届いたばかりの『学城』第15号には「滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(2)」(以下(2))という論文が掲載されている。
執筆者の一人である近藤さんは本業が医師で腎臓透析を専門としているらしいことが分かっているが、もう一人の加納さんは全く不明の人物だ。
それにしても本業の合間にやっつけ仕事で書き上げた感の否めない論文ではある。
「滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(1)」(以下(1))が発表されたのが2011年であるから(1)が発表されてから(2)が発表されるまで実に5~6年も経っていることになる。
この『学城』第15号ではこの「(2)」と、もう一つ「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)」という論文が掲載されているが、忘れた頃に思い出したように国家論やロシア革命について論じ始めた理由については私も思い当たることがある。
それはともかく、「(2)」では余り滝村の著書を詳細に検討した形跡は見られず、相変わらず「国家とは何か?」という一般的な規定を滝村が提示していないということを責め立てている。
そして近藤&加納の両人自身は「国家とは、社会の自立的実存形態である」などという頓珍漢な規定を出している。
だが、私に言わせれば国家というのは言わば「統治された社会」もう少し砕けた言い方をすれば「治められた社会」とでもいうものだろう。
「治められた社会」なわけだから「治められている形態」=「国体(国家形態)」も問われるわけで「王制(専制)」だとか「貴族制」だとか「共和制」だとかあるわけだ。
言わば企業でいうなら「ワンマン経営」だとか「共同経営」だとかの「指揮命令」の形・組織化の形が色々とあるわけで。
それが換言するならば「主権」というわけで、「君主主権」だとか「国民主権」だとかある。それは社会の中に主従関係というか指揮命令の組織化が生じたことになるだろう。
近藤&加納の「自立的実存形態」の「自立的」というのは主権が自国内にあるということを想定しての言語化だろうが、そうすると「植民地」だとか「傀儡政権」というのは国家では無いということになってしまう。
確かに現代の価値観では主権は自国内にあるべきだという考えが主流であろうが、そうすると植民地支配されていた当時のインドやアフリカは国家では無いことになってしまう。
それは言わば「人間の手足は脳神経による指令がないと機能できず、手や足として独立に動くことが出来ないから人間の身体では無い」という暴論と一緒だろう。
ヘンリー六世はその血筋からイギリス王とフランス王を兼ねていたらしいが、そうするとその当時のフランスはイギリスから独立に自立していないから国家では無かったということになってしまう。
やはり近藤&加納の暴論は棄却して「治められていれば国家」だと考えるべきだろう。
その上で「統治機能を自国内に持つ」ということの必要性は問われるわけで、それは国家か否かかの問題とは相を異にする。
執筆者の一人である近藤さんは本業が医師で腎臓透析を専門としているらしいことが分かっているが、もう一人の加納さんは全く不明の人物だ。
それにしても本業の合間にやっつけ仕事で書き上げた感の否めない論文ではある。
「滝村隆一『国家論大綱』をめぐって(1)」(以下(1))が発表されたのが2011年であるから(1)が発表されてから(2)が発表されるまで実に5~6年も経っていることになる。
この『学城』第15号ではこの「(2)」と、もう一つ「ロシアにおける社会主義革命の誤りとは何であったか(1)」という論文が掲載されているが、忘れた頃に思い出したように国家論やロシア革命について論じ始めた理由については私も思い当たることがある。
それはともかく、「(2)」では余り滝村の著書を詳細に検討した形跡は見られず、相変わらず「国家とは何か?」という一般的な規定を滝村が提示していないということを責め立てている。
そして近藤&加納の両人自身は「国家とは、社会の自立的実存形態である」などという頓珍漢な規定を出している。
だが、私に言わせれば国家というのは言わば「統治された社会」もう少し砕けた言い方をすれば「治められた社会」とでもいうものだろう。
「治められた社会」なわけだから「治められている形態」=「国体(国家形態)」も問われるわけで「王制(専制)」だとか「貴族制」だとか「共和制」だとかあるわけだ。
言わば企業でいうなら「ワンマン経営」だとか「共同経営」だとかの「指揮命令」の形・組織化の形が色々とあるわけで。
それが換言するならば「主権」というわけで、「君主主権」だとか「国民主権」だとかある。それは社会の中に主従関係というか指揮命令の組織化が生じたことになるだろう。
近藤&加納の「自立的実存形態」の「自立的」というのは主権が自国内にあるということを想定しての言語化だろうが、そうすると「植民地」だとか「傀儡政権」というのは国家では無いということになってしまう。
確かに現代の価値観では主権は自国内にあるべきだという考えが主流であろうが、そうすると植民地支配されていた当時のインドやアフリカは国家では無いことになってしまう。
それは言わば「人間の手足は脳神経による指令がないと機能できず、手や足として独立に動くことが出来ないから人間の身体では無い」という暴論と一緒だろう。
ヘンリー六世はその血筋からイギリス王とフランス王を兼ねていたらしいが、そうするとその当時のフランスはイギリスから独立に自立していないから国家では無かったということになってしまう。
やはり近藤&加納の暴論は棄却して「治められていれば国家」だと考えるべきだろう。
その上で「統治機能を自国内に持つ」ということの必要性は問われるわけで、それは国家か否かかの問題とは相を異にする。