哲学以前

日々の思索を綴ります

デタラメを排す

2017-04-30 17:28:41 | 日記
「筋を通す」という言葉がある。「話を通す」という言い方もされる。

要するに「然るべき人間に承諾を得る」という意味だが、そうした筋を通すことなく強引に事を進めようとの姿勢は相手を軽んじている証左だろう。

30年前に50代で雑誌に登場したときに「武道と認識の理論」を掲げ「弁証法レベルでなく認識論レベル」などと記載したことは、そして「個別科学としての認識学」などと記載したことは、「弁証法=一般論」なる己の理解・把握を顕わにしたわけだ。

「武道講義」について「弁証法を売りに再起を図った」などと21世紀の今語る人間は作為的か無意識か嘘をついている。

通常の認識ならば「一般的」ということと「弁証法的」ということは全く異なる概念である。

それが「弁証法とは一般的なことを扱う思考」との発想であるし、その「一般的」とは「上位概念のそのまた上位概念の広く包括的な概念・表象に適用する」という内容だろう。それが「話題は弁証法から認識論へ、であり登場してもらうのは(三浦ではなく)庄司」との展開だろう。

この御仁が何故に「弁証法は一般性」との思考をしていたのかは唯物論的弁証法の大御所たるエンゲルスが「弁証法は運動・変化の一般的な」と書き残しているから、その教条的な学びからに違いない。

そして、己が遭遇した弟子たる保母との認知の違いを「弁証法レベルと認識論レベル」などと規定したのは教養の無さとも断言できるが、戒歩志津子の子どもの認知の事実的な展開を「弁証法とは区別されたもの」との彼の直観的な理解によるものだろう。

今回の「それだけに弁証法(的能力)は一般性であり、そのレベルでしか役立たずの技能であるとする歴史上で悲しくも散っていくしかない(なかった)人生を持つ御仁には、かかる世紀の学的大発見など、夢想すべくもない(なかった)のである・・・。」という行は自らの事を薄ら恍けながら大言壮語し他人の論説を剽窃しようとの戦略が露わになっている。

この「弁証法は一般性であり」との発想が既に露わになっているのが彼らの集団が著している「統計の本」や「初学者のためのナイチンゲール」とか「医学ルネッサンス」だとかの論述なんだ。

証拠は上がっているのに、ふてえ野郎だ!というわけだ。

思索と体験

2017-04-30 10:47:57 | 日記
別宅の本棚を整理していたら西田幾多郎の『思索と体験』が見つかった。

いつ、何処で買ったんだろう?まったく記憶にない。

この本の中に「コーヘンの純粋意識」という論文があって、そこに「コーヘンの言う純粋とはピタゴラス学派やプラトンが用いた純粋だ」と書いてある。

それでネット検索してみると重田謙さんの解説で「プラトンの純粋とは、感覚的なものとは区別された真実在ウーシアで、それはピタゴラス学派が4次元の現実世界において2次元の平面上で面積の無い点や幅の無い線で幾何学的証明をするようなイデアでありエイドスだ」というようなことが書いてある。

すると、出隆が『哲学以前』で重視した「純粋」というのも古代ギリシャに遡りピタゴラスやプラトンの思索に哲学の核心を見たところに由来するのかも知れない。

とにかく所有の『哲学以前』が見当たらないから注文してある『出隆著作集』が届いて読んでみないと始まらない。

しかし、こうやって辿り返してみると、例えばユークリッド幾何学の点だとか線、面なんかの規定もアプリオリというか「感覚的なものとは区別された理想的な」とは言えても「感覚的な経験から派生している」ことが理解される。

感覚的な経験に基づいて人間の頭脳活動で加工されているんだよね。その過程をみずにアプリオリとアポステリオリとの対立という図式にしてしまうのも思考方法に欠陥が生じるような気がする。

だから、幾何学的証明でも具体的な事例で検討してみないと断定は出来ないけれど、例えば今、私の頭の中に直観的に浮かぶのが「哲学(ギリシャ哲学、ピタゴラス哲学やプラトン哲学)というのが幾何学的証明のようなものだとしたならば、それは理想的な点や線で構成されたものを部分=要素に分解したもの同士の関係性として理解しようとする思考」だと仮に規定してみたりする。

すると、それは辺の長さや角度の大きさなどの関係性で対象を説く。しかし、説くのは対象の全体ではなく、例えば面積であったり体積であったりの、それまた対象の部分=要素でしかない。

思索のために必要な要素だけ抜き出してくるという思考方法は、哲学がその始まりから分析的な面を持っていたということになる。

だから哲学的思索の部分的な要素に分解して要素間の関係性を思考するなんてのは、実験科学で因果関係を調べるために必要な要素だけを取り出して不要な要素を排除する道具立てに似ているとも言えるけど、哲学で思索される例えば「存在」という要素だけを取り出すことは出来ない。

実際に存在している個々の物体や生物、諸個人から「存在している」という部分だけを取り出して実験することは出来ない。

対象を観察しながらも頭で考えるしかない。

出隆の淋しさ

2017-04-29 12:11:03 | 日記
出隆が『哲学以前』の冒頭で吐露している不審や淋しさとは、哲学についての不審であり指導教官への不審なのだろう。

それが「真理思慕」というタイトルに端的に表れていると思われる。

出隆は純真に「真理」を追い求めていたのだろう。だが、大学の学部では桑木厳翼や波多野精一らの指導の下にスピノザを研究する。

汎神論のスピノザは出隆にとって真理ではなく宗教だと映ったのかも知れない。

だから大学院では「近世認識論史」の研究へ移ったに違いない。出隆にとって求めるものは「真理」だったから。

その真理探究としての営みとしての哲学に不審を抱き「そもそも哲学とは何なのか?」を求めて歴史を遡りギリシャ哲学の研究へ行ったと思うのだが、おそらく出隆は「哲学とは何だったのか?」を問うためには「哲学以前」まで遡らねばならぬことをギリシャ哲学そのものから学び、さらに遡ったに違いない。

そして「処女地」で知ってしまった。真理の探究だと思っていた哲学の始まりが宗教であり信仰であったことを。

出隆の淋しさとは、真理を求めて行き着いたところが信仰だったことの淋しさだったのかも知れない。

実の親だと思っていたところが、自分が捨て子だったことを知ってしまった淋しさのようなものだろうか?

それが、『哲学以前』の次の著作が『神』であり、後にマルクス主義に共鳴して共産党に入党した「一貫した誠実な人間性」かも知れない。

『学城』の『哲学以前』に関する論考

2017-04-28 11:10:43 | 日記
『学城』第15号で西林文子(さいりん・ぶんじ)さんという著者が『哲学以前』や出隆について論考している。

記載の内容からは、どうやら私と同世代のようだ。

私の哲学に対する関心は中学生の頃の父親との会話からだったが、出隆の『哲学以前』という本の存在を知ったのは間違いなく高校生のときに読んだ南郷さんの「武道講義」であった。

このサイリンさんと同じように私も齢を重ねた今なら、それもインターネットを駆使できる今なら十代の頃とは違った理解を『哲学以前』に対して出来そうな気がする。

ただ、南郷さんの論説に乗っかっているサイリンさんとは当然の如くに見解の相違が生じているが、それも南郷学派からは距離が遠のいて正当アカデミアに近づくことを意味するのだろうから致し方ない。

結局、『出隆著作集』を購入してしまった。

出隆メモ

2017-04-28 08:25:04 | 日記
『哲学以前』が西田幾多郎の純粋経験を高く評価している、らしい。

西田幾多郎の純粋経験は『善の研究』(明治)から。

新カント派の純粋意志。ヘルマン・コーエン。西田幾多郎や桑木厳翼。当時の学の巨頭。同じ東京帝国大学哲学科出身の先輩たち。

出隆は大学で桑木厳翼や波多野精一に影響を受けたという。

ヘーゲル死後の「カントに帰れ」。

ヴィンデルバントの『哲学とは何か』を翻訳。ヴィンデルバントは新カント派で哲学史を研究。

学部の卒論はスピノザ。大学院では近世認識論史を研究。それがギリシャ哲学の研究へ向かった理由とは・・・。

波多野精一は宗教哲学やスピノザを研究。自身はクリスチャン。スピノザは宗教哲学そのもの?

フィロ・ソフィア。ソフィアと旧約聖書、新約聖書。賢さ。
ソフィア→古代ヘレニズム世界で知恵を象徴する女神。

ヨブ記。猛獣も通らず、知恵の道。知恵文学。

H・フランクフォート『哲学以前、古代オリエントの神話と思想』