T古書店さんで再び山岳写真集を買った。金300円也。
今回は津野祐次さんの『中央アルプス』。
こういう機会に調べることが無かったならば、南アルプスとか北アルプスとかいっても別に九州や東北に点在してるわけでもなく、すべて日本列島の中部地方に固まっていて日本アルプスを形成してるなんてことすら知らなかったわけだが……。それぐらい山だとか自然の景観に興味関心が無かったわけね、今までは。
こうした映像を見ると私の脳裡に浮かぶのが何故か?「国破れて山河あり❗」のフレーズで。
確か私がこの詩を初めて読んだのは小学3年生の頃の『青春山脈~火乃家の兄弟』。第二次大戦が終わって東京は焼け野原で…という場面での。(ちなみに「火乃家の兄弟」では与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も使われていたが…)
杜甫の「春望」は唐の時代の安禄山の乱が舞台らしいから、現代と随分とイメージが違う。757年の大陸・中国・唐の長安での話と1945年・日本の終戦時とを比較することも困難であろうが、杜甫の「春望」に投影され顕れている感情「花にも涙をそそぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす」がこの詩の核心だと思われた。
つまりは「山河は残され城にも春は訪れたが、辺りを見回しても浮かんでくるのは悲しみばかり…」というような。この詩で杜甫に反映しているのは「美しい自然の風景」ではなく「戦乱の果ての悲しみばかり」ということか…。
だが、私が小学生の頃に読んだ「青春山脈~火乃家の兄弟」では戦後の焼け野原にも希望を見いだす、それが美しい故郷の自然の存在、といったイメージだったが…?
先日、歴史民俗博物館で見た日本の山河の起伏の激しい地形を利用したダム建設の模様は、「国破れて山河あり❗」とのフレーズが戦後の「アメリカに追いつき追い越せ」という高度成長のためのエネルギー政策を考えさせ、「国は破れたが国土は残されている!」との希望のフレーズが正に日本列島改造論といった形で国土を高度に経済資源化していく流れを想起させた。(観光資源ということでなくエネルギー資源ということね(笑))
白籏史朗さんや津野祐次さんの美しい山岳写真を見るだけでも満足ではあるのだが、そこに山への学識も欲しいと望んでモーリス・エルゾーグの『山岳』全3巻を発注。
T古書店さんで第1巻だけ斜め読みしたときは学術的な論考に「これは欲しいな…単に登山の実践家の思考ではないな」と思い、全巻揃い売りしてる古本屋を探し出した。
編者のモーリス・エルゾーグはウィキペディアで見てみると元々は大学院を卒業した25歳でアルペン猟兵になっている。つまりは彼にとって登山は軍事の技術だったわけだ。エルゾーグの父親もフランス外人部隊だったようだし。
陸軍における山岳戦のために登山の技術が必要だったとは…確かにアルプスやヒマラヤは多くの国境に面していて、他国に侵入するにも他国からの侵入に備えるにも有用だったかも知れないが。
しかし、エルゾーグは後にIOCの役員ともなり、著書『山岳』でも「アルピニズム」を説いている。
「アルピニズム」とは山岳戦のような政治的・軍事的な目的ではなく、純然たる登山を喜び景観を楽しむ精神性を指すようだ。それも単なる山でなく「アルピニズム」というぐらいだから「アルプスやヒマラヤのような」標高が高く登頂の困難な山に挑んでいく精神が「アルピニズム」のようなのだ。
正にアスリートの如くというか、先述のジャン・コストや「そこにエベレストがあるから登るのだ❗」と語ったジョージ・マロリーなどは正にアルピニズムということなのだろう。
困難な山行の果てに山頂で得る強い興奮感・恍惚感は苦痛から脳内麻薬が分泌されるがごとき生物の生体メカニズムを利用した喜びであるのかも知れない。そこには、マズローの欲求5段階説でいえば「他者からの称賛」という「承認欲求・自尊欲求」に重なる形で「快楽物質の分泌」という「生理的欲求」があるに違いない。「山行」という「行為」を「幸福論」から捉え返すとしたならば、だが……。
「アルピニズム」、そこにはイギリスで発祥したという自然の風景そのものを楽しむ「ピクチャレスク」という文化的な要素も多分にあるのではあろうが、実際の「山行」という身体運動で体内に「喜びの分泌物質」を生じさせなければ魅力は半減というわけか…。
言われてみれば、唐の時代の杜甫の「春望」で歌われているのは、ピクチャレスクとは異なる戦の後の感傷なのかも知れない。ピクチャレスクとは「神から人文へ、そして自然からロマンへ」といった近代精神の道を辿り、絵画や写真を対象に据えて鑑賞することで初めて至った人間精神の文化的遺産に違いない。
フランス陸軍における山岳訓練から、軍事から切り離された登山を楽しむ精神が生じたというあたりは、日本の兵法から自らを鍛えることを喜ぶ武道文化が生じたことと通じるのかも知れない。
元々の目的から切り離された喜びを人間は見いだすものだから…人間が生み出した身体運動文化の一つの頂きが「スポーツ」なのかも知れない。
つづく
今回は津野祐次さんの『中央アルプス』。
こういう機会に調べることが無かったならば、南アルプスとか北アルプスとかいっても別に九州や東北に点在してるわけでもなく、すべて日本列島の中部地方に固まっていて日本アルプスを形成してるなんてことすら知らなかったわけだが……。それぐらい山だとか自然の景観に興味関心が無かったわけね、今までは。
こうした映像を見ると私の脳裡に浮かぶのが何故か?「国破れて山河あり❗」のフレーズで。
確か私がこの詩を初めて読んだのは小学3年生の頃の『青春山脈~火乃家の兄弟』。第二次大戦が終わって東京は焼け野原で…という場面での。(ちなみに「火乃家の兄弟」では与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も使われていたが…)
杜甫の「春望」は唐の時代の安禄山の乱が舞台らしいから、現代と随分とイメージが違う。757年の大陸・中国・唐の長安での話と1945年・日本の終戦時とを比較することも困難であろうが、杜甫の「春望」に投影され顕れている感情「花にも涙をそそぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす」がこの詩の核心だと思われた。
つまりは「山河は残され城にも春は訪れたが、辺りを見回しても浮かんでくるのは悲しみばかり…」というような。この詩で杜甫に反映しているのは「美しい自然の風景」ではなく「戦乱の果ての悲しみばかり」ということか…。
だが、私が小学生の頃に読んだ「青春山脈~火乃家の兄弟」では戦後の焼け野原にも希望を見いだす、それが美しい故郷の自然の存在、といったイメージだったが…?
先日、歴史民俗博物館で見た日本の山河の起伏の激しい地形を利用したダム建設の模様は、「国破れて山河あり❗」とのフレーズが戦後の「アメリカに追いつき追い越せ」という高度成長のためのエネルギー政策を考えさせ、「国は破れたが国土は残されている!」との希望のフレーズが正に日本列島改造論といった形で国土を高度に経済資源化していく流れを想起させた。(観光資源ということでなくエネルギー資源ということね(笑))
白籏史朗さんや津野祐次さんの美しい山岳写真を見るだけでも満足ではあるのだが、そこに山への学識も欲しいと望んでモーリス・エルゾーグの『山岳』全3巻を発注。
T古書店さんで第1巻だけ斜め読みしたときは学術的な論考に「これは欲しいな…単に登山の実践家の思考ではないな」と思い、全巻揃い売りしてる古本屋を探し出した。
編者のモーリス・エルゾーグはウィキペディアで見てみると元々は大学院を卒業した25歳でアルペン猟兵になっている。つまりは彼にとって登山は軍事の技術だったわけだ。エルゾーグの父親もフランス外人部隊だったようだし。
陸軍における山岳戦のために登山の技術が必要だったとは…確かにアルプスやヒマラヤは多くの国境に面していて、他国に侵入するにも他国からの侵入に備えるにも有用だったかも知れないが。
しかし、エルゾーグは後にIOCの役員ともなり、著書『山岳』でも「アルピニズム」を説いている。
「アルピニズム」とは山岳戦のような政治的・軍事的な目的ではなく、純然たる登山を喜び景観を楽しむ精神性を指すようだ。それも単なる山でなく「アルピニズム」というぐらいだから「アルプスやヒマラヤのような」標高が高く登頂の困難な山に挑んでいく精神が「アルピニズム」のようなのだ。
正にアスリートの如くというか、先述のジャン・コストや「そこにエベレストがあるから登るのだ❗」と語ったジョージ・マロリーなどは正にアルピニズムということなのだろう。
困難な山行の果てに山頂で得る強い興奮感・恍惚感は苦痛から脳内麻薬が分泌されるがごとき生物の生体メカニズムを利用した喜びであるのかも知れない。そこには、マズローの欲求5段階説でいえば「他者からの称賛」という「承認欲求・自尊欲求」に重なる形で「快楽物質の分泌」という「生理的欲求」があるに違いない。「山行」という「行為」を「幸福論」から捉え返すとしたならば、だが……。
「アルピニズム」、そこにはイギリスで発祥したという自然の風景そのものを楽しむ「ピクチャレスク」という文化的な要素も多分にあるのではあろうが、実際の「山行」という身体運動で体内に「喜びの分泌物質」を生じさせなければ魅力は半減というわけか…。
言われてみれば、唐の時代の杜甫の「春望」で歌われているのは、ピクチャレスクとは異なる戦の後の感傷なのかも知れない。ピクチャレスクとは「神から人文へ、そして自然からロマンへ」といった近代精神の道を辿り、絵画や写真を対象に据えて鑑賞することで初めて至った人間精神の文化的遺産に違いない。
フランス陸軍における山岳訓練から、軍事から切り離された登山を楽しむ精神が生じたというあたりは、日本の兵法から自らを鍛えることを喜ぶ武道文化が生じたことと通じるのかも知れない。
元々の目的から切り離された喜びを人間は見いだすものだから…人間が生み出した身体運動文化の一つの頂きが「スポーツ」なのかも知れない。
つづく