実家の本棚からトルストイの『人生論』を引っ張り出してきた。
日付をみると1978年になっているから父親が買ったものか、あるいは兄貴が購入したものか?
しかし、兄貴だとしたら小学生の頃だから、いくらなんでも早熟すぎるだろう。やはり親父の本かも知れない。
そういえば、私が子供の頃には自宅に理論社の『トルストイの子どものための本』なんかが全巻セットで置いてあったから、両親の私たち兄弟への想いがあったのかも知れない。それが、こんな穀潰しに育ってしまって申し訳なくて仕方がないが。
トルストイを出してきたのは出隆の『哲学青年の手記』にトルストイが出てくるから。出隆も十代の頃にトルストイを読んだようだ。
『出隆自伝』は出が69歳のときの口頭インタビューだから、十代の頃の状況が赤裸々に語られているとは考えにくい。
思想的な転向もし、共産党に入党したり、各所から様々な批判もされ、激動の心の旅を果たした古稀の男が思春期のままの精神であるとは到底考えられぬから。
それが、『出隆自伝』の自嘲気味な語りになっているように思われて仕方ない。
『出隆自伝』では旧制六高のときに教頭だった岡野義三郎にシュベーグラーの『西洋哲学史』を講義されたと述べているが、たった三回で、それもデカルトだったというから近代日本・明治期の人間として自我の確立あたりから学ばせようとの教師側の思惑があったかも知れない。シュベーグラーというのは全く関係ない話だったわけだ。
十代の頃に出は「哲学は歴史でもなければ科学でもない」と記しているから、歴史哲学は出隆にとって本意ではない。
おそらくは出隆が哲学に「智恵を求める愛の努力」と規定するに至った過程にはトルストイの影響もあったと想像される。
「文豪」と呼ばれ「思想家」だともされるトルストイの『人生論』はパスカルやカント、そしてヨハネ伝の言葉を冒頭に掲げているが、その根幹は「幸福」であり「愛」だという。
もしも「哲学」という人間の思索の根幹に「愛」というものがあるならば、物理学だとか化学といった自然科学にも「愛」はあるのだろうか?
そうした「愛」が現象するのは、やはり「テクノロジー化」といった製品化の過程だろうか?
分かりやすい例として原子爆弾を考えてみる。
原子爆弾に関する物理学者たちの発言内容。アインシュタインに「愛」はあるか?
オッペンハイマーに「愛」はあるか?
西田幾多郎の『善の研究』のエピローグのようなものに「知と愛」なる論考があるという。
「知即愛、愛即知」と…。
つづく
日付をみると1978年になっているから父親が買ったものか、あるいは兄貴が購入したものか?
しかし、兄貴だとしたら小学生の頃だから、いくらなんでも早熟すぎるだろう。やはり親父の本かも知れない。
そういえば、私が子供の頃には自宅に理論社の『トルストイの子どものための本』なんかが全巻セットで置いてあったから、両親の私たち兄弟への想いがあったのかも知れない。それが、こんな穀潰しに育ってしまって申し訳なくて仕方がないが。
トルストイを出してきたのは出隆の『哲学青年の手記』にトルストイが出てくるから。出隆も十代の頃にトルストイを読んだようだ。
『出隆自伝』は出が69歳のときの口頭インタビューだから、十代の頃の状況が赤裸々に語られているとは考えにくい。
思想的な転向もし、共産党に入党したり、各所から様々な批判もされ、激動の心の旅を果たした古稀の男が思春期のままの精神であるとは到底考えられぬから。
それが、『出隆自伝』の自嘲気味な語りになっているように思われて仕方ない。
『出隆自伝』では旧制六高のときに教頭だった岡野義三郎にシュベーグラーの『西洋哲学史』を講義されたと述べているが、たった三回で、それもデカルトだったというから近代日本・明治期の人間として自我の確立あたりから学ばせようとの教師側の思惑があったかも知れない。シュベーグラーというのは全く関係ない話だったわけだ。
十代の頃に出は「哲学は歴史でもなければ科学でもない」と記しているから、歴史哲学は出隆にとって本意ではない。
おそらくは出隆が哲学に「智恵を求める愛の努力」と規定するに至った過程にはトルストイの影響もあったと想像される。
「文豪」と呼ばれ「思想家」だともされるトルストイの『人生論』はパスカルやカント、そしてヨハネ伝の言葉を冒頭に掲げているが、その根幹は「幸福」であり「愛」だという。
もしも「哲学」という人間の思索の根幹に「愛」というものがあるならば、物理学だとか化学といった自然科学にも「愛」はあるのだろうか?
そうした「愛」が現象するのは、やはり「テクノロジー化」といった製品化の過程だろうか?
分かりやすい例として原子爆弾を考えてみる。
原子爆弾に関する物理学者たちの発言内容。アインシュタインに「愛」はあるか?
オッペンハイマーに「愛」はあるか?
西田幾多郎の『善の研究』のエピローグのようなものに「知と愛」なる論考があるという。
「知即愛、愛即知」と…。
つづく