では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません
今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。
今回もマイカーでのお遍路となります
前半の石山寺を後にして次にやって来ましたのは「三井寺」です。
車で行きましたので駐車場に一番近かったのが「豊饒池」でした。そしてまた観音堂に行くのにはこの池を南に行くのが一番近道です
宝徳四年に建立された甲賀・石部の常楽寺の楼門で、後に伏見城に移築され、慶長6年に家康により寄進されました。また、寺の総門は南西、疎水近くにあります
池に架かる石橋、その奥は「千団子社」子供の守り神、鬼子母神(訶梨帝母)をお祀りし、5月の祭礼は「千団子さん」で賑う護法善神堂です
拝観受付を通り観音堂への途中にある「水観寺」
『京都祇園祭の山鉾の一つ「浄妙山」は、橋合戦(宇治川の合戦)において、敵陣に一番乗りをしたい一来法師が、狭い橋の上で奮戦する浄妙坊の頭上を「悪候、御免あれ」といい飛び越えた一瞬の場面を表現しています。また、この場面は先陣争いではなく、一来法師が浄妙坊をかばうために前に出たともいわれています。
三井寺境内水観寺の側、西国第十四番札所観音堂へと続く石段の登り口には、浄妙坊を祀る祠があります。毎年7月、浄妙山保存会が祇園祭にあわせてここを訪れ、当山僧侶が供養し、山鉾巡行の無事を祈願しています。』三井寺HPより。くしくも祇園祭の時期に来られました
石段を登りきった左手に「百体観音堂」
堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所観音霊場の合計100体の観音様がお祀りされており、一度にお参りできてしまいます
この鐘は「童子因縁の鐘」と呼ばれており『昔、梵鐘鋳造の寄進に托鉢を行い、尾花川のある富豪に勧進を願ったが、そんなものにお金を出す気はない。子供なら家にたくさんいるから何人でも呉れてやると悪態をつきました。程なく梵鐘が出きあがったところ、不思議なことに3人の童子の遊ぶ姿が梵鐘に浮かび上がっており、その日にかの富豪の子供三人が行方不明になっていた。かの富豪はすっかり目覚め、それ以来慈悲深くなっ』たという伝説が伝わっています。
百体観音堂の東は大津市が見下ろせる「観月舞台」となっています
ご本尊は開祖智証大師円珍作と伝えられる如意輪観音(秘仏)で、向かって右に愛染明王坐像、左に毘沙門天立像が安置されています
また、延久四年後三条天皇の勅願により勅額を賜り聖願寺を建立、後に正法寺または如意輪堂と称しており、山上の華の谷にあったお堂は、文明十三年にこの地に移り、元禄二年再建され現在に至っています
『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、現在地に移築され、内部は文様などが描かれ桃山時代の様式です
三十三観音の一つで、この観音様を信仰すれば、大衆の求めて止まない財産が貯まり、福徳を授けられ出世が出来ると云う有り難い観音様だそうです
中国天台山で修禅された天台大師で、智証大師はその天台山で修禅し法華円教をこの三井寺に持ってこられた、その報恩感謝を捧げるためお祀りされたようです
『智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去りました。
唐院は開祖・智証大師の廟所として最も神聖な場所で、入唐求法の旅で持ち帰られた経典類を納めています
『室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。』と云う「天狗杉」です(三井寺HPより)
ご本尊は千三百年余り前、三井寺創建時に天武天皇から賜わったと伝えられ、絶対の秘仏となっていて、誰一人として仏様を拝んだひとはいません
天台寺門宗の総本山で、飛鳥時代、天武天皇十五年(686)に大友皇子の子、与多王が創建したと伝わります。
建物は淀殿により慶長四年(1599)再建された桃山時代の代表作の一つとされます。
三井寺は山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の対立・抗争による焼き討ちまた源平争乱、南北朝の抗争などによる戦火も加わって幾度も堂宇が焼失しましたが、その都度再建復興を遂げています。
天智天皇が大化の改新で蘇我入鹿一族を誅し、その罪障消滅のため天皇自らが左薬指(無名指)を切りこの灯籠の台座下に納めたと伝えられています。そのため「園城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれます
秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、この堂も食堂として移築されたものと思われますが、現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
その前の「弁財天社」
学問や芸事の女の神様です
三井寺はここまでです
そして次は、バスツアーでは巡拝箇所には入っていませんが、三十三ヶ所中興の祖「花山天皇」が出家して入られた番外「元慶寺」に向います
山科区の住宅と田圃に挟まれた渋谷街道と呼ばれている通りの北花山交叉点東を北に入ったところに建っています
開創は平安初期の貞観三年(868)桓武天皇の孫・僧正遍照が清和天皇の第一皇子誕生を期に発願。翌年、陽成天皇の母・藤原高子が伽藍を建立したのに始まります
陽成天皇9歳に即位し、元慶と年号が変わり「定額寺」となり寺号とした。当初は今の北西に当たる花山山の山際にあったようです
花山天皇は寵愛していた女御藤原忯子(きし)死別とともに出家を考えるようになった。懐仁親王の外祖父であった右大臣藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して花山天皇に出家を勧めさせた。
986年6月23日の明け方、天皇は藤原道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。兼家は三種の神器を皇太子の居所に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後で、懐仁親王は一条天皇として即位し、道兼の父兼家は摂政に就任した。謀略による政変(寛和の変)です
と云うわけで19歳の若さで出家されました
宝珠をのせた宝形造瓦葺となっており、ご本尊は京の七仏薬師の一つ「薬師如来」をお祀りされています
境内には僧正遍照の和歌「天津風雲の通い路吹き閉じよをとめの姿 しばしとどめむ」などの碑もあります
またお墓は南西200mくらいにあります
今回最後の札所はこの「第十五番新那智山観音寺(今熊野観音)」です
赤い鳥居橋を渡り
嵯峨上皇の命を受け、自ら彫られた十一面観音像の体内に、熊野権現翁より授けられた観音像を納められ、建立されたのが観音寺の始まりです
その後左大神藤原緒嗣が伽藍を整え観音信仰が広まり興隆しました
朝野の尊崇を受けていたが、応仁の乱の兵火により衰退したので、皇室の寺であった泉湧寺の塔頭として再興が図られました
日本一の大天狗と頼朝が呼んだ後白河法皇を悩ませた頭痛の持病を、こちらの観音様が枕元に立たれ霊力により平癒したと伝えます。以来頭の悩み治癒、智慧授けの観音様として信仰が広がりました
明治維新以後は修験道から脱却し弘法大師開創の観音霊場として信仰を集めました
創建当時と伝わる平安時代のものだそうです。なんだか重みが感じられます
山しな(山科)・すぐいまくま(今熊野)・京大仏(方広寺の大仏)・ようきひかんぜおん(楊貴妃観世音)等の文字が見えます
脇には他の仏様も
第十二番岩間寺にもありましたね。ほぼ同じ形をされていて、近畿十楽観音巡礼の第一番札所
平安初期の天長二年(825)頃、東山にかかる瑞雲を見られた弘法大師がこの地を訪れ堂を建立されたのが観音寺の始まりだそうです
護摩修法を行う大師像をはじめ不動明王、愛染明王とともに平安時代基礎を築いた藤原諸嗣像もお祀りされています
大師が錫丈で突いた所から湧き出たと云う霊水です
熊野信仰に篤かった後白河上皇は、熊野権現を勧請し院の御所法住寺殿の鎮守とされた。この神社が新今熊野神社で観音寺はその本地堂として新那智山と号し、熊野修験者の本山に並ぶ扱いを受け多くの堂宇が建ち栄え、文暦元年(1234)崩御された後堀河天皇も御陵を築かれました
ご存知、釈迦がこの木の根元に座って悟りを得たという菩提樹です
三宝大荒神をお祀りされおり、また、こちらの寺で「寺請証文(寺の檀家であると云う証明)」を受けた「大石内蔵助所縁のお寺でもあります。寄進の茶室「含水亭」や念持仏「勝軍地蔵」
など赤穂浪士の遺品が所蔵されております
今回はここまで、階段もほとんどなく楽にお参りさせてもらいました
次回は京都市内4ヶ寺です清水さん以外は平坦な所でルンルン気分で行けそうです
それでは乞うご期待!