闘病日記

これは私の独り言に過ぎません。「SLE」との出会いから共存に至るまでの体験談です

いざ出産

2009年10月13日 21時49分33秒 | 日記
夕方の5時過ぎごろのことだった 陣痛が始まったのだ

痛みは寄せては返す波のように。。。静かに始まった

最初は病室で様子をみていたが、だんだんと痛みは強くなり
このまま出産することになったためお姉達に見送られ、陣痛室へと移動

陣痛室に入ったとたん痛みが強烈に増した

なんだ?この痛みは??いままでに味わったことがないんですけどー


ところがナースは慣れたモンで「痛みが引いたらお浣腸しますからね~」

お浣腸??浣腸に「お」つけてんじゃねーよっ

それでも淡々と業務をこなすナース。手が空くと親切にも腰を擦ってくれる

これは痛みが和らいで、本当に白衣の天使に見えたものである

治療を手当てというのはこういうことである

しかし時間は夜間。日中とは違いナースの人数も少ない。。。

逐一わたしの状況をステーションに知らせ、問い合わされで引っ切り無しに

電話がなり、ときには部屋を出て行ってしまう

お願い置いていかないで~~~カムバ~ック

すると昼間帰った旦那がまた呼ばれてかけつけてきた

「おおう!いいところに来たね。腰をさすってくれたまえダーリン」

でも全然ナースとは違う癒されもしない

「もう結構です」うんうんと唸ってはやみ、またグイグイと痛みは

やってくる実家にも連絡がいったらしい。今度は母が到着

「お願いです。腰をさすってっください

「何言ってんのみんなこうやって母親になるんだから

と、おもむろにかばんからまんがを取り出しわっはっはと笑い出すしまつ

と、そこへ今度は医師登場

内診して一言「う~ん。これは朝かな~!まあがんばって」

えーーーーーーーーーーーーーーーーこの痛みが朝まで続くんですか

そそくさと出て行く医師。。。カムバ~ック

お願い神様もう悪いことはしません!だから早くこの痛みから解放してください

祈ったね!とにかく祈った!!もう神頼みしかないしっ

しかし。。赤ん坊が一番偉かったなんと朝までかかると言われたのに

今日のうちにこの世に誕生すべく、動きだしたのである

痛みは最高潮まで達し、先ほどまで淡々と仕事をこなしていたナースが慌てて

ドクターを呼びに走り静かだった陣痛室が、急に騒がしくなり

わたしは分娩室へと移動されたのである。

ドクターが手術着をきながら小走りにやってくる。

「先生っ!切ればもう出ますっ」と叫ぶナース

はあ!?切れば出ます!ってどこ切るの~~~

「もういやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あれよあれよといううちに

「おぎぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1989年10月6日PM10:54元気な男の子の誕生の瞬間である










出産一ヶ月前

2009年10月10日 20時34分04秒 | 日記
緊急入院

部屋も空いてない。病気で容姿もボロボロ

とりあえず個室に入れてもらいました。

だけどここの病棟、ナースステーションから右が一般病棟、左が個室

と分かれていた。

朝、14:00、就寝前の検温の時間以外人の出入りがない

人一倍おしゃべりな私はだんだん寂しくなり、退屈を紛らわすために

母に大きなパズルを持ってきてもらった

これでしばらくは暇つぶしになるだろう。。よしよし

しかしやっぱり落ち着かない。

そうタバコが吸いたくてたまらないのだ部屋から出してもらえないので

さんぽにも行けない。ましてや妊婦である

緊急入院だったため、タバコは持ってる

吸っちゃえ~中坊のようになんと病院の、しかも産婦人科の病棟内の

トイレ(個室だったので部屋にトイレがついていた)で喫煙

前代未聞の話であろう

もちろん検温に来たナースにみつかり、タバコは没収。部屋も一般病棟に

移されることに

ここで知り合ったママたちは当然私よりも年上の方々ばかり。。。

しかもかなりのこの病院は家族計画という子供の出来にくい

人たちの治療もしていたからである。

若干19歳みんなが妹のようにかわいがってくれたのである


彼から旦那に変わっていた、パパになる彼が見舞いに来ていたある日。

少しお腹が張っていた。旦那が帰った後トイレに行くと出血している。

ナースを呼んだ。おしるしである





妊娠期間

2009年10月08日 21時49分01秒 | 日記
産むと決めたはいいけど、お金がない

私は毎日飲み歩き、彼はパチプロその日暮らしな私達

出産するにはお金がかかる生活するにもわたしはもう働けない

そこで私の実家に頼み込み一部屋空けてもらい居候

彼もパチンコばかりしていた訳でなく、一応酒屋に勤めてはいたのだ

そこの社長もよくそんな奴を雇っていてくれたものである


実家に居候は楽であった病気の身体を心配した親は何でもしてくれる

ご飯は上げ膳据え膳、洗濯もしてくれる

なんて楽なんだろうか久々のぐうたら生活

しかし妊娠3~4ヶ月ぐらいだったか、つわりに苦しんだ

脂っこいものを見ても、おえっ

ご飯の炊ける匂いを嗅いで、おえっ

しばらくはきゅうりが主食で、唯一食べられるものであった

安定期に入りいよいよお腹も大きくなってきて、動くのも億劫になってきた

季節は夏余計に辛い病気も辛くなってきた

先生の言った「覚悟を決めて」の意味をこの時悟る。。。

そして一番辛かったのが便秘

出ない。とにかく出ない。トイレに行くときの必需品が、

お湯を張った洗面器であったおしりを温めるのである

泣きながら何十分もがんばるのである

おかげでそれ以来いまだに痔もちであるのだ


いよいよ病気も限界に近づいてきた

胎児への影響を考え、プレドニンは30mg以上増やすことはできないと

産婦人科からストップがかかっていた。

身体は病気でボロボロだった。発病当初のように顔は真っ赤な紅斑だらけ

顔だけに留まらなかった。指先、足の裏、何かに触れることは痛みを伴う。

もう娑婆での生活は限界だった

臨月まで後一ヶ月。定期健診に行ってそのまま強制入院することになる


どうすんの?

2009年10月07日 23時05分01秒 | 日記
さあ、どうするか

私は19歳であった

主治医は言った。

「産んでも産まなくても、二度と子供を産むことはできないだろう。

もし産むのなら、覚悟をして一緒にがんばろう」

二度と産むことは出来ない

昔から子供は好きじゃなかった。

母と喧嘩をしたときは「お前も親になれば親の気持ちがわかる」

と言われ「子供なんか産まないから親の気持ちなんか一生わからん」

と返していたほど。。。

しかし、二度と産むことはできない。。。

その一言でわたしの人生がこんなにもかわるとは思わなかった

せっかくこの世に芽生えた「命」

半分ヤケクソ気味になっていたわたしを180度変える出来事であった

朗報を持って帰宅同棲中の彼氏は働くことが嫌いであった

から、その日も仕事に行かず大好きなパチンコへ行っていた

彼の帰宅を待つこと数時間。帰るなり妊娠したことを報告をすると

少しびっくりした感じででもはっきりと

「どうしたいの?産みたいなら産めばいいよ」であった


両親を説得することが大変であったことは言うまでもない

彼のうちは自営の職人であった。

うちは私の病気を心配した。

しかし当人達はちっとも話を聞かないのであるから仕方がない

結局は親が折れ、私達の意見が通ったのである

発病から激動の一年

2009年10月06日 21時16分15秒 | 日記
年明け早々に入院をしたわけだが、当時は卒業を3月に控えた高校生

入院前からいじめによる登校拒否で出席日数の足りなかった私が、

なんと、病気入院という理由で出席単位がもらえたのである

ラッキー

卒業式の数日前には何とか退院でき、無事卒業式にも出席することが出来た

さて卒業したはいいが、進学もしない。就職先も決まっていない。どうすんだ

当時つきあっていた彼氏のアパートに転がり込み、たまたま近所のホテル

のラウンジで求人広告が出ていたので面接を受け、すんなり就職決定

なんだ人生なんてちょろいじゃんって感じだった

病気もなり潜め、もしかしてあたし病気なんかじゃないんじゃん

とも思ったくらいである

2~3ヶ月も勤めるとだんだんと慣れてきて周りが見えてきて、

私が休むときには助っ人がいることに気づいた。

その方々は、配膳人と呼ばれ今で言うハケンである。

話を聴けば、時給がすばらしく魅力的であったので即転職

とあるゴルフ場のレストランへと派遣されたのである

高校時代にファーストフード店や喫茶店でバイト経験のある私としては

接客業は天職だったようで、同年代も多かったことから仕事にはすぐなじんだ。

昼間はゴルフ場で働き、夜は職場の仲間と飲み歩くこと数ヶ月

なにやら体調が優れない。。。熱っぽい。だるい。食欲不振。

そういえば、生理もしばらくないかも

定期的に病院へは通っていたので、主治医に経過を報告すると。。。

妊娠2ヶ月

発病から丁度1年が経っていた