闘病日記

これは私の独り言に過ぎません。「SLE」との出会いから共存に至るまでの体験談です

ストレス

2009年10月24日 21時26分52秒 | 日記
どうしていつもこんなことになってしまうのか

病気の悪化の原因として

ストレス、日光、疲れなどが言われているが毎日の生活の中で

誰もが当てはまるものであろう。避けては過ごせないものである。


入院している間はその全てを取り除き、安静に規則正しい生活をさせられる

今回の入院は特に安静が絶対条件であったため自由に歩くことも許されず

トイレにいくときにはいちいちナースを呼び車椅子で連れていかれる

これのどこがストレスフリーなんだ余計ストレスがたまるっちゅうねん

当然の如くわたしはベッドまわりをウロウロときには鼻につながれた

酸素をはずしこっそり自分でトイレへ

当然ナースには怒られる毎日しかしそんなこった知ったこっちゃない

自分のためだいちいち医者やナースの言うことを聞いていたら

すぐ治るものも時間がかかるこれまでの入院で学んだことである

それから入院には、もうひとつ最大のストレスになるものがあって、

一般庶民の私は当然大部屋なので、他人との共同生活は時として

イライラとさせる原因になる

このとき同室で、足元にいた人がわたしより少し年上の方だった。

膵炎で救急搬送され緊急手術をしたとのことだったが、

医者からは「もう手術をして悪いものは取り除いたので、どんどん動きなさい」

といわれていた。しかし今まで病気をしたことがないというこのお方は

「手術あとが痛くて動けない」「辛い」とよく嘆いていた。

あるときこの方がわたしに言った

「...さんはいいね。どこも悪そうじゃないし。動けるし」

ばーーーーーーーーーーーーーーーーーかっ

ぶっとばしてやろうかと思ったが、寸前で思いとどまり事なきを得た。。。

主治医がきたときに病棟をすぐ移してくれるよう懇願したのは言うまでもない

第二ステージ

2009年10月20日 22時53分03秒 | 日記
なんとなく、酸欠状態!?

話しているときに、途中で息が切れる。

ちょっと歩くと、苦しくて。呼吸を整えてまた歩く。

とにかく何をするにもすぐ息があがる

なんかおかしくな~い

いつもの定期外来の日。

余談だが、この病院は患者に優しくない病院だと常々思っていた

駐車場から病院入り口まで急な上り坂なのである

体の不自由な人も、妊婦も、車椅子も、子どもも、年よりも、

で来院した患者はみなこの坂を上らねばならない

定期外来で来院したわたしも、この状態でこの坂を上らねばならない

少し歩いては、息が切れ。また歩いては息が上がり。その都度足を止め休憩し

息を整え、また歩く。。。やっと入り口にたどり着き、診察前の採血をして

待合室でようやく落ち着く。

いざ診察。

「どう?」とドクターに聞かれ、「息切れがひどくて赫々云々。。。」

話を聴きながら、青ざめていくドクターちょっと焦り気味に

動脈採血しましょう。レントゲンと血圧測って

血圧測れば160/100。あらっちょっと高い!?

動脈採血、赤血球が減少している→酸欠である!

レントゲン、心肥大!!!

「心不全です。入院だね」

。。。。。心不全って死んじゃうやつ

何がどうなってどうしてこうなったのか???

原因ははっきりとなく、血圧が高くなったことにより腎臓に負担がかかり

腎機能障害をおこして尿量が減少。むくみが出て心臓が肥大。。。

よって心臓が過剰に動き酸欠を引き起こした!

ということらしい

ふ~~~んこれがSLEによる症状のひとつである

またも緊急入院を余儀なくされ、難病病棟に空きがなかったので

消化器病棟に一時入ることに。。。

外来から病棟に行くにも車椅子。病室に入ったら鼻から酸素。

ベッドは柵を上げられ、ベッド上にて絶対安静!!!

歩く事は許されず、トイレにもいかせてもらえず

ついさっきまで普通??に生活してたんじゃ

あの坂を上り、自分の足で歩き、ここまで来たんじゃ

なんだこれはトイレくらい歩いて行けるわい

と、激怒したが状況は変わらず。いつもと勝手の違う病棟ということもあり

ナースは耳も貸さず、ただ淡々と「ダメです」の一言

なんて冷たいの再々入院の幕開けである!!!

天国から地獄

2009年10月18日 14時48分09秒 | 日記
発病して約2年、2度目の入院

産婦人科からまた難病病棟に移され、一人治療の日々

治療もなにする訳でもなく、ただ薬を服用し安静にしているだけ。。。

今回はフラフラと病院内を徘徊する元気もなく

ベッドでおとなしくしていたかいあって、一ヶ月ほどで退院

子どもはすでに生後一ヶ月以上経っていたので帰宅後すぐお宮参りを決行

しばらくは病気の様子をみながら実家でお世話になりながら、子どもが1歳に

なるころやっと独立旦那の勤めていた酒屋の側に借家を借り

親子3人新たな生活を始めたのであった

以来わたしの病気も大分落ち着きをとりもどしたが、あいかわらず旦那は月のほとんどはパチンコ。

気が向くと仕事に行く普通逆だろってイライラ毎日けんかの日々

子どもが産まれたらまじめになってくれるのでは???

という儚い夢も3年が限界でした

わたしはまたあのゴルフ場に戻り、生活のため子どものために働くことにした。

旦那を切り捨てて。。。

子どもが3歳になってまもなく、離婚をし実家へは帰らず近所にアパートを

借り細々と母子家庭をスタートさせたのだ

保育園に通うこどもをかかえ、難病をかかえ、生きていくことを選んだ

わたしはまだ若かったそして友達に恵まれていた

離婚の相談に乗ってくれた友達。

引越しを手伝ってくれた友達。

小さな息子の相手をし、わたしの話を親身に聴いてくれた友達。

寂しくないよう毎日のように遊びに来てくれる友達。

子どもの笑顔。究極の愛。

人に支えられ、励まされ、がんばれたあの日々

子どもが小学校2年生になるまでは、またもわたしは病気じゃないんじゃない

と思うほどに元気であった

しかし、時は不況のかぜに煽られ仕事もうまくいかず固定給の貰える
 
仕事を探しいくつかの職場を転々とするうちに、身体ともに疲れ果てまたもダウン

することになるそして3度目の入院をするだ。。。


出産後

2009年10月15日 18時53分21秒 | 日記
朝の目覚めは最悪だった

身体中が痛いおしりが痛い。。。

普通分娩の時って、助産婦さんがおしりの××をおさえてくれるそうです

いきんで痔が出ちゃうからだってでももう遅いんです

妊娠中にひどい便秘になったので、すでに痔なんです

しかし更に出ました。どちらにしても痔は免れない運命だったのです

そして「切れば出ます」の言葉通り切られました。つうか、切るのが当たり前のようです

裂けてしまうことがあるらしく、縫い目がきれいでないので先に切れ目

をいれるんだってでもきれいもなんも、腫れてしまえば関係ないじゃん

次に鏡をみてまたびっくりお岩さんかと思ったよ

しばらくは起き上がることも出来ないほどに身体はダメージをうけ、

病気は更に悪化し身体はボロボロ比喩じゃなくてほんとにボロボロ

手足の指先は皮がむけて紅斑ができ、それはひどく痛みを持ち、寝ているのも辛ければ

座ることは尚出来ず。身の置き所がないとは正にこのことであろう


しかしそこは若干19歳病気云々はまた別で、

若さと根性でなんとか起き上がり、我が子逢いたさに

ドーナツ座布団を小脇に抱え、歩けばペンギンの如く新生児室まで授乳をしに。。。

授乳ったって母乳じゃない

ステロイドを服用しているため、小児科医から母乳はSTOPなんです

しかも無事出産を終えたのでステロイドをガンと増やされ、また限界量の60mgに

それから10日ほど経ったころだろうか、

子どもは順調なのでそろそろ退院してもいい頃だろうと。。。でもあなたがね

あたしがなんですか帰れません

なにーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

子どもは退院。あたしだけ居残りする羽目になりました。。。ガクッ




全てに感謝

2009年10月14日 10時46分16秒 | 日記
涙のご対面それはそれは小さくて温かくて柔らかかった/hikari_pink/}

しかし確かめずにはいられなかった。薬に侵されたわたしから産まれた子は

果たして。。。手指足指五体満足な元気な赤ちゃんでした

私の体力は限界スレスレ病気は尚も悪化

しかしそんなことは気にもならないほどの感動

ありがとう無事に元気に産まれてきてくれて

ほっと一息、ふと我に返ると分娩室にはたくさんの人。人。人

なんで深夜にこんなに人がいるの研修医もしくは学生

そうかSLE患者の出産はそんなにめずらしいかい?君達

ってあたしは見学を許した覚えはありませんけど

とは思ったものの、「少し眠りなさい」との言葉に誘われ暗闇に落ちていったのである

「...さん。そろそろお部屋に戻りましょう」と揺り起こされ「今何時?」

深夜の1時過ぎであった。分娩室を出ると同室のお姉達はみな起きて待っていてくれた

「よくがんばったね」「おめでとう」「写真撮っておいたよ」

ありがたいことである

しかし出産に全体力を使い切ったわたしはベッドに入ると

また深い暗闇へと落ちていったのであった