「三昧」という言葉は「一つの対象に心を集中し、つぎつぎに浮かんでくる雑念を払って没頭すること」という意味だそうだが、今の我が読書の遣り方はとてもそういう状態にあるとは言い難い・・・。
いろいろな本を読み漁っていて、その読み方というのが、この本をチラッと読んでは他の本をチラッ、また別の本をチラッ、またまた別の本をチラッ・・・ってな具合で、今、手許の積んどく本が、まぁ我ながらあきれるほどたくさんある(ここの最下段にて紹介)。1つの書に集中できてない、というか・・・・。
まず、科学雑誌 Newton 2019年5月号「無とは何か」・・・「無」といいながら内容は盛りだくさんであり、非常に奥が深いですぞ。
ちょっとサワリを紹介すると、空気はその分子が占める体積は空間の体積の1000分の1にしかならず、つまり、空気は「すかすか」で、ほぼ真空だということ。その分子間が「すかすか」なだけでなく、原子そのものも、原子核と電子の間は何もない「無」の空間、つまり真空。どれだけ「すかすか」かというと、原子核は原子全体の10万分の1しかないということなので、原子核を地球に置き換えれば木星の軌道上に米粒ほどの電子があり、その間の空間は全くの真空というイメージ。それが「原子」のイメージであり、それは金属でも液体でも同じで、つまり、この世は本っ当にスッカスカだということ。
物理学が「無」と探求しているのと、仏教が「空」を追求していることに大きな関心を寄せているところだ。
次いで、山本七平の「渋沢栄一 近代の創造」。これは650ページを超える分厚さ。
たまたま、宝島新書「あらすじ 論語と算盤」を読み終えつつあったところ、2019年4月9日に「2024年をめどに紙幣を刷新し、1万円札の肖像画を福沢諭吉から渋沢栄一に、5千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎に切り替える」との報道があり、渋沢栄一について書かれている膨大な量の著書の中から、特に著者を特定して読み始めた。
渋沢栄一について理解するのに、松岡正剛の千夜千冊「日本創業者列伝」が簡潔に教えてくれる。以下、リンク先から。
・・・・民間で株式会社を最初に実験したのは渋沢栄一(埼玉1840~1931)だった。明治2年に商法会所を静岡におこした。そのころ渋沢が静岡にいたのは理由がある。渋沢はもともと血気さかんな尊王攘夷派で、頼山陽や水戸学のイデオロギーに染まっていた。高崎城を乗っ取り、兵備を整えたうえで横浜を襲って外人居留地を焼き打ちする計画にも参加している。計画は頓挫、渋沢はお尋ね者になる。そこへ一橋家の平岡円四郎が手をさしのべて雇ってくれた。
得意のソロバンで勘定方を手伝っていると、勘定組頭(経理課長)に抜擢された。そこへ一橋昭武(慶喜の弟)がパリ万国博に代表として行くことになり、渋沢も随行することになった。これで福沢のいう「西洋の風俗なる商人商社」を実見した。帰ってみると幕府は倒幕せずとも倒れそうになっていた。しかし渋沢は一橋を見捨てられず、一橋家が静岡に移転するのにくっついていった。そこでつくったのが商法会所なのである。渋沢は変節を続けて会社設立までこぎつけたのだ。
維新になると、そういう渋沢の新知識を政府に活用しようとする者が出てきた。大隈重信である。渋沢は口説かれて大蔵省に入り、たちまち大蔵少輔事務取扱という、いまでいう次官に取り立てられた。
さっそく財政計画をたてたのだが、これが受け入れられない。やむなく34歳で辞任、そこからが「民」にあっての渋沢栄一で、第一国立銀行をはじめ数々の銀行設立と会社設立にその才能を発揮していくことになる。この「官」から「民」に切り替えるところ、日本のリーダーシップにはとくに目立つ。
渋沢がプロデュースした会社は、抄紙会社(王子製紙・十條製紙・本州製紙)、大阪紡績、三重紡績(東洋紡)、東京海上保険、日本郵船、大日本麦酒(アサヒ・サッポロ)、東京瓦斯、中外商業新報社(日本経済新聞社)、帝国劇場(東宝)など、100社を超えた。
その渋沢のリーダーシップの条件は、「大局・倫理・価値」の3つを感じる合一観というものだった。・・・・
渋沢栄一については韓国から猛反発が起こったようだが、なぁに、いつものアレだ。アホだ。このことについては、韓国への絶縁状や月刊WiLL (ウィル) 2019年 6月令和特大号で程よく溜飲を下げていたので、ファビョる反応を見ていても面白かった。津田梅子への風当たりはもっと強くてもよかったのに、かの地では馴染みが薄かったのか反応が今イチだったのには思わず舌打ちしてしまったが、まぁ心地よく蔑みの目で見ていることができた。
積んどく本の全容をちょっと紹介しておく。ほぼ読み終えるのもいくつか出てきた。