城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第五回>パート2

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第6回になります。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません

今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。
今回もマイカーでのお遍路となります

前半の石山寺を後にして次にやって来ましたのは「三井寺」です。

車で行きましたので駐車場に一番近かったのが「豊饒池」でした。そしてまた観音堂に行くのにはこの池を南に行くのが一番近道です

楼門・仁王門
本当は現在はこの仁王門から入るのが通常ルートなので、先に紹介しておきます
宝徳四年に建立された甲賀・石部の常楽寺の楼門で、後に伏見城に移築され、慶長6年に家康により寄進されました。また、寺の総門は南西、疎水近くにあります

 
池に架かる石橋、その奥は「千団子社」子供の守り神、鬼子母神(訶梨帝母)をお祀りし、5月の祭礼は「千団子さん」で賑う護法善神堂です


拝観受付を通り観音堂への途中にある「水観寺」

御本尊は薬師如来をお祀りされており、西国薬師霊場第四十八番札所となっています。お堂は明暦四年(1655)に建立されています。両脇侍日光月光菩薩の美しいお姿です
 
観音堂への階段の側に建つ「十八明神社」
別名「ねずみの宮」といい太平記によれば当寺の戒壇檀建立の勅許がおりたが、比叡山の強訴により取りけされ、これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。その強念が八万四千のねずみとなり比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと記されています
 
この石段を登ってゆきますが、比較的なだらかで段数も200段なかったかな
左に祠がありますが、この場所は「浄妙坊跡」で三井寺の僧兵中一騎当千中の勇者、筒井浄妙の坊だったそうです
『京都祇園祭の山鉾の一つ「浄妙山」は、橋合戦(宇治川の合戦)において、敵陣に一番乗りをしたい一来法師が、狭い橋の上で奮戦する浄妙坊の頭上を「悪候、御免あれ」といい飛び越えた一瞬の場面を表現しています。また、この場面は先陣争いではなく、一来法師が浄妙坊をかばうために前に出たともいわれています。
 三井寺境内水観寺の側、西国第十四番札所観音堂へと続く石段の登り口には、浄妙坊を祀る祠があります。毎年7月、浄妙山保存会が祇園祭にあわせてここを訪れ、当山僧侶が供養し、山鉾巡行の無事を祈願しています。』三井寺HPより。くしくも祇園祭の時期に来られました
 

石段を登りきった左手に「百体観音堂」

堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所観音霊場の合計100体の観音様がお祀りされており、一度にお参りできてしまいます

ずらりと並んでおられます
 
何故か天井に方位版があります。四国八十八ケ所の三十五番、四十番札所にもありました
 

そしてこれが有名な大津絵「鬼の念仏」です。このお堂に奉納されておりました。
大津絵の画家のお店はこのお堂を長等神社に下ったところにあります
反対側は「鐘楼」です

中に入って見上げると鐘が見えました

この鐘は「童子因縁の鐘」と呼ばれており『昔、梵鐘鋳造の寄進に托鉢を行い、尾花川のある富豪に勧進を願ったが、そんなものにお金を出す気はない。子供なら家にたくさんいるから何人でも呉れてやると悪態をつきました。程なく梵鐘が出きあがったところ、不思議なことに3人の童子の遊ぶ姿が梵鐘に浮かび上がっており、その日にかの富豪の子供三人が行方不明になっていた。かの富豪はすっかり目覚め、それ以来慈悲深くなっ』たという伝説が伝わっています。
 
確かに3人の子供の遊ぶ姿が見えます。この鐘は第2次大戦時に供出され今はありません


百体観音堂の東は大津市が見下ろせる「観月舞台」となっています

  
石山寺にも舞台はありました。こちらははっきりを見る事が出来ました。清水の舞台を思わせます

その舞台から左に境内を見ています

左端は絵馬堂です

2枚をパノラマにしています

 こちらが「第十四番長等山園城寺(三井寺)」観音堂です

 「手洗水舎」で身を清めてお勤めをしましょう

 大きな鰐口の鐘を鳴らして仏様に挨拶をしてお参りです。千社札が多いですね


ご本尊は開祖智証大師円珍作と伝えられる如意輪観音(秘仏)で、向かって右に愛染明王坐像、左に毘沙門天立像が安置されています
また、延久四年後三条天皇の勅願により勅額を賜り聖願寺を建立、後に正法寺または如意輪堂と称しており、山上の華の谷にあったお堂は、文明十三年にこの地に移り、元禄二年再建され現在に至っています

 
この石造は15番札所にあったものですが、ここ十四番・石山寺の如意輪観音様のお姿です
絶対秘仏なのに何故お姿が分かるのでしょう

 本堂前には「水子地蔵尊」
 
 お隣には「宝篋印塔」が3基

 この上に展望台があり途中から振り返った観音堂

 なだらかな石段の先に「大津算盤」の故郷碑

 
江戸初期大津の片岡庄兵衛と云う方が中国風算盤に改良を加え日本算盤を作り全国に普及しました。大津は算盤発祥の地だったんですね

 
こちらの展望台からは大津市内が一望できます。お参りも終わり、綺麗な景色も見たので境内を見て帰りましょう
 
 
来るときに登ってきたなだらかな石段の側に建つ「弁慶引き摺り鐘」への道標
『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。 』三井寺HPより

 
順路を逆に取るとやけに極彩色のお堂が現れました「毘沙門堂」です
もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、現在地に移築され、内部は文様などが描かれ桃山時代の様式です

 
側には「衆宝観音」
三十三観音の一つで、この観音様を信仰すれば、大衆の求めて止まない財産が貯まり、福徳を授けられ出世が出来ると云う有り難い観音様だそうです

 
あの有名な弁慶にちなんだ「力餅(力持ち)」ですね

 
「天台智者大師」
中国天台山で修禅された天台大師で、智証大師はその天台山で修禅し法華円教をこの三井寺に持ってこられた、その報恩感謝を捧げるためお祀りされたようです

 
お隣の「微妙寺」 (湖国十一面観音第一番札所)
 
 
右に折れその先に架かる「村雲橋」
『智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去りました。
のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています。』三井寺HPより

 
「唐院」への参道
唐院は開祖・智証大師の廟所として最も神聖な場所で、入唐求法の旅で持ち帰られた経典類を納めています

 
金堂前の「天狗杉」
『室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。』と云う「天狗杉」です(三井寺HPより)

 
「金堂」
ご本尊は千三百年余り前、三井寺創建時に天武天皇から賜わったと伝えられ、絶対の秘仏となっていて、誰一人として仏様を拝んだひとはいません
天台寺門宗の総本山で、飛鳥時代、天武天皇十五年(686)に大友皇子の子、与多王が創建したと伝わります。
建物は淀殿により慶長四年(1599)再建された桃山時代の代表作の一つとされます。
三井寺は山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の対立・抗争による焼き討ちまた源平争乱、南北朝の抗争などによる戦火も加わって幾度も堂宇が焼失しましたが、その都度再建復興を遂げています。

 
この左に、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたという三井の霊泉があり、古来より閼伽水として寺の名前の由来となった霊泉があります

 
「堂前灯篭」
天智天皇が大化の改新で蘇我入鹿一族を誅し、その罪障消滅のため天皇自らが左薬指(無名指)を切りこの灯籠の台座下に納めたと伝えられています。そのため「園城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれます


近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼

 
今は2代目で、初代は霊鍾堂に納められている弁慶引き摺り鐘です

 
そして順路を逆に東大門(裏側)の見えるところに戻ってきました

 
門の北側に建つ「釈迦堂」
秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、この堂も食堂として移築されたものと思われますが、現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
 

その前の「弁財天社」
学問や芸事の女の神様です

三井寺はここまでです
そして次は、バスツアーでは巡拝箇所には入っていませんが、三十三ヶ所中興の祖「花山天皇」が出家して入られた番外「元慶寺」に向います

山科区の住宅と田圃に挟まれた渋谷街道と呼ばれている通りの北花山交叉点東を北に入ったところに建っています

 
天台宗「番外華頂山元慶寺」
開創は平安初期の貞観三年(868)桓武天皇の孫・僧正遍照が清和天皇の第一皇子誕生を期に発願。翌年、陽成天皇の母・藤原高子が伽藍を建立したのに始まります
陽成天皇9歳に即位し、元慶と年号が変わり「定額寺」となり寺号とした。当初は今の北西に当たる花山山の山際にあったようです

花山天皇は寵愛していた女御藤原忯子(きし)死別とともに出家を考えるようになった。懐仁親王の外祖父であった右大臣藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して花山天皇に出家を勧めさせた。
986年6月23日の明け方、天皇は藤原道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。兼家は三種の神器を皇太子の居所に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後で、懐仁親王は一条天皇として即位し、道兼の父兼家は摂政に就任した。謀略による政変(寛和の変)です
と云うわけで19歳の若さで出家されました

 
 
山門の梵天像、帝釈天像は京都国立博物館に保管されているため写真でしか見られません

 
観音霊場巡りの出発の寺として平安末期までは寺勢盛んでしたが貴族支配が弱まり、江戸中期には礎石が残る状態までに衰退し、寛政元年(1789)法親王により再興されました
 
本堂は寛政元年頃の再興と見られます
宝珠をのせた宝形造瓦葺となっており、ご本尊は京の七仏薬師の一つ「薬師如来」をお祀りされています
境内には僧正遍照の和歌「天津風雲の通い路吹き閉じよをとめの姿 しばしとどめむ」などの碑もあります
またお墓は南西200mくらいにあります

今回最後の札所はこの「第十五番新那智山観音寺(今熊野観音)」です

 
泉湧寺の参道を今熊野観音の案内板に従い左に折れ、
赤い鳥居橋を渡り
 
 
参道を行くと入り口の門につきました
 
 
手前の道標には「右 三宝大荒神道・洛陽楊貴妃観世音」となっています。この石段を降りて右に曲がっていきますと200mほどで着きます。ここから近道です

 
境内へと入ると、迎えてくれるのがこの「子守り大師」です

 
その後の石段を上がると「本堂」です
嵯峨上皇の命を受け、自ら彫られた十一面観音像の体内に、熊野権現翁より授けられた観音像を納められ、建立されたのが観音寺の始まりです
その後左大神藤原緒嗣が伽藍を整え観音信仰が広まり興隆しました
朝野の尊崇を受けていたが、応仁の乱の兵火により衰退したので、皇室の寺であった泉湧寺の塔頭として再興が図られました

 
本尊「十一面観世音」のお姿です。但し、境内の三十三ヶ所霊場巡りの石造です
日本一の大天狗と頼朝が呼んだ後白河法皇を悩ませた頭痛の持病を、こちらの観音様が枕元に立たれ霊力により平癒したと伝えます。以来頭の悩み治癒、智慧授けの観音様として信仰が広がりました
明治維新以後は修験道から脱却し弘法大師開創の観音霊場として信仰を集めました

 
本堂の右上に見えておりました「医聖堂」

 
医療界に貢献された人々をお祀りする多宝塔形式のお堂です

 
本坊脇に建つ「三重石塔」
創建当時と伝わる平安時代のものだそうです。なんだか重みが感じられます

 
本堂南に立つ「講堂」

 
講堂右横に何処からか集められた四本の道標
山しな(山科)・すぐいまくま(今熊野)・京大仏(方広寺の大仏)・ようきひかんぜおん(楊貴妃観世音)等の文字が見えます
 
 
本堂右のお祀りされた、いづれも観音様でしょう。聖観音でしょうか

 
如意輪観音様でしょうか

 
いづれも蓮の花をお持ちです
脇には他の仏様も

 
その右側には「ぼけ封じ観音」
第十二番岩間寺にもありましたね。ほぼ同じ形をされていて、近畿十楽観音巡礼の第一番札所

 
観音様の足元にすがり付いているのは、子安観音でしたら子供でしょうが、こちらはお爺さんお婆さんでした。

 
その年寄り達がずらりと奉納されております。チョット異様な感じです

 
その後は「弘法大師堂」
平安初期の天長二年(825)頃、東山にかかる瑞雲を見られた弘法大師がこの地を訪れ堂を建立されたのが観音寺の始まりだそうです
護摩修法を行う大師像をはじめ不動明王、愛染明王とともに平安時代基礎を築いた藤原諸嗣像もお祀りされています

 
「五智水」
大師が錫丈で突いた所から湧き出たと云う霊水です

 
境内に山門はなく鐘楼がありました

 
その前には供養塔、でもなんだか変です。多すぎたり足らなかったりしていますね

 
「熊野権現社」
熊野信仰に篤かった後白河上皇は、熊野権現を勧請し院の御所法住寺殿の鎮守とされた。この神社が新今熊野神社で観音寺はその本地堂として新那智山と号し、熊野修験者の本山に並ぶ扱いを受け多くの堂宇が建ち栄え、文暦元年(1234)崩御された後堀河天皇も御陵を築かれました

 
権現社の後ろ側に、医聖堂へと西国三十三ヶ所札所巡りへの道があります

 
休憩所前の「菩提樹」
ご存知、釈迦がこの木の根元に座って悟りを得たという菩提樹です

 
門前の道標にを進むと「来迎院」がありました
三宝大荒神をお祀りされおり、また、こちらの寺で「寺請証文(寺の檀家であると云う証明)」を受けた「大石内蔵助所縁のお寺でもあります。寄進の茶室「含水亭」や念持仏「勝軍地蔵」
など赤穂浪士の遺品が所蔵されております

 
こちらのお寺の近くにはこの泉湧寺やその塔頭・(七福神巡りで有名)、楊貴妃観音など見所の多い所ですので是非立ち寄ってみて下さい

今回はここまで、階段もほとんどなく楽にお参りさせてもらいました
次回は京都市内4ヶ寺です清水さん以外は平坦な所でルンルン気分で行けそうです
それでは乞うご期待! 

西国三十三ヶ所遍路旅<第五回>パート1

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第6回になります。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません



今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。

今回もマイカーでのお遍路となります
目指すは「岩間寺」です。瀬田川沿いから443mの岩間山山頂を目指し、曲がりくねった山道を登って到着しましたのは駐車場。中千町バス停からは歩いて50分ほどだ様です。お寺までは200mの平坦な道
 

ずらりと並んだ燈籠に迎えられました
 
 
信徒会館の側の鐘楼を横目に見て
 


参道にやってきました。銅製の黒光りした仁王さんに迎えられ



境内へと入ってきました。山頂の閑静な佇まいにすがすがしさを感じました
この「岩間寺」は泰澄大師が養老六年(722)元正女帝三十三才厄年の際のご病気を平癒されたご褒美として創建されました
 
 
「桂の霊木」
天正天皇の勅命を受けこの地を行脚されていた泰澄大師は、桂の大樹より千手陀羅尼が聞え、そこでこの霊木で千手観音を刻み、天皇の念持佛を体内に納め本尊とされました。その霊木の子孫です



「夫婦桂」と呼ばれ3代目だそうです



こちらが「第十二番岩間山正法寺(岩間寺)」本堂
ご本尊は、桂の木で造立した等身大の千手観音は失われたが、元正天皇念持佛と伝えられる秘仏千手観音(金銅佛・約15cm)で、インドのエンブ川で取れた砂金(エンブダゴン)で造られたと云います



先ずはお勤めです
この御本尊は毎夜衆生を救うため136もの地獄を駆け巡り、朝には汗びっしょりになって戻られ所から「汗かき観音」と呼ばれ、病や災いを除く厄除けに霊験があり信仰が篤く、泰澄が桂の木で刻んだ吉祥天と婆蘇仙人像を脇侍としてお祀りされています



この石造は15番札所にあったものですが、ここ十二番・正法寺の千手観音様のお姿です



「稲妻龍王社」
この銀杏の大木に住み雷難や火難を除くご利益があります



後ろの銀杏の木「火伏の銀杏」
かっては遠く鈴鹿峠からも見えたと云う杉などの巨木が多かったと云います



「大師堂」
当山開祖・泰澄大師と宗祖弘法大師をお祀りされています



「不動堂」
平安中期の大日如来の化身・不動明王と二大童子(制吨迦・矜羯羅童子)がお祀りされており、4・5・9~11月の17日には護摩が焚かれております。手前の黒いのは灰(護摩の灰)です
藤原期の薬師如来坐像と阿弥陀如来坐像もお祀りされております
 


その右手上にはお寺の鎮守社である「五社権現社」が祀られています
また、本堂横には「古池やかわず飛び込む水の音」の句を読んだと云われる「芭蕉池」が残っています



「白姫龍神」
泰澄大師が白山麓で修行中、白馬に乗った妙理大菩薩と云う姫神に導かれ山頂の池で祈ると九頭龍王が出現し龍王の本姿、十一面観音を感得したと伝えられるその姫神をお祀りされています
女性が拝むと美人になると伝わっています



この「雷神湧泉」というのは
上の神社からこの石段を下った所にある「雷神爪堀の湧泉」で、度々落雷で被害を及ぼしていた雷神を泰澄大師が法力で鎮め、今後寺に落ちないと誓わせ(雷除け観音と呼ばれる由縁)仏弟子にしました。当時水の乏しかった岩間山に、雷神は鋭い爪で井戸を掘り霊水を湧かせたと云います。別名「長寿水」「厄除け水」といわれ参拝者の喉を潤しています



「西国霊場お砂踏み所」
西国三十三ヶ所の札所のお砂を納めて、お参りしたと同じ功徳を得られるとされています。こちらは残念ながら、2013年9月の18号台風の豪雨被害によりがけ崩れを起こし、すっかり流されてしまいました。一刻も早い再興を願わずにはいられません



会館の側に建つ「ぼけ封じ観音」



この観音像の前に「仏足石」が置かれ、この下には「近畿十楽観音」のお砂が納められており、十ケ寺のお砂を踏み観音様と縁を結び、健康で長生きできるように祈願されます



こちらは四番の霊場で、西国の観音札所が3箇所も入っておりました



このモダンな燈籠様なものは何だと思いますか?
「この石 一願石といふ 一心に観世音に念じ持ち上げ 思いの外軽からは 所願成就に  給ふと言ひ伝ふ」とあります。
私も中の鏡餅様の石を持ち上げましたら上がり願いが叶うのでしょうか?



こちらの道から次の札所「石山寺」へ行けるようです

 
でも車なので暫らくはこの景色を愛でて行くことにしましょう。因みに笠取方面を望んでいます



続いてやってきたのは「第十三番石光山石山寺」
天平十九年(747)聖武天皇の勅願により良辨が開創され、東大寺別当の出先機関として石山寺所が置かれ諸堂が整えられたといい
平安時代の観音信仰の隆盛に伴い京都に近い天皇、貴族、諸民の崇敬により参拝者を集め、いわゆる石山詣でといわれました。特に陰暦10月甲子の日の参詣はご利益大とされます

 

頼朝により寄進され、桃山時代に修復された「東大門」
運慶・湛慶作の仁王像



極彩色が桃山文化らしいですね



門を潜ると石畳の参道が続きます。左右には院や坊が並びます



「宝性院」
石山寺事務所・なにやら可愛いキャラクター「おおつ光ルくん」が並んでいます



「拾翠園」
慶長年間に淀殿寄進によって整備されたお庭です。秋には紅葉も楽しめます



「公風園 白耳亭」
通常は非公開らしいですが、紅葉が素晴らしいようで秋に行って見られては・・



「寶印大黒天堂」
本尊は950年前3人の僧の夢告により湖中より引き上げられたと伝わっています。



「世尊院」
信長が石山寺の一部を利用した石山城の塔頭で、この世尊院に来て、二日間鷹狩りをしたそうです



極楽浄土に咲くといわれる蓮の花・お寺に似つかわしいですね



拝観受付所を入るとすぐの「くぐり岩」



今で云う大理石で、お堂などの体内潜りの様で、池は天平時代からあるようです



「那須与一地蔵尊」
元暦2年(1185)の屋島の戦いで、源義経に従軍し平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした事で有名です



「茶丈東池坊密蔵院」
愛と苦悩の傷心した「島崎藤村」を和ませたのは、源氏物語、芭蕉の幻住庵跡であり瀬田の清流だったのでしょう。敬愛する西行や芭蕉のの如く旅をし足を休めたのがこの「茶丈庵」であり、2ヶ月の寄宿生活を送りました



昔このあたりにあったとされる「水車」。脱穀をし、また近年には水車を踏み高い所へ水を上げていた様です



さて本堂に向かいましょう。この66段の石段の先にあります。
足の悪い方は石段左に回りこみ懸下木造つくりの本堂の舞台下からなだらかな石段もあります



石段の途中にある社



登りきると右手に「観音堂」があり、三十三ヶ所の観音様がすべていらっしゃいます



確かに33体の観音様です



その隣は「毘沙門堂」
一重宝形造の堂内には兜跋毘沙門天(重文)、吉祥天、善膩(ぜんにし)童子の3体をお祀りし、造営の方式や特殊な架構・意匠を用いた特色溢れるお堂となっています

反対側には本堂の前に建つ「蓮如堂」
硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の建物。慶長期に「淀殿」により、三十八所権現社の拝殿として建てられましたが、後に蓮如上人が祀られるようになりました。
懸造りの鎮守拝殿の一類型として貴重な建物だそうです

これらの前庭には「硅灰石」の岩山硅灰石の荒々しい岩がごつごつしており、石山寺と呼ばれる由縁となっています

左手「蓮如堂」から正面の硅灰石の岩

正面の硅灰石の岩から右手の「御影堂」

2枚をパノラマにしたもの

硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています

その前には四方に四国八十八ケ所霊場のお砂を埋め、これを巡ると八十八ケ所を巡ったと同じ功徳があると云う宝篋印塔が建っています

蓮如堂より石段を登ると「本堂」に出ます

本堂内陣に安置されるのは、安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集め、聖徳太子の念持仏を体内に納める本尊如意輪観世音菩薩。日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎です。

石山寺縁起によれば、東大寺大仏殿造営に際し聖武天皇は金のないことを憂い、命を受けた良弁は金峯山寺に籠り「瀬田の霊山へ行け」との夢告を受けました。瀬田で出合った比良明神の化身の老人に教えられ石山に庵を結び如意輪観音を祀ると、陸奥で金脈が発見され、このとき祀った如意輪観音像が岩から離れなくなったので、この寺を興したと伝わります



この石造は15番札所にあったものですが、ここ十三番・石山寺の如意輪観音様のお姿です



寄棟造りの内陣は平安時代中期の本堂と、慶長年間に淀君寄進の寄棟造りの外陣・礼堂と、その両棟を結ぶ相の間によって構成されており、本尊と同じ岩盤の上に建つ、総桧皮葺の県内で最古の建物です。

裏より見た本堂です。懸造(舞台)がよくわかります
礼堂と相の間は「淀君」の寄進により慶長7 (1602) 年増築されたといわれています

相の間にある、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなむ「源氏の間」です

また、平安時代以来「蜻蛉日記」「泉式部日記」「枕草子」「更級日記」など文学作品の舞台となりました

人形が置かれいかにも当時の様子を髣髴とさせてくれます

「三十八所権現社本殿」の建つ硅灰石です

「三十八所権現社本殿」

石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で硅灰石の上に建っています。慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立されました。(写真撮れず)

本堂横の「経蔵」

16世紀ごろに建立された高床の校倉で、かつては重要な経典や聖教類などが収蔵されていました。頭貫木鼻の意匠は桃山時代の建立と考えられ、数少ない切妻造りの県下で最古の校倉造です。

その床下に「腰掛石」と云って昔よりこの岩に座ると安産すると云い伝えられています

 

その横には「紫式部供養塔」と「芭蕉句碑」

源氏の間を見て詠んだ歌と云われます
「曙やまたむらさきにほとゝきす」

一段高く石段を上ったところに「多宝塔」
源頼朝の寄進で建久5 年(1194) に建立された日本最古の多宝塔。下重が大きく、上重は搭身が細く華奢で軒の出が深い優美な姿で、日本三大多宝塔の一つです。

本尊は快慶作の寄木造り漆金箔張の典型的な鎌倉様式の風格を備えた大日如来です。

その西の奥まった所に見たことのない形の石塔がありました
どうやら「牛塔」と呼ばれるものらしい(長安寺宝塔
ここでは「めかくし石」と呼ばれています。
目隠ししてこの石を完全に抱けば所願成就と云われるそうです

「めかくし石」の後方北側にある「源頼朝」と「亀谷禅尼」供養塔
頼朝は石山寺とは東大門や多宝塔を寄進していることで深いつながりがあります。乳母と言われる亀谷禅尼はどういう関係なのでしょう
亀谷禅尼は頼朝の娘の乳母であり、頼朝に仕える中原親能の妻。また大江広元は弟で、
頼朝とは弟の広元との関係から側近として活躍したというウェブの記事がありました

そこを斜め北に行くと「芭蕉庵」
月見亭の隣にある松尾芭蕉ゆかりの茶室。芭蕉は石山寺に詣で、「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたばしる霰かな」といった句を残しています。

その東側は近江八景「石山秋月」で有名な「月見亭」
後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、その後再建や修理を経て現在に至っています。はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。

建立時よりの天皇の行幸が記されています

月見亭の北に佇む「心経堂」
花山法皇が西国三十三ヶ所観音霊場を中興されてより千年の間に納められた「般若心経写経」が納めれています

鐘楼に向かう途中に「若宮」があります
壬申の乱で破れた大友皇子をお祀りされているそうですが、確かに破れた地は瀬田の唐橋でこの近くですがその霊地はこの近くに3箇所あります。でも石山寺は知りませんでした。こちらのサイトにも書かれています
只、平成三年に白鳳期の瓦が出土し開創が7世紀に遡る可能性があり、大友皇子(弘文天皇)の霊を祀られたという寺の起源もあり、裏付けとなるのでは?

石段を下って「鐘楼」堂です
多宝塔を下に降りると鐘楼があります。重層袴腰、檜皮葺の入母屋造で、頼朝の寄進と伝わっていますが、様式などから鎌倉時代後期の造営と考えられています。上層に吊るされた梵鐘は平安時代を降らないもので、重要文化財に指定されています。

鐘楼から下る途中に見た「硅灰石」

下った左に建つ「御影堂」

真言宗の開祖弘法大師、石山寺開基の良弁僧正、石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置するお堂です。単層の檜皮葺で、内部は室町時代初期を降らない様式となっています。

御影堂から出口に向かって帰り道になり、途中にある「大湯屋」

中はどんなになっているのでしょうね

先ほど参道脇に門より見えた「大黒堂」に戻ってきました

石山寺大黒天は万寿元年(950年前)に、ご本尊は3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。室町時代(約650年前)には秘仏ご本尊の前にお前立ちの仏様が建立されました。

東大門を外に出ました。北に塀沿いに行くと

「朗澄大徳遊鬼境」と云うものがあります
約八百年前の中興の祖 朗澄律師ゆかりの庭園。朗澄律師は自分の死後鬼の姿になって、石山寺の一切経と聖教を守護し、人々の降魔招福を誓い入寂されました。大きな石に刻まれているのは「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄律師のお姿です。

石山寺の説明については、石山寺HPを参考にさせていただきました
色々見てきましたが、石山寺に関する詳細はこちらにも紹介されております

 
門の西には史跡「石山貝塚」がありました。知りませんでした



詳しくは説明板をお読み下さい

 
貝塚のモニュメントです
 
 
同じく側には、弘法大師が弘仁二年(811)3ヶ月修行された所縁の「三鈷(金剛杵という法具)の松」です

 
「東海道名所図絵」にも描かれています
 
今回は長くなりましたので、この後は後編にゆずります
 

西国三十三ヶ所遍路旅<第十一回・前半>

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前回の続きですが・・・

では第11回を2014年6月17日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第5回になります。
と云うのは今回の2ヶ所は通常ならば2014年の11月に行く事になるはずですが、季節的に冬より今の時期に行った方が船の欠航もなく行きやすいからのようです。
バスツアーの都合でこうなりました
尚、第5回は京都市が中心となりますのでマイカーで、5月に行く予定でしたが諸事情により遅れてしまい行けなくなりました。今の所、第5回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません



今回は第三十一番長命寺寺⇒第三十番宝厳寺の二ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています

それでは打ち始めは「第三十番宝厳寺
宝厳寺には湖西の今津港や湖東の彦根港からの船便とここ長浜からのクルージングで20~30分で竹生島に着きます。
昔は手漕ぎの小船で渡った琵琶湖に浮かぶこの島は観音浄土補陀洛山にも見えたことでしょうね

 
島に張り付くように諸堂が建てられております
「竹生島縁起」によると神亀元年(724)「行基」自ら彫った弁財天をお祀りしたのに始まるそうです


翌年観音堂を建て、島には延喜式神名帳に載る古社「都久夫須麻(つくぶすま)神社」があり、浅井の祖神を祀る信仰があったようです。

 
クリックすると元のサイズで表示しますそこに水の神の信仰が結びつきインド伝来の弁財天が招来されたと思われます
その弁天堂(本堂)へ、先ず現れるのは167段の石段です
 
 
上の所にある「瑞祥水」
御本尊大弁才天様の御託宣により、深さ230メートル(湖底下約 130m)より湧き出た霊泉です
 
その上の道を右に、まずは三十三ヶ所札所巡礼ですので、本堂より先に「観音堂」へ向かいます
 
 
観音堂の前には「修行大師」の像が立っておられました

 
第三十番「竹生島宝厳寺」です
観音堂
この唐破風の門は秀吉が築城した大坂城の「極楽橋」を豊国廟の「極楽門」に1600年に移築された物を、再度ここ秀吉の最初の城主の地長浜に、くしくも秀頼によって慶長七年(1602)に「宝厳寺唐門」として移築されたということのようです

 
軒先瓦
 
 
苔むした桧皮葺が趣きありますね
豪華な彫刻、精緻な欄間彫刻や華麗な天井板など桃山文化の特徴が印象的な華麗さを見せてくれます。後ろ側が観音堂になっています。それではじっくり観賞しましょう

 
正面中央の大型の蟇股、内部を牡丹彫刻で埋め尽くされ、赤黄緑の極彩色に彩られています

 
大虹梁上の蟇股(牡丹文)と松に尾長鳥の彫刻
 

内部から見た唐門
 

裳輿

 

獅子の木鼻


黒塗りの躯体に極彩色の彫刻
 
 
  
 
観音堂正面上の梁、裳輿    極楽鳥?
 

観音堂内部の「折り上げ格子天井」にも装飾が施されています
このお堂は傾斜地に建てられた掛造りで、我々がお参りしています仏間は2階にあたっています。
先にも記しましたが、神亀元年(724)「行基」自ら彫った弁財天をお祀りし、翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。
それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師など来島修行されたと伝えられています。
 
西国観音巡礼の札所となって以来隆盛期を向かえ、中世には戦国武将たちの祈願所となり坊舎30余宇の隆盛を見ました。
が大火や地震により堂社を失ないましたが浅井氏、信長、秀吉等が復興し、観音堂は秀頼が片桐且元により再建したものです。
 
本尊十一面四十二臂千手千眼観音は秘仏となっていますいやー確かに凄いですね。
これが桃山文化の芸術なのですね。文化に触れたところで、お参りも終えたので宝厳寺本堂にもお参りしましょうか
 

今来た道を唐門より出た所に「神変大菩薩(朝廷から役行者に対して贈られたう諡号(しごう)堂」
 

向こうに見えるのは「月定院」と先ほど通ってきた「水盤舎」ここを右に階段を登って行きます

 
きつい階段ですね。本堂まで167段の石段が続きます。さぁー立止まっていないで足を上げてゆきましょう


おや、夏にはよく見かけるんですが、蜥蜴が這い出してきました


上の階段の最初の踊場の右にある「鐘楼」です。立派な袴を穿いています
 

「十五枚笹」と云う寺紋でしょうか、入り口に装飾されていました
 

本堂前境内に上がった所の左脇に建つ祠「妙音天堂」、弁財天は大日経では「妙音天」と呼ばれます。


その向かいには「石造五重搭」
「地・水・火・風・空の五大をかたどったものといわれている五層の仏塔です。石材は滋賀郡の山中から採れる小松石で、初重塔身には四仏が彫られています。初重以上の屋根はその上層軸部と一石彫成となり、上に相輪あげたての形式は鎌倉中期の石塔の特徴を示しています。」宝厳寺HPより


さてこちらが宝厳寺本堂(弁天堂)です
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。さすれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使にとしてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。 西国三十三ヶ所巡礼の旅HPより


明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし、神社に改めよという命令が下りました。

しかしながら全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和十七年現在の本堂が再建されました。西国三十三ヶ所巡礼の旅HPより


本尊大弁才天は、日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十札所として参拝の方々の姿が絶えずその詠歌の声が響いています。
「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して」
古くは平経正が琵琶をひいて戦勝を祈願し、謡曲『竹生島』など数多くの音曲にもこの島の美しさがたたえられています。いまもなお、神秘とロマンが一杯に秘められています。 西国三十三ヶ所巡礼の旅HPより
この弁財天画像は堂内に描かれていているもので、本尊の弁財天は秘仏となっております

弁天さんもお参りしたので「都久夫須麻神社」へもお参りしましょう

本堂の南に立つ、江戸時代初期に焼失したと言われ、約350年ぶりに復元された「三重塔」

その側に建つ「雨宝童子堂
右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つ童子形の神像で表される。天照大神が日向に下生(げしょう)したときの姿。また、大日如来の化現(けげん)した姿ともいわれます。
初めて知りましたが奈良・長谷寺にもお祀りされています

宝物殿の下には「三十三所奉安所
三十三ヶ所の観音様が安置され全て巡拝出来てしまいます

ここを下って行き神社に行きますが、先ほどお参りした観音堂に出てその先に神社はあります。船着場も目の前に見えています


途中にある子安観音様です


都久夫須麻神社へは観音堂を通ってゆくことになるのですが、観音堂を出た所に神輿が1基置かれていました。この神輿もおそらく桃山時代のもので伏見から持ってこられたものではないでしょうか。豪華な極彩色が今でも残っております

その右手からが「舟廊下」と呼ばれる神社への渡り廊下になっております

朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の船櫓(ふなやぐら)を利用して作られたところから、その名がついています。宝厳寺HPより

これも唐門、お御堂と同時期に桃山様式で作られたものです。
渡り切った所より振り返って見ています

そこを渡りきると「都久夫須麻神社本殿」にでます
先に書いたように、延喜式神名帳に載る古社「都久夫須麻神社」があり、浅井の祖神神を祀る小祠が建てられたのが創建と伝えられます。

本殿はもと「伏見城日暮御殿」と伝えられ舟廊下を含め秀頼が移築したものだそうです。こちらにも精緻な欄間彫刻や華麗な天井板画など桃山文化の特徴が見事に残されています

『「近江国風土記」には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう』ウキペディアより

神社本殿の全景です。舟廊下の修理中のため一部画像を加工しています

 

本殿前の、右より「江島大神」「厳島大神」「天人忍穂耳神社」「大己貴神社」
天平三年(731)、聖武天皇の参拝の折、社前に天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと・稲穂の神、農業神)・大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命のことで古代日本の国づくりをされた神)神殿を、新築し祀ったといわれます。


本殿は永禄元年(1558)の大火により焼失しましたが、戦国大名浅井氏の助力によって再建され、更に慶長八年秀頼によって改築され、現在の姿になりました。



秀吉ゆかりの遺構にふさわしく狩野永徳・光信筆の襖絵や絵天井があり、特に60枚の格天井は金箔の濃淡に四季の花弁を繊細なタッチで画いた秀作となっています。高台寺蒔絵で花鳥模様が施され、絢爛豪華な桃山文化が残されております

右手には「白巳大神」がお祀りされておりました

 

平経正が木曾義仲を打つため社前で読経を行い、夜間、琵琶を奏でると、明神が経正の袖の上に白龍となって現れたと言い戦勝祈願が叶うしるしと喜び歌(千はやふる神にいのりのかなへばやしるくも色のあらはれにける)を詠んだと云われます。

弁財天堂

三大弁財天は厳島・江ノ島・竹生島と云われます

湖に向かって龍神拝所が設けられ、その下にはの鳥居が立っておりました
今は「カワラケ投げ」の鳥居となっていました
上の拝所より投げたカワラケが鳥居の間を通ると願いが叶うとされていました

湖から見た風景です
訪れたときは、左の屋根で覆われた舟廊下が修理中でしたので、下の舞台の木組みは残念ながら拝見できませんでした

弁天堂横より舞台の下に抜ける参道左にある「黒龍堂」です
黒龍大神と黒龍姫大神がお祀りされているようです。黒龍は八大龍王の一尊で、龍王は大海に住み雨を降らせる神で、また釈尊の誕生時には歓喜の清浄水を降らせたと伝えられ、修行者の修行無事、道念増進の守護神でもあります。隣に立つ大木はここより黒龍が湖より登ってくる木と伝えらる神木です

ぐるりと観音堂、宝厳寺本堂、舟廊下、都久夫須麻神社と巡って、港に戻ってきました

港の岸壁に川鵜の生態が説明されており、竹生島の自然が危惧されていると書かれていました。折角の札所の景観が何時までも保たれるように願いたいですね

さてそれでは島を離れ次の札所に向かいましょう

と云うところで、この後は後半に譲りましょう


西国三十三ヶ所遍路旅<第四回>

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第4回を2014年4月11日に行ってきました。
と云っても、実は今回はマイカーでの巡礼となりました
と云うのは今回の3ヶ所は京都出発の人にとっては、云わば自分の庭のようなところ
そのためか2催行予定日に申込をしておりましたが、
どちらもバスツアー催行の最低人数30名に満たなくバスツアーでは行けなくなりました
第5回も京都市が中心となりますのでマイカーの予定です

今回は自宅より出発し第十一番醍醐寺⇒第十番三室戸寺⇒第九番興福寺・南円堂の三ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています
 
それでは打ち始めは「第九番 興福寺・南円堂
 
 
興福寺は当然奈良市です。さすがに国際観光都市です。外国の方が多いですね。鹿もオモテナシに鹿煎餅をねだっておりました
 
 
この日は日差しが暖かく鹿もお昼寝
 
 
マイカーで出掛けましたので、駐車場から先ず目に入ってきましたのは興福寺の「五重の塔」と、「東金堂」でした



東金堂
今回始めて気づいたのですが、「金堂」は「金堂」と「金堂」と二つあったのですね。いや現存しませんが基壇跡の残る「西金堂」がありました
流石に立派な建物です
本尊薬師如来は白鳳期の日光月光菩薩を脇時として従えています。また「阿修羅像」を含む「八部衆」も国宝館に収蔵されています



五重の塔の横に出てきました。そして「南円堂」が見えています
五重の塔と東金堂はともに室町時代に再建されております
 
 
再建中の「中金堂
興福寺は中臣鎌足の妻鏡女王(かがみのおおきみ)が山科に建立した山階(やましな)寺に始まり、飛鳥に移転し厩坂寺と改め、平安遷都共に現在地に移って興福寺と改称されたと云うことです
 
 
その南側は「南大門跡」の礎石が復元表示されております
平安時代は南都北嶺と呼び、室町鎌倉期は大和一国を支配する権勢も、南都焼き討ちをはじめ幾多の天災兵火に遭い、室町末期の大火以後は復興されず、唯一南円堂だけは復元されました
 
 
その「南円堂」です。こちらが第九番の札所となっています
 
 
八角円堂、単層本瓦葺、寛保元年(1741)に復元されました

 
「金銅燈籠」これは平成の作ですが、かっての奉納されていた弘仁七年(816)作の燈籠は国宝館に収蔵されています


北円堂を参考にしたとされますお堂には、運慶の父康慶によって作られた「不空絹索観音」様で、信仰すれば、臨終にも安心を得られると云われます。こちらでお勤めします。堂内は非公開となっており残念ながらお姿は拝見できません。10月17日のみ開扉されます
 
 
右手のお堂は「一言観音」と呼ばれ、すべての願いを一つづつ叶えてくださる観音様です。
 
 
「一度に多くを願わず一つ成就すれば、次のお願いをしましょう」とお諭ししておられます
 
 
こちらで御朱印をいただきます
 
 
大寺院だけあって多くの堂宇が存在しますが、肝心な堂宇も抜けております。こちらは鐘楼です
 
 
不動明王堂

 
堂前の一対の北の燈籠です
 
 
猿沢の池より入ってきたところにある燈籠、お百度石もあります
 
 
こちらがその石段で、下に猿沢の池が見えます
 
 
南円堂の宝珠です
 
 
五重の塔の法輪と東金堂の鬼瓦
五重の塔には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されております
 
 
この他にも三重の塔、国宝館、北円堂、菩提院大御堂、大湯屋等文化財国宝仏像など見所は多数あります。が、お遍路を続けましょう

さて続いてやってきましたのは「第十番明星山三室戸寺」です。
宇治平等院も程近くにあります

 

駐車場の参道を歩くと「戦川」に架かる「蛇体橋」を渡ります
この川を挟んで戦があったようです。『新羅から大和へ凱旋してくる神功皇后に仲哀天皇の2人の皇子・香坂王と忍熊王兄弟が反乱を起こし、忍熊王は宇治のここ「戦川」を挟んで戦い敗れた』と云う歴史があるそうです
 

入り口を入ると山門までの参道の右手には、ツツジや紫陽花の池泉回遊式の庭園が見事です。

朱塗りの山門がひときわ美しく映えています

石仏や・・

薬師如来の祠も祀られております

この60段の石段を登れば本堂です

本堂まで石畳が続きます

本堂と境内の風情
現在の本堂は文化十一年(1814)に再建された三間の向拝・唐破風の屋根をもつ重厚な重層入母屋造りで内陣に須弥壇を設ける建築となっております

宝亀元年(770年)、光仁天皇は宮中を金色の光がさし、その源を藤原犬養に探させた。すると宇治川の支流、志津川の上流にある淵に観音が出現し、滝壺に飛び込むと、光を放つ蓮弁が1尺2寸ばかりの千手観音像に化し、この渕に観音を祀るお堂を立てました。
その後、光仁天皇の皇子桓武天皇が805年に二丈の白檀の本尊千手観音を造立し、この仏像を体内に納め秘仏とし「御室戸寺」を開いたとされています

この本尊は1460年の全山火災の際に灰となってしまいましたが、胎内仏は無事で現在でも厨子に安置され秘仏となっております。これはそのお姿・本尊を模したお前立ちのようです。厄除け病気除けの信仰を集めております

鰐口

この千手観音像を宇治の離宮(御室)に祀って「御室戸寺」と号しましたが、その後、光仁、花山、白川の三帝の離宮となったことから、「三室戸寺」の名になったと言われています

霊宝殿にはこの阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来や観音・勢至両菩薩を始め清涼寺式釈迦如来と毘沙門天がお祀りされています
その背後には室町時代の十八神社社殿、があります。


阿弥陀堂

東には鐘楼・三重塔
どなたでも鐘を打つことが出来ます




元禄年間の建立で兵庫県の三日月町から移されたものです

霊泉・不動水

宇賀
弁天さまが宇賀神と合わさり、福徳を授ける神として、白蛇の体を持ち頂上に老翁の形で現されています

「宝匡印塔」

お願い地蔵
六体の仏像が刻まれています。上部は何だったのでしょう

本堂の梁の彫り物・水ですね、何故?

観音様が出現された志津川の滝壺の渦を表しているようですね

願掛けの絵馬ですね、お釈迦様の仏足石が描かれていて、その徳を戴けるよう願って掛けられていました



「源氏物語・宇治十帖」に登場する「浮舟古跡」があり、周辺にも蜻蛉、手習、総角、早蕨の古跡があり物語ファンに人気です

「山吹や 宇治の焙爐の 匂うとき」芭蕉句碑

このお寺には四季折々の花々が咲き競います。庭園の躑躅、紫陽花は特に知られ、本堂前の蓮の花はさながら極楽浄土を表わしているようです。今は石楠花が咲き始めました

阿弥陀堂の北側にありました
盛りを過ぎた椿もまだ咲いております

赤は色鮮やかですが、ポロリと落花するさまは無情を感じます

入り口を入ったところにあった木に咲いていた花です

名前は知りませんが、赤と云うよりピンクが色鮮やかでした。「紅花常盤満作」ではないでしょうか



本堂前の蓮の根、時機到来を待っています

庭園に咲き残っていたしだれ桜
額に見立てて観賞したら、次の札所に向かいましょう


京都伏見醍醐にやって来ました 「第十一番深雪山・醍醐寺
理源大師が貞観十六年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まります。
力自慢の人が巨大な鏡餅を持ち上げる五大力さんの信仰で有名なお寺です。また太閤さんの花見行列でも知られています

山門に名残のサクラが迎えてくれました



「西国十一番霊場登山口」と碑があります
総門より境内の伽藍の間を通りぬけ、女人堂より2.5kmの上醍醐・准胝堂まで、三十三ヶ所中、観音正寺と並ぶ難所と覚悟して下さい。1町毎の梵字を刻んだ町石37本が続く山道、不動瀧、醍醐水、准胝堂、五大堂、開山堂と続きます

先ずは総門で一礼して歩き始めます

入った左手には「三宝院」の山門を横目に見て・・

隣の門「唐門」も通り過ぎ・・
元々天皇の紋であった秀吉の五七の桐紋と菊紋が並んでいます

桜並木の間を・・

右には「霊宝館」を見て・・
美しい白壁にうっとりしながら・・

仁王門(西大門)」を潜り・・
豊臣秀頼が慶長十年(1605)に再建され、この仁王像は、もと南大門に祀られており、平安後期の長承三年(1134)に仏師勢増・仁増によって造られた像だそうです。

 

仁王さんに挨拶し・・

振り返るともう新緑が・・

太閤花見行列の行われる幔幕に気分が高揚する中・・

清瀧宮本殿」は素通りし・・

醍醐寺の総鎮守清瀧権現をお祀りす鎮守社です。毎年4月「清瀧権現桜会」が行われます

この「桜会」の行事の一部が太閤花見行列なのでしょうか

金堂」を左手に見て・・
豊臣秀吉の命によって、紀州の湯浅から移築された平安末期の様式を残す建物です
本尊は醍醐寺の本尊でもある薬師三尊像(薬師如来、脇侍:日光・月光菩薩)で、平安初期の檀像彫刻を模した鎌倉初期の復古調の作です。薬師三尊をお守りする、四天王立像が四方を取り囲んでいます。



右に「五重の塔」も通り過ぎ・・
醍醐天皇のご冥福を祈るために建てられ、京都府下で最も古い木造建築物となっています

「不動堂」も遠くに見て・・
堂内には不動明王を中心に五体の明王がお祀りされています



石造の大きなお不動さんも横目に・・
柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願が行なわれています。

真如三昧耶堂」も遠くから眺め・・
もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦三年(949)に創建されましたが、文明2年(1470)に焼失。現在の堂は平成9年(1997)に真如三昧耶堂として建立されました。(醍醐寺HPより



中には金色に輝く・・

釈迦涅槃像が横たわっております

祖師堂」にも寄らず・・

弘法大師と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した理源大師が祀られています。

旧伝法学院」の「火頭窓」(かとうまど)の美しさに見とれ・・

日月門」を通り・・

 

彫刻を施した蛙又を見・・

鐘楼」も見ず・・

弁天池の側の・・

朱塗りの弁天堂が水面とよく合う紅葉の名所となっています。 

弁天堂」横に来ました
音楽や知識の女神である弁才天(七福神の一人)が祀られています

やってきたこちらは・・

旧大講堂」です
この大講堂を中心として大泉、弁天堂、鐘楼、地蔵堂、日月門、阿闍利寮、伝法学院を総称して大伝法院と呼ぶそうです
実はいまここは「観音堂」と呼ばれています
そうお察しの通り、上醍醐准胝堂は、平成20年8月24日未明の落雷による火災により焼失しました。そのため西国三十三ヶ所の札所は上醍醐から下醍醐にやむなく降りてきました。そしてこのお堂にお祀りされております
毎年5月18日を中心とした1週間、西国三十三観音霊場の札所であるご本尊「准胝観世音菩薩」のご開帳が行われます。
よかった、上醍醐准胝堂まで歩かなくていいんだ

境内には今通ってきた堂宇のほかに「宝匡印塔」や・・

石仏をはじめ各堂宇の中には様々な仏様や文化財なども多く納められています

最後に今年の名残の桜を愛でてこちらの札所を辞しましょう



染井吉野はもう花びらは少しでした。

この枝垂れは見事でした。今日は4月11日で、太閤花見行列がまだ明後日なのに、今年の桜は早く終わりとなり、これでは行列が盛り上がらずお気の毒です

今回はここまでです


西国三十三ヶ所遍路旅<第二回・前編>

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。


では第2回を2014年3月21日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては3回目です。
第2回に行くところが前後して3回目になったのです
ですから前回は、第3回になります。(バスツアーの都合上です)


今回は京都・竹田駅から出発し第四番施福寺⇒第二番金剛宝寺(紀三井寺)⇒第三番粉河寺の三ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています


それでは打ち始めは「第二番 紀三井山・金剛宝寺(紀三井寺)

国道42号線、JR紀三井寺近くのお土産屋さんが並ぶ参道の向こうに、名草山が見えてきました
 

 
参道の向こうに赤い門も見えてきて、参道の燈籠が一対、右側の足元には「紀三井寺村道路」原標がありました


どっしりとした楼門(山門)が迎えてくれます。この階段を含め本堂のあるところまでは231段の石段です。石柱には護国院となっていますが、宗教法人としての公称だそうです

 

楼門は永正六年(1509)に再建されていますが、桃山時代の雰囲気を留めています。国宝で、高欄付きの縁をめぐらせた通路や、欄間の牡丹と蓮は色鮮やかです。この仁王さんはいつの時代かな。

 

門をくぐると、真直ぐに伸びた石段が行く手を塞ぎます。この「縁結厄除坂はこれより、25段、33段、42段、61段と続きます。
この目の前の坂は、母を背負いお参りの途中に鼻緒が切れ困っていると、鼻緒をすげて助けてくれたのが玉津神社の娘「かよ」であった。この縁で結婚し、後に舅がお金を出してくれ、ミカン船で豪商となったのが紀伊国屋文左衛門です。その縁でこの坂を「縁結び坂」と呼ぶようになったと云うことです



左手には「七鈴観音」様がお祀りされています。健康や、恋愛といった7つの様々な願いをかなえてくれると云う観音様だそうです



縁結び坂はあと少し。まだ25~へと続きます



縁結び坂上から振り返ると楼門が下に見えました



その左の「波切不動」さん
弘法大師が唐からの帰国の折り、船が嵐に遭い難破しかかった祭、、「不動明王」に祈念し、恵果和尚から授かった利剣で波を切り裂き無事に帰国できたと伝えられています。その霊力は災難を無難になるよう「厄除け不動」として厚く信仰されています



25段を登ったところの左は緩やかな坂になっています。一寸行って見ましょう

 

突当りは真言宗「善寿院」がありました。現在は救世観音宗のようです 

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ご本尊は「阿弥陀如来」さまでした



突き当りを右に曲がると、なんと!紀三井寺の本道の側面が見えるではありませんか!
あの急な石段を登らなくても、こちらからだと楽に登る事ができるようになっているのですね

 

石段に戻りましょう。「女厄除坂」三十三段を登ります。この右横には地蔵祠があり中を覗くと、井戸らしきところに蓋がしてありました



ここ「女厄除坂」を上った左手には「大日如来」さまがお祀りされておりました

 
次は「男厄除坂」四十二段です
 
 
さて最後の難関「還暦厄除坂六十段」です。あと一息、頑張って登りましょう

 
サー着きました。ここからは平地です。まず「六角堂」がありました。反対側は「新仏殿」です



袴腰を持つ、天正十六年(1588)に再建された調和の取れた姿の鐘楼です



右手は「大師堂」、正面が本堂です



本堂(観音堂)も宝暦九年に再建された物で、入母屋造、正面唐破風と千鳥破風、総欅造となっております。



大光明殿の正面にご本尊「木造十一面観音立像」、右に「千手観音立像」(共に秘仏)を祀られています

 
本堂に向かって右手の小高いところに立つ「多宝塔」・室町・文安六年(1449)再建の上層に高欄をめぐらせ、五智如来がお祀りされています



その北に建つ「開山堂」・草創は奈良時代・宝亀元年(770)来唐の為光上人が霊地を求め名草山に霊光を見、老松の下で千手観音を感得し十一面観音を祀ったのが始まりとされています



末社三社



仏足石」・お釈迦様が「寂滅」になると、もう一度お姿を拝みたいと云う願いが高まりました。足を拝むと云う当時の信仰の形から「仏足跡」が刻まれたそうです。この石を礼拝すると罪障消滅・所願成就の功徳をいただけるといわれています



紀三井寺には三つの名水の井戸があり、ここは「清浄水」と云い「楊柳水」「吉祥水」とをあわせ三つとなるため「三井」=「紀三井寺」の由来とされます



春子稲荷
天正十三年(1585)羽柴秀吉の大群が粉河寺を焼き打ちにし、紀三井寺に迫ったが、観音堂に仕えた「春子」と云う20才くらいの女性が、突如須弥壇の中から白狐に姿を変え身を翻し、霊力をもって武将豊臣秀長を威服し、「焼き討ち禁制」の書状を得て、紀三井寺及び在所を戦火から救った。人々は危難除け「春子稲荷」としてここにお祀りしたと云うことです

 
お参りを終え参道に戻って来るとふと古い建物が目に留まりました。2軒お隣同士でよく昔の良さを残されていて歴史を感じました。日本建築は美しいですね。何時までも残して欲しいものです



改めて振り返ると名草山にお寺が広がっていました。では失礼して次の札所に向かいましょう
 


そして「第三番 風猛山・粉河寺
宝永四年に再建された三間一戸の総欅造りの大門
 
 

仁王さん(金剛力士像)は仏師春日の作と云われます


大門を入ったところに広がる境内



朱塗りの橋に「長屋川」とあります
上の絵図に元禄八年には「餌差」(鷹狩りの餌調達役の役人)長屋があり、そこから名付けられたものと思われます


この不動堂を右に曲がります



そこには「右 粉河寺 左 かつらき山上 従是 二十八丁 役行者道」と「中津川路改修」碑があります
葛城山まで近いのですね。中津川はこの南、大門の前の川です。


右に曲がりますが、この川が「粉河」の名の起こりと云われます



静かな佇まいの「本坊」



朱塗りの「童男堂
「粉河寺縁起」によると猟師「大伴孔子古(おおとものくしこ)」が光明を発する地に庵を建て、一夜の宿を乞う「童の行者」が七日の内に千手観音を刻み立ち去ったが、後に観音であると知り深く仏法に帰依したといわれる。


又、同じ縁起の後段に「長者佐太夫」物語に、長者の家を訪れた「童の行者」が長者の娘の重い病を治し、娘から"さげさや(お箸箱)をお礼として受取り姿を消しました。翌春言い残した「粉河」の語を頼りに白い川を見つけ遡り草堂に至り、「"さげさや〟と袴を持った観音を見つけ、かの行者が観音であると悟り篤く尊崇したと云われます。



その童男大士石像(童男行者)ですが、この池より柳の枝を手に白馬に乗り出現したと云われます



三角堂「千手観音」・袴も"さげさや”も持たれていませんでした。
この話が「生身観音」の信仰を生み、病気平癒の霊験あらたか
として平安時代には寺勢盛んとなり「枕草子」にも記されております。
 

「馬蹄石」
 


太子堂」・聖徳太子は「争いを止めて和の精神を尊び、「17条の憲法」などを制定され政治を改め、文化にも造詣がありました



そして現れた「中門」です。こちらも天保三年に作られた、総欅つくりです


扁額の風網山は紀州藩10代藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)の直筆です

 

門を守護する「四天王」須弥山の四方四州を守る護法神

 

持国・増長・広目・多聞(じ・ぞう・こう・た→地蔵買うた)の順(東南西北)に並んでいます


門を入ると右手に「丈六堂」、左手は「本堂」



本堂は平屋の礼堂とうしろの重層の正堂が一体となり豪壮な雰囲気を感じます



ご本尊は「千手千眼観世音菩薩」秘仏で拝見できませんがご本尊のお姿のようです



打ち鳴らす「鰐口」



享保五年に再建され、八棟造と呼ばれ正面唐破風、千鳥破風、唐破風と重ねた重厚な屋根となっています
寺は大伴氏の氏寺で、鎌倉時代には七堂伽藍が建ち並び四万石を誇っていましたが、豊臣家の雑賀衆攻めの兵火でほとんどの堂宇を失いました。江戸時代紀州徳川家により復興されました



一寸境内を散策してみましょう
本堂左の「千手堂」・宝暦十年(1760)に建立され、紀州歴代藩主とゆかりの人をお祀りされています



本堂手前東の「丈六堂」・文化三年(1806)に再建され丈六の「阿弥陀如来」をお祀りされています



こちらがその丈六(1丈六尺の意味)の「阿弥陀如来坐像」さまです



文久三年に作られた「仏足石」・大行満願海の筆になります


風化が進み彫りに丸みが出てきています。紀三井寺にもありましたが少しずつ形が違っています


「市指定文化財 美術工芸品 阿弥陀如来坐像(露座仏)



江戸時代後期作のこちらも総欅造りの「阿弥陀如来」を祀る「念佛堂



こちらも市指定工芸品「盥漱盤(かんそうばん)(荷葉鉢)
紀州鋳物師「蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作だそうです



そして境内を出ると、入り口に案内板があった「旧南丘家住宅」が長屋川の東にありました



「餌差」(鷹狩りの餌調達役の役人)長屋で、藩主の鷹狩りの拠点だった建物だそうです

 

そしてバスの駐車場への途中の「大神宮」に「御神木」があり「この木に触れると霊力がいただけます」とあり、皆さん手を一杯に広げ抱えておられました。次に向かいましょう

ブログ紙面上これより後は後編に譲ります