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さしあたり、与えられた環境、条件のもとで、本気で闘う。本気で、だ。

選択、舵取り

人任せ、そうして、ぶうたれる。
それより、急ぎ、やることがある!

信長公が弱者だと!

2020-07-30 17:15:00 | 一億円目標、生意気になりたい、ボンビー

信長は弱者だと、ウソだろ!

戦国武将の人気ランキング、ナンバーワン。大河、NHKに、何度も登場。


「天下布武」、革命、新しい時代を切り拓いた男、これ、とても弱い男とは言わないだろう。だが、その始まりは?

なるほど、です。


参考^_^^_^^_^

戦国を切り抜けた信長に学ぶ、弱者の戦い方



(本記事は、橋場 日月氏の著書『戦略は日本史から学べ』クロスメディア・パブリッシングの中から一部を抜粋・編集しています)

周到な準備と思いきった行動はセットになってこそ活きる

敵味方の力を冷静に客観的に見定めて、意地や見栄を捨てる

長篠の戦い以前、織田信長は武田家と正面切って戦ったことはない。こんなエピソードを紹介しておこう。信長は贈り物を武田家に贈り続け、同盟を乞うた。信玄の家臣たちは「信長は信用できない人物です」と警告したが、信玄は「自分もそう思ったので、贈り物を入れて来た箱の角を削らせてみたのだが、どれを削ってもすべて幾重にも漆を塗り重ねた極上の容器だった。これは我が家に対する誠意の表れだろう」と永禄8年(1565)、信長との同盟に踏み切ったという(『甲陽軍鑑』『総見記』ほか)。この頃の信長はやっと尾張国(現在の愛知県西部)を統一するかどうかというタイミングで、隣接する美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤龍興(さいとうたつおき)を牽制するために、信濃国(現在の長野県)で龍興と国境を接する強豪の信玄とは何をさしおいても厚誼(こうぎ)を結んでおきたかったのだ。


ちなみに、信長は越後国(現在の新潟県)の上杉謙信にも、その前年に息子を養子として貰ってほしいと懇願し、謙信が承諾すると「まことに面目の至りに候」とゴマをすった(信長書状)。さらに、天正2年(1574)には有名な「洛中洛外図屏風」に参内する謙信の晴れ姿まで描きこませてプレゼントしている。

後略


ポンペオ、なんか、違うぞ!

2020-07-30 10:14:00 | 一億円目標、生意気になりたい、ボンビー

ボンベオ、なんか、違うぞ!

ポンペオ国務長官が、なんか言っている、いつもと違う、本気さが!

一度貼ったラベルはそのまんま、気をつけよう!!!

ラベルの劣化かも。お隣さん。違う見方をして、驚かしてくれる、これを大事にしよう!


参考^_^^_^^_^

こうも発言している。

「自由世界が共産主義の中国を変えなければ、中国がわれわれを変えるだろう」

日本が中国に食料を依存するようになって以来、ずっと毒食問題を叫んできたことが、中国を教育して、改めさせた国として誇らしいが、今ではその中国の言いなりにさせられるところにまで、世界情勢は来ている。