写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

年頭雑感

2019年01月27日 | 随想

年の初めから「今年の漢字」とか「流行語大賞」とかを話題にしようというのも何なのだが、フッと何気なく思いついたので少しおつきあいを・・・・っと、その前に、「年の初め」ということで思い出したことがあったので、それを片付けてから。

知っている人は知っているだろうが、「♪年の初めのためしとて 終わりなき世のめでたさを、松竹立てて門(かど)毎に 祝う今日こそ楽しいけれ・・・・」という歌、題名を「一月一日(いちげつ いちじつ)」といって、我が幼少の頃は、毎年、新年を迎えた1月1日は小学校の登校日で、講堂に児童・教師が集まって、この歌を歌い、校長先生の下手な訓話を聞かされ、紅白の大福餅をもらって帰宅する、という習わしがあった。

悪ガキたちは伝統の替え歌として、「♪松竹ひっくり返して 大さわぎ あとの始末は だれがする・・・・」などと茶化して歌っていたものだったが・・・・そう言えば、当時は、今みたいな「左翼教師」って、いなかったような気がするなぁ。全員起立して「君が代」を歌っていたし、鼓笛隊で「君が代マーチ」などという軍歌そのものを小学校5年か6年生のときに演奏していて、確か、運動会とかでPTAの前でも披露していたりしたくらいだ。そのときだって、喝采を受けこそすれ、批判めいた風潮など一切なかった。まだ社会が健全だったという証なんだろう。

子供の頃の記憶ってのはたいしたもので、今でも楽譜をソラで歌うことができる。出だしが、「ド、ド、ドド~、ミ、ファソラシド~ れ~ソシどシラ、れ~どシみど、そふぁみみれど、れソシれれれれ・・・・」(オクターブの高い音はひらがな表記してみた)。これらは主旋律のようなものに見えて、実は伴奏。ちゃんと本物の「君が代」のメロディが盛り込まれている、という優れものだ。あと、「錨を上げて」(ド~ミソ、ラ~ミラ、どれソど~・・・・)なども、楽器を持たせりゃぁ今すぐにでも演奏できるんじゃないかなぁ。

 


ということで、本題に入っていこう。

ユーキャン新語・流行語大賞」だが、かなり昔から、流行語を捏造して大衆に押し付けるサヨクの病理ということが問題視されていて、なにしろ、選考委員というのが、姜尚中とか、辛酸なめ子とか、左寄りに大きく傾がっている連中の寄り集まりである。まぁ、話題にはなるかもしれないが、評価には全く値しないので、歴代の流行語大賞一覧のサイト紹介で終わり。今、見直してみても、すっげぇ片寄ってるなぁ、という印象の他に何もなし。

 

次に、今年の漢字

これも、選び方ってぇのは、上の流行語大賞みたいな審査員が独断と偏見で決定という方法とは異なり一般人の公募による多数決である、とのことだが、公募ったって厳正に重複とか組織票とかチェックしてないだろうし、単にこれが一番多かったので、という言い訳めいた基準ではなく、「公益」法人だったら、らしい見識くらい発揮したらどうだぃ、と嫌みのひとつも言いたくなる、ってぇもんだ。

因みに、平成最後の応募となる平成30年は「」にしてほしかったなぁ。まぁ、31年の漢字になっても良いけど。

同じ漢字が何度でも大賞になることもある、ってのは1文字も漢字というシステムがダメってことなのかもしれない。だから、元号も基本2文字の漢字にしてるんだろう、ぅん。

 

ひいきにしているのが、サラリーマン川柳

悲哀があって、苦笑いするときもあれば、妙に納得したり、オトコってバカょのぉ、と嘆息してみたりする。歴代の投稿作品をみても、どれも秀逸。

HPには、気を利かせて、平成最後の優秀100句その1その2その3その4 なども出てたり、歴代1位作品を眺めて時代の推移を感じることも出来る。

もともとは昭和60年の秋ごろ、第一生命の社内報新年号の企画の1コーナーとして始まったものだというから、まさに俳句で言うところの不易流行を地で行く模範的な現象となった訳である。ま、一応、川柳と俳句は違うけど。

 

福井県丸岡町(現在は合併後の坂井市の一部)で始まった「一筆啓上賞」。

もとになった「一筆啓上」だが、そのあとに続く「火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、由来もしっかりしていて、天正3年(1575年)の長篠の戦い、あの織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を3,000丁の鉄砲三段撃ちで滅ぼしたという戦いだが、その陣中で、徳川家康の家臣、本多作左衛門重次(ほんだ しげつぐ)が妻にあてて書いた手紙である。お仙」とは当時幼かった嫡子・仙千代(本多成重)で、後の丸岡藩4万石の城主である。成重は丸岡に本多家の菩提寺として本光院を建て、父・作左衛門ともに藩主の墓所とした。

戦場から妻に宛てた手紙、と聞けば、今時の甘ったるい恋愛小説みたいなものを思い浮かべるかもしれないが、この本多重次という男、別名が「鬼作左」。天下人の家康に度々諫言したり、病気治療を渋る家康の前で、「さればお先に冥土にて・・・」と切腹をし出したりして早期治療を促したとか、ゴリッゴリの典型的な三河武士だったようで、まぁ、そんじょそこらのヤワではなかった。数々の戦で片目、片足の上、手指も創傷によって欠損していたと伝えられる。長男のお仙こと本多成重も猛将とされ、あの真田幸村を大坂夏の陣で破る武功を挙げている。

そんな本多親子に由来するのが丸岡の「一筆啓上賞」だ。入賞者・作品一覧を見てみると、どれも心に響く・・・・のだが、原典のような力強さ、歯切れの良さというものは、ちょっと見当たらない。センチ、センチのオンパレードと言ったら失礼になるだろうな。

 

あまりメジャーではないのかもしれないが、創作四字熟語。こちらは住友生命が主宰している。

発想は面白いんだが、ん~、もぅ少し気の利いたのができないものか、というのが正直な感想である。

じゃぁ貴様が作れ、と言われても、これは漢字の素養というものがなければ務まらないし、生憎、そういうものは持ち合わせてはおりませぬ。作る側ではなくて、読ませていただくのが精一杯の身である。

ものごとには「作る人」「食べる人」という関係が成立していて、それが固定している訳ではないはずなのだが、お湯を入れるだけのインスタントラーメンを作るとか食べるとかのCMでジェンダーとかが大騒ぎとなって放送禁止となったという理解できない場面もある。

最近では、それが一層進化してきて、家事手伝いをする「夫」が「妻」から受けるという「家事ハラ」とかも問題化してきているそうで、イヤハヤ、何をか況んや。

 

ちょっと引用が古いが、読売新聞2011年5月5日付けコラムに「寝台白布、これを父母に受く。あえて起床せざるは孝の始めなり」という、昔の学生が「遅刻」したときに弁明したという戯れ言を紹介している。

昔の学生さんたちって、ガクがあったんだなぁ、と感心させられることしきり。ご賢察のとおり、これ、「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」・・・・このからだは全て両親から、もっと言うならば遠い祖先から連綿と受け継がれてきた命というものの具現化されたものであるから大切にすることが親孝行の基本だょ、という、孔子と曾参(ソウシン)の問答を弟子がまとめた『孝経(コウキョウ)』に書かれている内容のもの。いゃあぁ、「起床」できなかったことを「寝台白布」にまで連想していくなんてぇのは今時の若者と言わず全世代を通じて、発想できるとはとても思えない。

・・・にしても、傷が絶えなかった我が身とすれば、このことからして親不孝者だったんだなぁ、と反省するばかりである。

 

フランスの作家にして、詩人、小説家、評論家などと多岐にわたる旺盛な著作活動によって「知の巨人」と称されたポール・ヴァレリーが「人は後ろ向きに未来へ入っていく」という金言を残している。それはまるで、湖に浮かべたボートをこぐように、だと。

ムーンウォークが、前に歩いているように見せながら後ろに進むのとは逆に、「目に映るのは過去の風景ばかりで、明日の景色は誰も知らない」というのが人生だ、と喝破している。


ぅ~ん、後ろ向きだからどこにでもぶつかり続けて生きてきたんだなぁ~、と、これまた納得することしきり。すぐ目の前というか目の後方に落とし穴があるかもしれないし、それを注意しようにも、参考とする自らの経験がどこまで通用するかの保証もない。

ボートレースには前を向いているコックス(舵手)がいるが、それに相当するのは、あるいは先人たちの残してくれた知恵、著作などではないか、と勝手に思い込んでいる。あるいは宗教なのかもしれない。巡り会えるかどうかは、また別の問題である。