半ばまで、マラティーは長きにわたってNFDCのトップとして君臨し、インドの映画、特に芸術系作品の振興に努力したのです。

NFDCは当時、映画を作りたいけれど資金のない監督に資金を貸し出したり、あるいは国内や海外配給権と引き替えに資金提供をしたり、時にはNFDCがプロデューサーになって映画を製作したりしていました。ミーラー・ナイール監督の『サラーム・ボンベイ!』(1988)も、NFDCの共同プロデュース作品です。その頃インド映画はよく海外の映画祭で受賞していましたが、それも製作面でのNFDCのバックアップによるところが大きかったのです。

その他、映画に関する海外との交渉もNFDCの仕事で、我々のような小さな団体も相手にしてくれて、きちんとプリントと資料を送ってきてくれました。前述の3本の映画は、当時非商業上映の上映権が1本につき1000ドルで、あとNFDCにコミッションとして150ドル支払いました。そんな交渉をきっかけに私はマラティーと親しくなり、当時は毎年1月に開催されていた映画祭で会うたびにおつきあいをするようになりました。

<1989年ニューデリーの映画祭でのマラティー。右は『炎』のプロデューサーG.P.シッピー>

1988年にぴあが主催する<大インド映画祭1988>が、日印両政府の催しであるインド祭の一環として開催されたのですが、その時もカウンターパートはNFDCでした。経費節約のため、NFDCがインドで日本語字幕を打ち込むことになり、日本側のスタッフMさんが長期でボンベイに滞在したりし、NFDCと日本との関係はさらに密接になりました。この映画祭の時、マラティーも招待されて来日、ぴあの女性スタッフが全員サリー姿で現れたのに大喜びしていたものです。<大インド映画祭1988>で上映された25作品のうち、1、2作品を除く残り全作品は京橋のフィルムセンターが買い上げてくれ、マラティーは「字幕のクオリティが悪いと言って値切られたわ」とこぼしながらも嬉しそうでした。これら、『炎』 (1975)や『踊り子』 (1981)等の作品は、今でも時折フィルムセンターで上映されています。

<『踊り子』>

彼女がNFDCのトップだった頃は、おつきあいはいくらかフォーマルなものでしたが、彼女が退職すると、私たちは友人同士の関係に変わりました。退職後マラティーは自分の名前の頭文字を取ったMTVという会社を作り、映画コーディネーターのような仕事を始めました。NFDC時代から仕事上の関係があったNHKにインド映画を提供したり、また、国際交流基金が映画祭を開催する時は、日本にフィルムが無事到着するよう様々な手配をしてくれました。そんな中で、ある手痛いミスが発生し、彼女がそれに事前に気がついて、傷口が大きくならないうちに収拾できたこともありました。

また、今度単品として発売されるグル・ダットの作品『渇き』 (1957)や『55年夫妻』 (1955)等が最初にDVD-BOX化できたのも、彼女が間に入ってくれたからでした。今でこそインドの映画界はビジネス・ライクになり、いろんな交渉もズムーズに進むようになっていますが、ほんの数年前までは、人脈に頼らないと何も動いていかないという状態だったのです。そんな時、長くNFDCのトップにいて映画界に顔の利くマラティーは、誰よりも強い味方でした。

今世紀に入り、<インド国際映画祭>が秋の開催となって、しかも場所がゴアになってからは私は映画祭に行かなくなり、別の時にインドを回るようになりました。そしてムンバイに行くたびにマラティーに電話して、ほぼ毎日お昼ご飯をおよばれに行っていたのです。彼女の家はタージマハル・ホテルからほど近い、プレジデント・ホテルの近所にある高層マンションで、23階の部屋からは海がよく見えます。2009年のムンバイ同時多発テロでテロリスト達が上陸したとされる海岸も近く、いい風の通るその部屋でマハーラーシュトラ州のおいしいベジタリアン料理をいただくのは、本当に至福の時でした。

<お昼ご飯を前にしたマラティー。シンプルだけど、野菜料理がどれもとてもおいしいのです>

彼女は数年前心臓発作を起こし、その年は本当に弱っていて、面会も短時間で切り上げたほどで一時は心配しました。でもここ2,3年元気を回復し、2009年3月に行った時も中央検定局(Central Board of Film Certification/略称:CBFC)ムンバイ支所のトップを紹介してくれたりしたのでした。CBFCは毎年検定を通した映画の数を発表、私はそれをインド映画の製作本数として使っているのです。CBFCムンバイ支所に電話する時も、マラティーは威厳に満ちた言い方で、「日本から研究者が来ている。会いなさい」というような感じで話し、私は感心したものでした。NFDCのトップというのは、文化庁長官ぐらいの重要な地位だったようです。

そして昨年も3月9日にムンバイに着き、早速マラティーの自宅に電話したところ、ご主人が出て、「妻は1週間前に亡くなった。心臓発作だった」と言われてびっくりしたのでした。ご主人はヴァイディヤーという名前の通り、インド伝統医学の医師で、2人は大学の同級生だったそうです。ですので17、8歳から約50年間、仲のいいカップルとして一緒に過ごして来られたのでした。私はショックを受けながらも、明くる日お花を持ってお宅を弔問、マラティーの写真にお別れを言ってきました

<花屋さんで白い花の花籠を作ってもらう。別料金ですが、配達もしてくれます>

私がこれまでインド映画の紹介を続けられたのも、マラティーの存在が大きかったのですが、彼女はまた、日本人のインド映画紹介の仕事を高く評価していました。特に、元アジアフォーカス・福岡国際映画祭のディレクター佐藤忠男氏夫妻、そして元国際交流基金アジアセンターの石坂健治さんは彼女がもっとも信頼を寄せている人々で、私が行くとよく話題に出ました。2009年に最後に会った時も、彼女はまだまだ日本へのインド映画紹介に意欲を見せていましたので、亡くなってしまったのは本当に残念です。何とかがんばって彼女の遺志をついでいかないと、と思っています。

天国のマラティー、長い間友だちでいてくれてありがとう。ゆっくり休んでね。


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6 コメント

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貴重なお話をありがとうございました (きたきつね)
2011-03-02 21:38:58
インドには国立のこのような機関があるのですね。
インド映画の国外への紹介や仲立ちにマラティーさんのご尽力があったことを初めて知りました。インド映画に大きく貢献された方だったのですね。日本のインド映画の発展もcinetamaさんとマラティーさんの友情の賜、恩恵にあずかれてこんなに嬉しいことはありません。
グル・ダットのDVD-BOXを持っているので、ちょっと繋がりが持てたようで嬉しく思います。
(適切な言い方かどうかわかりませんが)マラティーさんのご冥福を心からお祈りする次第です。
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きたきつね様 (cinetama)
2011-03-02 22:36:47
暖かいコメント、ありがとうございました。きたきつねさんのお祈り、天国の彼女にも届いていると思います。

マラティーは、国際交流基金アジアセンターが開催したグル・ダット作品回顧上映(2001年3月ですからちょうど10年前ですね)の時にも、ゲストのワヒーダー・ラフマーンを連れてやって来てくれたので、会場でお見かけになった方もいらっしゃるかも知れません。この上映も、グル・ダット作品の権利を持つ彼の息子をマラティーが説得してくれて実現したようなものでした。

国際交流基金アジアセンターもずっと前になくなってしまったし、インド映画を点ではなく面で紹介することがますます難しい状況です。どないかせんとアカンなあ、と思ってはいるのですが...。
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Unknown (angelanju)
2011-03-08 16:47:37
マラティーさんが亡くなられていたことを、こちらで今初めて知り、驚いています。そうだったんですか…cinetamaさんのおかげで、何日間か御一緒させていただいた時のことが、昨日のことのように思い出されます。声も印象的でしたし、話すことがスマートで鋭く、それでもユーモアにあふれて優しい、素晴らしい女性でした。御冥福をお祈りします。
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angelanju様 (cinetama)
2011-03-29 21:18:56
3週間遅れのレスポンスですみません。

マラティーとはそういえば、基金の映画祭<グル・ダットの全貌>で、女優ワヒーダー・ラフマーンと共に来日した時にお世話して下さったのでしたね。angelanjuさんにアテンドされた人は、誰もが楽しい日本滞在時間を過ごすことができ、満ち足りて帰っていったものでした。今度ムンバイで会ったスハーシニさんも、日本のことを心配しながら、angelanjuさんのことを言っていましたよ。

スハーシニさんのことは、またのちほどご連絡しますね。
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ヴァイディアー夫人 (parijatak)
2011-04-07 09:04:02
亡くなられたと聞いてびっくりしていましたが、cinetamaさんの心のこもった追悼文が心に響きました。88年の大インド映画祭、人生の大事な思い出です。
 関西で「京橋フィルムセンターから映画を借りて映画祭をしたい」という声が上がっています。また相談にのってくださいね。
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parijatak様 (cinetama)
2011-04-08 13:54:51
初コメント、ありがとうごさいました。関西にお住まいということは、ひょっとしてDさん?

映画祭、フィルムセンターからの借り出しが不確定要素ですが、ぜひ実現させたいですね。お手伝いできることがあったら言って下さい。
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