昨日あるご婦人の方が
「私は悲しみに感謝している。
もし悲しみがなかったら、
私は自然の美しさに気付くことがなかっただろう。」
という意味のことを言っていました。
私は山上の説教の一節を思い出しました。
「悲しむ人は幸いである。
その人は慰められるであろう。」
マタイによる福音書5章4節
中世アルメニアの詩人ナレカツィの詩に、
「悲しみの言葉の本質を理解する全てのひとに」
という一節がありますが、
このご婦人は、この「悲しみの本質」を
理解しているのだなあと思いました。
「人は自分の蒔いたものを刈りとります。
自分の「肉」という畑に種を蒔く者は、
「肉」から滅びを刈り取り、
「霊」という畑に種を蒔く者は、
「霊」から永遠のいのちを刈り取ります。」
ガラテヤ6章7-8節
この地上での喜びは、多くの場合「肉的な」喜びであるものです。
山上の垂訓のルカによる福音書の並行箇所には、
逆の表現が見られます。
「今、笑っているあなたがたは不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くであろう。」6章25節
6章21節
「今、泣いているあなたがたは幸いである、
あなたがたは笑うであろう。」
と比較するとき、「笑う」という言葉の意味の次元が
大きく異なっていることに気付きます。
25節の「笑う」はおそらく肉的に笑うということで、
21節の「笑う」はおそらく霊的な喜びを意味するものなのでしょう。
「私は悲しみに感謝している。
もし悲しみがなかったら、
私は自然の美しさに気付くことがなかっただろう。」
という意味のことを言っていました。
私は山上の説教の一節を思い出しました。
「悲しむ人は幸いである。
その人は慰められるであろう。」
マタイによる福音書5章4節
中世アルメニアの詩人ナレカツィの詩に、
「悲しみの言葉の本質を理解する全てのひとに」
という一節がありますが、
このご婦人は、この「悲しみの本質」を
理解しているのだなあと思いました。
「人は自分の蒔いたものを刈りとります。
自分の「肉」という畑に種を蒔く者は、
「肉」から滅びを刈り取り、
「霊」という畑に種を蒔く者は、
「霊」から永遠のいのちを刈り取ります。」
ガラテヤ6章7-8節
この地上での喜びは、多くの場合「肉的な」喜びであるものです。
山上の垂訓のルカによる福音書の並行箇所には、
逆の表現が見られます。
「今、笑っているあなたがたは不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くであろう。」6章25節
6章21節
「今、泣いているあなたがたは幸いである、
あなたがたは笑うであろう。」
と比較するとき、「笑う」という言葉の意味の次元が
大きく異なっていることに気付きます。
25節の「笑う」はおそらく肉的に笑うということで、
21節の「笑う」はおそらく霊的な喜びを意味するものなのでしょう。