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前衛の前ヶ崎城-廢城散歩圖譜その十

2015年05月04日 | ぼくのとうかつヒストリア

 昨年、東葛の城を巡ったときに、訪ねることができなかった城が一つある。小金城から根木内城等を経て境根原合戦場へと急いだので省略せざるを得なかったのだ。心残りでいたのだが、連休の今日、ようやく訪城を果たすことができた。流山市の前ヶ崎城である。現在は、前ヶ崎城址公園として整備、保存されている。

 まず、前ヶ崎という地名が面白い。前の先ということは、突端、最前線という響きがある。実際、南北に細く伸びる舌状台地の北端に位置し、谷地(つまり、当時は水面)を挟んで他の台地と対峙する立地である。味方には頼もしく、敵にとっては侮れない先鋒と映じたことだろう。

 この前ヶ崎城は流山市の南東部に位置するが、歴史的には松戸市の根木内城、小金城などと同じグループに属する。つまり、高城氏系であり、北条(後北条)方であった。直線で、根木内城からは約2km、小金城趾からは1.5km程度しか離れていない(グーグルマップによる)。実際、根木内城の支城と見られているのである。


写真1 北のメインエントランス

 城址公園のメインの入口になっている北側から階段を上がると変形枡形(多分、台形)の主郭となる。入口からの比高は10メートル程度。すぐに東屋風の構築物が目に入るが、これは休憩用で流山市の思いやりと思われる。決して再現櫓ではない(笑)。


写真2 曲輪跡に近付く。右上の構築物は休憩用の四阿。


写真3 四阿からみた曲輪跡。この四阿は北側に設置されている。従って前方のベンチが南。右手に虎口が見える。
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 曲輪跡は土塁に囲まれているが、南側及び北側の中央は凹んでいる。これは後世に崩壊したのか、何らかの意図があるオリジナルなのか、攻撃の際に破壊されたものか分らない。
 また、西側には土塁がない。道路建設のため欠き取られたためであろうか。そう言えば、西側の切り岸は他の面と比べて、多分に幾何学的で人工的に見えるのである。西側の突端、櫓台跡付近には土塁の名残りらしい若干のスロープがある。土塁ごと削られたのか。いずれにせよ、攻撃を受ける先端部の一辺に土塁を備えないのは変である。


写真4 曲輪跡の西側を見る。左手に若干確認できる他は土塁がない。


写真5 西側の切岸。不自然なほど整っていると感じられるのだが。



写真6 右端が櫓台跡と見られる高み。中央は虎口らしい。

 土塁の南西の一画は比高14メートルと最も高くなっており、櫓台跡と推定されている。現在、嘉永4(1851)年と刻まれた小さな石碑(尾鑿山大権現)があるのみである。
その直下が公園南側の入口になっているので、素直に考えれば虎口跡となろうか。

 その櫓台跡脇の階段を下りていくと、嫌でもプレハブ造りの大きな倉庫が視界に入る。それが空堀跡である。主郭とII郭を隔てる空堀のカーブに合わせて倉庫がはまっている。訪城者には何とも悲しい光景である。明治36年の陸地測量部の地図を見ると、確かに大きな堀が描かれている。しかし、こんな大きな倉庫が堀に収まるわけはなく、空堀を倉庫に合わせたのだろう。
 ここまでが公園であり、遺構のあらかたはここまでである。

 この「空堀倉庫」に沿って(という言い方は倒錯しているが)切り岸が続いており、その上に犬走りのような帯曲輪のような狭い空間が緩いアンジュレーションで主郭を半周している。帯曲輪から主郭の切り岸を見上げると、5,6メートルほどであるが高さは感じる。


写真7 I・II郭間の空堀には倉庫が。通路状の帯曲輪が囲んでいる。

 その帯曲輪を北側に回ると、表情が一変する。北側の切岸には三つの出っ張りがある。左右の出っ張りはそれぞれのコーナーにあたるから出っ張るのも分るが、中央の出っ張りは切岸の途中から突き出る形状だ。曲輪の土塁もその部分が凹んでいて敵を斉射するかのようである。あるいは敵をおびき寄せるためか。それにしてもオープン過ぎる。


写真8 北側の土塁が低くなっている様子。土塁上の擬木の柵で分る。この直下に謎の鞍部がある。


写真9 謎の出っ張り部分(中央の木立の陰の、三角に出っ張ったところ)を土塁上から見下した様子。

 もともと自然な出っ張りがあって、防御上取り除きたかったのだが、土木力がないため、上部のみ撤去したということか。その理由は今では分らない。この中途半端な鞍部に込められた戦国武士の情念は謎である。
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 さて、南側のエントランスから主郭を出てみよう。道なりに行くと左手に曲がる道に出くわすが、それがII郭とIII郭を隔てる空堀の今の姿であるらしい。ここは、先述の陸軍の地図ではすでに道路になっている。これだけの幅の空堀なら相当の深さがあったと思われる。だから、相当な土砂が必要だったはずだ。堀を埋め、さらに嵩上げして、住居面と同一平面を達成しているからだ。


写真10 左は主郭へ行く道。右が空堀の現在の姿。道が登っている。(超広角レンズで撮影)

 さらに南のIII郭は開けていて遺構の期待がかかる。土手や曲がった道に出会うたびに、もしやと心騒ぐが、空しいだけだった。ただし、III郭、あるいはその南にIV郭を想定すると、舌状台地を徹底利用した相当な規模の城郭だったことに感銘を受ける。そうだとすれば、II、III郭よりずっと小規模なI郭を主郭とするのはどうだろうか。敵軍に真っ先に攻められる北端に主要構造を置くとも思われないので、II、III郭辺りに主郭が置かれていたとしても不思議ではない。ただし、I郭が主郭とすれば、割とコンパクトな城だったわけで、落城も頷けるのではあるが。


写真11 IV郭として推定される場所。


写真12 前ヶ崎城遠望。緑が濃い中央に横たわる森の部分がI~III郭にあたる。(5月6日撮影)
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 前ヶ崎城が歴史に現れるのは、境根原の合戦の頃である。この時の城主は定かではない。北から攻めてきた千葉孝胤軍によって落城し、戦死者を出したことが、本土寺過去帳に見える。即ち、不穏な動きに警戒していたところ、文明10(1478)年11月に千葉孝胤軍に攻撃され、多数が討死というシナリオである。主郭の櫓などこの時点で破壊されたであろう。空堀も土塁も、例の鞍部も実戦では役に立たなかったらしい。

 まさに、名前のとおり、境根原合戦の前衛の城となったのではないだろうか。前ヶ崎城を落とし、その事後処理が終わると、孝胤軍は隊伍を整えて目と鼻の先の根木内城付近に軍を進めた。当然、前衛には前ヶ崎城の捕虜たちが立たされていただろう。

 同年12月10日、根木内城北方に広がる境根原において、孝胤軍は道灌軍と衝突した。戦況は混とんとし、山野のいたるところが朱に染まった。ようやく、日の落ちる頃、道灌軍が勝利を手にし戦闘は終息。孝胤軍は累々たる屍を残して臼井城へ敗走していく。
 道灌は、味方だけでなく、斃れた前ヶ崎の兵をも哀れに思い、塚を造り、懇ろに弔った。
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 以上は私の想像で脚色した勝手なシナリオである。
 その後の前ヶ崎城は、一帯の有力者である高城氏の城のひとつとなって、ともに小田原平定を迎えることになる。
 田園風景の広がる前ヶ崎、名都借辺りの今の景色からは、戦国の流血の歴史を想像することはできない。


写真13 北側から見た前ヶ崎城址全景。


*トップ写真 入口付近の切岸の様子。

(前ヶ崎城データ)
城郭番号 千葉298
調査日 2015年5月4日
名称 前ヶ崎城址公園
所在地 流山市前ヶ崎字奥之台
高さ(比高)最大で14メートルくらい
築城年 不明
廃城年 1590年
城主 初期は不明。酒井根合戦後は高城氏系によると思われる
※城郭番号は『日本城郭大系』の索引地図の番号です。

(訪城ノート)
 ゴールデンウィークの最中、城址は新緑に包み込まれていた。稀に犬と散歩をする人が姿を見せるだけである。次第に風が強くなって、樹木が音を立て、枝からは、始終、細かいものが降り注いでいた。
 それほど比高は高くない平山城だが、何度も上り下りをしたり、IV郭らしき場所まで痕跡を求めて歩いたのですさすがに腰にこたえた。ゴールデンウィークに、マイナーな廃城をほっつき歩くのは、多分、私だけだろう(笑)。

 確かに、前ヶ崎城は遺構としては規模が小さいし、日本史に登場するような城でもない。しかも、文献は少なく分かっていることはとても少ない。だが、都市近郊に遺る城跡には埋もれた歴史を見つめる楽しさがある。今日はよい体験ができたと思う。妄想するだけでなく、できれば、もっと文献を読んで補完していきたいと思う。
 なお、付近には、谷地を隔てた東方の台地に名都借城、富士川を挟んだ西方には幸田(こうで)城の存在が知られている。

整備状況 〇、保存状況 △、アクセス △、WC ×、駐車場 ×
案内板が北側入口にある他は城内には説明板などはない。交通は、JR常磐線、東武野田線柏駅から免許センター行きバスで前ヶ崎城址公園下車で即城内。根木内城西端から、雑兵並み早足なら20分程度(笑)。

■ニコン、D7100、AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II、AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G ED〔写真10、11、13〕、f5.6〜8、ASA100〜400、絞り優先オート、マニュアル.〔写真3、8はiPhone5sで撮影〕
 今どきの外光は強いので、木立が多い廃城内は光と影の明暗の差が大きくオートでは調整が難しい。今回はマニュアル撮影が増えた。

(付録)
 メインの入り口の脇に、『新道竣成記念』という碑がひっそりと建っている。道路建設の顕彰碑である。裏側には、明治35年から昭和10年までの道路拡幅工事の経緯が記されている。その際に土塁が切り取られたり、用土として城郭の一部が用いられたとのではないかと疑ったが、そのような記述はなかった。

 一方、道路建設の所期の目的に、学童通学の便宜とともに「深田耕作」の便宜が挙げられていることは発見であった。明治期まで深田、つまり水の深い泥田であった(実際、明治36年測量の地図では、城址の周囲は沼田である)証拠であり、さらに古い中世では沼のような状態だったことの傍証と言えるのではないだろうか。


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