(はじめましてのかたはこちらから↓)
みなさま こんにちは😊
昨日の雨が止んで、カラッと晴れた今朝、
わたしはいつものコースを歩きながら
朝日に照らされてキラキラ輝いている
雨粒をのせた葉っぱに何故か魅せられてしまい✨
しばし立ち止まって
その美しさ瑞々しさをゆっくり眺めていました😌
そういえば
雨と涙について、以前記事に書いたのだけど
なんか
今朝見せてもらった光景は、
まるで
「思い切り泣いたけど、涙は出尽くした。
そりゃあ悲しかったけれど、思い切り悲しめてよかった。
こんなに悲しくっても、思ったより自分が大丈夫だってわかったし
スッキリしたからもう大丈夫」
って、凛と立つ人のようなイメージだったんですよね。
悲しみにあらがうでも
悲しみに飲まれる自分を恐れるでも
そしてそれを押し込めるでも無く
悲しみを、それを感じる自分を丸ごと受け入れて、
悲しみを感じるに任せ
その経過を
全て見届けたのちに静かに前を向くような
そんな
強さと弱さをどちらも兼ね備えた姿…
言うなれば
弱さを受け入れる強さ
をありありとその光景から感じたのでした。
先日友人からかけてもらった言葉
「さらさんは、愛の量がハンパない。
愛のエネルギーもめちゃくちゃ強いのも
わかるんだけど、あくまでここは三次元。 肉体持った人間なんだから、体に本当に気をつけなよ。
電源が落ちるほど、バーンアウトするほどあちこちにあげたい与えたい命も惜しくないって思ってるでしょう?自制きかないでしょう?
そして、それをダメなことだと思ってない?
電源落ちるほどのデカい愛、
それってすごいことなんだよ。
まず、それを肯定してあげてよ。
それってさ、すごいんだから。」
これを聞いたとき、わたしはすぐに
「力を出しすぎたらヤバい。
自分も周りも壊しちゃうかもしれないから
分散させるか押し込めるかどこかに流すかしないと…」
っていう、学童期からずっと持ち越してきている、従来から持つ思考パターンで
できもしない自制をかけようとしたんです。それもなんとなく記事に書いたような…
たしか「力の使い方を考えないと」って。
(これ書きながら、
やっぱりあかちゃんからの育て直しなのか…って愕然としてる😱)
そして学童期のさらちゃんのあたまのなかはといいますと
「だって、力を出したら
好きに向かって自由に楽しんでいたら。
表彰ばかりされたり
何かの代表になったり
みんなの前で褒められたり
いろいろいっぺんにたくさん選ばれたりしてしまう
妬まれたり、贔屓だって誤解を生んだりして、孤独になってしまう
好きをまっすぐ放ったら、自分にとって良くない状況ばかりになる
好きも止めないと。
でもお母さんが悲しまない程度にがんばらないと。
うっかり満点取らないようにわざと間違えないと。
先生に言ってぜんぶ辞退しないと!」
…ああ
なんだそれ。ブレーキもアクセルもいっぺんに、でも加減して踏んでる😭
悲しすぎる。
自分がしたい!とか、好き!
とかがどこにも見当たらない…😭
わたしがさっぱり不在じゃないか…
ああ、これが図太いおばちゃんの
いまのさらだったら
「そんなこと考えなくていいから思い切りやってしまおう✨まわりには好きに言わせておけばいいじゃん。」
ですむようなことかもしれないんだけれど、当時のわたしには
それはそれは大問題だったんですよね、
この
「力をまっすぐ放ったら命に関わる」
っていうくらいの思い込み。
これ、取り組んだことなかったかもしれないから、もしかしたら解放のタイミングが、いま来てくれたのかもしれません✨
ありがたい😌✨
友人に先日もらった言葉をこのまえ読み返したときの
さらのあたまのなかはというと。
友人:あちこちにあげたい与えたい命も惜しくないって思ってるでしょう?自制きかないでしょう?そして、それをダメなことだと思ってない?
さら:はい、思ってました…😭
友人:電源落ちるほどのデカい愛、
それってすごいことなんだよ。
まず、それを肯定してあげてよ。
それってさ、すごいんだから。
さら:すごいのかな…
肯定していいのかな…
肯定なんてしてこなかった、ずっと。
だけどきっと、ずっと、それって悲しかったとおもう。
いっぱい愛を届けたかったのに、
自分を喜びで満たしたかったのに、
自分からそれを止めた。
しかもめちゃくちゃ力を使って、
母親が悲しまないようにある程度のところまで出してから止めたし、それをずっと続けてた。
もともとのデカい愛とか、好きとか。
もちろん肯定してあげたいんだけど…
そのまま放ったら危険、っていまもすこし思ってる…😢
だけど、それを抑えてきたわたしの悲しみには、とことん寄り添ってあげたいなっていまはすごくすごく思うんだよ…
…今朝、朝日にあたって輝く、雨粒に濡れた木々を眺めながら、
弱さを受け入れる強さ
をそこにみて。
涙が枯れるくらいにしっかり泣いた夜が明けて朝日を浴びて凛と立つ姿が
なんとなく重なって。
弱くても
愛がデカくても
自制がきかなくても。
命もいらないくらいにあげたい自分がいても。
ぜんぶぜんぶ、
まんまそれがわたしなんだ。
たったそれだけなんだ。
ってふと思ったんですよね。
ただただ
それがわたしなんだと。
それ以上でもそれ以下でもなく。
争いでも勝ち負けでもないなあ、
これって、降参みたいな感じかなあ😂
って終点にたどり着いたことが
かなり新鮮な今朝のお散歩でした。
好きや喜びが響くのは、どこのポイントなのか、
じんわりあたたまるきっかけはなんなのか、
少しずつ今のわたしはわかるようになってきてる。
だからこそ、大切な力を浪費して
自分を封印する悲しさは
いまは耐え難いんです。
長いこと無意識に積み重なってきた
この悲しみ。
感じることや、解放することを採用したら
どうなってしまうのか、そりゃあ躊躇もしちゃうのもわかる。
だからいま、悲しみの底にしかと手をついて真ん中に戻ってこれてよかったなあって。
大いなる愛を
真ん中で
信頼した瞬間だったのかも、しれません。
朝日に光る雨粒見ただけでこの一連のプロセスが立ち上がる。
これまでにはなかなかないことだから
やっぱり何かが
動き出している気がするし、
ここまで書いておきながらなんですが
これ…書く?っていう内容かもしれないのに書いちゃってるってことは
たぶんどこかに響いて
跳ね返って
また響く
これまた一連の流れが
どこかに必要なんだと思います。
答えあわせは、けっこうあとに、急にくるんだよなあ😂
意味不明だけど、これが
当ブログ
導かれる日々
の醍醐味だったりするわけです😊
こういうの嫌いじゃないわってかたは
よろしければまた遊びに来てください✨
読んでくださりありがとうございます✨
ではでは またー✨
さら
これも、ある意味
無
なのかもしれません。
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