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music + apple = musicapple (笑)

『トポロジーへの誘い』

2008年08月11日 | 読書
最近読んだ数学関係の啓蒙書の中で一番面白かったのが、この松本幸夫さんの『トポロジーへの誘い - 多様体と次元をめぐって』(遊星社, 2008年)という本です。とにかく分かりやすくて面白くわくわくする本です。高校程度の数学の素養があれば最後まで読み通せます。自分もそうでしたが、ともすると細部の厳密性に拘り、本当に面白いところまで到達するのに大変な時間がかかってしまうこともしばしばですが、時にはとりあえず分かったことにして先に進み、全体的な様子を俯瞰しモチベーションを維持することも必要ですね。この本は専門外の自分にも証明を正確にfollowしたいという気持ちを起こさせてくれる有難い本です。次元やオイラー標数に関する初歩的な解説から始まり、ベクトル場に関するホップの定理、ヒルツェブルフの指数定理、ミルナーによるエキゾチック球面の発見と進み、付録1ではドナルドソンの定理からR^4のエキゾチックな微分構造を導く話が書かれています。著者による11/8予想や、ロホリンの定理のロベルテロ不変量を使った初等的証明から、もう少しでキャッソン不変量を見出すところだった話とかも。そういえば大昔に拝聴した松本氏の集中講義で、11/8予想や古田の定理の解説があったのを思い出しました。2007年12月の時点で未解決とありましたが、その後どうなったのか気になりますね。


「即非の論理」と「高次の論理学」

2007年05月06日 | 読書
以前触れた、鈴木大拙の創唱なる「即非の論理」と、P.D.ウスペンスキーが
唱えた高次の論理学“Tertium Organum”とを比較してみましょう
(なんとも安易でアヤシイですが。。。)。

引用する文献は、以下の2つです。
1. 秋月龍『絶対無と場所 - 鈴木禅学と西田哲学』青土社1996年。
2. P.D.Ouspensky, “Tertium Organum”, Knop, 1925.
(邦訳:P.D.ウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)
-世界の謎への鍵』高橋弘泰訳、コスモス・ライブラリー2000年。

(ところで、文献2の449ページには、鈴木大拙がウスペンスキーと会見した記録が
『鈴木大拙全集』第21巻、岩波書店に収録されているという記載があります。
これによると鈴木大拙はウスペンスキーの著書(文献2)を読んでいたということです。)


さて、「即非の論理」は文献1によると、「鈴木大拙の創唱になる禅の論理・
霊性的自覚の論理』」であり、漢訳『金剛般若経』を出典とする次の句、

「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密。」(*)

を公式化した、

「AはAであるというのは、
AはAでない、
故に、AはAである。」

というものです。文献1ではこれをさらに次のように定式化します。

「「AがAである」のは、「A」が即「非A」であるからである。」

さて、文献2では、邦訳319ページに次のような記述があります。

「「ターシャム・オルガヌム」に含まれる公理は我々の言語では定式化できない。
しかし敢えてそれを定式化しようとすれば、不条理な印象を与える。
アリストテレスの公理の形式を借りて表現すると、
新しい論理学の根本的な公理は貧しい地上の言語では次のように言えるかもしれない。

「AはAであると同時に非Aである。」(A is both A and not-A.)

あるいは、

「すべてのものはAであると同時に非Aである。」(Every thing is both A and not-A.)

または、

「すべてのものはすべてである。」(Every thing is All.)」


というわけで、Tertium Organumは秋月氏のいう「即非的自己同一の原理」に
とてもよく似ていますが、これを一致していると見るのは早計です。

ではどのように違うのでしょうか。
まず、即非の論理の定式化はこれ自体がかなり無理があるものだと思われます。
私の理解あるいは誤解によって、主張(*)は次のようなことだと思ってみましょう。

「Aという記号はAが指示しているものそのものではない。だから、Aと呼ばれるのだ。」

こう考えるといかにもあたりまえなことで神秘でもなんでもないのですが(笑)。
記号的に書いてみますと、

(¬(「A」= A)) ⇒ (A=A)

とでもなるのでしょうか。
上の定式化のままでは、

(A=A)∧¬(A=A) ⇒ (A=A)

のようになるのかもしれません。
ここで「A」というのはAという記号を意味する記号です。
一方、Tertiumのほうは、

(A=A)∧¬(A=A)

とでもなるのでしょうか。これは単に矛盾を意味します。
つまりTertiumのほうは、形式上は単なる矛盾律であるのに対し、
即非の論理のほうは形式上も単なる矛盾律ではなく、両者はどうやら
異なった思考の運動であるようです。



ところで、「非A」とさりげなく書いていますが、
Aが命題であれば、¬Aとして理解できるのですが、
Aが「モノ」であるとき、「非A」はいったい何を意味しているのでしょうか。
たとえば、A=1であるとしましょう。

「1が1である」は「1=1」、
「1が1でない」は「¬(1=1)」として理解できますが、
「1が非1」を「1=¬1」として理解することは出来ません。

モノの範囲が明確に決められていれば、非AはA以外のものとして
考えることもできるでしょうが、すると、AがAでありかつ非A
というのは、Aはすなわち全てのものと同一だということになってしまいます。

いずれにせよ、こうした単純な定式化はものごとを明確にするのではなく、
かえってあいまいなものにしてしまうような気がいたします。



結論(オチ):

Tertium Organumは即非の論理と一致していると同時に一致していないのである!(笑)

『ニューエイジについてのキリスト教的考察』カトリック中央協議会

2007年04月29日 | 読書
教皇庁文化評議会・教皇庁諸宗教対話評議会が2003年2月に発表した
Jesus Christ the Bearer of the Water of Life:
A Christian reflection on the "New Age"
の邦訳が先日出たので早速読んでみました。

ニューエイジ思想とその影響は今日様々な分野に浸透しつつあり、
それに対する注意を喚起する目的を持った文書と理解しました。

Christoph Bochinger, "New Age" und moderne Religion:
Religionswissenschaftliche Untersuchungen, Guetersloh (Kaiser) 1994
にも述べられている、「ニューエイジは市場原理を宗教現象に適用する
ことによって造られた商品の名称」であるとする見方には驚きましたが、
特に日本においては近年そうした傾向がますます増大しているような気が
しないでもありません。

本文中には明確な言及はありませんが、島薗進氏の挙げる
ニューエイジの周辺の運動として次のものが訳者あとがきに列挙されています。
(今日列挙するとするともっと違ったものになると思いますが。)

・ヒューマン・ポテンシャル運動
・トランスパーソナル心理学
・ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス
・ネオ・ペイガニズム
・フェミニスト霊性運動
・ディープ・エコロジー
・ホリスティック医療運動
・マクロビオティック
・超越瞑想
・神智学協会
・人智学協会
・クリシュナムルティ・ファウンデーション
・ラジニーシ運動
・グルジェフ・ファウンデーション
・仏教的瞑想・共同体
・レイキ
・気功・合気道
・UFOカルト

もしこの中だけで考えるとすると、ニューエイジの起源は神智学協会という
ことになるのでしょう。神智学協会から、シュタイナー、クリシュナムルティ
の流れは明らかですが、ラジニーシは神智学協会と接触のあった
P.D.ウスペンスキーの著作からの影響が強く、特に"tertium organum"を
バイブルのように読んでいたといいますからやはりこの流れといっていいのでしょう。
ところでこの著作においては、古典論理における矛盾律の留保に関する論説が
ありますが、この考えとニューエイジとの関連について、私見ではもう少し
考える必要があるように思います。例えば即非の論理との関係などですが。

グルジェフと神智学協会とは直接の関連はたぶんないと思いますが、
(ウスペンスキーを通じて間接的な関連はあるかもしれませんが)
エニアグラムを通じてカトリックの中にも共鳴する
ひとびとがいるので注意しましょうということなのでしょうか。

トランスパーソナル心理学をニューエイジに分類すると、多分この業界の方から
反論があるでしょうが、ニューエイジの影響があることはおそらく否定できない
事実なのでしょう。

それから、神智学の影響下にある音楽作品、特にスクリャービンの後期の音楽作品
について、それらを注意を要するものとみるべきか否かといった問題もあります。
私は個人的には今までこれらの問題は不問に付していましたが、
どうも放置したままではいられないようです。
とはいえ問題が大きすぎるのでここで論じるわけにもいきませんが(^^;)

バートランド・ラッセルから見たピタゴラス

2007年03月19日 | 読書
知人のある数学者が、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』
(市井三郎訳、みすず書房、1970年)を愛読しているというので、
古本屋から仕入れてきてちょっとぱらぱらとめくってみました。

訳文はいまいちですが、なるほど数学者が好みそうな論理的に
明快な文章が展開されておりますね。

で、ラッセルからみてピタゴラスはどう見えていたのでしょうか。
どうやら、哲学者とイカサマ師の混合、相対立する2面性を持った
謎めいた人物に見えていたようです。

「手短にいえば、彼はアインシュタインとエディー夫人とを
いっしょにしたような人間だ」

と書いています(笑)。

対比させて書くと、

「アインシュタイン」⇔「エディー夫人」
「論証的で演繹的な議論という意味での数学」⇔「神秘主義の奇妙なある形態」
「純粋数学者」⇔「宗教的予言者」

この対比からははみ出ますが、

「合理主義的宗教」⇔「啓示宗教」
「ヨーロッパの知性化された神学」⇔「アジアのより直截な神秘主義」

といった対比が見られます。
前半では、どうやら前者を賢明な部分、後者をそうでない部分と
とらえているようです。

しかし、後者を賢明でない部分と断じてしまうのはやや早計だと思われます。

これはオルフェウス教に関する言及でも見られます。

養老孟子『超バカの壁』

2006年12月26日 | 読書
超ヒマだったので、たまたま置いてあった
養老孟子さんの『超バカの壁』新潮新書を読みました。

小生は学生時代はサボり学生でしたが、
養老先生の講義はなぜか聞きに行ってました。

解剖学の講義でなくて、脳科学の講義だったと思うのですが、
講義というより立川談志の落語みたいでした。
雑談から始まり、雑談に終わる(笑)。

読んでいて講義がなつかしく思い出されました。
学生時代に面白かった講義といえば、養老さんの落語(笑)と
野矢茂樹さんの論理学かな。

「最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を
作ることが仕事だと思っている人が多い。
社会が必要としているかどうかという視点がないからです。」

う~ん、耳が痛い(苦笑)

脳の中の水分子

2006年10月23日 | 読書
中田力著『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』紀伊國屋書店2006年

この本は、全身麻酔が効く脳内メカニズムとして、
定説の「脂肪に溶けやすい」に対して、ポーリング博士の
「水の結晶をつくらせるから」という別な仮説から出発し、
意識の謎を説明する脳の渦理論を構築する話です。

さて、この本の86ページにある「シャノンのエントロピーの概念」
を読んでいて、疑問に思ったことがあったのです。

s状態にある粒子の確率分布がP(s)で示される系を考えます。
今、系全体がN個の粒子で構成され、s状態にある粒子の数がNs個であるとします。
その重複度、Mは、

M = (N!)/(ΠNs!)

で与えられます。ここで、著者は、系全体のエントロピーHを、

H = (-1/N)log(M)

によって定義するのです。定義なので仕方なく認めることにします。
すると、Nが大きいときスターリングの公式を使うと、

H = ∑P(s)logP(s)

となるのですが、本と符号が反対になってしまいます。

さあ困ったと思って、他の本をみたら、定義の方が符号が反対、
つまり定義が誤植であったのでした(苦笑)。



パウロは権威主義的人格であったか?

2006年10月15日 | 読書
昨日引用した岡本浩一著『権威主義の正体』PHP新書2005年によると、権威主義的人格の研究はアドルノに始まるそうです。アドルノといえば、ベルクの弟子でもあり、作曲家として音楽作品も残しておりますね。

さて、アドルノによると、権威主義的人格は、「教条主義的人格」「ファシスト傾向」「因習主義的人格」「反ユダヤ主義」「自民族中心主義」「右翼的権威主義」「形式主義」に分けて考えられています。この中でも「教条主義は、権威主義の定義の根幹」であり、「ある特定の教義や教条をいったん受け容れると、それがすべての善悪の判断基準」となり、「教条の正しさの過大評価、教条の適応範囲の過大な解釈、教条の異なる他者への不寛容や加罰傾向が生じ」ます。

回心前のパウロ(サウロ)は、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(フィリピ3:6)。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしており、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました(ガラテヤ1:13-14)。というわけで、少なくとも回心前のパウロは権威主義的人格であったといえそうです。

では、回心後のパウロはどうか?

まず、自戒の意味で、ヴィトゲンシュタインの『反哲学的断章』青土社 丘澤静也訳昭和56年 から次の長い引用をさせていただくことをお許し願いたいと思います(この引用自体権威主義的ですが)。

「福音書ではおだやかに透明にあふれている泉が、パウロの手紙では、あわだっているように思われる。すくなくともわたしには、そう思われる。ことによると、わたしじしんが不純であるからこそ、パウロの手紙ににごりがみえるだけのことなのかもしれない。なにしろこの不純さは、明るく透き通ったものを、どうして不純にしないでおけるというのだろうか。どうもわたしには、そこに人間の情念がみえてしまうのだ。それは、誇りとか怒りとかいったもので、福音書のつつしみ深さとはちがうものである。パウロの手紙には、だが、個人の人格を強調する、それも宗教的行為として強調する、といったところがあり、こういう点は、福音書にはみられない。わたしはこうたずねたい、といっても、これが冒瀆とならなければよいが、『キリストなら、パウロに、なんていっただろうか?』だが人々は正当にも、つぎのようにこたえるかもしれない。きみじしん、もっとつつましくなりたまえ。いまのままだと、きみは、パウロの手紙にどういう真理があるのか、まったくわからないだろう。」「福音書では、これもわたしの感じだが、すべてがもっと質素で、つつましく、単純である。福音書にあるのは、小屋だ。パウロの手紙には、教会がある。福音書では、人間はみな平等で、神じしんも人間だ。パウロの手紙では、ある種のヒエラルキーが、すでに存在している。名誉、位階、官職。これはいわば、わたしの鼻がかぎつけたことだ。」

つづく。

「権威主義の正体」

2006年10月15日 | 読書
岡本浩一著『権威主義の正体』PHP新書2005年

権威主義について、社会心理学の立場からわかりやすく解説しているとても面白い本です。

「権威主義は、ホロコーストに代表される非倫理的な集団行動の根本原因」であり、「必ず悪いものである」そうです。

権威と権威主義とは厳密に区別されると書かれていますが、権威主義の明示的な定義は本文中には与えられていません。(しかしそのような明示的な定義を要求することは、教条主義的であり、一種の権威主義的傾向であると考えられるかもしれません。著者は「権威主義的な人格とは、複雑な事柄を単純に認知しようとする認知スタイルの個人差から派生していると考えて」います。)

権威と権威主義の行使の非類似点として3つの種類が挙げられています。

1)権威としての裏づけがないものを権威とみなす場合。
2)間接的影響であるべき領域まで権威の行使領域を拡大しようとする場合。
3)間接的影響が、本来当為のない領域にまで拡大する場合。

この3)の例として、「ノーベル経済学賞を受賞した経済学者が、自分の健康法を他者に勧め、他者がそれにならう場合」が挙げられています。これは「ハロー効果」と呼ばれ、「受け手側が主体となるメカニズムで起こっているあいだは問題が少ないが、権威の行使側がこれを意図するとなると、権威主義的行動になる」そうです。

「ハロー効果」で思い出したのが、その昔アインシュタインが「へたくそな」ヴァイオリンを弾いて、それを人々はとても感心して聴いたというエピソードです。アインシュタインはヴァイオリンを弾くのが趣味であり、ひとに聴かせようなどという意図は全くなく、ただそれを楽しんでいただけなのですが、それを聴いたひとはアインシュタインが弾いているというだけで、そのヴァイオリンの演奏も感心して聴いたというわけです。これなどはほほえましい例です。しかし、「権威の行使側がこれを意図」しはじめるととたんに醜悪になりえます。我々は充分気をつけなければいけないなと思います。

また、「他者の言葉を引用するという行為そのものが権威主義的態度を反映している」とすると、この記事自体が権威主義的だ、ということになりますね(笑)。

ローマ書第3章第22節

2006年10月09日 | 読書
やや唐突ですが、ローマ書第3章第22節を見てみましょう。

δικαιοσυνη δε θεου δια πιστεως ιησου χριστου εις παντας τους πιστευοντας ου γαρ εστιν διαστολη (Nestle-Aland)

Even the righteousness of God which is by faith of Jesus Christ unto all and upon all them that believe: for there is no difference(欽定訳)

「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 」(口語訳)

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 」(新共同訳)

こうしてみますと、イエス・キリストの属格をきちんと訳した邦訳はなかったようなのです。


「ユダの福音書」

2006年06月12日 | 読書
このところ、マスコミその他で騒がれている「ユダの福音書」の原典、
「原典 ユダの福音書」日経ナショナルジオグラフィック社2006年
を読みましたが、ユダの裏切りはイエスの指示であるとか、
ユダが最大の弟子であるとかいう記述は、チャコス写本本文中には
ありませんでした。

こういった主張ははっきりした根拠がありません。
マスコミは少しセンセーショナルに騒ぎすぎのような気がします。

ユダの裏切りはイエスの指示、という考えはカザンザキスの小説にも
ありますが、「ユダの福音書」のどこを根拠にしているのでしょうか。
チャコス写本56ページには
「だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、
すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」
とありますが、これは命令形ではないように見えます
(私はコプト語はわかりません)。
注には「命じられる」とあり、これは注解者の解釈ではないでしょうか。
いずれにせよ、ちゃんとした聖書学者の翻訳を期待します。

また、チャコス写本35ページの、
「ユダはイエスに言った。あなたが誰か、どこから来たのか私は知っています。
あなたは不死の王国バルベーローからやってきました。」
という記述から、ユダだけが正しい答えをした、
と結論することは到底できません。
イエスが誰かということに関しては、トマスによる福音書における
使徒トマスの方がまだましな答えをしているように私には思えます。