哲学以前

日々の思索を綴ります

学城の国家論

2017-04-27 04:32:44 | 日記
届いたばかりの『学城』第15号には「滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(2)」(以下(2))という論文が掲載されている。

執筆者の一人である近藤さんは本業が医師で腎臓透析を専門としているらしいことが分かっているが、もう一人の加納さんは全く不明の人物だ。

それにしても本業の合間にやっつけ仕事で書き上げた感の否めない論文ではある。

「滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(1)」(以下(1))が発表されたのが2011年であるから(1)が発表されてから(2)が発表されるまで実に5~6年も経っていることになる。

この『学城』第15号ではこの「(2)」と、もう一つ「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)」という論文が掲載されているが、忘れた頃に思い出したように国家論やロシア革命について論じ始めた理由については私も思い当たることがある。

それはともかく、「(2)」では余り滝村の著書を詳細に検討した形跡は見られず、相変わらず「国家とは何か?」という一般的な規定を滝村が提示していないということを責め立てている。

そして近藤&加納の両人自身は「国家とは、社会の自立的実存形態である」などという頓珍漢な規定を出している。

だが、私に言わせれば国家というのは言わば「統治された社会」もう少し砕けた言い方をすれば「治められた社会」とでもいうものだろう。

「治められた社会」なわけだから「治められている形態」=「国体(国家形態)」も問われるわけで「王制(専制)」だとか「貴族制」だとか「共和制」だとかあるわけだ。

言わば企業でいうなら「ワンマン経営」だとか「共同経営」だとかの「指揮命令」の形・組織化の形が色々とあるわけで。

それが換言するならば「主権」というわけで、「君主主権」だとか「国民主権」だとかある。それは社会の中に主従関係というか指揮命令の組織化が生じたことになるだろう。

近藤&加納の「自立的実存形態」の「自立的」というのは主権が自国内にあるということを想定しての言語化だろうが、そうすると「植民地」だとか「傀儡政権」というのは国家では無いということになってしまう。

確かに現代の価値観では主権は自国内にあるべきだという考えが主流であろうが、そうすると植民地支配されていた当時のインドやアフリカは国家では無いことになってしまう。

それは言わば「人間の手足は脳神経による指令がないと機能できず、手や足として独立に動くことが出来ないから人間の身体では無い」という暴論と一緒だろう。

ヘンリー六世はその血筋からイギリス王とフランス王を兼ねていたらしいが、そうするとその当時のフランスはイギリスから独立に自立していないから国家では無かったということになってしまう。

やはり近藤&加納の暴論は棄却して「治められていれば国家」だと考えるべきだろう。

その上で「統治機能を自国内に持つ」ということの必要性は問われるわけで、それは国家か否かかの問題とは相を異にする。


学城

2017-04-26 11:22:20 | 日記
『学城』第15号が届けられた。
年に一冊刊行されているから既に15年もの月日が経ったことになる。大変な事である。

『学城』といえば南郷さんだが、最近ネット検索すると全国の古本屋で既刊の南郷全集11冊がまとめて売りに出しているところが沢山ある。

購入していた読者で手放した者が沢山いるようだ。3巻と13巻を除く11冊だから全巻揃うのを待つことなく手放すに至ったのには、三一書房の既刊本には掲載されていなかった未発表の論考が『武道哲学講義』として発売されるようになったからのようだ。

これから発売される全集第3巻と第13巻は丸々の書き下ろしらしいから『武道哲学講義』の発刊で売り上げが落ちることは無いのかも知れないが、全集刊行途中で全集の目玉の企画を別に切り売りするというのは珍しくないものなのだろうか?

限定2500部だったか?そんな限定にも余り価値は無かったようだ・・・

唯物論

2017-04-25 10:51:00 | 日記
永田広志の『日本唯物論史』を購入。

やはり「唯物論」というのは哲学史の一つの潮流として無視できない。

10代の頃は三浦つとむなどに傾倒したから他の唯物論者には目もくれない、「間違ってる」なんて先入観でいたけれど、齢を重ねてくると大差は無いな、大同小異だと感じてくる。

だから昔は存在は知っていたけど丸で読まなかった永田広志だとか戸坂潤とかも今後は目を通して行きたいと思う。

永田の『日本唯物論史』は徳川時代の安藤昌益や山片蟠桃から明治期の福沢諭吉や加藤弘之なども「唯物論」という視点から考察しているが、「唯物論」と「実証論」とを区別して「西周は実証論に留まり唯物論には行かなかった」と書かれているのは興味深い。

仕事の合間に少しづつ読んでいこう。

それと共に「唯物論的では無い思考」というのも同時に進めて行きたい。

先日、吉田先生にお伺いしたところ「唯物論でもかなりのことが出来ると思うけど、でもあれは二元論だと思うんだよね。」とおっしゃってらした。
吉田先生の『ことばとコミュニケイション』には「唯物論が正しいとすると、今のべたような論法により、ことばとは別の、その表現内容、といったものの影はかなりうすくされてしまうようにみえる。」と書かれている。

私も取り敢えず吉田先生が言っていたように「別に唯物論とか言わなくても、その時々で適切な考え方を用いればいいんじゃないか」と思うわけで。


アリとキリギリス

2017-04-15 20:52:37 | 日記
アリとキリギリスの故事を提示された。

アリとセミでも構わないわけだが・・・。

そこから改めて、アリとキリギリスの「同じ身体運動」、「同じ食事から取ったエネルギーで体を動かす」ということでも未来の自身の生活に結びついていく行動とそうでない行動との区別を意識させられた。

端的には、現在の自身の勉学を非公開にしておくのと垂れ流しにしているのとの違いである。

垂れ流しにしておけば、「情報」は空気のように周囲にあるのが当然だから対価を支払う必要はない。

だが、当たり前のように垂れ流しにされていないからこそ代金を支払って購入する価値がある。

人間の知的能力もそうである。

「医学、医療」という専門領域を選んだなら患者を改善させるという現実的な効果を何よりも求めて行くのが当然である。

だが、「医学、医療」を離れたならば「宇宙はどうなっているのだろう?」といった「それを知ってどうなる?」という知的世界も人間にはあるものだ。

「知ること自体」に価値があるのであって、知ったことを生活の実用に活用することはまた別のこと、という領域も勿論ある。

そうした、学術的には所謂「理学」にあたるような面の必要性を訴えるためにシバシバ「プラグマティズム」の否定論が提示される。

だが、インドや中国で治療のためにアーユルヴェーダや中医学で脈診を重んじられたようにギリシャや西洋ではヒポクラテスの体液説と共に脈診が重視された過去の事実が存在する。

その脈で診断するという方法が西洋で捨て去られるようになった経緯を学ぼうともせず、漢方の知識に甘んじようとする態度は「世界史を拒み中国史を絶対視するナショナリズムの学徒」と呼ばれるものかも知れないし、「何が原点か、阿呆か!プラグマティズムは尊いのだ」と師の腰巾着の馬鹿な看護師を捨て去る勇気を持つことだろう。

勉強しないで師への阿諛追従で生きようとした愚かな看護師が「原点」とか叫び、ナイチンゲールなどの古典にすがろうとする。

呼吸をすることは許可しているのだ、学術的には愚かでも。

だからアジアやアフリカが動物や植物とヘーゲルに同視された過去がある。

いわく「歴史性の無い者は豚である!」



他者を束縛しようとする思考癖

2017-04-15 17:11:00 | 日記
「~してはいけない」という言い回しがある。

それは多分に古代や中世の未開というか無知の世界に氾濫していたものではないかという感じがする。

要するに「知らない、分からない」というわけだ。

だから学問を修めることがリベラルアーツで自由への道だと捉えられもしたのだろう。

ここに二つに分かれる道があるとして、一方が具象的な絵画を描く道、もう一方が抽象というか言語を駆使して思考する道だとして、どちらに行けば良いのか?どちらに行くのが正解で反対に行くのが不正解なんてことがあるのか?

もしも、この二つに分かれる道を分かれない道として用意してくれていた先人があったなら、具象と抽象の両方に関わりながら歩いて行くことが出来るだろう。

抽象絵画は確かに20世紀に具象的絵画から派生されたものかも知れないが、派生してしまったからには抽象絵画を専門に学んで更に未来に推し進めることが可能なのではないだろうか?

人間が作ったものには概して「元にあったもの、貰ってきた元のもの」というものがあるわけだが、他のものとして完成されている暁には元が何だったのかを改めて詮索するのは歴史好きな人間の道楽に過ぎないこともある。

むしろ現在が不完全で曖昧だからこそ過去に遡って岐路を確認したい欲求が生じるのであり、