6月11日(金)、駐大阪総領事館から栄誉証書(記念奨)が記念品と共に事務局に届きました。
会長の、島根で33年・岡山で42年の人生の内『65年間にわたる華僑運動』に身を捧げた実録をまとめたものを、駐大阪総領事館が4月に募集していた「わたしから見る中国」作文コンクールに応募したものです。
提出作文を日文・中文で以下に紹介します。
華僑運動をなぜ65年間も継続出来たのか!?
私の両親は、90年前祖国福建省福清県高山市後地村から、生きる為、先輩を頼りに日本・島根県出雲市へやって来た。
先輩に資金・行商の方法の指導を受け、自転車に京都から仕入れた反物を積み、中国山脈の山中の家を一軒一軒回り行商を行い、反物の注文を受け、故郷から呼び寄せた妻が注文品を縫い、1ヶ月から2か月かけて商品を完成させ、注文宅へ届けた。お金又はお米などの報酬を受け取り、財産を築き出雲で独立。島根の華僑は、東部では大東町から松江・出雲で独立。西部では、温泉津から浜田で独立。
少し生活が安定すると子供に恵まれ、にぎやかな世帯があちこちに・・・。一世の親たちは、字が書けない読めない同胞がほとんど。台湾から来日していた留学生を招いて寺小屋のような民族学校を開き、祖国の言葉を子供たちに学ばせた。しかし、財政が不足したため、学校は数年で閉鎖。
中日戦争が拡大すると同時に、在日同胞への差別もひどくなり、生きる為家族の為に行商を行う一世に対して日本の警察は監視を強化し、スパイ事件のでっち上げも発生。警察署で拷問により、死んでいった同胞もいた。私も、父親から行商中の出来事を聞かされた。警察官から呼び止められ、「あいうえお」を言えと強要された。警察官のいう言葉も理解できないので、戸惑っていると、「お前シナ人か!」と同時に猛烈なビンタをくらった事など・・・。
ニクソン米国大統領がベトナムへの絨毯爆撃を続けていた時、父親は新聞に載っていた
ニクソンと日本の佐藤総理の写真を、怒りを込めて強く指でつつく様子を何度も見ていた。
私は、日本の学校へ行き、小学校・中学校では全員名札をつけねばならず、苗字が「劉」「李」「王」の中国人の子供は皆いじめ対象で、『シナ人!なぜ日本の学校へ来るのか!!』と罵声を浴びたり、石を投げられたり、重たいものを敢えて持たされたりのいじめを受けていた。私はある日いじめが酷くて、家を出たが学校へは行かず、斐伊川土手で授業が終わるまで過ごした事もあった。それが1週間続いていた時、担任が欠席している事を不思議に思い、家庭訪問をした。学校に行っていない原因が、いじめと差別である事を知ることになり翌日、教室で一応担任からの注意はあったが、より陰湿になっていった。
当時は、日本と台湾政府の国交があり、日本各地は台湾系の華僑総会一色。島根でも台湾の金持ちが万年会長になっていた。選挙もしない島根華僑総会の会長に対し、私たちはまず、福建省出身の青年たちに呼びかけ「島根福建青年会」を結成。その後、他の出身省の青年に呼びかけ「島根華僑青年会」と改めた。その青年たちが島根全体の華僑の同胞に呼びかけ、大人の組織「島根華僑総会」の会長を民主的に選ぼうと呼びかけ、正式な選挙を実施した。福建省出身の郭家章先生を会長に選出した。
祖国・中華人民共和国の国連復帰の慶祝大会を島根でも企画し、当時のLT貿易代表団の祖国代表・王作田先生と東京華僑総会副会長・博仁先生を招き、出雲商工会議所で、直良出雲市長はじめ来賓と、愛国華僑の祝賀会を盛大に行った。
島根県の各界の皆様に、社会主義祖国を理解していただく為「島根中華書店」を、東京の中華書店代表・陳先生の支援で開店、人民中国・中国画報・北京週報の三誌を扱った。北京から珍しい貴重な切手が貼られて届くので、愛読者が増え、島根の三誌愛読者の契約数が日本で1位になった。
また、祖国の「農業は大寨に学び、工業は大慶に学ぶ」の影響を受け、我々華僑青年は学校を終えると、農繁期の土日に出雲市郊外に自転車で出かけ、人数が少ない農家の田植え・収穫の時期に農民の中に飛び込んで農作業を手伝った。農家の人はびっくりされ、「あんたは農業高校の生徒さん?」と不思議がられ、中国青年とわかるとさらにびっくりされた。「自分の子供は手伝わないのに・・・・・。」
手伝いが終了したら、あぜ道で「我愛北京天安門」の歌と踊りを披露した。祖国の青年に負けない様「人民に奉仕する」「愚行山を移す」「愛国主義と国際主義」の精神が載っている老三編を学習し、島根の青年の行動に対し、東京をはじめとする各地の愛国青年から「島根精神に学ぼう」という運動に広がっていった。
島根の同胞一世二世30名で、初めての祖国訪問団を結成。香港経由で福建省への祖国訪問を行った。
東京華聯旅行社を利用しないで、自分たちが直接広東省中國旅行社と直接交渉し、「団」を実現したことに東京華僑総会の華聯旅行社は怒った。東京から、島根華僑総会当時の葉会長に抗議の横やりが入ったが、同胞は我々青年を信頼し、祖国訪問が実現。
さらに、島根各界県民に対し、中四国初の島根県民の友好の翼120名の訪問をサポートし、実現。
当時の祖国政府としては、島根県知事の姿勢が最重要で、島根県議会での発言を重視していた。自由民主党島根県議会議員・宇津徹男氏(のちの浜田市長)と協力し、島根県知事・常松制治氏の「覇権事項」に対する考えを大使館へ報告し、実現した。
33年間の島根生活から1979年岡山へ。
神戸の愛国華僑・盧徳財先生の会社の一つである、中国料理「岡山八仙閣」の支配人として働く事になる。
島根時代、中四国地方の愛国組織を拡大する為、郭矗領事の指示で、中国四国地方のブロック組織を作った。当時岡山には愛国組織はなく鄭宝全先生一人で「聯絡処」として活躍されていた。祖国洛陽市と岡山市の都市縁組の機運が持ちあがり、岡山華僑総会を構築するのに280名の同胞宅を、3年間かけて一軒一軒回り意識調査を行い、同胞の熱意で組織を作り「祖国代表団を迎えよう」との合言葉で岡山華僑総会を1981年結成(津山・東姫楼於)。
初代会長に、広東省出身の鄭宝全先生、2代目会長に山東省出身の由三民先生、3代目会長に福建省出身の劉道雄先生、4代目会長に私がなり、現在1万名の同胞のサポートを行っている。
祖国とのつながりは、大使館・総領事館であるが、島根時代に初めて東京に大使館が設置。1972年9月29日の中日国交正常化以後、外交官の歴代の方々と交流がある。
岡山と四国を結ぶ瀬戸大橋が完成した33年前には、祖国の指導者が岡山にやって来た。当時私が会長をしていた縁で、普通なら会うことの出来ない多くの方々にお会いできた。
岡山空港では、李鵬首相・江沢民首相・JR岡山駅で、朱鎔基首相とお会いした。特に朱首相は、岡山駅の中国人による熱烈歓迎の前を通り過ぎてから再び戻って来られ、私の前で『老劉!!』と声を張り上げ、手を強く握り大きく手を振って頂いた事は今でも忘れられない思い出である(通訳の熊波氏の口添えで実現)。
ある総領事の岡山県内訪問地での挨拶文のチェック依頼があり、FAXでやり取りを行い、当時の秘書の仕事を代わりにしたこともある。
中文を日本語に翻訳する際、堅くるしい翻訳は読む人に理解してもらえず、心に響く文章にしなくてはいけない。
我々華僑にとり、大使館・総領事館との太いパイプが必要。
外交官は、共通する目的(愛国・団結、中日友好、祖国統一)に向かって華僑のリーダーと組織を強化する為、奮闘していただきたい。各地の実情を知ることが第一! 古い友人を大切にする事、地道に活躍している仲間を大事に。
中国共産党の100年の歴史。今や祖国は巨大になっている。巨大になっても謙虚に・・・。
世界のリーダーとしての自覚・責任も強調したい。
世界中に在住する華僑華人の一人として、心は祖国に目は世界に向け人民に奉仕する精神で奮闘する日々である。
我眼中的故乡(中国)
为什么能65年下来坚持华侨运动!?
90年前,我的双亲为了生计,从祖国福建省福清县高山镇后地村来到日本·岛根县出云市投靠老乡(前辈们)。
前辈们教资金运营·经商的方法,把从京都进的布匹装在自行车上,去日本中国地区的山里,一家一家的卖,有的客人要买缝好的衣服,就让从故乡来的妻子缝制,花一,两个月时间做好,再送到客人家,换钱换米作为报酬,就这样积攒下财富后,在出云落下脚来。岛根的华侨,东部从大东町到松江·出云一带落下脚,西部从温泉津到滨田一带落下脚。
生活稍作安定后,有了孩子,各家各户也就热闹起来了……。第一代的父母,很多字都不会写,也不会读。于是,请了台湾来日本留学的留学生当老师,开了像寺庙小屋式的民族学校,让孩子们学祖国的语言。但是,由于财政问题,学校没几年就关了。
战火纷飞时,在日同胞受到的歧视也越来越严重,为了生计为了家庭而经商的第一代,日本警察加强了对他们的监视,还制造了莫须有的间谍事件。在警署被拷问致死的同胞也有。我也从我的父亲那里听到了一些经商中发生的事。说是被警察叫下,强行要你说日语的“あいうえお”。父亲连警察说的话都听不懂,愣在那儿时,警察一边就骂起来了:“你是支那人啊!”,一边就往父亲脸上狠狠地打了一巴掌……等等。
美国总统尼克松下令对越南继续实行毛毯式轰炸时,父亲看着报纸上尼克松和日本佐藤首相的照片,非常生气的用手指搓着他们。这样的场景我见到过好多次。
我上的是日本的学校,小学中学大家都要带名字牌,姓刘,姓李,姓王的中国人的孩子全成为了被欺负的对象,“支那人为什么到日本的学校来!!”,被骂被扔石头,有的就故意要你拿重的东西。有一天,我实在受不了霸凌,出家门后没有去学校,坐在斐伊川的堤坝上一直等到放学时间后才回家。这样持续了一周,班主任就觉得奇怪,怎么一周都没来上学,就去我家做了家访。当班主任知道了我不想去学校的原因是由于受到同学的霸凌和歧视所造成时,第二天,就在班里注意了一下,然而霸凌越发变得阴险了。
当时,日本和台湾有邦交,日本各地都是清一色的台湾系华侨总会。在岛根,台湾的有钱人一直连任会长。我们就向没有经过选举当上岛根华侨总会的会长提出,通过正式的选举,民主地选出会长的要求。首先,召集福建来的青年们结成“岛根福建青年会”,然后,再召集其他省份的青年们结成“岛根华侨青年会”。青年会再呼吁岛根全体的华侨同胞通过民主选举选出“岛根华侨总会”的会长,最后福建省的郭家章先生当选。
祖国·中华人民共和国回归联合国时,在岛根也举办了庆祝大会,我们邀请了当时的LT贸易代表团的祖国代表·王作田先生和东京华侨总会副会长·博仁先生,在出云商工会议所,爱国华侨们和以直良出云市长为首的来宾们一起举行了盛大的祝贺会。
为了让岛根的各界人士理解社会主义祖国,在东京中华书店代表·陈先生的支援下,开了“岛根中华书店”,发售人民中国·中国画报·北京周报。从北京寄来的读物邮包上贴有珍贵的邮票,因此爱读者也越来越多,岛根的这三种杂志的购读者人数当时在日本排第一位。
此外,受祖国“农业学大寨,工业学大庆”的影响,我们华侨青年在课外,农忙时节的周末骑自行车去出云市郊,去帮手很少的农家,在种田和收割的季节,融入他们之中帮他们耕作。农民们都很惊讶,“你们是农业高中的学生?”,而且知道我们是中国人之后就表示更惊讶了,说“自己的孩子都不帮忙干农活,然而你们却会帮忙……”。
干完农活后,我们在田埂上还载歌载舞地唱起了“我爱北京天安门”。为了不输给祖国的青年,我们学习老三篇“为人民服务”,“愚公移山”,“纪念白求恩”,以东京为首的日本各地的爱国青年看到岛根青年的行动后,发起了学习岛根精神的运动。
岛根的第一代第二代的30位同胞,还组成了祖国访问团。经由香港到福建省对祖国进行了访问。
由于没有通过东京华联旅行社,我们直接找了广东省的中国旅行社成团,东京华侨总会的华联旅行社当时就很生气。东京那边,向当时的岛根华侨总会的叶会长表示了抗议。但是,同胞们信赖我们青年,最终实现了祖国访问。
而且,我们还对由岛根县各界县民组成的120名的中四国地区首批岛根县民友好之翼访问提供了帮助,并实现了访问。
当时,对我们祖国政府来说,最重要的是岛根县知事的姿态,最关心的是岛根县议会上的发言。在自由民主党岛根县议会议员·宇津徹男氏(之后的滨田市市长)的帮助下,我们向大使馆作了岛根县知事·常松制治氏的关于对“霸权事项”的看法的报告。
1979年,我从生活了33年的岛根来到冈山。
到神户爱国华侨·卢德财先生的其中一家公司,中国料理“冈山八仙阁”做起了大堂经理。
在岛根时期,为了扩大中四国地区的爱国组织,在郭矗领事的指示下,成立了中国四国地区的地方组织。当时在冈山没有爱国组织,只有郑宝全先生一个人当联络员。祖国洛阳市和冈山市成为友好交流城市之际,我们为了成立冈山华侨总会,花了3年时间,去到280名同胞的家里,一家一家的走访,听取意见,在同胞的热烈拥护下,以“欢迎祖国代表团” 为口号,在1981年成立了冈山华侨总会(于 津山·东姬楼)。
初代会长,是来自广东省的郑宝全先生,第2代会长来自山东省的由三民先生,第3代会长来自福建省的刘道雄先生,第4代会长由我当选,现在服务于1万多名的同胞。
大使馆·总领事馆是我们与祖国链接的桥梁,在岛根时期,东京首次设立了大使馆。1972年9月29日中日邦交正常化以后,我和历代的外交官们都有所交流。
33年前,连接冈山和四国的濑户大桥竣工时,祖国的领导们也来到了冈山,当时托了是当会长的福,有幸见到了一般见不到的国家领导们。
在冈山机场我见到过李鹏国务院总理·江泽民总书记。在冈山车站我见到过朱熔基国务院总理。特别是见到朱熔基国务院总理时,他走过热烈欢迎的人群后,又折返回来,来到我的面前,大声地叫着我的名字“老刘!”,紧紧地握住我的手,这场景令我终身难忘。(这还要谢谢翻译 熊波氏在总理耳边提到了我)。
有一任总领事准备来访冈山县,在准备讲演稿时,通过传真,还叫我帮忙修稿,也是做了一回相当于总领事秘书的工作了吧。
把中文翻译成日文时,如果翻译得太死板的话,不容易理解,需要翻译成能震撼人心的文章才行。
对我们华侨来讲,和大使馆·总领事馆保持密切关系很有必要。
我希望外交官们能朝着我们共同的目标(爱国·团结,中日友好,祖国统一),为强化华侨领袖和组织而奋斗。了解各地的实际情况第一! 珍重老朋友,珍重踏踏实实地在活跃的朋友。
中国共产党100年的历史。现在祖国强大了,但也要始终保持谦虚……。
明确作为世界大国领导的自觉和责任。
我作为居住在世界各地的华侨中的一员,心向祖国,放眼世界,秉着为人民服务的精神,每一天都在奋斗着!