城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第二回・前編>

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。


では第2回を2014年3月21日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては3回目です。
第2回に行くところが前後して3回目になったのです
ですから前回は、第3回になります。(バスツアーの都合上です)


今回は京都・竹田駅から出発し第四番施福寺⇒第二番金剛宝寺(紀三井寺)⇒第三番粉河寺の三ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています


それでは打ち始めは「第二番 紀三井山・金剛宝寺(紀三井寺)

国道42号線、JR紀三井寺近くのお土産屋さんが並ぶ参道の向こうに、名草山が見えてきました
 

 
参道の向こうに赤い門も見えてきて、参道の燈籠が一対、右側の足元には「紀三井寺村道路」原標がありました


どっしりとした楼門(山門)が迎えてくれます。この階段を含め本堂のあるところまでは231段の石段です。石柱には護国院となっていますが、宗教法人としての公称だそうです

 

楼門は永正六年(1509)に再建されていますが、桃山時代の雰囲気を留めています。国宝で、高欄付きの縁をめぐらせた通路や、欄間の牡丹と蓮は色鮮やかです。この仁王さんはいつの時代かな。

 

門をくぐると、真直ぐに伸びた石段が行く手を塞ぎます。この「縁結厄除坂はこれより、25段、33段、42段、61段と続きます。
この目の前の坂は、母を背負いお参りの途中に鼻緒が切れ困っていると、鼻緒をすげて助けてくれたのが玉津神社の娘「かよ」であった。この縁で結婚し、後に舅がお金を出してくれ、ミカン船で豪商となったのが紀伊国屋文左衛門です。その縁でこの坂を「縁結び坂」と呼ぶようになったと云うことです



左手には「七鈴観音」様がお祀りされています。健康や、恋愛といった7つの様々な願いをかなえてくれると云う観音様だそうです



縁結び坂はあと少し。まだ25~へと続きます



縁結び坂上から振り返ると楼門が下に見えました



その左の「波切不動」さん
弘法大師が唐からの帰国の折り、船が嵐に遭い難破しかかった祭、、「不動明王」に祈念し、恵果和尚から授かった利剣で波を切り裂き無事に帰国できたと伝えられています。その霊力は災難を無難になるよう「厄除け不動」として厚く信仰されています



25段を登ったところの左は緩やかな坂になっています。一寸行って見ましょう

 

突当りは真言宗「善寿院」がありました。現在は救世観音宗のようです 

クリックすると元のサイズで表示します
 
ご本尊は「阿弥陀如来」さまでした



突き当りを右に曲がると、なんと!紀三井寺の本道の側面が見えるではありませんか!
あの急な石段を登らなくても、こちらからだと楽に登る事ができるようになっているのですね

 

石段に戻りましょう。「女厄除坂」三十三段を登ります。この右横には地蔵祠があり中を覗くと、井戸らしきところに蓋がしてありました



ここ「女厄除坂」を上った左手には「大日如来」さまがお祀りされておりました

 
次は「男厄除坂」四十二段です
 
 
さて最後の難関「還暦厄除坂六十段」です。あと一息、頑張って登りましょう

 
サー着きました。ここからは平地です。まず「六角堂」がありました。反対側は「新仏殿」です



袴腰を持つ、天正十六年(1588)に再建された調和の取れた姿の鐘楼です



右手は「大師堂」、正面が本堂です



本堂(観音堂)も宝暦九年に再建された物で、入母屋造、正面唐破風と千鳥破風、総欅造となっております。



大光明殿の正面にご本尊「木造十一面観音立像」、右に「千手観音立像」(共に秘仏)を祀られています

 
本堂に向かって右手の小高いところに立つ「多宝塔」・室町・文安六年(1449)再建の上層に高欄をめぐらせ、五智如来がお祀りされています



その北に建つ「開山堂」・草創は奈良時代・宝亀元年(770)来唐の為光上人が霊地を求め名草山に霊光を見、老松の下で千手観音を感得し十一面観音を祀ったのが始まりとされています



末社三社



仏足石」・お釈迦様が「寂滅」になると、もう一度お姿を拝みたいと云う願いが高まりました。足を拝むと云う当時の信仰の形から「仏足跡」が刻まれたそうです。この石を礼拝すると罪障消滅・所願成就の功徳をいただけるといわれています



紀三井寺には三つの名水の井戸があり、ここは「清浄水」と云い「楊柳水」「吉祥水」とをあわせ三つとなるため「三井」=「紀三井寺」の由来とされます



春子稲荷
天正十三年(1585)羽柴秀吉の大群が粉河寺を焼き打ちにし、紀三井寺に迫ったが、観音堂に仕えた「春子」と云う20才くらいの女性が、突如須弥壇の中から白狐に姿を変え身を翻し、霊力をもって武将豊臣秀長を威服し、「焼き討ち禁制」の書状を得て、紀三井寺及び在所を戦火から救った。人々は危難除け「春子稲荷」としてここにお祀りしたと云うことです

 
お参りを終え参道に戻って来るとふと古い建物が目に留まりました。2軒お隣同士でよく昔の良さを残されていて歴史を感じました。日本建築は美しいですね。何時までも残して欲しいものです



改めて振り返ると名草山にお寺が広がっていました。では失礼して次の札所に向かいましょう
 


そして「第三番 風猛山・粉河寺
宝永四年に再建された三間一戸の総欅造りの大門
 
 

仁王さん(金剛力士像)は仏師春日の作と云われます


大門を入ったところに広がる境内



朱塗りの橋に「長屋川」とあります
上の絵図に元禄八年には「餌差」(鷹狩りの餌調達役の役人)長屋があり、そこから名付けられたものと思われます


この不動堂を右に曲がります



そこには「右 粉河寺 左 かつらき山上 従是 二十八丁 役行者道」と「中津川路改修」碑があります
葛城山まで近いのですね。中津川はこの南、大門の前の川です。


右に曲がりますが、この川が「粉河」の名の起こりと云われます



静かな佇まいの「本坊」



朱塗りの「童男堂
「粉河寺縁起」によると猟師「大伴孔子古(おおとものくしこ)」が光明を発する地に庵を建て、一夜の宿を乞う「童の行者」が七日の内に千手観音を刻み立ち去ったが、後に観音であると知り深く仏法に帰依したといわれる。


又、同じ縁起の後段に「長者佐太夫」物語に、長者の家を訪れた「童の行者」が長者の娘の重い病を治し、娘から"さげさや(お箸箱)をお礼として受取り姿を消しました。翌春言い残した「粉河」の語を頼りに白い川を見つけ遡り草堂に至り、「"さげさや〟と袴を持った観音を見つけ、かの行者が観音であると悟り篤く尊崇したと云われます。



その童男大士石像(童男行者)ですが、この池より柳の枝を手に白馬に乗り出現したと云われます



三角堂「千手観音」・袴も"さげさや”も持たれていませんでした。
この話が「生身観音」の信仰を生み、病気平癒の霊験あらたか
として平安時代には寺勢盛んとなり「枕草子」にも記されております。
 

「馬蹄石」
 


太子堂」・聖徳太子は「争いを止めて和の精神を尊び、「17条の憲法」などを制定され政治を改め、文化にも造詣がありました



そして現れた「中門」です。こちらも天保三年に作られた、総欅つくりです


扁額の風網山は紀州藩10代藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)の直筆です

 

門を守護する「四天王」須弥山の四方四州を守る護法神

 

持国・増長・広目・多聞(じ・ぞう・こう・た→地蔵買うた)の順(東南西北)に並んでいます


門を入ると右手に「丈六堂」、左手は「本堂」



本堂は平屋の礼堂とうしろの重層の正堂が一体となり豪壮な雰囲気を感じます



ご本尊は「千手千眼観世音菩薩」秘仏で拝見できませんがご本尊のお姿のようです



打ち鳴らす「鰐口」



享保五年に再建され、八棟造と呼ばれ正面唐破風、千鳥破風、唐破風と重ねた重厚な屋根となっています
寺は大伴氏の氏寺で、鎌倉時代には七堂伽藍が建ち並び四万石を誇っていましたが、豊臣家の雑賀衆攻めの兵火でほとんどの堂宇を失いました。江戸時代紀州徳川家により復興されました



一寸境内を散策してみましょう
本堂左の「千手堂」・宝暦十年(1760)に建立され、紀州歴代藩主とゆかりの人をお祀りされています



本堂手前東の「丈六堂」・文化三年(1806)に再建され丈六の「阿弥陀如来」をお祀りされています



こちらがその丈六(1丈六尺の意味)の「阿弥陀如来坐像」さまです



文久三年に作られた「仏足石」・大行満願海の筆になります


風化が進み彫りに丸みが出てきています。紀三井寺にもありましたが少しずつ形が違っています


「市指定文化財 美術工芸品 阿弥陀如来坐像(露座仏)



江戸時代後期作のこちらも総欅造りの「阿弥陀如来」を祀る「念佛堂



こちらも市指定工芸品「盥漱盤(かんそうばん)(荷葉鉢)
紀州鋳物師「蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作だそうです



そして境内を出ると、入り口に案内板があった「旧南丘家住宅」が長屋川の東にありました



「餌差」(鷹狩りの餌調達役の役人)長屋で、藩主の鷹狩りの拠点だった建物だそうです

 

そしてバスの駐車場への途中の「大神宮」に「御神木」があり「この木に触れると霊力がいただけます」とあり、皆さん手を一杯に広げ抱えておられました。次に向かいましょう

ブログ紙面上これより後は後編に譲ります


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