信長は弱者だと、ウソだろ!
戦国武将の人気ランキング、ナンバーワン。大河、NHKに、何度も登場。
「天下布武」、革命、新しい時代を切り拓いた男、これ、とても弱い男とは言わないだろう。だが、その始まりは?
なるほど、です。
参考^_^^_^^_^
戦国を切り抜けた信長に学ぶ、弱者の戦い方
(本記事は、橋場 日月氏の著書『戦略は日本史から学べ』クロスメディア・パブリッシングの中から一部を抜粋・編集しています)
■周到な準備と思いきった行動はセットになってこそ活きる
●敵味方の力を冷静に客観的に見定めて、意地や見栄を捨てる
長篠の戦い以前、織田信長は武田家と正面切って戦ったことはない。こんなエピソードを紹介しておこう。信長は贈り物を武田家に贈り続け、同盟を乞うた。信玄の家臣たちは「信長は信用できない人物です」と警告したが、信玄は「自分もそう思ったので、贈り物を入れて来た箱の角を削らせてみたのだが、どれを削ってもすべて幾重にも漆を塗り重ねた極上の容器だった。これは我が家に対する誠意の表れだろう」と永禄8年(1565)、信長との同盟に踏み切ったという(『甲陽軍鑑』『総見記』ほか)。この頃の信長はやっと尾張国(現在の愛知県西部)を統一するかどうかというタイミングで、隣接する美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤龍興(さいとうたつおき)を牽制するために、信濃国(現在の長野県)で龍興と国境を接する強豪の信玄とは何をさしおいても厚誼(こうぎ)を結んでおきたかったのだ。
ちなみに、信長は越後国(現在の新潟県)の上杉謙信にも、その前年に息子を養子として貰ってほしいと懇願し、謙信が承諾すると「まことに面目の至りに候」とゴマをすった(信長書状)。さらに、天正2年(1574)には有名な「洛中洛外図屏風」に参内する謙信の晴れ姿まで描きこませてプレゼントしている。
後略