永田広志の『日本唯物論史』を購入。
やはり「唯物論」というのは哲学史の一つの潮流として無視できない。
10代の頃は三浦つとむなどに傾倒したから他の唯物論者には目もくれない、「間違ってる」なんて先入観でいたけれど、齢を重ねてくると大差は無いな、大同小異だと感じてくる。
だから昔は存在は知っていたけど丸で読まなかった永田広志だとか戸坂潤とかも今後は目を通して行きたいと思う。
永田の『日本唯物論史』は徳川時代の安藤昌益や山片蟠桃から明治期の福沢諭吉や加藤弘之なども「唯物論」という視点から考察しているが、「唯物論」と「実証論」とを区別して「西周は実証論に留まり唯物論には行かなかった」と書かれているのは興味深い。
仕事の合間に少しづつ読んでいこう。
それと共に「唯物論的では無い思考」というのも同時に進めて行きたい。
先日、吉田先生にお伺いしたところ「唯物論でもかなりのことが出来ると思うけど、でもあれは二元論だと思うんだよね。」とおっしゃってらした。
吉田先生の『ことばとコミュニケイション』には「唯物論が正しいとすると、今のべたような論法により、ことばとは別の、その表現内容、といったものの影はかなりうすくされてしまうようにみえる。」と書かれている。
私も取り敢えず吉田先生が言っていたように「別に唯物論とか言わなくても、その時々で適切な考え方を用いればいいんじゃないか」と思うわけで。
やはり「唯物論」というのは哲学史の一つの潮流として無視できない。
10代の頃は三浦つとむなどに傾倒したから他の唯物論者には目もくれない、「間違ってる」なんて先入観でいたけれど、齢を重ねてくると大差は無いな、大同小異だと感じてくる。
だから昔は存在は知っていたけど丸で読まなかった永田広志だとか戸坂潤とかも今後は目を通して行きたいと思う。
永田の『日本唯物論史』は徳川時代の安藤昌益や山片蟠桃から明治期の福沢諭吉や加藤弘之なども「唯物論」という視点から考察しているが、「唯物論」と「実証論」とを区別して「西周は実証論に留まり唯物論には行かなかった」と書かれているのは興味深い。
仕事の合間に少しづつ読んでいこう。
それと共に「唯物論的では無い思考」というのも同時に進めて行きたい。
先日、吉田先生にお伺いしたところ「唯物論でもかなりのことが出来ると思うけど、でもあれは二元論だと思うんだよね。」とおっしゃってらした。
吉田先生の『ことばとコミュニケイション』には「唯物論が正しいとすると、今のべたような論法により、ことばとは別の、その表現内容、といったものの影はかなりうすくされてしまうようにみえる。」と書かれている。
私も取り敢えず吉田先生が言っていたように「別に唯物論とか言わなくても、その時々で適切な考え方を用いればいいんじゃないか」と思うわけで。