ラーザリ・ベルマン(Lazaŕ Naumovič Berman, 1930-2005)の
Brilliantレーベルの7枚組みのCD box。
1948年から53年までモスクワ音楽院のGoľdenvejzerに師事、彼がいた4階のRoom 42はかつてスクリャービンがいた部屋だそうです。1951年のベルリン国際青少年音楽祭で第1位、1956年のリスト国際ピアノ・コンクールで第1位などのコンクール入賞歴がありますが、ベルマンは、“I always played wrong notes at competitions, that's why I always placed third." と言っています。“It's not important if you make a mistake while performing, the important thing is how you get out of it." だそうです(笑)。参考になります。ちなみにアシュケナージが第1位となった1956年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでは、第5位でした。
1976年のロンドンでのインタビューでは、演奏家の心構えに関して大変参考になる話をしています。“In this age everyone is involved in doing copies of copies. Unfortunately copies can be both good and bad. The ideal pianist is one who does not copy." 演奏のオリジナリティに関しても明確な考えを持っているようです。
また、Nadejda Vlaevaによる教師としてのベルマンの記述によると、“he was a great believer in the importance of silence"ということで、音楽における沈黙の価値を重視していたようです。スクリャービンの演奏においてはとりわけ重要になる、ピアニッシモに関しては、弟子たちはuna corda pedalを使わないで練習するように指導されていたそうです。“A magical pianissimo, derived from the spirit of the music, had to be achieved without the help of the pedal - which was just a bonus during the stage of performances."と書かれていますが、これには若干の留保が必要だと思われます。というのは、una corda pedalは単にピアニッシモを得るためではなく、音色を変化させるためにも用いられるからであり、これは用いるピアノの個体差と調整に依存する部分が大きいため、時にuna corda pedalを使用しても思ったような効果が得られないことがあります。愛用のピアノを持ち運ぶわけにはいかない多くのピアニストにとっては、あまりにuna corda pedalに依存しすぎた奏法は危険であると考えられたのかもしれません。
1988年の東京文化会館での演奏会のプログラムの一部:
リスト
「巡礼の年 第2年(イタリア)から
ソナタ風幻想曲“ダンテを読んで”」
「巡礼の年 第2年(イタリア)から“婚礼”」
ワーグナー=リスト
「楽劇“トリスタンとイゾルデ”から“イゾルデの愛の死”」
ラフマニノフ
「楽興の時 作品16 第4番 ホ短調」