写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

竹光(タケミツ)

2019年08月31日 | 随想

安岡正篤師が教える人物観察の極意に八観六験というものがある。

八観というのは人物を見極める8つの方法、といったような意味で、1.「通則観其所礼」通ずれば其の礼する所を観る(すらすらとうまく行き出した時に、どういうものを尊重するか。金か位か、知識か、技術か、仕事で返すかどうか、で人物が分かる。)、2.「貴則観其所進」貴(たか)ければ其の進むる所を観る(地位が上がるにつれて、どんな人間を敬うかでその人物が分かる。)、3.「富則観其所養」富めば其の養う所を観る(金ができると何を養い出すかで人物が分かる。)、4.「聴則観其所行」聴けば其の行う所を観る(善いことを聞いたら、それを実行するかどうかを観る。)、5.「習則観其所言」習えば其の言う所を観る(習熟すれば、その人間の言うところを観る。話を聞けば、その人の人物・心境がよく分かる。)、6.「止則観其所好」止(いた)れば其の好む所を観る(一人前になったら、何を好むかで人物が分かる。)、7.「窮則観其所不受」窮すれば其の受けざる所を観る(貧しいときに、何を受け取らないかで人物がわかる。)、8.「賤則観其所不為」賤なれば其の為さざる所を観る(落ちぶれたときに、何をしないかで人物がわかる。)、というもの。

 

我が身を振り返ってみれば、評されるほどの身分には至ってないので「偉い人は大変ですなぁ」などと達観しつつ、その「八観という見方をただ単に「ほぉ~、そういうもんですかぃ。。。」と他人事として読んでいるだけだが、「富めば其の養う所を観る」と見れば即、「おっ、妾を養うってぇことだな、甲斐性があるってことじゃん。」、「止れば其の好む所を観る」と聞けば、「やっぱ、それなりの地位にならにゃゴルフなんざぁやるもんゃないなぁ。」などと偏見たっぷりに曲解して楽しんだりしてきた。

一方、「窮すれば其の受けざる所を観る」、「賤なれば其の為さざる所を観る」などは妙に得心できたものだった。貧しくなったときにゃぁ変な誘惑があったりするとたやすく何でも受け取ってしまうような気がしてならないし、落ちぶれれば自動販売機の下を探ったりすることくらいは平気でやっているような気がしていた。

でも、少し冷静に顧みてみると、カネに困ったからといってもサラ金に手を出すことは、まずないだろうし、カネができたからといってもパチンコに走るということもないだろう、このあたりはたくさんの悲劇を身近で見てきたトシの功とでも言うべきなのかもしれない、などと思い直し、どこか心の奥に落ちぶれたりとも・・・の心意気も、しっかりと備わっているのかもしれないなどと思ったりもしたが・・・どうだかなぁ。

 

六験のほうだが、試験の「験」が入っているように、「試してみて」その人物を観察してみようというもので、ちょっとイヤらしさが滲む。まぁ、これも知識として見とけばいいや、ってなくらいのものだが、少し紹介。

1.「喜之以験其守」(之を喜ばしめて以て其の守を験(ため)す)~人間は嬉しくなると羽目を外す。しかし、人間には守らねばならない分とか節がある。自身をしっかり制御できるかどうかが試される。

2「楽之以験其僻」(之を楽しましめて以て其の僻を試す)~人間は楽しむと僻する(偏る)。楽しんでいる時に癖が現れるかどうかが試される。

3.「怒之以験其節」(之を怒らしめて以て其の節を試す)~怒った時に、自制力が失われないかどうかが試される。

4.「懼之以験其持」(之を懼れしめて以て其の特(独)を試す)~恐れおののくような状況に立った時、独立性の維持、信念の堅持ができるかどうかが試される。

5.「哀之以験其人」(之を哀しましめて以て其の人を験す)~人が哀しみに暮れている時、その情を解するかどうか、その人の全てが試される。

6.「苦之以験其志」(之を苦しめて以て其の志を験す)~苦しみの中にいる時に、その人が志を失うかどうかという意思の強弱が試される。

・・・・あ~ぁ、落第ばっかりだょ。

 

ところで、「富めば其の養う所を観る」に関連して思うのは、アメリカの大富豪たちが慈善事業に寄付する理由だ。根底に、「富の所有は罪である」というキリスト教の教えがある、ということも理解できない訳ではないが、おそらく、そんな殊勝な心掛けだけが理由ではないだろう(それが本気ならとっくにイスラム教に改宗してるだろうに・・・)。節税対策や名声ほしさ、など、いくつもの理由が重なっていて、社会的にも歴史的にも定着しているから、というのが理由と思われる。細かい点でいろいろな批判めいた部分があることも承知しているが、筋の通らないことではないので、これは文化として素直に認めるべきであろう。

 

人物論ではないが、富を得たがために態度がデカくなってしまったのが半島の下半分の国だ。

少し前まではご主人様の顔色を窺って卑屈な態度でちょこっとくすねたりしていた下賤の身だったのだが、いくつかの条件が重なり合って少し経済的な余裕を持つようになったとたん、汚穢の身という馬脚を露わすようになった。もともとが甚だ鄙陋の身、外見や経済環境だけは良くなっても性根は下劣そのままなので、やることなすこと全てが卑賤で劣等感に凝り固まっており、その反動として常に上から目線でものを言ったり、ウソ捏造を常としたり、国家間の合意や協定を平気で反故にしたり、約束というものをいくつも破ってみたりするなど、とにかく「超迷惑な乞食」・「たかりビジネス」と嘲られるのもむべなるかな、といったところである。

 

彼奴等が好き放題している理由に、日本には何をいっても反撃してこない、という裏付けの自信がある。竹島占領時、それが露呈し、成功体験として学んでしまった。昨今の、人里に降りてくるクマのようなもので、ヒトを畏れなくなったどころか、襲うまでになってしまっている。

 

鉄砲を手放さなかった百姓たちによると、江戸時代に鉄砲を武士よりたくさん持っていた農村があったといい、それは一揆をもくろんでいたからということではなく、熊・猪・鹿・カラスなどの鳥獣害を防ぐには「鉄砲」に頼る他なかったので、名主が掛け合って所有・使用を許されていたという、欠かせない農具の一つだった、とのこと。福井新聞の朝刊コラム越山若水」(2019/6/23:リンク切れ)から知った。



こで何を言わんとしているかは、ご賢察のとおりである。鳥獣害を防ぐには「鉄砲」が不可欠であったのと同様、鮮害を防ぐには火器・武器等の軍備が必要不可欠だということである。少しでも威力を示してやらないと、おとなしく引き下がらない。

面白いことに、憲法改正反対集会とか沖縄の辺野古基地反対集会の参加者には多くの鮮人が参加しているという。内政干渉も甚だしいが、大切なのは、それらが鮮人には都合が悪いこと、つまり、我が国にとっては非常に切要である、ということである。

日本海での違法操業などの対策が「水鉄砲」しかない、という情けなさがある。情けないというより、こういう任務に命を懸けている人たちが可哀想になるくらいだ。

 

こういう不逞の輩にはクマに対するような威嚇の発砲しかないのだが、如何せん、こともあろうに我が国の憲法がそれを禁じている。で、武器を使用しないということを賊国人たちは憎ったらしいほどよく心得ている。クマがノソノソと人里を闊歩していて、ときに襲ってきたりするようなものだ。

 

我が国の軍事費世界でも上位となっている。一節では自衛隊は断トツの戦闘能力がある、とのことだが、それはあくまでも「能力」として、という話である。「実力」ではない。どれだけカネをかけていようが、立派なモノを持ってようが、どれだけ士気が高かろうが、対外的に「使用しませんと宣言しているようでは、これはマスターベーション以外の何物でも無い。

 

ムカシ、困窮した浪人は自らの刀を売って、代わりに竹光を差して、威風堂々、武士としての威厳を保っていたが、切れ味の鈍い刀のこともあざけて竹光謂うようになっていった。まさに、(なまくら)。


刀のよぉで刀じゃぁないべんべん!ってなもんだ。切れるっよぉで全く切れない、格好が似てても、材質が竹(べんべん)!。

武器をたくさん買っても使えない、武器をいくら多く持ってても使えない、隊員がどれだけ優秀でも任務遂行できない、士気高くても叶えさせられない、隣国は、我が国の軍備が竹光」であることをよく知っているため、どんな卑劣なことをしても、無理難題を吹っ掛けても、「武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する。はずじゃなかったのかょ、と突っ込まれればそれまでである。あぁ

 

ルーツレポ太刀と刀~刀はあくまでサブウェポン